三十九 潜伏

 ワーレン要塞東部の小高い山中にて、木々の間でじっと息を潜めて待機する一団があった。


 皆一様に全身黒で統一された軽装に身を包み、覆面を着けている。


 彼らは帝国の誇る諜報組織、通称コードネーム黒蛇くろへび」より派遣された特務部隊だった。


 その活動内容は他国への潜入調査、裏工作、そして暗殺など、非常に多岐に渡る。


 今回の任務は公国からワーレン要塞周辺地図を持ち出し、山中の隠し砦の位置を割り出すことが第一目標であった。


「……上もなかなか無茶を言ってくれたよなあ」


 開いていた地図の表面をぽんと叩いて見せると、帝国特務部隊長レイコフ大尉は、周囲に配慮した声量でやれやれとばかりにぼやいた。


「今回は流石に骨が折れたぜ」

「まったくです。苦労して地図を入手したはいいものの、更に軍の通れるルートを探し当てなければならないとは」

「魔の山間部をちと舐めてましたなあ」

「俺達は諜報員であって、測量士じゃねえっての。なあ?」


 ぼやきに反応した者に顔を向け、同意を求めるよう苦笑いして見せるレイコフに、部下達も武骨な笑い声を上げた。


 彼らは戦争中期よりこの任務に着いている。

 地図を頼りにしつつも自分の足で広大な地形を把握し、あるいは砦近辺を張り込んで、公国兵の動きから正規ルートを割り出すのに奔走していた。


 時折定時報告のために数人が山を下りることはあっても、基本的には四六時中山奥暮らし。


 その上公国軍の巡回兵も多数出ているため、隠密行動をしながらの作業となる。そのため進捗しんちょくは遅々としたものであった。


 そんな気の遠くなるような任務を半年近く、水や食料も現地調達で続けて来たのだ。鋼の肉体と精神力があってこそ成し得たものと言える。

 伊達に黒蛇の中でも選りすぐりの面子を揃えた部隊ではなかった。


 そんな彼らの苦労も、いよいよ報われようという時が近付いている。

 地図の精査も粗方あらかた完了し、残りは現在出張っている隊員達の報告待ちであるからだ。


 数日前に、王都より砦群へ向けて増援が出発したことは掴んでいた。

 その部隊を尾行し、地図の空白を埋められれば晴れて目標達成となる。


 その後は公国の動き次第ではあるが、一時帰還くらいは許されるだろう。

 大規模作戦の前に少しでもゆっくり休みたいというのが、全隊員の総意だった。


「さてさて。公国の連中がちんたらしてなきゃ、そろそろ砦に着いていてもよさそうなもんだが。あいつら、目標を見失ったりしてないだろうな?」

「大尉、余計なことを言ってフラグを立てないで下さいよ」


 レイコフが尾行に向かわせた班を揶揄やゆしておどけてみせると、誰ともなく突っ込みが飛ぶ。


「ばっか野郎、俺はただ部下の心配をしただけだってんだよ」

「大尉が心配? 槍でも降るんじゃないでしょうね」

「どういう意味だそりゃ! 俺程優しい上官は滅多にいねえぞ!」


 そのやり取りに、自然と笑いが場に満ちる。


 苦境の中にあって笑えるというのは重要なことだ。特に気分が沈みがちな暗部の仕事をしていれば尚更である。


 その点レイコフの部隊は、適度な息抜きの方法を熟知していると言えた。


 一しきり響いた笑い声が、ふと途切れる。


 全員が一斉に息を潜め、一点を注視し身構えた。


 その方角からがさがさと下草を踏み分ける音が鳴り、次の瞬間倒れ込むようにして黒衣の男が姿を現した。


「コベル軍曹か! 何があった!」


 レイコフが素早く半身を支えると、コベルは荒い息を吐いて答える。


「申し訳ありません、尾行に気付かれました……」

「お前達程の者がか!?」


 レイコフは耳を疑ったが、続く言葉によって更に目を見開いた。


「王都班からの報告には含まれていませんでしたが、例の増援部隊にはベルンツァの悪魔が配属されていたのです……見付かった直後にカール曹長とアウグス軍曹は一瞬で殺されました」

「何だと!?」

「小官は隙を見て脱出しましたが、その際いつの間にか斬られており、この様です……」


 コベルは震えながら右腕を持ち上げると、親指が付け根から見事に断たれていた。


「ちっ、おい! 早く止血だ!」

「──その必要はありません」


 慌ただしく治療に入ろうとする黒蛇隊の頭上から、涼やかな美声が降り注いだ。


 とっさに見上げると、黒い和装をまとった絶世の美少女が、瞑目したまま細い枝の上に立ってこちらへ顔を向けていた。


 枝はまったくしなっておらず、微塵も体重を感じさせない。

 少女の類稀たぐいまれな美貌もあって、その光景は殊更ことさら現実味が感じられなかった。


「どの道その方の命はここまでです。治療するだけ無駄ですよ」


 柔らかな笑みに見合わぬ物騒な発言をする少女を、レイコフは鋭く睨み付ける。


「わざと殺さず、後をつけて来たのか……!」


 瞬時に意図を読み取ってレイコフは戦慄した。


「はい。ここまでの案内、ご苦労様でした」


 少女はコベルに向け、軽く会釈をして見せる。ただそれだけでも絵になる仕種であった。


 先日発行された新聞はレイコフも目を通している。

 なるほど、確かに女神と称えたくもなろう。


 載っていた似顔絵の比ではない輝く美貌に思わず引き込まれそうになるが、腕の中の部下の声が意識を現実に引き戻した。


「レイコフ大尉、何とお詫びをすれば……」

「黙っていろ! 総員散開、戦闘準備! ここで奴を討つ!」


 下された命令を瞬時に実行し、部下が木の陰に溶け込んでいく。


 彼らは暗殺者である。正面からはぶつからず、気配を断って死角から襲い掛かるのが常道。

 その能力を活かすのに、この密林程適した場所はないと言ってよい。


 レイコフは手早く袖を破ってコベルの傷口を縛り上げると、手荒く草むらに押し込んで、自らはその前に立ち塞がった。


「部下思いの上官ですね。感動します」


 くすくすと含み笑いを漏らしつつ、欠片も思ってもなさそうな言葉を口にする少女。


 黒蛇隊はそれを挑発と捉えて無視し、攻撃を開始した。


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