二章 躍動
三十三 異動
公国広報が発行した号外新聞にて、紅の活躍が多くの民や兵に知れ渡ると、国中がたちまち熱狂の渦に包まれた。
ただでさえ、常に列強の国々の脅威に晒される中での此度の侵略。
敗走に次ぐ敗走により、王都の北の国境線は半分ほどまで後退した。
更には東のベルンツァまでもが落ちたとあって、完膚なき敗戦までは時間の問題と思われていた。
その矢先、彗星の如く現れ国の窮地を救った紅は、まさしく救世主に他ならなかったのだ。
遊撃隊の中でも女神と奉じる隊員が出たように、紅を勝利の女神として声高に叫ぶ国民は多くに上った。
溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように、皆が紅の功績を話題にしては明るい表情を浮かべる。
参謀本部の目論見は、今のところ功を奏したと言えるだろう。
そして当の紅率いる遊撃隊は次の任地が決まり、ランツ要塞を発って王都を目指していた。
がたがたと音を立てて走る馬車の中、カティアは青白い顔をしてうつむいていた。
戦争が始まって以来街道の整備はろくにされておらず、そのせいで馬車はひどく揺れる。
その酔いも手伝ってか、カティアの気分は底辺まで落ち込み、視界も定まらずにぐるぐると渦巻いていた。
「もしも~し。カティア少尉ー。ぼ~っとしてますけど大丈夫ですか~?」
正面に同席していたアトレットが顔を覗き込んで来るが、答える気力すら起こらない。
最低限、構うなとばかりに手を振って追いやるのが精一杯。
こちらが一言も喋らないのが面白くないのか、それ以上追及せずに、隣に座る紅へ向き直るアトレット。
「紅様ー、どうしたんでしょうね少尉。馬車に乗ってからずっとああですよー」
「はてさて。船でベルンツァへいらした時には元気そうでしたので、乗り物酔いするとは思えませんが」
とんと見当も付かないとばかりに不思議そうな声音が頭上から降って来るが、カティアの目下の悩みは当の紅によるものであった。
先日のお茶会でなあなあになっていたが、結局あのまま勲章の管理を押し付けられてしまったのだ。
件の勲章は、現在カティアがきつく抱き締めたリュックの中に納まっている。
馬車には荷台も備わっているが、とてもではないが手元から離す気にはなれない。
紅が自分に託した、いわば信頼の証なのだ。
もし紛失でもしようものなら、和国の伝統に
「アトレットは王都に行ったことがあるのですか」
「それがあたしも初めてなんですよー。いや~楽しみですね~!」
今しもきりきりとカティアの胃を
ふらふらと窓辺に寄りかかり、窓の外を見やれば、カティアの心情を表すようかのようにどんよりとした曇り空が広がっていた。
「なんだか一雨来そうですねー」
カティアの視線に釣られたのか、アトレットも空模様を眺めている。
「おーい、王都まであとどれくらいー?」
御者台へ身を乗り出して尋ねるアトレットに、手綱を握っていた隊員は面倒臭そうに振り向いた。
「悪路を走らせるのに集中してんだから邪魔するなよなあ。もう遠目にゃ見えてるよ。あと半日ってところだろ。わかったら大人しく座ってろ」
「あいあい。このまま安全運転で頼むよ君ぃ」
「だから何様なんだよお前は!」
「あははは! 雨が降る前に着くといいねえ!」
邪険にされつつも笑みを絶やさない天真爛漫さは、間違いなくアトレットの美点だろう。なんだかんだと、隊員達に様々な形で可愛がられている。
そのお気楽さのほんの一欠けらでも欲しいと、カティアは切に願った。
「浮かない様子ですね。カティア」
気付けば顔を上げた拍子に、紅と向き合う形になっていた。
「あ、いえ。そんなことは……」
ない、と言いかけてやめる。
「……誰のせいだと思っているんですか」
いい加減、文句の一つも言ってもいいだろう。半ばやけになって紅に言い返すカティア。
「はて」
まったく身に覚えがないとばかりに首を傾げる紅に、リュックから勲章の入った小箱を取り出して見せ付けた。
「これのせいに決まっているでしょう!? こんな大事なものを人に押し付けておいてよくとぼけられますね!」
かつてない勢いで紅に食って掛かるカティア。
蓋を閉じていた不満が満杯となり、溢れ出してしまったようだった。
「そんなことですか」
「そ、そんなことって……!」
呆気にとられるカティアに、紅はふわりと微笑んだ。
「別に後生大事にしなくとも構いませんよ。失くしても気にしませんし」
「いえ、そこはもっと大事にするべきでは……」
貴重な勲章に無頓着な紅に、思わず気勢が削がれるカティア。
「これから戦場へ赴けば、武功などいくらでも立てられましょう。そんな形だけの褒章に気を遣わずとも良いのです」
紅は自信満々に言い切ると、カティアの手から小箱を取り上げた。
「それよりも、こんながらくたがそれ程の重荷になっているとは思いませんでした。あなたの笑顔が曇るくらいなら、こうしてしまいましょう」
そう言うと、紅は馬車の窓をからりと開け、勲章入りの小箱をためらいなく外へ投げ捨てた。
「あああ!?」
「うわー、やっちゃったー!」
カティアとアトレットの悲鳴が馬車内に響く。
「これであなたを悩ませるものはなくなりました。万事解決ですね」
「な、なんてことを……」
「さすが紅様、他人にはできないことをあっさりやって見せる! 素敵ー! 痺れるー!」
すまし顔の紅の前で青ざめるカティアと、ことの重大さを理解せずにはしゃぐアトレット。
「あああ……これから参謀本部に出頭するというのに、勲章がないと知られればどうなることか……」
かたかたと震え出すカティアの肩へ、紅がそっと手を置いた。
「あなたは少々真面目過ぎますね。平気ですよ。自分の始末は自分でつけますので。あなたは何も心配しなくて結構です」
優しいが、有無を言わせぬ紅の言葉が、カティアの内面にすっと染み込んでいく。
圧し掛かっていた重責が、確かに取り除かれてゆくのを感じさせた。
「……ご心配をおかけしました」
やはり紅の言葉には人心を動かす力がある。そうカティアは実感していた。
「いいえ。私こそ、人の心の機微には疎いもので。何かあれば遠慮せずに口にして下さい」
「……はい」
確かに今回は対話が足りなかったかも知れない。勝手に自分だけが重圧を感じていたのだから。
今後はもっと自分に正直になってみよう。
そうカティアがようやく前向きな思考を取り戻した時。
「──隊長。一応回収しておきましたが、これを捨てるのはまずいんじゃないですかね?」
馬車の周りを馬で並走していた隊員が、窓から手を伸ばして小箱を差し出した。
「あ、あはは、あはははは……」
それを目にしたカティアは、思わず乾いた笑いを漏らしていた。
「こらー! お前空気読め! 少尉が壊れちゃったじゃないかー!」
「はあ!? 何で怒られるの!?」
理不尽に怒鳴られた隊員とアトレットが言い合う横で、紅がくすくすと笑う。
「よもや戻ってきてしまうとは。もう一度捨てましょうか?」
「……いえ……もう諦めました……」
カティアは引きつった笑みを浮かべて運命を受け入れた。
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