十六 ベルンツァの悪魔

 ウグルーシュ帝国第5軍所属、ゼリグ少佐は、唐突に鳴り響いた呼子笛の高音に貴重な睡眠を阻害された。


「おのれ、何事だ……」


 溜まっていた書類仕事を片付け、深夜にようやく寝床に入ったところを叩き起こされ、ゼリグは不満気にベッドから立ち上がった。


 ゼリグの寝室は三階建ての兵舎の最上階に位置している。


 窓辺から中庭を見下ろすと、すでに兵らが展開して行動を開始していた。


 恐らくどこぞの鼠が潜り込んだのだろう。

 この隠し砦の情報がどこから漏れたのかが問題ではあるが、鼠を捕まえて吐かせればよい話である。


 その内報告が来るだろうと予測し、せめてもの体裁を整えるため、ゼリグは寝巻から軍服へと着替えておくことにした。


「それにしても、やけに兵の悲鳴が多いな……それほどの手練れなのか?」


 下の階から響いて来るのは、気合からの蛮声でもなく、罵声でもなく。怯え混じりの情けない絶叫が大半を占めていることに首を傾げる。


 怪訝に思いながら軍服の上着を羽織った時、寝室の扉がだんだんと激しくノックされた。


「──失礼します、少佐殿! 起きていらっしゃいますか!?」

「起きている。入れ!」


 騒々しさにうんざりしつつ、入室の許可を出すと、兵士が慌てて飛び込んで来る。


「何事だ、騒がしい」

「は! 侵入者であります!」

「そんなことはわかっている。状況を説明せよ」


 相当慌てているのだろう。愚直に敬礼して内容の抜け落ちた報告をする兵士に呆れつつ上着のボタンを留めると、ゼリグは改めて問い質した。


「し、失礼しました! 現在一名の侵入者を守備隊総出で囲んでおりますが、恐ろしい程の強さでまったくもって手が付けられません! 現場の指揮を執るディトリー大尉殿より、判断を仰ぐよう仰せつかって参りました!」

「大尉が手を焼く程だと? 仕方ない、私も下へ行こう」


 ディトリー大尉は、かの「暴風」クルーザ大尉程の武力こそないが、指揮能力には定評のある男だ。その大尉が五百の兵を率いてどうにもならないなど、己の目で見なければ信じようがなかった。


「し、しかし危険です! 少佐殿はお逃げになられた方が……!」

「何の手も打たずに、部下と拠点を放棄しろと言うのか? それこそ馬鹿げている」


 ゼリグはきっぱり言い切ったものの、兵士の怯えようを見るに、現場は相当な修羅場になっていることが予想された。


 せめてもの護身として軽装の胸当てと剣だけを帯び、兵士を押し退けるようにして扉を潜る。


 途端に壁一枚を隔てて遮られていた大音声が耳を震わせ、ゼリグの足を一瞬縫い止めた。


 兵士同士の小競り合い程度では到底聞くことのない、絶望を孕んだ悲鳴。

 まるで階下が戦場と化しているかのような、地獄の如き狂騒。


「くそ……何が起きている……!」


 ゼリグは己を叱咤すると、重りの付いたような足を無理矢理動かして階下へ走った。


「大尉! 状況はどうなっている!」


 二階の階段上でホールを見下ろしている男を発見すると、駆け寄り様に問うゼリグ。


「しょ、少佐殿……?」


 ディトリーは焦点の合わない瞳で呆然とゼリグを見詰めた。


「しっかりせんか! 何があったと聞いている!」


 両肩を掴んで揺さぶると、ディトリーは震える指先で階段の下を指差した。


 釣られてそちらに視線を向けると、ゼリグの背に衝撃が走る。


 一階のホールには、ばらばらに斬殺された兵の死体が床一面を埋め尽くしていたのだ。


 呼子笛が鳴り、兵が展開してからまだ数分と経っていないというのに。


「これを、たった一人でやっただと……!?」


 兵舎内での戦闘はすでに終わったらしく、中庭に場所を移して悲鳴が響いて来る。


「少佐殿……もしやが、噂のベルンツァの悪魔なのでは!?」

「ちっ……!!」


 困惑し、すがりついて来るディトリーを振り切り、階段を迂回して中庭を見下ろす窓辺に走り寄る。


 そしてゼリグの視界に飛び込んできたのは、満面の笑みを浮かべて多勢を瞬時に斬り刻む和装の少女の姿だった。


 本隊からの早馬で、ベルンツァが奪還された件は知っている。

 しかし戦時下特有の誇大情報だと疑わなかった。


 それが、まさかその当人と直面し、真実だと突き付けられる羽目になろうとは!


「──少佐殿! 遅れて申し訳ありません! 敵はどこでありましょうか?」


 その時三階から、鎧を着込むのに手間取ったのであろう部下達が降りてきてゼリグの指示を仰いだ。


 見たところ、彼らが最後に残った隊だろう。外の兵が全滅するのも時間の問題。

 多少装甲の厚い鎧を着ていたとして、あの化け物の前に何の意味があろうか。


 ゼリグが苦悩する間に、外から聞こえていた喧噪がはたと止んだ。


 そしてべちゃりと床の血溜まりを踏み締めて、黒衣の少女が兵舎に入って来る。


「おや。追加の方々ですか。まだ楽しめそうですね」


 血に濡れた刀を手にした少女は吹き抜けとなった二階を見上げ、ゼリグ達へにこりと微笑みかけた。


 その様の、なんと美しくおぞましいことか。


「ま、待て……いや、待ってくれ! こちらに最早抵抗の意思はない! 交渉の余地はないだろうか!?」


 背中にぞくりと冷たい汗が流れ、ゼリグは思わずそう切り出していた。


「少佐殿!? 一体どういう……」

「黙れ! すでに勝敗は決しているのだ!」


 不審がる部下を一喝し、再び少女に視線を送るゼリグ。


「はて。交渉ですか」

「そ、そうだ! 貴殿はこの砦を奪いに来たのだろう? ならば我々はすぐにでも撤退して明け渡す! だからどうか見逃してはくれまいか!」


 少女が足を止め、愛らしく首を傾げる間に、見栄も恥もなく必死で命乞いをする。


 すでに部隊は壊滅状態であり、このままでは全滅の憂き目に遭うことは必至。

 敵前逃亡の上、砦を奪われたとなれば懲罰はまぬがれまいが、命さえあれば再起はできる。


 そう見込んだゼリグだったが、少女はその幻想をあっさりと打ち砕いた。


「聞けない相談ですね」

「な、何故だ!? これ以上の戦闘は無意味だろう……!」

「このままあなた方を逃せば、砦が落ちたことが露見するでしょう。それでは奇襲の意味がありませんから」


 ゼリグの悲痛な叫びに、少女はさも当然とばかりに言い返す。


「此度の目的は見敵必殺。一人も逃がすつもりはありませんよ」


 無慈悲に宣言した少女の姿が消えたかと思うと、次の瞬間ゼリグの意識は刈り取られていた。

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