一章 兆し
三 海より来たる
「おら、観念してさっさと積み荷を見せな!」
船への架け橋を塞いでいた商人風の男が、漆黒の軽鎧を着込んだ兵士に顔面を殴られ路面に倒れ伏した。
「今やこの港は帝国のものとなった! 大人しく物色……おっと。検問を受ければよし。でなくば乗組員の何人か、魚の餌にしてやってもいいんだぜ? もちろんお前をそうしてやってもいい」
別の兵士が商人の腹を軍靴で踏み付けると、剣をちらつかせて居丈高に言い放つ。
「ひ、ひぃぃ! お助けを! 仰る通りに致しますから、命だけは……!」
武力を持たない民間船の持ち主に、この横暴へ抗する
商人は頭を抱えて震える事しかできなかった。
「よーし、最初からそう言えばいいんだ。そら、野郎ども! 派手に奪え!」
『ひゃっほ~う!!』
形だけの船主の許可を取った兵士達は、勇んで立派な商船へ乗り込み、我先にと略奪を始めた。
ここ港町ベルンツァは、エウロア大陸南端の小国、レンド公国の東に位置する交易港である。
公国有数の収入源として発展していたが、それもつい先日までのこと。
北方の敵国、ウグルーシュ帝国との国境線に近いことが災いし、帝国の精鋭部隊による奇襲を受けて敢え無く陥落、海上封鎖の拠点とされていた。
元々レンド公国は周辺国家においても弱小国であり、兵の数や装備、練度は帝国とは比べ物にならない。
常駐していた公国軍は善戦したが、結果は
帝国兵が幅を利かせ、好き勝手横暴に振る舞う。
暴力略奪沙汰は日常茶飯事。下手に逆らえば反逆罪で処刑までされる非道ぶりに、ベルンツァの住民は日々
「はっ。昼間から酒をかっくらって、好きに威張り散らしてりゃいいなんてな。天国かよここは」
部下の検閲の様子を眺めながら、先程酒屋から巻き上げた上物のウイスキーを瓶からラッパ飲みし、帝国将校クルーザ大尉はにんまりと笑ってみせた。
一応港に検問を敷くという任務を帯びている最中ではあるが、誰もそれを咎める者はいない。
彼の部下達も皆、欲望の発露に忙しいのだ。
クルーザもそれを容認していた。
できる上司は、部下のストレス管理もしてやらねばならない。
そう適当な言い訳をでっち上げ、自らの職務怠慢を都合よく解釈する。
何と言っても、彼は今回の奇襲戦での最大功労者だ。
町の門前に立ち塞がる公国兵100人以上を、たった一人で全滅させて後続の道を切り開いた英雄である。
背中に吊り下げた身の丈程の大剣を軽々と振り回す様を指し、「暴風」のクルーザと呼ばれる帝国でも名の通った豪傑の一人。
彼の部隊の任務は、ベルンツァを落とした時点で達成されている。
公国所有の港で、王都の次に大きいここを抑えたことで、公国の抱える物資不足に更なる拍車がかかるだろう。
そしてベルンツァを逆に兵站線に転用することで、本隊の帝国第5軍はすでに内陸へ向けて進軍を開始していた。
町に残ったクルーザの部隊は、敵襲の恐れの無い後方陣地をのんびりと防衛するのみ。
時折事情を知らぬ商船が入港する度ボーナスまで手に入る、実に楽な仕事だ。
クルーザはこの現状を上層部が己に与えた褒美と捉え、作戦立案者に感謝をしつつ、休暇として大いに楽しんでいた。
そんな帝国軍が暴力という名の検問を敷いている場に、ふとそぐわないものがクルーザの視界に映った。
薄っすらと霧がかった沖合から、ゆっくりと波を割って近寄って来る
陸に近付くにつれ、船上にあるものが見えて来る。
それを視認したクルーザは、思わず息を呑んだ。
小舟の真ん中に、一人の美しい少女が瞑目して正座をしている。
ただそれだけであるのに、希代の名画を見たような衝撃に襲われるクルーザ。
しかし、見惚れたのも一瞬のこと。
歴戦の軍人の頭脳が、即座に己の職務を思い出させたのだ。
あの女は、どこから来た何者か。
小舟で大海を渡れるはずもなし。
となれば沖合で難破でもして流れ着いたか。
それならば運がいい……いや、この状況では悪いに違いない。
常ならいざ知らず、今や港は飢えた狼どもが放し飼いとなっているのだから。
目を凝らしたクルーザには、少女の風変わりな服装に見覚えがあった。
確か、わずかに国交のあった極東の島国の民族衣装。
仕立てが良く、素材も希少なもので、かなりの値打ちものだったはずだ。
加えて腰に帯びた二本の剣。あれも相当な業物に違いない。売り飛ばせば一財産になるだろう。
そして何より、着用している本人の美しさと言ったら……
クルーザが下卑た妄想を浮かばせた合間に、小舟は折よく釣り船用の桟橋へと漂着し、立ち上がった少女が雅な動作で下船した。
そこではたと我に返ったクルーザは、手近にいた部下へと命じる。
「おい、今陸に上がったあの娘を連れてこい! 多少乱暴でも構わん!」
「はっ!」
一つ敬礼して駆け出した部下は、女に向けて尊大に声を発した。
「そこの娘、止まれ! ここは帝国の管轄だ。密航者は看過できん! 大人しくこちらへ来てもらおうか」
言葉こそそれらしく取り繕っているが、男の顔が緩み切っているだろうことは、声音から容易に想像できた。
間近で見れば、なおさらその美貌に目が惹きつけられる。帝都でも滅多にお目にかかれない程の上玉だ。
しかし信じ難いことに、少女はまるで聞こえていなかったかの如く、兵の横をするりと通り抜けたではないか。
「なっ! 貴様、待て!」
これに泡を食った兵は、少女を強引に止めるべく細い肩に手をかけようとする。
その次の瞬間、クルーザは己が目を疑った。
少女に触れようとした兵の腕が、まるでハムを輪切りにしたかのように細かな切れ目が入り、多量の出血と共に路面にぼとぼとと崩れ落ちて行ったのだ。
周囲でにやつきながら顛末を眺めていた者達も、何が起きたのか分からぬまま。
「汚らわしい手で触れないで下さいませ」
静寂の訪れた場に、瞑目した少女の凛とした声だけが響いた。
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