吟遊詩人

 私が聞いた噂はこうだ。

 平日の夜、駅前広場の噴水前で、一、二時間だけ歌っていく子供がいる。

 かなり若い。中学生くらいに見える。

 夜更け前の、学生らしい時間が終わらないうちにさっさと引き上げていく。

 演奏するのは流行りの曲ではない。様々な時代、あるいは国、あるいは、全く異なる世界の物語だ。

 興味本位で広場に行ってみると、すぐに分かった。彼の周りにはすでに数人の客がいた。ただ、噂の知名度に対して、そこまで人目を惹いているわけではない。

 彼は完全に周囲の景色に埋没していた。つぶした段ボールを御座がわりに敷いて冬の石タイルの冷たさをしのぎ、あぐらをかいて、ところどころ塗装の禿げたアコースティックギターを構えている。

「おっ。久々に初めての人だ。こんばんは」

 彼は私が声をかける前に、そばかすだらけの顔で健康的に笑った。私もこんばんはとあいさつを返した。

「ということは、もしかして皆さんは常連さんでしょうか」私はほかの客を見回した。交代時間を終えたらしい駅員服の男性や、スーツ姿の穏やかな佇まいの男女が各々のやり方で静かに同意を示した。心地のよい場所だ。

「さて、今日は何を弾こうかな。まだ出してないやつはどれだったかな」


 束の間、少年は目の前に大きな本棚があるかのように視線を泳がせた。

 次の瞬間、海のさざ波と涼しい風が、私の顔の横をやわらかく吹き抜けていった。

 それがギターの音だと気付くのには時間がかかった。


 彼のギターは様々な音を出した。

 その決して華美ではない音色は、時にアラビアの夜宴にぴったりな音楽隊の伴奏に、大事な時にだけ打ち鳴らされるノートルダムの大鐘楼に、インディカの民が素足のまま踊る柔らかな足音に、極北の民家にうち捨てられたピアノラの音に転じた。

 そして彼の声は、神が化けた白鳥の歌声や、路上で遊ぶ子供たちの笑い声や、海の底で寂しく眠る、海綿と藻にまみれた盲目の竜の嘆願に転じた。


 私たちは、彼と彼のギターと共にそれらの短い場面に立会った。

 演奏が終わると、私ははっと目覚めた。そこは夜の駅前広場だった。夕方から夜にかけての混雑がいくらか落ち着いた、薄い星のまたたく駅前広場だ。

 最初、私たちは四人で演奏を聞いていたが、いつの間にか観客は十数人にまで増えていた。

 私は、感激屋とよく友人にからかわれるその性分を大いに発揮して、彼のギターケースに、まだ私の半分の年齢にも満たない彼が恐縮しないと思われる最大のお金を入れた。彼は素直に、「ありがとう。もう少しで新しいギターが買えるや。お年玉だけじゃ足りなくてさ」と、いかにも年相応の、現実的な目的を述べた。今しがた彼が私たちにもたらしてくれた夢のような体験と比べて、その言葉はちぐはぐに聞こえた。

「不思議な気分だよ。なんだか君自身が、どこかの本からひょっこり出て来たように思えてしまうから、そういう日常の話が君の口から出てくるというのは」

 彼はギターを片付けながら笑った。

「確かにね。おれもおれ自身を題材にして何か演奏するなら、そういうオチを用意するのかな。おれ自身も実は架空の存在で、この冬が終わったらパッと消える、とかね」

 少なくともその言葉は部分的に本当だった。彼は冬のあいだだけ、この広場で演奏するつもりらしい。春までは暇だからだという。


 歳は離れていたが、私たちはよい友人になった。

 時間が経つにつれ、彼は少しずつ有名になった。客も大分増えた。ただ、そうして増えていく客の何人かの様子が私は気がかりだった。彼らはまるで夢遊病者のように、彼の創り出す異世界に没入し、執着した。彼らは、この少年が自分を永遠に物語の世界に連れて行ってくれると思いこんでいるようだった。

 そういう症状の客に対して少年は厳しかった。演奏を終えると、ギターで彼らの尻を叩くようにして家に追い返した。そうして、「あまり真に受けないほうがいいんだ」とこぼした。

「古い神話なんかは特にそうだけど、まったく違う時代、違う考え方の中で暮らすおれたちからすれば、支離滅裂に思える話は沢山あるんだ。ああいう神様たちが話す言葉を、理解出来たらそりゃあ素敵なことだけど、共感する必要なんてないんだ。そこを間違えないように気をつけてもらわなくちゃ。おれはただみんなに楽しんでほしいだけなんだ。そして、元気になって自分の家に帰ってほしいだけなんだよ」

 私は短く言った。「人を魅了している自覚があるんだね」

「うん。だからここでは冬の間だけ弾くんだ」


 冬が終わった。最後の演奏のあと、私たちは丁寧に当面のお別れを言い合った。少年は駅前広場から姿を消し、噂は緩やかに消え、私も自分の暮らしに戻った。

 今でも、土曜日の夜になると、彼が戻ってきてはいないかと駅前広場に行ってみることがあるが、私たちは未だに再会できてはいない。





(吟遊詩人)

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