始点
天国が駅の形をしているとは思ってもみなかった。僕が読んだことのある本だと、そこはいつも夕方だった。
夜の来ない夕焼け、遠くに青い海がどこまでも広がっていて、みんながそこへ還るために長い列を作っているから、辛抱強く順番待ちしなくちゃならない。けれど、人々は誰もが怒りや悲しみを忘れ、優しく親切だから、順番を争って喧嘩になることは無い。
僕は漠然と、天国はそんなような場所だと思っていたのだ。いや、願っていた。沢山の優しい人が僕を待っていてくれると良いなと。
死の予感は前々から感じていた。切ない感じはするけれど、あの本の裏表紙にある海の写真のように、綺麗で安心できる場所に僕は行くのだという考えを慰めにして残りの日数を数えていた。それが来た瞬間、天使が来てくれるんじゃないかと少し期待したんだけど、会えなかった。どうせなら会ってみたかったな。これから会えると良いんだけど。
そんな僕の想像に反して、今、プラットホームには僕以外に誰も居ない。
天国がこんなに空っぽな、壊れかけの無人駅だったなんて。
ここが駅の形をしているのはどうしてなんだろう? 『次』があるから? それとも電車なんて来なくて、ここがどん詰まりの、人生という長い川をくだり終えた先にある終着駅だよということなんだろうか?
僕がここに来てからもう3日になる。ここでは太陽は(おそらく)時間通りに昇ったり降りたりする。風も吹く。僕はただベンチに座ってそれらを浴びている。座る場所は他にも、折れた陸橋の先端だったり、ホームの乗り口の段差だったりするけれど。
季節まで変わっていくのかは、今のところ分からない。今は春のように思える。枕木の隙間に背の低いタンポポが咲いているからね。
「やあ、兄弟。どうして線路を歩いて行こうって考えが思い浮かばないわけ?」
僕はタンポポから目を逸らして真横を見た。
いつの間にか、隣に猫が現れ、僕を見上げて座っていた。
猫は水でつくられたみたいに透明だった。丁度真上に差し掛かった太陽の澄んだ光が、猫の身体を通過して僕の手元に落ちた。
「どうしてって。駅は電車を待つ場所じゃないの」
「んじゃ列車が来なかったら素直に待ち続けるのかい。どう見たってここは廃駅じゃないか、そんなところを通る列車があるって、本気で思う?」
猫は首を傾げた。僕は彼が突然現れたことについて言及しようという気が起きなかった。その手の話を一から始めると、ややこしくなると思ったから。
「線路の先には何があるの」
「何でもあるさ。草原も嵐も天球も冬も都市も」
「都市? じゃあ、そこに人が居るんだよね? 僕今とても誰かに会いたいんだ」
「居ないよ。でもチビちゃん、お前は旅を始めるべきだね」
僕は聞いた。「何の為に?」
「慰めの為」
彼は静かに立ち上がって線路に降りた。猫の透き通った体の向こうで黄色のたんぽぽがゆらゆらと揺れ動く。
「チビちゃん、私が隣を歩いてやるよ」
彼のようにしなやかな着地とは言えなかったけど、僕もどうにか線路に降りた。
「それで、あの……君は誰?」
「永遠にここに居る者。ちなみに、猫以外にもなれるよ。クジラとか、始祖鳥とか、なんでも」
その小さな体から発せられるとは思えないほど大きな水がさざめく音がして、猫はクジラに姿を変えた。次に鳥に、山羊に、蝶々の群れに、僕の知らない古い生き物に。色々な者を真似て遊んでいるように見える。
「万物流転! 人に会いたいと言ったな」
彼はそう言って、最後に男の子の姿を取った。僕に瓜二つだ。
「ああ、良いね」
僕は笑った。体は相変わらず透明だけど、猫よりもずっと良かった。手が握れるし、ハグだってできる。寂しさが遠くなる。
「せっかく人の姿になったんだから、この姿でしかできないことがしたいよな。歌は好きか?」
彼が腕を振ると、あっという間に透明なアコースティック・ギターが出現した。彼は歩き出しながら、大道芸人みたいにギターを鳴らし、僕の知らない外国の歌を歌い始めた。猫じゃこうはいかない。
僕は小走りで彼の隣に追いついた。
僕はますます笑顔になった。
「チビちゃん、悲しかったのかい」
「うん。僕、悲しかったんだ」
僕は両目をこすった。死んでも涙は出るというのが不思議だった。
覚悟をして、友達を家に迎えるように死を受け入れたつもりだったけど、本当はもっと長く生きていたかったし、愛する人々の顔を見ていたかった。
「だろうね。私を歓迎するにはお前は若すぎた」
「それは……ああ、分かったよ。君は死そのものなんだね」
「すばらしい、その通りだ」
彼はギターを優しく弾いた。
「旅を始めよう。何者にもなれず、支度も録にさせてもらえなかったお前が私を受け入れるための、慰めの旅だ」
冷たい春風に背中を押され、僕達は駅を後にした。
(始点)
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