α
α
その現象は白鯨と呼ばれた。
過去の威光だという奴も居るし、ただの自然現象だという奴も居るし、ごくまれに主と仰ぐカルトめいた奴も居る。
だが結局、空を行く巨大なそいつの正体を誰も知らない。私達にはもうかつてのように空を飛ぶ術は無い。
だからその白鯨はαと呼ばれた。
αが姿を見せるのは決まって少し汗ばむような晴天の真昼だ。
始めは空気を凍らせて固めたかのような輪郭だけがうっすらと空に浮かび上がる。優美な曲線が太陽にきらめく。やがてそれは徐々に白く変色していく。白濁し、濃くなり、最後には純度の高い彫像のような白へ。島でも浮かんでいるのではないかと思うくらい巨大だ。自我でもあるかのように尾を極めてゆっくり振る。
それだけで突風が起こる。地上はもうめちゃくちゃだ。
風が雲を呼び、雨が降り、虹が立つ。我関せずで白鯨は過ぎ去り、そしてまた消える。幻のように。
砂地に眠っていた種が一斉に芽吹く。花々が開くと、ここら一帯は束の間強い香気で噎せ返るようになる。私達はその時期を春と呼ぶ。花々が枯れないうちに畑を耕し、作物を植え、水を貯え、また次に白鯨が訪れるのを待つ。この土地に冬は来ない。過酷な水枯れの季節と、αがもたらす春しか私達は知らない。
(いくつかの現実を混ぜ合わせて再構成が行われました)
(新しい世界は静止していました)
(わたしは人々が再起の為に創造した旋律です)
(創造主達はわたしが流れ続けることを望みました)
(攪拌のためにわたしは存在します)
(空気を混ぜ、潮を呼び、水を回します)
(わたしは波という現象です)
祖母の話では、かつてはここら一帯が砂漠だったのだそうだ。今でもその頃の名残はある。祖母が指さした二つの丘はかつては砂丘で、αが呼んだ雨がその谷間へと流れこみ、いつしかいつでも水が流れる小川になった。
その小川のほとりに僕たち家族は住んでいる。川の周りにはいくつかの透明な池、あとは草原だ。
僕がαを見たのはまだ一度だけだ。僕の両親もまだほんの数回しか見たことがないらしい。昔はもっと沢山姿を見せていたようだが、すっかり伝説の存在だ。
だから祖母が突然嬉しそうに空を指さしたときは驚いた。
僕も、妹も、両親も、集落のみんなも、仕事の手を止めて空を見上げた。
超然と美しい白鯨は群青色の中円を描いて低く飛んだ。
雨が降り、虹が立った。水に洗われた草原は緑色に輝いた。
生きているうちにまた会えるとは思っていなかったのだろう。祖母は静かに涙を流していた。
僕が鯨を見たのはその時が最後だった。
(やがて完全に透明になるまで)
(新しい世界の一部になるまで)
(誰からも忘れられるまで)
(流れ続けなさい)
(唄い続けなさい)
(わたしはそのようにして送り出された)
じいさんの話は確かそんな風だったと思う。本当に空飛ぶ鯨なんて居たんだろうか。
俺は一度も見たことが無い。友達も無いって言ってる。けど、じいさんはその手のお伽話が好きな人ではなかったし、俺が見舞いに行くと半分ボケた頭で、でも目だけはきらきらさせながら何度もその話をするものだから、ついつい俺も本気にしてしまったのだ。
誰もその白鯨を知らない。
雨が降り、虹が立った。
遠くから唄が聞こえたような気がしたが、きっと思い違いだろう。
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