四章 試練

 そして、マルテは海へと旅立った。

 丸メガネを投げ捨て、おさげ髪を切り落とし、可愛らしいメイド服を男物の衣装にかえて。フェリックスは木訥そうな漁師の夫婦に預け、手こぎ式の小さな漁船を借りた。手に入るだけの水と干し魚、それに、飲んだこともない酒を船に乗せ、おお海原うなばらに乗り出した。

 そのために必要となった金はメイド服で支払った。

 『万一の時にお金に困らないように』との、王太子妃の心遣いで、王太子付きのメイドたちの服には硬貨や宝石があしらわれていた。すべてを金にかえれば、ひなびた漁村ではかなりの価値になる。

 マルテは船の上に立ち、かいをこいだ。

 航海術もない。操船の経験もない。それどころか、そもそも海に出たことすらない。

 ――あの瓶は潮の流れに乗って流されてきた。だったら、潮の流れに逆らって進めば瓶が投げ込まれた場所につけるはず。

 と言う、少しでも航海の経験があるものならば決してあてにはしないかすかな希望。ただ、それだけにすがりついて。

 ――それは、航海とは言わない。自殺と言うんだ。

 経験のある船員ならば一〇〇人が一〇〇人、口をそろえてそう言うにちがいない。それほどに無謀な船出。それでも――。

 マルテには他の選択肢はなかった。

 ――フェリックスは殺させない。必ず、紅き千年王国の遺宝を持ち帰り、あの子の人生を取り戻す!

 ただ、その思いだけでマルテはかいをこぎつづける。

 隠れる場所もない小舟の上。容赦なく照りつける太陽が全身を焼く。吹きつける潮風に肌がボロボロになる。強風が吹けば船は木の葉のように激しくまわる。

 いつまでつづくかわからない航海。水も、食糧も、節約できるだけ節約しなければならない。最低限の水と食糧だけでかいをこぐ日々。慣れない力仕事に手の皮膚は裂け、血だるまになった。飢えと渇きに苛まれた。見渡す限り、水平線しか見えないおお海原うなばら

 そのなかにたったひとり。

 自分がどこにいて、どこに向かおうとしているのかわからない。

 その不安に押しつぶされ、大泣きしたこともあった。

 どれひとつとっても一四歳の少女であったマルテには乗り越えられないものだった。あまりの労苦に打ちひしがれ、海に身を投げて楽になろうとしていたにちがいない。

 そんなマルテを支えたもの。

 それは『母』としての思い。

 ――わたしは絶対、フェリックスを守る!

 ただ、その思いだけがマルテを支え、この自殺にも等しい航海をつづけさせていた。

 そのマルテの思いが運命の女神によみされたのだろうか。

 マルテの乗った小舟はついに、手記に記されたその島へとたどり着いた。

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