三章 冒険への誘い
マルテは駆けていた。
夜の山道を涙にくれて、その細い腕に生後八ヶ月の赤ん坊を抱きながら。
山道を駆けるマルテの背後。そこでは、クロノ王国の王都が燃えていた。いつの間にか侵入していたエルレンシャルの兵士たちが火をつけてまわったのだ。
その中心となった王太子の屋敷。そこで、国王と王太子の首を
他ならぬヘリオスその人だった。
「ヘリオスさま、これはどういうことです⁉ 殿下を裏切り、エルレンシャルについたのですか!」
そう叫ぶマルテに答えたのは、冷徹なほどに冷静な声だった。
「裏切るだと? 人聞きの悪いことを言ってくれる。私は誰も裏切ってなどいない。私は最初からエルレンシャルの忠実な民なのだからね」
「なっ……⁉」
「我が祖国エルレンシャルは偉大な国だ。エルレンシャルが大陸を統一してこそ人の世から争いは消え、人々は幸せになる。そのためにはこのクロノ王国のような小国と言えど放置しておくわけにはいかない。
だから、私は自ら志願してクロノ王国に潜入したのだ。そして、一〇年の時をかけて信用を得、ついに、今日のこの日を迎えた。
見ろ!
この無様な生首どもを!
私が薬を仕込んだ酒と料理とをしこたま腹に詰め込み、正体をなくしたところをこの様だ。今日を限りにクロノ王国は滅び、我がエルレンシャルの領土の一部となる。そして、これが、我がエルレンシャルによる大陸統一の第一歩となるのだ!」
屋敷を焼き尽くす炎を背景に、ヘリオスは高らかに宣言する。
そこに、エルレンシャルの兵士たちが乱入してきた。その場はたちまち大混乱に陥った。マルテはその混乱に乗じて必死に逃げた。兵士たちは略奪と、貴婦人たちへの暴行に夢中だった。それが、マルテに味方した。兵士たちの誰も、地味で小柄な小娘などには注意を向けなかったのだ。
マルテは逃げた。
必死に逃げた。
その途中、王太子の長子フェリックスを助け出していたのはメイドとして世話をしてきたための習性だったろうか。
マルテはフェリックスを連れて山のなかに逃げた。年端もいかない少女とは言え根っからの山育ち。草原の民であるエルレンシャル人とは脚力も心肺機能も比較にならない。一夜のうちに山をくだり、海岸へとたどり着いた。
海の向こうからはすでに朝日が昇りつつある。しらしらとした朝の光が海岸を照らし出そうとしていた。
「……これから、どうしたらいいんだろう?」
マルテは絶望の呟きを漏らした。
追手が来る様子はない。とりあえずは逃げ延びたようだ。しかし、自分ひとりならばいざ知らず、この腕のなかの赤子は国王の孫。そして、おそらくはクロノ王国最後の王族。
探していないはずがない。
いずれはここにも兵士たちがやってくるだろう。そして、見つかれば必ず殺される。フェリックスを連れて逃げた自分も同様だろう。
ならば、海岸に出たのを幸い、このまま海を越えてどこかよその国に亡命し、フェリックスの権利を回復するための戦いをはじめるべきか。
「無理よ! そんなこと、できるわけがないじゃない。わたしは勇者でも英雄でもない。ただの一四歳の女の子なのよ!」
なにかにつまづいた。
転んだ。
見てみると、足元に半ば砂に埋もれた古びた瓶が落ちていた。
――なに? 瓶のなかに赤い輝き……。
その輝きに魅せられて、マルテはその瓶をとった。
なかには赤い宝石のペンダントともうひとつ、なにやら文字の書かれた紙片が入っていた。
それは、ある漂流者の手記だった。
紅き千年王国の遺宝。
その手記にはそうあった。
紅き千年王国。
普通の一四歳の子供、まして、スラム街出身の子供なら知っているはずもない。しかし、教師を目指して熱心に勉学に励んでいたマルテは知っている。紅き千年王国の伝説を。
かつて、東の海にひとつの島があった。
上質の紅玉を無尽蔵に産出するその島は交易によって莫大な富を築き、繁栄を謳歌した。その繁栄は一〇〇〇年にも及んだという。だから、言われる。
紅き千年王国、と。
しかし、その繁栄も終わるときがきた。繁栄の驕りから人々は堕落し、海神の怒りを買った。島は一夜にして海に沈み、栄華を誇った紅き千年王国も滅び去った。しかし――。
その直前、人々はもてるだけの財宝を持ち出し、ある島に隠したという。その島はこの大陸からほど近い群島のどれかだと言われていた。しかし、その遺宝とやらが実際に見つかったことはなく、単なるお伽噺だと思われていた。
その遺宝を見つけた。
手記にはそう記してあった。
手記の主は名もない船員。嵐によって船が難破し、偶然、打ち上げられた島で遺宝を発見した。しかし、船は壊れ、道具もなく、島を脱出する術もない。そこで、
助けを求めて、ではない。
自分の発見を誰かに伝えたい、その一心で。
――紅き千年王国の遺宝。もし、それを手に入れられれば……。
大陸中の傭兵団を雇い、クロノ王国からエルレンシャルを追い出すことも可能かも知れない。
「だあだあ」
腕のなかでなにも知らない赤ん坊がむずがった。
その顔を見ているうちに、マルテの心のなかに、あるひとつの思いが育っていった。
「そうよ。この子にはもう、わたししかいない。わたしがくじけたらこの子はどうなるの? 殺させない。この子は決して殺させない」
マルテはこのとき、自分の人生のはじまりが再びかわったことを知った。
「そう。わたしは勇者にも英雄にもなれない。でも、母親にならなれる。この子の母親として、なんとしても守ってみせる」
マルテは立ちあがった。
紅き宝石のペンダントを首にかけ、一枚の紙片をその手に握り。
母となった一四歳の少女はいま、冒険の旅に出る。
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