二章 日常の世界(2)
クロノ王国。
それは大陸の端、東海岸から見上げるアスラム山脈に位置する小国。
山頂に住む神秘なる生物、ユキヒョウを紋章とするその国は、決して強くもなければ、大きくもなかったが、古代から伝えられた豊かで独特の文化をもっていた。ことに王都シャンピリオンではアスラム山脈の雄大な自然から題をとったオペラが毎日のように演劇され、『オペラの都』として知られていた。
軍事的には大陸でも屈指の弱小国だったが、それでも有史以来、他国に征服された例はない。
そこには三つの理由があった。
ひとつめは、クロノ王国の民は数こそ少ないものの険しい山脈に鍛えられた強靱な体力と忍耐強い性格の持ち主であり、いざ戦争となると相手が怯えるほどに粘り強く戦いつづけること。
もうひとつは、周囲を険しい山脈に囲まれ、すぐ東側には海、王国に入り込めるのは西側の細い山道一本のみと言う守りやすい地形。
そして、三つ目が婚姻政策。
クロノ王国歴代の王たちは自分たちの弱小さをよく理解していた。そのため、軍事力に頼るよりも外交に重きをなし、大陸列強との婚姻政策を推し進めてきた。幸い、クロノ王国の女性たちは険しい山脈に鍛えられてきた歴史からか、他の地域の女性にはない猫科の獣のような野性味と美しさをもっていた。その独特の美貌が人気であり、妻に欲しがる男は多かった。そのため、弱小国でありながら婚姻政策はうまく行っており、大陸中の多くの国の王家にクロノ王家の血が流れている。そこには、
――しょせん、クロノ王国は辺境の小国。婚姻を結んだからといって外戚として権勢を振るうこともあるまい。
と言う理由もあった。
代々の王たちはそのことをよく理解しており、婚姻を結んだからといって他国の政治に介入することはなく、『無関心でいられること』を最上の成果とし、独立を保ってきた。
一方では、最大の武器である婚姻政策の成功率を高めるため、王家は積極的に市井の美しい娘を妃として迎え、王女たちの美しさを高めてきた。現在の王太子妃もそうして見初められた平民出身の女性である。
これらの要素によって、クロノ王国はこれまでことごとく外敵を退けてきた。いまも、西の草原地帯に広がる軍事大国エルレンシャルが狙っているというもっぱらの噂だが、誰も大して心配していない。
エルレンシャルは野心的だが馬鹿ではない。クロノ王国がいかに攻めにくく、そのくせ、征服したところでろくな旨味もないことはよく知っている。人口も少なく、食糧生産力も乏しく、資源もない。文化以外にこれといった産業もない。そんな国を征服するためにわざわざ多大な犠牲を払うはずがない。なにしろ、大陸の西側にはここよりずっと征服しやすくて、価値のある国が幾つもあるのだから。
皆、そう思い、本気で侵略されるなどとは思っていなかった。
国王からして例外ではない。
民を思い、社会資本の整備に尽力する良き王として国民から好かれてはいたが、戦に対する緊張感には欠けていた。
しかし、それでよかった。
クロノ王国はどうせ、小国なのだ。軍事力をもったところでエルレンシャルのような大国に対抗できるはずがない。却って、警戒心を抱かせ、侵略の危険を高めるだけ。
決して目立たず、他国の脅威になるような真似はせず、分をわきまえて小国として生きること。
そんな生き方が自分たちにはあっている。
国民の誰もがそう思い、裕福ではないけれど慎ましい日常を大切に生きていた。
マルテはそんななかで暮らしていた。
裕福ではなかったが、仕事に、勉強に、充実した毎日を送っていた。
そして、その日は年に一度の王太子主催のパーティーの日。国王夫妻の参加も恒例となっている大規模なものであり、国中の貴族、名士が集まるのはもちろん、幾人かの貧民までが招待されている。
そのパーティの席上でマルテは、コマネズミのようにクルクルと働いた。本来、裕福な貴族の屋敷では給仕などのように『人目につく』仕事は男性使用人の役目であり、女性使用人は人目につかない裏方仕事をするものと決まっている。しかし、今回ばかりはそんなことは言っていられない。会場を埋め尽くす人々全員に『王太子主催』の銘にふさわしいサービスを提供するべく、メイドたちも総動員で給仕に当たった。
マルテも休む間もなく銀の皿に乗せられた料理を運び、酒をつぎ、空になった皿をさげ、汚れた皿を洗った。洗ってもあらっても、汚れた皿は後からあとからやってくる。ついつい調子に乗りすぎて粗相をし、服を汚してしまった出席者がいれば、その人物を介抱し、衣服を洗うのもメイドの役目。
次からつぎへと押し寄せる仕事、仕事、仕事……。
まさに、目もまわるような忙しさ。。
そんななかでマルテは必死に働いた。働いて、働いて――。
そして、ようやく、パーティーの終わるときがきた。
先ほどまでの騒ぎが嘘のような静けさに包まれたパーティ会場でマルテは、自分の役割を果たせたことに心から充実感を覚えていた。
そして、この夜――。
マルテの人生のはじまりは再びかわったのだ。
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