一章 日常の世界(1)

 「遅くなりました!」

 屋敷の厨房にメイド服を着たひとりの少女が飛び込んできた。よほどあわてていたのだろう。胸元のボタンもとめていないし、エプロンもずれている。女主人に一目見られれば『我が家のメイドなら身だしなみはきちんとなさい!』と、叱られること確実な格好である。

 かのの名前はマルテ。一四歳。丸メガネにおさげ髪。そばかすだらけの顔。小柄でやせっぽちな体付きと、目立つところのまったくないごくごく普通で平凡な女の子。けれど、スラム街の出身でありながら王太子妃の目にとまり、クロノ王国王太子の屋敷でメイドとして雇われることになった幸運な女の子。

 あわてて飛び込んだ厨房にはコックだけではなく、屋敷を取り仕切る若き執事ヘリオスの姿もあった。近々開かれるパーティーに関してコックと話をしていたらしい。

 「ヘリオスさま……!」

 ――あああ、よりによってヘリオスさまにこんな姿を見られるなんて、あたしのバカ!

 マルテはいまさらながらに自分のだらしない格好を思い出し、真っ赤になりながら居住まいを正した。考えてみれば男性の前で衣服の乱れを直すなど、それはそれでレディにあるまじき振る舞いと言えるだろう。しかし、このときのマルテにそこまで気付くだけの余裕はない。

 にっこりと、ヘリオスはやさしい笑顔を浮かべた。マルテのみならず、屋敷中のすべてのメイドから屋敷を訪れる貴族の令嬢たちに至るまで、恋に恋する年頃の女性ならば、誰もがうっとりと夢見心地になる笑顔である。

 ヘリオスはいまだ二六歳。ほんの少年の頃にボーイとして屋敷に仕えはじめ、それからフットマンの地位について順調に業績を重ね、二〇代の若さで『王太子付きの執事』という、言わば、クロノ王国における使用人の最高峰の地位を手に入れた。それだけでも、ヘリオスがいかに有能で誠実な人物かわかろうというものである。

 「大丈夫。まだ、あなたの仕事時間ではありませんよ」

 ヘリオスは優しく微笑みながらそう言った。

 『王太子付きの執事』という下手な貴族より上位にある肩書きをもちながら、決して居丈高にも、横暴にもならず、誰に対しても礼儀正しく、敬意をもって対応する。それもまた、年頃の女性たちが胸をときめかせる一因であった。 

 「今日も学校が終わってすぐにきたのでしょう? 毎日、がんばりますね」

 やさしい笑顔と共に憧れの人にそう言われ――。

 マルテはますます真っ赤になった。

 「は、は、はい! ありがとうございます……!」

 マルテは住み込みのメイドだが、王太子妃の厚意で学校に通わせてもらっている。朝起きると朝食の支度を手伝い、それから学校。帰ってくると今度は夕食の支度と後片付け。そして、夜は洗濯。ときには王太子夫妻の長子であり、現国王の孫、将来の王たる生後八ヶ月の赤ん坊、フェリックスのお世話もする。

 それが、マルテの日常だった。

 こう言うとわりと楽な暮らしに思えるかも知れないが、そんなことはない。なにしろ、王太子の屋敷と言うだけあって家族に使用人も含めてとにかく数が多い。それだけの人間がいるのだから毎日の洗濯物の量もすさまじい。毎日まいにちランドリーメイドが総出で行っても一晩がかりなのだ。

 洗濯をようやく終えて、クタクタになった体をベッドにもぐり込ませると、もう朝。

 ――ちっとも眠った気がしない。

 そう思いながらメイド服に着替え、朝食の支度をする羽目になることもしょっちゅうだ。それでも、マルテは自分の幸運に感謝していた。

 「わ、わたしは、スラム街の生まれなのに、奥さまのおかげでこうして立派なお屋敷に住み、ご飯も食べられて、お給料もいただける立場になれました」

 『奥さま』と、マルテは王太子妃である屋敷の女主人のことをそう呼んだ。

 クロノ王国は山間の小国であるためか、さほど格式張っていない。王太子妃どころか、国王の妃でさえ、屋敷では親しみを込めて『奥さま』と呼ばれている。

 マルテはつづけた。

 「おまけに、学校にも通わせていただいて。感謝しているんです。奥さまのご厚意に報いるためにも一所懸命、お仕事しないと……」

 「奥さまが君を学校に通わせることにしたのは、君が毎日まいにち他の使用人たちから読み書きや計算を教わっているのを奥さまが見かけたからでしょう。君自身の努力の成果です。胸を張っていいことですよ」

 「あ、ありがとうございます……!」

 憧れの人に褒められて……。

 マルテはもう、天にものぼる心地だった。

 「わ、わたしは、教員免許を取ってスラム街で子供たちに読み書き計算を教えることが夢なんです!」

 「読み書き計算を教えるのが夢?」

 「は、はい……! わたしの人生のはじまりは最低のものになるはずでした。でも、奥さまのおかげでスラム街から助け出されたことでかわったんです。人並みの人生のはじまりを迎えることが出来るようになったんです。でも、スラムにはまだまだたくさんの、最低の人生のはじまりを迎えることになる子供たちがいます。その子供たちのために、人生のはじまりをかえてあげたい。そのための力となりたいんです」

 「素晴らしい夢です。ぜひ、実現させてください。応援していますよ」

 「は、はい……! ありがとうございます!」

 舞いあがりながらそう答えてから、マルテは尋ねた。

 「あ、そう言えば、ヘリオスさまはどうして厨房に?」

 「ええ。近々、このお屋敷で王太子殿下主催のパーティーが開かれるでしょう。国王夫妻も参加される大規模なものです。それだけに失敗はできませんからね。入念な打ち合わせをしておかなくてはなりませんから」

 「そ、そうですね。ヘリオスさまも大変ですよね」

 「いえ。本当に大変なのは現場で働くあなたたちですよ。私はしょせん、ああしろこうしろと指示するだけの立場。楽なものです。あなたたちの働きぶりには本当に感謝しています。ありがとう」

 ヘリオスはそう言って頭をさげた。自分よりもずっと位の高い、しかも、憧れの人に頭をさげられて、マルテは慌てふためいた。

 「そ、そんな……! 頭をおあげください、ヘリオスさま。これが、わたしの仕事ですから」

 「ふふ。そうですね。それが仕事。お互い、自分の職務に励むとしましょう」

 「はい……!」

 「それでは、いつまでもいても邪魔になるだけですね。私はこれで失礼します。あとのことはよろしくお願いします」

 ヘリオスはそう言って丁寧に礼をすると、厨房をあとにした。

 マルテはその洗練された立ち居振る舞いを見届けると、頬に手を当て、うっとりと夢見心地になった。

 ――ああ。なんて素敵な方。わたしみたいな一介のメイドにも優しく、礼儀正しく対応してくださるし。わたしみたいな地味な小娘があんな素敵な方とどうにかなれるはずはないけど……でも、もし、奇跡が起こって、あの方にわたしのはじめての男性になってもらえたら……。

 マルテはしばし妄想に浸っていたが――。

 「あ、いっけない! 早くお仕事しなくちゃ!」

 自分の立場を思い出し、皮をむかれることをまっているジャガイモの山に突撃したのだった。

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