レモンの匂い

鍋谷葵

レモンの匂い

 空も海も鬱病になるくらい青い。

 地上にあるあらゆる物事が透明になるほど青い。それを助長する灼熱の太陽と陽炎が織りなす夏は、驚くほど息苦しい。いや、入り江の漁港、そんな小さな町だから息苦しいのかもしれない。滞った歴史が堆積する白い砂浜と古びた家屋は、情熱を閉じ込めてしまっているのかもしれない。そして、閉鎖された環境は限りない退屈を与えるのかもしれない。


「また、なんか考えてんの?」


 それこそ、平日だっていうのに、バカ女と隣り合って、鳥居を背にして座り込むくらいの退屈を。そして、そんな環境だからこそバカ女がつま弾くアコギの音すら退屈に聴こえるのかもしれない。


「何も考えてねえよ」


「そう? なんか思いつめた顔していたし」


 こっちの気も知らないバカ女は、神の通り道に遠慮なく置かれた黒いギターケースの上にアコギを軽く投げる。それから、ニシシと笑いながら頬を突っついて来る。

 硬い人差し指から伝わる生温い体温は、俺の体に貫いて、鬱陶しさを覚えさせる。馬鹿みたいな笑顔が、うざくて仕方がない。


「うっせえ、ホントに何も考えてねえよ。てか、俺に触るんじゃねえ」


「うっわ、払いのけるとか幼気な女子高生にすることじゃないよ」


「邪魔なんだよ。大体……」


 瘦せこけて頬骨が薄っすらと見える俺の頬を触れることに、何の意味があるんだ。って、そう言いたかったけれど、俺の口は動いてくれなかった。馬鹿な女に悪口を言うだけなのに、どういう訳か言葉は出ない。


「大体?」


「何でもねえよ」


 悪口の代わりに胸が締め付けられる。

 視線を逸らしたのに、覗き込まれると、エスプレッソよりもよっぽど苦い苦味が俺の中を満たしてゆく。今まで散々味わってきたろくでもない苦味が、俺を苦しめてくれる。

 ブナの木の森にひっそりと佇む神社の木陰によって冷やされた空気が、さらに苦味を煽ってくる。木漏れ日も海風も苦味を和らげてくれない。

 胸の締め付けは強まるだけだ。


「何でもなくないでしょ。思いつめた顔してるし」


 デリカシーも恥じらいも無い馬鹿女は手を伸ばすと、何のためらいもなく俺の骨ばった顔を挟んだ。俺よりも大きなこいつの手は、俺の顔を覆い隠した。

 微かに冷たいじっとりと汗ばんだ手が、顔を包み込む。他人に触れることは嫌だけれど、こいつの奇行は今更だ。だから、特別な嫌悪感は無い。むしろ、心地良いくらいだ。

 いや、こんなのは御託に過ぎない。

 本当は嫌いだ。

 勝手に俺の感情を捉えたバカ女の直情的な行為が、俺に与える触覚なんて大嫌いだ。冗談じゃない。覗き込まれるだけで俺の心を苦しめてくれる苦さが満ちるっていうのに、触れられたらそれどころじゃない。

 胸が張り裂けそうになる。

 今も動機が止まらないし、視線も定まらない。

 ウルフカットの髪、ぱっちり二重と長いまつ毛、ほっそりとした高い鼻、大人びた顔に似合わない不満げに膨らむ頬、ルージュの唇、半袖のワイシャツから伸びるほっそりとした長い腕と学校指定のスカートから覗く健康的な長い脚、全部が俺を苦しませる。痛い苦さが俺の心を満たしてくれる。色白の肌はさらにそれを煽る。

 けれど、エスプレッソ的なこの苦味は、全身に響く痛烈な柑橘系の苦さに変化する。ことさらレモンの皮の苦味みたいに。


「お前こそ、しねえって言ったくせにしてるだろ。バカ女」


「癖になってるんだから仕方ないじゃん」


 言い訳を呟くと、馬鹿女は何重にも左手首に刻まれた自傷の痕を、慌ただしく右手で覆う。

 口を尖らせながら、髪を弄びながら、言い訳の代わりの態度を示す。


「馬鹿、仕方がない訳ねえだろ」


 けれど、似合わない態度はあんまりにも俺を苛立たせる。

 普段は堂々として、俺を弄んでくるくせに、自分のこととなると弱腰になるこいつに酷く苛立つ。けれど、この苛立ちの本質的な理由は分からない。


「あんたに関係ないじゃん」


 分からないけど、こうして自分の問題から俺を排除しようとするこいつの姿勢が嫌いっていうことは分かる。

 関係ないわけない。

 俺とこいつには腐れ縁があるんだ。


「あるだろ」


「無いよ」


「いや、ある。てか、お前がここに居る時点であるんだよ」


 貸し借りの関係があるんだ。


「不登校のこと?」


「言わせんなよ」


 苦しみを押しのけて、胸からは恥じらいがこみ上げてくる。ドロドロに溶けた鉄よりも熱くて、干からびた蛙の死骸よりも醜い恥じらいが、顔を赤熱させる。

 だから俺は顔を背ける。弱みを見せたくないがために。


「恥ずかしがってんの?」


 スカートが汚れることを気にせず、猫みたいに四つん這いになって落ち葉が敷かれた土の上を歩く。そして、背け続ける俺の顔に傷まみれの左手をあてがう。

 土のついた大きな手は、顔に集まった熱を奪ってゆく。

 恥辱の熱は失われて、思考は一層冷静になる。

 そして、正直になれない歪んだ心がほんのり整形される。


「ああ、恥ずかしがってんだよ。だから、俺から手を放してくれ」


「ふーん」


 正直になったところで俺の口から漏れる言葉は、悪態に満ちている。

 仕方がない。

 性根を矯正するには、あまりに時間が少なすぎる。

 それに、親よりも俺のことを知ってる意地の悪いこいつにはそんなこと分かってる。だから、別に良いんだ。俺を排斥する世の中なんて、あっという間に俺を弱者に仕立て上げるこの狭い町なんて考えず、ありのままの態度を見せればいい。


「素直になったあんたって、可愛いね」


「髪も重たくて、目つきも悪くて、痩せこけた口の悪いガキのどこが可愛いんだ。馬鹿を言うのも大概にしてくれ」


「あんたと友達の時点で私が酔狂な人間だってこと、知ってるでしょ?」


「ぐうの音も出ないな」


 女々しい自己嫌悪を反論の余地のない正論によって砕かれる。それからバカ女の玲瓏な笑い声が俺の耳をくすぐる。そして、俺もその笑い声に釣られるように、慣れてない笑顔を浮かべる。

 きっと、不気味だ。

 きっと、気持ちわるい。

 きっと、嫌われる。

 そんな笑顔を浮かべる。

 自分と対照的な表情を想像すると、嫌な汗が浮かんでくる。押しのけたはずの暗い思い出がその手を伸ばしてくる。

 俺の心は僕になる。

 虚勢を張れず、自分を偽ることすら許されない僕という一面が浮き彫りになる。本当の自分がどっちなのか、僕には分からない。いや、本当は分かっているけれども、それが本当だと思いたくないだけだ。

 夜、海辺、波のまにまに映る月、花火、ライター、火薬臭いバケツ。

 そういった悪い思い出が浮き彫りになるから、僕は俺を僕としている。僕は僕を忘れるために、俺としての自我を確立させる。

 馬鹿々々しい僕の試みは、俺を酷く落胆させる。バカ女がポケットから落とした『いちごみるく』に群がる蟻よりも醜く思える。女王のために身を粉にして、社会に従事する虫けらよりも役に立たない木偶の棒のように見える。

 こんなのは俺じゃない。


「それにあんたは私にしか、弱い自分を見せないから良いんだよ。私、人のそういうところが好きだからさ。ウィンウィンってやつ」


「黙ってギターでも弾いてろよ」


「やーだよ」


 だけど、バカ女は俺じゃない俺も、僕としての俺を遠慮なく見つめてくる。そして、好いて来る。あれだけ、馬鹿にされた人格を好んで受け入れる。

 阿保らしい。

 酔狂って言うのはこういうやつのことを言うんだろう。

 だから、俺の顎先をもって顔を上げさせるんだ。歪んでるだろう俺の顔を見るために、そんな気取ったことをするんだ。そして、俺は振り払えるはずなのに振り払おうとはしない。こんな自分もビックリするくらい馬鹿だ。

 長い睫毛の奥のこげ茶の瞳が揺れる。その奥には病んだ脳みそが陣取ってる。バカ女がバカ女たる由縁が、自分を傷つけることによって快楽を得ることに慣れ親しんだ狂った事実が鎮座している。外見は綺麗なのに、頭蓋をかち割れば腐乱したたんぱく質がとぐろを巻いてる。

 グロテスクなそれを想起すると、心を満たしていた苦味は薄れる。

 苦味は失せて、代わりに爽やかな香りが漂う。広大な太平洋には絶対に似合わない極々身近なレモンの酸っぱい匂いが、捻じ曲がった俺の一部を正直にさせるように心を満たす。和やかで、晴れやかな感覚が胸に芽吹く。

 だけれど、現実にそれを抱くことは拒絶してしまう。


「止してくれ」


 息がかかるほど顔を近づいたバカ女から視線を鳥居の苔むした基礎に向ける。

 深緑のふかふかとした苔は、俺を現実に戻してくれる。その青臭さ、その身近さ、その湿気に富んだ汚らしさが僕を示してくれる。

 身の丈に合わないものを手にしようとしてはいけない。そんなものに手を出したら俺の手は腐り落ちて、二度とそれを掴むことが出来なくなるだろうから。いいや、憶測じゃない。これは事実だ。俺の二度と人目に晒すことの出来ない体が証拠だ。

 零れ落ちる美しい火、波の音、悶える有機物、嘲笑。

 証拠が全てだ。


「じゃあ、しないとまたするって言ったら?」


「ふざけんな」


「ふざけてないよ。孤独を慰めるのは、孤独だけだって知ってるでしょ?」


 知らない。

 こいつが知っててたまるか。

 こいつと俺は違う。

 孤独なのは俺だけだ。こいつには居場所がある。誰かにそうあるべきだと強制された空間じゃない居場所がある。

 だから、このバカ女が知ってるはずが無い。こいつは自分で自分の居場所を限定してるだけだ。その閉じられた場所で自分に酔ってるだけだ。自己陶酔に溺れてるイカレだ。

 無性に腹が立つ。

 苛立ちが収まらない。

 目にものを言わせてやる!

 そういう覚悟で俺は顔を上げる。

 けれど、覚悟に満ちていたのはバカ女の方だった。


「レモンかよ」


「美味しいでしょ?」


「お前のせいでクソ不味い」


「処女のキスだよ。もっと喜んでよ。泣いちゃうよ」


 一秒にも満たない接触。

 俺の心と体は赤熱する。

 けれど、勇気のあるバカ女は余裕ぶってクスクスと笑う。真っ赤な耳を携えてるのにもかかわらず。


「知らねえよ、バカ女」


「ナギサって呼んでよ」


 一瞬で熱を帯びた俺の体から体を遠ざけたバカ女は、酷く似合わない媚態を示す。

 手首の痕にはよく似合っているけれども、こいつには似合わない態度に俺の心は冷めやる。瑞々しいレモンだと思っていたけれど、それは油絵の檸檬だったんだから仕方がない。

 でも、それが冗談だってことは知ってる。

 嘘は嘘でしかない。

 媚態は贋物だ。

 だから、俺の心の檸檬はレモンだ。


「冗談だよ」


 だからこのバカ女は深刻そうな俺の顔を見てケラケラと笑うんだ。


「嘘は吐かない。神様に誓ってね」


 だから立ち上がって、わざとらしく鳥居を拝んで見せるんだ。


「くたばれ」


 そして、俺は僕としての一面を加えた悪態を見せるんだ。


「死んだらあんたと会えなくなるから嫌だね」


「じゃあ、ギターでもおとなしく弾いてろよ」


「そうだね。それじゃ、あんたは私だけを見ててね」


 演技臭いウィンクをすると、バカ女はギターを持ち上げてストラップを肩にかける。それからカポをつける。そして適当なコードを抑えて、器用に弦をつま弾く。

 夏の木漏れ日はスポットライトのようにバカ女を照らす。

 青臭さを背負った海風が俺たちの髪を揺らす。

 そして、どこからか漂うレモンの香りが俺の鼻をくすぐる。きっと、次の瞬間にはレモン特有の苦味が来るだろう。けれど、それは甘んじて受け入れよう。それだけが俺と僕の居場所を作ってくれるものなんだから。


「じゃあ、ミサキ。聴いててね」


 苦味を与える少女は少し不安げな笑みを浮かべると、すぐさまこの夏に良く似合うカラッとした笑みを浮かべる。


「ああ、聴いてるよ」


「それじゃ、青葉市子で『いきのこり●ぼくら』」


 そして、柔らかな笑みを保ったまま、どこか懐かしい調べをナギサは弾き語る。

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