第18話 人間の偽物、悪魔のフローレンス

「お前、お前、お、まぇ、ぇぇぇぇぇっ!」

「それから今お考えになられている幼稚で杜撰な八つ当たり。上手くいくと本当に思っているので? 相手の数も見えていないのに、無謀を通り越して滑稽ですね。次は寄生虫でなく、芸人を目指すといいですよ」


 長く靡く栗色の髪に、歳の割に落ち着いて馬鹿にしてくる声。


 男の頭にカッと血が上った。元はと言えばこの女が来てからすべてが狂いだしたのだ。この女がいなければ。自分が連れてきたことも忘れ、そんな考えが男の思考を支配する。彼はその衝動に突き動かされるがまま、のこのこと目の前に現れた女に突進していく。


 しかし、男の足は数歩も動かなかった。


「ぐっ、が……⁈」

「ジェイムさん。あなた、ジョナス王だったころの方がずっと分かりにくくて面倒くさかったですよ。被っていた皮が随分優秀だったんですね」


 何故自分の名前を、と男は言いたかった。自分を馬鹿にする小娘の指を食いちぎってやりたかった。


 だが、そのどちらも出来ない。目の前のただの占い師を前に、ジェイムの足は凍り付いたように固まり、その姿から目を逸らせずにいる。どうしてか、女を前にジェイムは震えが止まらなかった。


「それからですね。占い師をやってるとよくあるんですよ、迷子探し。ご両親は血相変えて、私に言うんです」


 ジェイムはいつの間にかガチガチと歯を鳴らしていた。ただの森の、いつもの夜のはずなのに、彼は凍った手で内臓を撫でられているような気分だった。体の芯から震えが湧き出て止まらない。しかもおかしなことに、その震えは女を見ているだけでさらに酷くなるのだ。


 だからジェイムは目を離そうと何度も試した。この耐えがたい、身が竦むような恐怖と不安から今すぐにでも逃れたかった。


「『子供は大丈夫か、無事なのか』って何度も。……何が言いたいかって言うとですね」


 けれど、離せない。


 何度離そうと試みても、女の、髪と同じ栗色だったはずの黄金の目に、ジェイムの目は吸い寄せられるように引き寄せられてしまう。女はこちらを見ているだけだというのに、彼は自身が黄金の檻に囚われているかのような錯覚さえ覚えていた。指の一本、それどころか呼吸に至るまで、目の前の女に支配されているような感覚。


 そう考えている間にも、女が一歩、こちらに近づく。それだけで膝から力が抜け、男はかくんとその場に膝をついた。


「親はね、子供の安全を願う時、『どうなったか』なんて聞かないんですよ。どんなに可能性が低くても」

「――――っ! ……!」

「愛情を注いでいるようにうまいこと見せてるつもりみたいですけど、嘘くさいんですよ」


 そして恐怖で動けなくなってしまったジェイムに対し、女は目を夜空の三日月のように歪めながら言うのだ。



「でも、そのおかげで、あなたの魂すっごく美味しそう。ありがとう、やっと嘘を認めてくれて。これで久々に――――



 少女らしからぬ妖艶な妖しさに息を呑み、ぬらりと光る唇に思わず魅入りながらジェイムは「魂」という言葉に幼い日の歌を思い出した。


 ――――嘘をついてはいけないよ。嘘をついてはいけないよ。怖い悪魔が魂を食べにやってくる。嘘つきを食べにやってくる。遠いところに逃げたって、金色二つの満月が、お前を捕らえて離さない。


 親が子供に言うことをきかせるために作ったであろう歌。鼻で笑い、すっかり過去の記憶となっていた歌。


 段々と霞む視界の中で、ジェイムの耳はいつの日か聞いたあの歌を辿っていた。古い地層のような記憶を掘り起こし、彼はようやく歌の最後を思い出す。


 ――――だから嘘をついてはいけないよ。お前を食べに、悪魔のフローレンスがやってくる。嘘つき食らいが、やってくる。


「……悪魔、のふろーれ、んす」

「嫌だな。その歌まだ残ってたんですか?」


 確か、そんな名前の歌だったか。ジェイムは最早聞こえないほどの掠れ声で思い出した曲のタイトルを口に出すと、残った力を全て出しきるように息を吐き出す。もうほとんど彼の視界は不明瞭だった。ただ見えるのは、白くぼやけた世界に浮かぶ、黄金の満月が二つ。

 

「いただきます」そんな女の言葉を最後に、ついにジェイムの意識は混濁する。

 じわじわと自分が自分でなくなっていく、端から食べられているような、そんな身を掻きむしりたくなるほどの静かで穏やかな狂気に声にならない叫びを上げながら、彼は黄金の月に溺れていった。

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