11

 長谷川秀樹の母は名前を美沙子と言う。昭和四一年五月生まれで今年四一歳。大学を卒業して一年も経たずに長谷川姓となり、翌年には秀樹が誕生した。

 当時から美人で有名で、五歳年上で夫の長谷川尚志とは恋愛結婚。長谷川尚志はサラリーマンの家庭に生まれ、当時から銀行員として働いていた。二人がどのように出会い、どのように恋愛を重ねたのかはわからないが、結婚は割とすぐに決めたらしい。美沙子は「半ば見合いのようなものだった」という感想を漏らしたことがあるが、結婚までは特筆すべき障害があったわけでもなく、全てがとんとん拍子で順調。尚志が結婚指輪の資金を得るために出場したクイズ大会で見事に優勝したのちに二人は結婚。美沙子は専業主婦となり、賞金で得た指輪は今でも薬指で光っている。

 その後尚志は順調に出世を重ね、今では地方の支店長を任されるまでになったし、美沙子は美沙子で二度の妊娠出産をして二人の子供を育てた。美沙子が盲腸の手術で入院した以外は家庭での大きな変化もなく、二人の人生はまさに順風満帆。

 波風のほとんどない二人の人生において、あえて特筆するとしたら、それは美沙子の美貌だった。

 それなりの月日が経ったにもかかわらず、そしてともすれば単調になりがちな専業主婦を続けていたにもかかわらず、美沙子にはいい意味での家庭臭さがないのだ。それどころか、四一歳となった今でもその美貌は一向に衰える気配を感じさせない。子供たちにとってはまさに自慢の母だ。

 美沙子は総じておっとりした性格で物事に簡単には動じない。

「どうにかなるわ」

が口癖で、実際にも不思議なまでに状態が悪化しないのだ。それどころか「いつの間にが丸く収まってしまう」のだ。

 そう。いつもなぜか「どうにかなる」あるいは「どうにかなってしまう」。

 美沙子は確かにずば抜けた美貌の持ち主ではあるが、夫の尚志ともめたことがないわけではない。険悪とまではいかないが、口を聞かない状態になったこともある。しかしそんな時でも「どうにかなった」のであって、二人の日常の大半はまさに「どうにかなって」きたのだ。

 初めての子供である秀樹は父親が出張で出かけている日の正午過ぎに生まれた。札幌には珍しい嵐の日だったが、どうにかなって翌日には父親も来院。

「お前そっくりだね」

と呟いたことを美沙子はいまだに忘れることができない。

 女の子のような見た目の長男は密かな自慢で、美沙子は尚志と結婚して良かったとつくづく思った。あまり夜泣きもしなかったし、大きな病気にもならなかったし、頭もよかったし、愛想もよかった。

 どこに行くにも連れて行き、そしてどんな場面でも我が子が称賛されるのは素直に嬉しかった。

 数年経って今度は長女も生まれたが、こちらは夜泣きもすれば病気がちで、ひどい人見知りもしたし、駄々っ子の甘えん坊で、美沙子は初めて育児というものを意識した。しかし、だからと言って愛情がなかったわけではない。時折見せる仕草は愛おしかった。そして長男と比較されることを不憫だとも思った。長男と長女は色々な面で違うのだ。

 とはいえ、違うからといって扱いを変えたりはしなかった。同じ自分の子なのだからそれは当たり前のこと。二人とも私の子供で、二人とも愛おしい。かといって必要以上に愛情を与えすぎたりするのはよくない。尚志から言われた「過干渉」という言葉に従った美沙子は子供たちに配慮することにした。早くから一人部屋を持たせたのもその一環で、自分のことは自分でできるようになってほしいという願いもあった。

 また、美沙子は尚志が家にいるときは、常に尚志を立て、それを子供たちにもしっかりとアピールした。お父さんがこのお家を建ててくれたのよとことあるごとに話して聞かせた。子供たちがそれをどう受け取ったのかはわからない。それは子供たちの領域で、私が干渉すべきことではない。

 愛情深く、しかし割とドライな美沙子の子育ては上手くいったのか?それとも失敗したのか?

 それはわからない。そもそも子育てに成功とか失敗なんてあるのだろうか?それもわからない。

 美沙子は何年かぶりに長男の部屋のドアをノックした。

「いるかしら?」

 中にいるのはわかっていたし、何をしていたのかもおおよそわかる。中に入ると「あの匂い」がしたことからそれは確信となった。

 美沙子は子供たちの部屋には何度も入っている。掃除のためだ。ベッドのシーツや枕カバーは美沙子が交換している。あまり干渉しなさすぎなもの問題だと思っていた美沙子は、あえて子供たちの部屋に入れる余地を起こしていたのだ。

「入るわよ」

 美沙子はドアを開けるとすぐさま奥にあるベッドに腰掛ける。突っ立っている長男に微笑むと、ベッドをポンポンと叩いて合図した。

「ちょっとここに座って」

「なんだよ母さん」

「いいからここ」

 長男は渋々隣に座る。体が密着するほど近くに座るのはいつ以来だろうか?

「実はね、お話があるの」

 美沙子は淡々と言葉をつなげた。

「とっても大事なお話なの。だから聞いてほしいの」

「話?話って何?」長男は訝しそうな表情だ。

「それよりも母さん、まずは夕食にしない?」

「そうねぇ。そういえば今日、ルイちゃんはお父さんに会いに北見に行ってるの。だから明日の夕方くらいまで帰ってこないし、久々にお弁当買ってきたのよ」

「へぇそうなんだ。そんな話聞いてなかったけど」

「ルイちゃんは今冬休みだし、しばらくお父さんにも会ってなかったから、顔見てらっしゃいって私が勧めたのよ」

「ふーん。じゃあ下行って弁当食べようよ。なんの弁当買ってきたの?」

「そうよね。食べましょうね。けど、その前にまずは少しお話があるのよ。たった二つのことなんだけど、すごく大事なことだから、ちゃんと答えてほしいの。いいかしら?」

「いいけど」

「ヒデちゃん……」

 美沙子は長男の目をじっと見る。

「最近、何か困ったことはないかしら?」

「……」

「教えてほしいの。何か困ったことはないかしら?」

「……」

「正直に答えてほしいの。何か困ってることはないかしら?」

 美沙子はまるで長男の体を抱き締めるかのようにくっついている。長男はその体が思いの外柔らかいのに気づいてドキリとした。

「特にはないよ。むしろ何もなくて困ってるくらいだよ」

「本当かしら?」

「ああ」

「よかった。じゃあ二つ目の質問だけど、これ」

 美沙子は不意に何かを出した。

 それは折り畳まれた白い布。

 美沙子はそれを両膝に乗せると丁寧に開く。

 するとそれは白いパンティの形になった。

「これに見覚えはないかしら?」

 美沙子はまじまじと長男を見た。長男の目を見た。

「……」

「答えてほしいの。これに見覚えはないかしら?」

「……」

「これはね、洗濯機の中から出てきたの。こんな感じの下着なんて私は持ってないし、ルイちゃんに買ってあげた覚えもない。ルイちゃんにそれとなく聞いたら『かーさんってそんなの履いてるの?』って言われたわ。この家には三人しか住んでいない。そのうち二人が知らないなら、もう一人に聞くしかないわよね」

「……」

「どう?記憶にないかしら?」

「……」

「前にね。私、パンティ盗まれたって話をしたでしょう?そしてこの見知らぬパンティ。だから私、不安になったのよ。それでね、悪いんだけど、私、内緒であなたの後をつけたのよ」

「!」

 思わず反応する長男の体を逃さないかのようにして抱き抱えると、美沙子は続ける。

「もちろんすぐに気づかれると思ったわ。あなたは賢いんだもの。けど、きっと何かに集中してたのね。人ってね、そういう時は逆に周りには気づかないものなのよ。とにかく私、そうやってあなたがどこに行くのか、後をつけてみたの」

「……」

「私ね、不安だったの。まさかあのヒデちゃんが下着泥棒なんてしてたらどうしようかしらって。そんな子じゃないって。むしろそういうことを嫌う子だって。私そう思ってたの。思ってたんだけど」

「……」

「答えてほしいの?このパンティに見覚えはあるかしら?」

「……」

「あの金髪の女の子のパンティなの?」

「!」

 長男は強い力で跳ね起きた。しかし美沙子は離さない。思いがけない力でもって長男を再びベッドに座らせた。

「そうなのね?けど、彼女っていう付き合いではないのよね。彼女なら普通に話しかけるし……いえ、彼女ならそもそも一緒に歩いて帰るでしょうね」

「……」

「さっきはどうして包丁なんて買ったの?」

「!」

 振り解こうとする力に必死に抵抗し、美沙子は長男をベッドに押し倒す。どこにそんな力があるのかわからないが、すごい力だ。あまりの力ゆえか、長男はいきなり脱力した。と同時に目から涙が溢れ出る。

 美沙子は力を抜いた。もう力を使う必要はないと悟ったのだ。

「……そうだよ。買ったよ!だってそうしないともうどうにもならなかったんだ!」

「それであの金髪の女の子を襲おうとしたのね」

「違う!ただ脅そうとしただけだよ!」

「女の子はそうは思わないわよ。それは恐怖なの。一生拭えなくなる本当の恐怖なのよ」

「僕は本気で好きだったんだ。けど、どうしていいかわからないし、振り向いてもくれない。なんのきっかけもなくてどうしようもなかったんだ!」

「でもそれはあくまでもあなたの言い分よね」

 美沙子の指摘は容赦ない。自分勝手な言い分を認めるわけにはいかない、とばかりにピシャリと言い放った。

「脅される女の子の気持ちになってみて」

「……」

「あなたがあの女の子を好きなことはわかったわ。けどね、好きだからといって、相手もあなたのことが好きだとは限らないものよ。ましてや脅してまで思いを叶えようなんて。あの包丁で彼女を脅してどうするつもりだったの?きっとお部屋に無理やり入ろうとしてたのよね?」

「違う!僕はただ……」

「ただ……何かしら?」

「僕はただ……」

 長男はさめざめと泣いた。布団に突っ伏して体を震わせながら泣いた。美沙子はそれを黙って見ていた。それまでの硬い表情がスッと柔らかくなる。長男は陥落したのだ。これで大丈夫。あとは修復するのみだ。

 泣き続ける長男の傍から離れず、泣き続ける長男を優しく撫で続けながら、美沙子は経緯を思い返していた。

 

 ことの発端は、洗濯をして干していた自分のパンティがなくなったことだった。それも立て続けにだ。美沙子は「自分の家の庭だからまさか誰も入ってこないだろう」と油断したことを悔やんだ。と同時に誰かが人の家の庭に入り込んだという恐怖感も芽生えた。そしてそれゆえに警戒するようにもなった。下着類は別に干さなければならない。考えた挙句に「一度全部ネットに入れてまとめて洗い、そして別の場所に干す」ことに決めた。この家には私だけじゃなくルイちゃんもいる。年頃の女の子の下着まで盗まれるわけにはいかなかったのだ。それにまとめて洗えば干す時の仕分けも楽になる。

 とは言っても、長男も長女も脱いだものは洗濯機にそのまま放り込む習慣で、そのため美沙子は「毎回洗濯機の中身を確認する」ことが必要になってしまった。

 ある時、いつものように洗濯機の中を確認すると、明かに男性が放出する粘り気のある液で汚れたパンティが出てきた。美沙子は心底驚いてしまった。やだ!これは一体何?

 見るとその白いパンティは、模様や柄から明かに自分のものではないことがわかった。とするとルイちゃんのだろうか?

 粘り気のある液がこびりついていたそれは、実に不潔なものに見えた。まさかこんな不潔なものがルイちゃんのだなんて……

 まさか……

 美沙子は考え込んでしまった。しかし、いくら考えても、結論は一つしか出ない。

 この家にはこの手の液体を出す人間は一人しかおらず、そしてパンティの持ち主も自分を除けば一人しかない。

 まさかあの子が妹の下着を使って……

 けど、まさかそんなことが……

 とりあえず、このパンティが本当に長女のものかどうか聞こうとしたが、液でべったりのそのパンティをいきなり見せるわけにはいかない。一度洗わなければならない。

 洗濯後に改めて、しかしそれとなく長女に聞いてみた。

「ルイちゃんて、こんな趣味だったの?」

「……これ私のじゃないよ。かーさん自分で買ったの覚えてないの?」

 美沙子は眩暈がした。そして、本当にこういう時には目眩を起こすのだと思い知った。「まさかうちの息子が……」

という台詞を言うことになるとは夢にも思わなかったのだ。 

 しかし、と気を取り直す。

 まだこのパンティは盗んだものだと確定できない。ひょっとしたらあの子に彼女ができて、このパンティは彼女のものなのかもしれない。それなら気持ち的には嫌だけど世間的には問題はないだろう。あの子ももう大学生だし、こういう行為はするものだ。

 しかしこのパンティが彼女のものだとどうして証明すればいい?

 直接聞くわけにはいかなかったし、気楽に聞けるわけもなかった。ナーバスな問題なのだ。正面突破はどう考えても得策ではない。

 美沙子は逆説的に考えた。

 そうか、下着泥棒でないことを確認すればいいのだ。それなら入手方法はどうでも良い。もしかしたら、何かのパーティかなんかで景品でもらったものかもしれないのだ。誰かを襲って手に入れたとか、あるいは盗んだのでなければ問題はないのだ。今時、パンティなんて手に入れようと思ったらどこでも手に入るだろう。何もパンティ一枚で大騒ぎする必要はないのではないか?

 しかし、不安は消えない。

 もしもこのパンティが盗んだものだとしたら……

 そういえば、最近あの子は服装が変わった。もしもそれが泥棒のための変装だとしたら……

 美沙子は確かめることにした。そう。後をつけたらいいのだ。それが一番早い。もしも泥棒をしているのなら、またするはずだ。その時に私が止めればいい。幸い、まだテレビのニュースにはなってないし、今ならまだ間に合う。それに泥棒をしていないのなら、それはそれでいいことではないか。取り越し苦労でもなんでもいい。まずは確認すること。

それが最も大事なことなのだ。

 美沙子は探偵を雇おうとして、思いとどまった。やはりこういうことは誰にも秘密にしておくのがいい。たとえ探偵だとしても、こちらの素性を知られるのはまずいのだ。主人は銀行の支店長。痛くもない腹を探られるわけにはいかない。

 もちろん尾行なんてしたことはない。けれど、躊躇している場合ではなかった。やらなければならないのだ。美沙子は覚悟を決めた。

 今は冬で、もうすぐ初雪も降るだろう。そうすれば外に洗濯物を干す人もいなくなる。ならば、ことを起こすなら今しかないだろう。だからこそ長男の後をつけなければならないのだ。

 幸いなことに、長男の後をつけるのは容易かった。そしてなぜ容易いのか、その理由もすぐにわかった。

 長男は"誰かの後をつけて"いたのだ。その誰かに集中していて、だから周りには全く気を配っていなかったのだ。

 美沙子は暗澹たる気分になった。

 我が子は明らかにストーカー行為をしている……

 そしてストーカーをしている相手がわかった時の驚きたるや!

 相手は外国人女性だったのだ。

 美沙子は昔あった事件を思い出した。確かあの犯人もストーカーではなかったか?まさか我が子に限ってそんな……

 外国人にしては大柄ではない。それどころか、いかにも日本人受けしそうな小柄な美人。そんな女性を我が子は付け回していたのか……

 そう言えば、私がスーパーで外国人女性と見たという話をしたときに、ものすごく熱心に話を引き出そうとしていたわ。

 ひょっとしてあのパンティはあの外国人女性のものなのかもしれない……

 不幸中の幸いだったのは、我が子が一度も外国人女性に接触しなかったことだ。危害を加えるつもりはないようで、ずっとアパートの前で立ち尽くす我が子を、美沙子はそっと遠くから見ていた。

 危害さえ加えないのであれば、そのうちちゃんと向き合って話すこともできる。そう。いきなり話したのではショックが大きいだろう。頃合いを見て話すのだ。

「もうそんなことは止めるのよ。今なら大丈夫だから」

 そう。美沙子はタイミングを見計らっていたのだ。そしてそのタイミングは突然やってきた。

 我が子が包丁を買ったのだ。美沙子はピンときた。そしてショックだった。

 まずい。これはまずい。

 思い詰めているに違いない。もうタイミングがどうのなどと言ってはいられない。止めなければならない。

 そうだ。なんとしても止めなければならない!

 美沙子は思った。こうなったら、自分の身を挺してでも止めるのだ。そう。どうにかしなければならない。大丈夫。どうにかなるのだ。これまでもそう。これからもそう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る