10

 すっかり根雪になり、本格的な冬がやってくると、札幌の街はあちらこちらに煌びやかなイルミネーションが灯り、独特の幻想的な雰囲気を醸し出す。恋人同士にはロマンチックな、家族には暖かなその光は、しかし相手を求める独身者にはいささか辛い光でもある。

長谷川秀樹にとってのその光は、ただただうるさく煩わしいものでしかなかった。ロマンチックからは程遠い、ただの商業主義の具現化ぐらいにしか見えない。ましてや今年で二七回目となるさっぽろホワイトイルミネーションなど、電気の無駄遣い以外のなにものでもなかった。

 長谷川秀樹は大通りに行こうとはしなかった。自分には全く関係のないものなのだ。恋人もいないし、いまさら母や妹と見に行くような歳でもイベントでもない。それに今の長谷川秀樹には、そんな場所よりももっと大切な場所があるのだ。

 長谷川秀樹は阿木野ビビのアパートに毎日足を運んだ。もちろん何度通おうとも中には入れない。いまだに部屋番号もわからない。住んでる棟すらわからないのだ。それでも長谷川秀樹は通い続けた。何かが起きるはずだと思ったからだし、それを期待してもいた。そう思い続けた。

 しかしそれ以外の理由もある。

 泣きながら家に帰ってきたあの日。

 部屋に入ってからあとのことを長谷川秀樹はよく覚えていなかった。従って、股間が汚れてしまっていたズボンを洗濯機に放り込んだはいいが、一緒に履いていた阿木野ビビのパンティがどうなったのかを実は全く覚えていない。体液ですっかり汚れてしまっていたためどうしても洗わなければならなかったのだが、自分で手洗いしようと思って何処かに置いたのか、それとも汚れたズボンと一緒に洗濯機に放り込んでしまったのかがどうしても思い出せないのだ。

 母に聞けばわかるのだろう。しかし、

「実は履いていた女物のパンティなんだけど間違って洗濯機に放り込んじゃって……」

 などと聞けるわけがない。それに、もしも洗濯機に入っていたとしたら、

「ちょっとヒデちゃん何この女物のパンティ?」

などと母に詰問されるに決まっている。しかし今に至るも母からの反応は何もないのだ。

 パンティの所在がわからなくなったことに気づいたのが遅かったのも致命的だった。なまじルーティーンが決まっている生活をしていたため、泣きながら寝た翌日はまたいつものルーティーンをこなしてしまい、その結果、パンティのことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。無くなっていることに気づいたのはその日の夜のことで、いつものごとくベッドの隙間を探した長谷川秀樹は青ざめた。

 あれ、あれ?

 阿木野ビビのパンティがどこにもない。慌てて部屋を探し、ないとわかると他の可能性を検討し、たとえば干してある洗濯物にまぎれてないか確認したが、そもそもそこには誰の下着も干されていなかった。そうか。母さんは以前に自分のパンティが盗まれたとか言ってたからな。けど、じゃあどこに干しているんだろう?ふと疑問が浮かんだが、そんなことは今はどうでもいい。問題は阿木野ビビのパンティなのだ。

 もしや母や妹が自分の下着だと勘違いしてしまったのだろうか?それともどこか違うところ、たとえばうっかりゴミ箱に捨ててしまい、それが回収されてしまったのだろうか?

 そういえば家の家庭ゴミがどうやって回収されているのか、長谷川秀樹は知らなかった。

 なんということだろう?

 どうしたらいいのだろう?

 はっきりしているのは、阿木野ビビのあのパンティを探せないということ。彼女との唯一の接点であるあのパンティがないということで、これは長谷川秀樹にとっては最大の苦痛だった。

 長谷川秀樹は阿木野ビビのアパートに行った。どうにもできないけれど、それだけが彼にできることだった。パンティという接点がなくなった今、新しい接点を作ることができるのはそのアパートのみなのだ。確かに長谷川秀樹は阿木野ビビの電話番号を知っている。彼女が"謝罪の電話"をしてきたときの履歴が残っているからだ。けどそれで一体何ができる?実際に電話をかけてみたが、何度かけても電話に出ない。おそらくは登録している番号にしか出ないのだろう。そして自分の電話番号は登録されていないのだろう。しかしそれでは最初から電話番号を知らないのと同じではないか。

 全くもって手詰まりで何もできない。その中でできることといったら、こうして虚しくアパートを見るために通うことのみ。他に何ができるというのだろう?

 大学で気軽に声をかけようにも、学科が違うと接点も何もないし、彼女はあまり友達付き合いをしてないようで、岸辺薫子というハブがなければ繋がることもできない。時間だけが過ぎ、クリスマスシーズンになっても岸辺薫子からはなんのアクションもなく、四人で洞爺湖に出かけて以来、四人どころか滝川と顔を合わせることすら稀なことになってしまっていた。確かに滝川とは同じ学部だから顔は見る。しかし今の滝川はもっぱら岸辺薫子一辺倒で、おそらくクリスマスシーズンが終わるまではそうなのだろう。

 こんな状況で何をすればいいのか?

 しかし性根が受け身の長谷川秀樹は、受け身であるがゆえに何もできない。こうなるとまるで無力なのだ。アクションを起こすのではなく、アクションが起きるのをとことん待つタイプであるがゆえに、待つことは得意でも、自ら動くことができない。いや、動いてはいるのだが、効果的な動きができない。

 虚しさばかりが募る毎日。

 しかしその中で、長谷川秀樹には徐々にではあるが、怒りの感情が芽生えつつあった。

 こんなに考えているのに、こんなに思っているのにどうにもならない。何も起こらない。

 これは運命なのではなかったのか?

 阿木野ビビとの出会いは運命なのではなかったのか?

 毎日毎日こうして阿木野ビビの後から歩き、そしてアパートに入るのを確認しているのに、彼女は全く振り向いてくれない。こうして近くにいるのだから、偶然振り向くくらいはあってもいいのではないか?

 そんなに僕には興味がないのだろうか?

 悶々としながら過ごす日々。

 

 その日は大雪で、除雪も追い付かず、帰り道はひどい有様だった。

 狭い道を車は通る人は通るでものすごく危険だし、時折吹雪くためにろくに前も見えない。

 かろうじて目の前を歩く阿木野ビビを認識できてはいたが、いきなり違う路地からベンツが飛び出してきた。ぶつかる!と思ったもののぎりぎりで回避。その拍子に転びそうになったため、ふざけんな!と声が出そうになった。しかし、見ると運転席にはいかにもいかつい親父。これでは自制せざるを得ない。この辺りにはヤクザの事務所があったことを思い出したのだ。

 情けないくらいにペコペコと頭を下げてその場を立ち去ると、前にいた阿木野ビビの姿はもう見えず、吹雪は一層激しくなるばかり。

 ……

 長谷川秀樹は心底情けなくなった。

 何をしてるんだろう?

 なんなんだろう?

 僕が何をしたと言うのだろう?

 容赦無く吹雪く雪で顔が濡れたのか、それとも違う理由で濡れているのかはわからないが、ぐしゃぐしゃの顔で地下鉄駅に引き返すと、そのまま電車に乗り込む。空いている座席に座ると深く俯いて、床をじっと見た。

 もうだめだ。

 こんなことをしていてなんになる。

 虚しいだけではないか。

 ぼんやりと床を見続け、そのまま目的地の駅で降り、地下鉄駅から出る。 

 ドン!

 何かに当たったような気がして、見ると女子高生と思しき三人組。並んで歩いている端の一人に当たったらしい。聞き取れないくらいのボソボソ声だが、確実に

「ちょっとキモいー」

「何よー」

と文句を言うのが長谷川秀樹には聞こえた。

 

 何かが切れた。 

  

 いきなり目の前の女子高生の胸ぐらを掴むと激しく揺さぶる。何を言ったのかは覚えてないが、散々揺さぶった相手の瞳に心底恐怖の色を見た。しかしなおも追い詰める。ようやく手を離すと女子高生たちは悲鳴を上げながら逃げていった。通りに通行人はいたが、皆見て見ないふりをしているのがはっきりわかる。雪が降っていて寒いのだ。関わり合いにはなりたくない。それぞれの顔にはそう書いてあるのがよくわかる。

 長谷川秀樹はスカッとした。

 ザマアミロ!

 こんな狭い雪道なのに並んで歩く馬鹿がどこにいるのか!

 これだから女は馬鹿なんだ!

 言わなきゃわからないのだから本当にクソなんだ!

 ……そうか。

 言わないと確かにわからないよな。

 そうだよな。

 自分から動かないとわからないよな。

 長谷川秀樹は近くのスーパーに寄った。そしてキャベツやらにんじんやらを買うと、その足で店内にテナントとして入っている百円均一の店にも寄った。そこには包丁も売っているのだ。長谷川秀樹は迷わず包丁を買った。店員の表情は変わらない。左手には野菜が入っているスーパーの袋を下げているのだ。当然だと思うだろう。

 百均なのに百円ではないが、そういうことはどうでもいい。会計を済ませ、どうも、とにっこり微笑むと、店員も微笑みを返してくれた。うん。そうだ。女はただ笑っていればいいのだ。

 スーパーを出るころには長谷川秀樹の決心は固まっていて、すでに"どう実行するのか"の段階になっていた。

 アパートの防犯カメラの位置はわかってた。包丁を突きつける場所が問題なのだ。防犯カメラに映らないように包丁を使わないとならない。そうしないとアパートに入ることができない。

 そうだ。ロープがない!それも買わないとならないな。しかし、さっきの百均に戻るのは不自然だ。違うところで買わなければ。

 長谷川秀樹は考えながら歩き、違う店でガムテープを買った。これなら目隠しにも使えるしぐるぐる巻きにすればロープがわりにもなる。買ったところで下手に怪しまれることもない。

 家に帰ってからも自問自答は続いた。どうしたら最も自分が望む形になるのか。

 まだ母は帰っておらず、妹もいない家はシンと静まり返っていたが、それだけに考えに集中しやすい。買ってきた野菜は居間のテーブルの上において、包丁とガムテープはそのまま部屋に持ち込んでベッドの上に無造作に放り投げた。

 まだ足りない。長谷川秀樹は毛糸の帽子を箪笥から引っ張り出した。深々と被ると目と口の部分を確認してハサミで切る。くり抜いた後で何度か調整を加え、納得すると鏡を覗き込んだ。

 これならいいだろう。いやちょっと待て。顔の輪郭が割とはっきり出ているのが嫌だな。バレるのは嫌だからもう一枚被るか……いや待てよ。それだど無駄に分厚くなるから、なら紙袋をかぶればいいか。いや、それだと防犯カメラ対策としては逆効果だ。

 結局、長谷川秀樹は花粉症対策だということで買ってあった黒いマスクを使うことにした。このマスクで顔を覆い、サングラスをすればいい。ついでに毛糸の帽子もかぶれば顔をほぼ完全に覆うことができるのだ。そうだ。

これなら特に輪郭も目立たない。インフルエンザが流行しているのだ。そうか。顔だけではなく手もなんとかしないとな。外は寒いし、寒さで手がかじかんでしまっては何もできないではないか。

 長谷川秀樹はその後もあれこれ一通りの準備をすると、それをリュックに詰め込んだ。いつも使っているリュックなのでなんの問題もない。そしてリュックをベッド脇のいつもの場所に置くと、心も落ち着いた。

 そうだ。コーヒーが飲みたいな。

 そう思いながらカレンダーを見ると、明日はちょうど金曜日で、明日なら実行にはなんの支障もない。

 できれば明日も今日のような吹雪だといいのになと長谷川秀樹は思った。だが、世の中はそう都合よくはいかないだろう。確か週間予報ではここ二〜三日は大雪だとなっていたような気がしたが、明日再度確認しなければならない。

 長谷川秀樹は急に笑いたくなった。

 はは。ははは。

 全くもって、なぜ、あんなにも思い詰めていたのだろう?

 そうだ、思い詰める必要なんてなかったのだ。

 それよりも行動した方が早い。

 そう。

 そうなのだ。これまでは全くバレなかったではないか!阿木野ビビの部屋に入ったことはバレなかった。パンティを盗んだのがこの僕であることもバレなかった。大学から毎日後をつけたこともバレなかった。

 バレなかったのだ。

 もちろんバレないように努力したし、細心の注意も払った。そしてその結果は満足のいくものだった。

 そうなのだ。バレないのだ。油断しなければバレないのだ。きっと明日もうまくいく。

 いつものように地下鉄を降りて、そしていつもの道を通る。人通りはいつもまばらで、特に阿木野ビビの住むアパートの前はいつもほとんど人が通らない。除雪されてはいるものの、雪山があちこちにできているから死角も多いし、阿木野ビビのアパートの前にもおあつらえむきの雪山があるから、そこで声をかけたら大丈夫だろう。包丁は忍ばせておくが、使わないに越したことはない。

"僕の友達もこのアパートに住んでいるんだ"と言って、阿木野ビビにキーロックを解除させて一緒に入る……いやいや待て待て。それでは僕の素性がバレてしまう。そうではなくて、最初から変装しているのだから、アパートの入り口に阿木野ビビが来た際に包丁を突きつけなければならないではないか。できるだけ姿を見られないように背後から包丁を突きつけないとな。声もできるだけ押し殺して、一言二言で済ませないとならない。「中に入れ」かな?はたまた「ドアを開けろ」かな?まあどちらかだろうな。そうして手早くキーロックを開けさせて部屋まで誘導させる。部屋に入ったらもうこちらのものだ。後ろ手にしてガムテープでぐるぐる巻きにしてついでに目隠しもすれば、あとはどうとでもなる。そうか。ガムテープも出しやすいようにしておかないとならないな。耳栓がわりの綿も用意しておかないとならない。

 おそらくはいつものコートだから全部脱がせるわけにはいかないけど、まあいいだろう。あまり乱暴にはしたくないから、あらかじめ「抵抗しなければすぐに終わる」とでも言えば大丈夫に違いない。怖がらせたお詫びに、うんと優しく愛撫してあげよう。本当はこんなことなどしたくはないが、振り向いてくれなかった君のせいなのだ。振り向いてほしかっただけなのだ……

 長谷川秀樹は気づくとベッドに横たわり、ズボンを脱いでいた。そしてそのまま自分を慰める。やがて行為が終わると、荒い息をゆっくり整えながら天井を見た。

 いつもと変わらない天井。そうだ。いつもと変わらない。明日だっていつもと変わらないさ。これまでもそうだったし、これからもそう。

 これも運命なのだ。

 こうなる運命だったのだ。

 あちらこちらに飛び散った液をティッシュで拭きとり、ゴミ箱に捨てるとズボンを履く。そういえばまだ夕食を食べてなかったな。母さんは帰ってきたのだろうか?

 長谷川秀樹が居間に行くために部屋を出ようとした時、不意に部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「ヒデちゃんいるかしら?」

 それは母の声だった。

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