8

 その知らせは突然で、長谷川秀樹は文字通り、ハンマーで殴られたかのような衝撃を受けた。

「おい聞いたか?阿木野さん引っ越したって。やっぱりなぁ。あの辺り物騒だったしなぁ」

「おい、それは本当か?」

「ああ、俺の彼女が言ってた。引っ越し先をあたしにも教えてくれなくてってぼやいてたよ。本当にいきなりだったみたいで、すげー驚いてた」

「……」

「ま、でも携帯番号は知ってるんだし、なんの問題もないけどな。俺の彼女もさ、『しようがないよね、ビビちゃんって怖がりだから』って話してた。確かに怖かったんだろうな。それに女の一人らしは危険だしな。ここだけの話、俺の彼女も引っ越したがっててさ。いい部屋ないかって言うから、じゃあ一緒にアパート借りようか?って言ったらまんざらでもなくてさ」

 長谷川秀樹は最後の惚気話には全く耳を貸さなかった。それどころではなかったのだ。湧き上がる感情が文字通り全てを覆い尽くしてしまっていた。かろうじて感情の爆発を抑え込んでいたが、身体中が熱くなることを抑えられない。長谷川秀樹のそんな状態を知ってか知らずか、滝川は飄々としている。

「けど、何も引っ越しする必要はないよな。物騒ったって、あのアパートには監視カメラだってついてるしさ。まあでも函館の実家は寺だし、なら金もあるんだろうから、この際引っ越ししようってのも当たり前っちゃあ当たり前か。阿木野さんは言ってみれば"お嬢様"って感じだろ?お嬢様の慣れない一人暮らしはやっぱり辛かったのかもな?」

「それを言うなら、どこに引っ越しても一人暮らしに変わりはないだろ?」

「それはそうかも知れないけど……よ!髙橋!こっちこっち」

 お互いに共通の友人が来たことでこの話は立ち消えとなったが、やがて一人になると、長谷川秀樹の怒りはまさに爆発した。

 なんだよ引っ越しって!俺に断りもなく!あーふざけんな!どうすんだよもう部屋に入れねーじゃねえか!ったくふざけんな!金があるからって気安く引っ越しとかしてんじゃねーぞ!ちょっと美人だからっていい気になりやがって!あー!俺の今までの努力をどーしてくれんだよ!舐めやがって!ほんとに許せねー!

 怒りはなかなか収まらない。大声を出せる場所も、ぶん殴れるモノもどこにもない。ここは街中で周りには人がいるのだ。

 長谷川秀樹は阿木野ビビに対して、初めて激しい憎しみを感じた。こんなに想いを寄せているのに、そして将来結婚する間柄なのに、それを踏み躙る行為を平気でされたのだと思うと、身体中が怒りで熱くなった。

 何か発散する場所が欲しかったが、長谷川秀樹はかろうじて我慢した。我慢したまま自分の家に帰るとそのまま部屋に籠り、ベッドに横たわって戦利品の白いパンティを見る。

 刺繍があまりなく、だからこそ地味な感じのパンティ。

 今はその地味なパンティが妙にセクシーに見える。もうこれ以外の彼女のパンティを見ることができないと思うと、長谷川秀樹から怒りの感情が失せ、代わりに悲しみが湧いてきた。

「なんでだよぉ……」

 股間のシミが落ちないように気をつけて手洗いをしていたが、今はそのシミの部分に鼻を当てて目を瞑ってもなんの匂いもしない。それでも執拗に匂いを嗅ぐ。長谷川秀樹はいつしかズボンもパンツも脱いで自分を慰めていた。

 彼らしくもない不用心さで、長谷川秀樹はパンティを自分の顔にかけて行為に没頭した。

 ふう、うぅ……う、ぅううう……

 ……

 そのまましばし余韻に浸りながら、じっとする。やがて頭の中がスッキリすると、長谷川秀樹の中では一つの思いが形になっていた。

 そうか。

 そうだよな。

 同じ学校にいる。

 なら、居場所を探せないわけがないよな。

 住所が変更されたら届けるんだし。

 どうにかしてそれを知る方法はないものか……

 いや、ちょっと待て。もっといい方法があるぞ。

 学校が終われば家に帰るんだよな。

 どこであれ、後をつければいいだけじゃないか。もう十月半ばだし、外は暗い。後をつけても目立たないはずだ。彼女は経済学部だから校舎は違うけどなんの問題もない。それに彼女は目立つ。

 そうか、後をつければいいんだ。彼女は多分地下鉄で帰るのだろう。前にそういう話を聞いた。地下鉄を使うとすれば使える駅は……三つ。とすればそのいずれかに目星をつけるという手がある。校舎内から後をつけるのはさすがに人の目があるから避けるとして、駅なら問題はないだろう。僕もたまには地下鉄を使うから、仮に滝川に見られても「今日はちょっとな」で済む。あるいは滝川の彼女経由でプレゼントを渡したいんだけど、なんて言い訳でもいいかもな。……いや、そもそも滝川とか滝川の彼女が絡むのは良くない。こういう話は必ず痕跡が残る。そしてたいていの場合はその痕跡が致命傷になる。僕が持ってきたこのパンティだって、やっぱり気づかれてしまった。やはりここは誰にも知られずに一人で後をつけるのがいいだろう。

 納得すると、ようやく汚れた股間をティッシュで拭く。拭いている間もパンティはずっと顔に乗っていたが、長谷川秀樹は気にしない。それどころか、いつもであればそのまま二回戦に突入するのに、パンティを顔からのけると、くるくると丸めてベッドの隙間に隠してしまった。その後にパンツとズボンを履くと、妙に清々しい気分で部屋を出る。階下の居間からいい匂いがしてきたのだ。

「あら、ヒデちゃん。ちょうど夕食ができたところだったのよ」母はいつでも穏やかだ。

「兄貴いたんだ?」

 妹のルイはテーブルの定位置であぐらをかいている。居間のテーブルは厚手の絨毯の上にどっかりと鎮座し、そしてそのテーブルに座る場所はそれぞれ決まっていた。テレビが一番よく見える場所は単身赴任中の父親。その右手が母。母の隣が妹のルイで長谷川秀樹は母の正面。

「なんかいいことでもあったの?」とルイ。こいつは本当に目敏いな、と長谷川秀樹は思う。

「いや別に」

「そう?いつものイケメンがよりイケメンだよ」

 へぇ、珍しいことを言うモンだな。

「そういうお前こそ今日はいいことあったのかよ」

「別にぃ」

「ヒデちゃんね、ルイちゃんったら今日、告白されたって」

「ちょっとかーさんそれは言わないでって、言ったでしょー」

「へぇ、そうなのかよ。よかったじゃん。で、どんなやつなんだ?」

「兄貴みたいな感じとは全然違うけどね。意外な感じというか、彼とは話もしたことないのにいきなりでさー」

「へぇ」

「けどやっぱりちょっとひくじゃん、いきなりって。私のこと前から意識してたんだって」

 ルイは顔を真っ赤にしている。満更でもないらしい。

「確かにすごく地味な子だけど、単に地味なだけで、頭もいいし、実はスポーツもできるのよ」

「なんか嬉しそうだな」

「別にぃ」

「でも、よかったな」

「よくないよー。本当はさー。もっと親しくしたい人がいるんだけどなー」

「あら、ルイちゃんそうなの?」と母。

「やだ、あたし余計なこと言っちゃった」

「いいのよルイちゃん。気持ちはわかるわ」

「それよか、兄貴だって最近彼女できたんじゃないの?」

「は、なんでだよ」

「普段は着ないジャケット着てみたり、この前なんて帽子かぶってたでしょ?腰にポーチとか、そんなの兄貴は絶対しないよね」

「あ、ああ、あれは」

「慣れないことすると目立つよ。兄貴は確かにめっちゃイケメンだけど、むしろダサ目のファッションが基本なんだから」

「ルイちゃん、おしゃれになることはいいことよ。ヒデちゃんも大学生なんだし、勉強ばっかりじゃなくて色々なことをしないとね」

「色々なことって何?」

「もちろん恋に恋愛に……」

「同じじゃない」

「そうね。ってかかーさん、これ何?」

「これはカレイの煮付け。この前も食べたでしょ?」

「そうだっけ?」

「近くのスーパーで安かったから買ってきちゃった」

「そうなんだ」

「そういえばね、最近は札幌にも外国の人がたくさん来るでしょ?そのスーパーにも外国人がいてね」

「へぇ。それって何人?中国人?」とルイ。

「違うわよ。あれはそうねぇ、白人だったからアメリカかヨーロッパの人じゃない。金髪でね」

 長谷川秀樹は条件反射的に反応してしまう。

「それってどんな感じの白人?」

「女の子で、髪が長くて綺麗な感じで……」

「目の色とかは?」

「うーん、そこまでは見てないわよ」

「なんか他に特徴とかあった?」

「ヒデちゃんたらやーね。そこまでジロジロと他所様を見ないわよ。失礼でしょ」

「そうよ。ってか、兄貴はそういう系が好みなの?」

「は?」

「あっち系はおっぱいだってでっかいし。ってか兄貴って自分がモテてるの気づかないし"女なんてみんなうぜータイプ"だと思ってたんだけど、実はそっち系が好きなんだ。へぇ」

「違うだろ」

「はいはい。ってか実は兄貴って変態だよね」

「はぁ?」

「あたし、知ってるんだ。兄貴って本当はおっぱい好きでしょ?」

「別に」

「あたしももっとおっぱいあればなぁ」

「なんの話をしてんだよ」

「おっぱいの話に決まってるじゃない」

「いやだから……」

「ルイちゃんて、そんなこと気にしてたの?かあさん知らなかったけど」

「別にぃ」

「気にしてるだろ。ってか、おっぱいなんてあってもなくてもいいだろ」

「そんなことないよ。やっぱりあればいいよ」

 妹のおっぱいなんてどうでもいい。それよりも大事なのは母の目撃情報だ。

 母が見たのは阿木野ビビなのか。それはわからないが、もしもそうなら、阿木野ビビはこの近くに引っ越してきた可能性がある。となると通学経路が限定される。まさに朗報だ。一方では別人である可能性―もちろんこちらの方が可能性としては高いが―もあり、だからこそ更なる情報が必要だった。

「けど、確かに最近外国人が多くなったね」

「そうそう。母さんの時なんてそんなにいなかったんだけど」

「大学にも結構いるよ。まああちこちから留学で来てるんだろうけど」

「近くのスーパーなんて外国人は見たことなかったんだけど、今日買い物に行ったらたまたま見かけたのよ。あれ、こんな若い子もいるんだなぁって」

「でもさ、外国人ってさ、なんか違うよね」

「わかるわ。なんか違うわよね」

「目立つってかさ。おっぱいだってボーンだし」

「ちょっとルイちゃん、それははしたないでしょ」

「ってかさ、やっぱり兄貴は金髪巨乳の白人が好きなんだね。変態だね」

「なんでだよ!」

「あーあ。いい女ならここに二人もいるのになぁ」

「はぁ?」

「かーさんは美人だし、私は若いし。どう?」

「どうって、何がどうなんだよ」

「女としてどう?ってこと」

「はぁ?」

 意味がわからない。仮にも母さんはその気になればモテるとは思うが、妹は論外だ。それよりも近所のスーパー。長谷川秀樹は明日以降、しばらく近所のスーパーに行くことを決めた。もしも母が目撃した人物が阿木野ビビ本人なら打つ手はある。何よりも阿木野ビビは運命の人なのであって、ならばこういう偶然は起こり得るハズだ。何気ない出会いを装って、彼女と親しくなれるチャンスではないか!彼女の新しい部屋に侵入するよりもこっちの方がずっといい。

「かーさん、兄貴ってば、こんな美人が二人もいるのに無視してるよー」

「あらあら」

 長谷川秀樹は妹のこういう部分が嫌いだ。面倒臭いのだ。というか、女ってものが面倒臭い。もっとこう……

「もっとこう、妹に気を遣ってほしいよね」

「はぁ?」

「まあいいけどね。ご馳走様」

 妹は長谷川秀樹が言い返す前にサッと居間からいなくなる。

「……なんだ、あいつ」

「ルイちゃんはもっとヒデちゃんと仲良くなりたいのよ」

「仲良くって、兄妹だから仲良くも何もないと思うけど」

「そうね。けど、ほら、今日ルイちゃん告白されたって言ってたでしょ?」

「ああ」

「アドバイスとかほしいんじゃないかな。やっぱりそこはヒデちゃんに頼りたいというか。男の子のことはルイちゃんわからないだろうし。私もわからないし」

「……そういうのは苦手だよ」

「誰だって苦手よ。けど、だからこそ頼りたいんじゃないかな?」

「ふーん」

「ルイちゃんね、ヒデちゃんのおかげで苦労してるのよ。ヒデちゃんに手紙渡してくれとかプレゼント渡してくれとか、そういうの頼まれてすごく困ってたのよ。今はヒデちゃんは大学生になったからそういうのなくなったみたいだけど、頼まれたけどどうしようっていつも母さん相談受けててね」

「……」

「そのことで友達と揉めたこともあったみたい。だからね。ヒデちゃんも少しはルイちゃんの気持ちを察してあげてほしいの」

「気持ちって……」

「兄妹なんだから、一緒に出かけてあげるとか」

 こういう面倒が長谷川秀樹は嫌いだ。察するなんていうのも面倒だ。なんだよもう、一緒に出かけるって、どこに行けばいいんだよ。

 僕には僕の時間があるっつうの!

 しかし、そんなことは思っていても口には出さない。代わりに、

「わかったよ」笑顔で言う。

「ありがとう」と母は応じた。

 長谷川秀樹は母を美人だと思う。特にありがとうの笑顔はすこぶる美人だ。芸能界でも通用するんじゃないかと思える美貌なのだ。長谷川秀樹は一度面と向かって聞いたことがあるが、母の答えは明確だった。

「スカウトされたことがないとは言わないけど、目立つのが嫌いなのと、父さんがいたから」

 長谷川秀樹はそんな母親の美貌を受け継いだ。小さい頃から「めんこい」と言われ続け、学校に入ると「イケメン」になった。本人は全く気にしないのに周りは騒ぐ。それが嫌で、あえて男臭い剣道部に入部した。武道館はおいそれと女が近寄れる場所ではないのだ。しかしクラスルームは別で、好奇の、あるいは憧れの視線を浴びまくることとなった。幸か不幸か勉強もできたため、嫌でも目立つポジションになってしまう。いい気分ではなかった。

 滝川という親友がいなければどうなっていたことかと長谷川秀樹は思う。目立ちたがりで明るい裏表のない性格の滝川とは最初から馬が合った。滝川は兼業農家の長男坊だが、何をするにも一生懸命で、いい意味で周りを気にしない。長谷川秀樹はその性格を羨ましく思った。

「いいんだよ。気にすんな」

 滝川のこの言葉に何度励まされたことか。そういえば阿木野さんとの出会いも滝川がいなければなかったのだ。

「お前って本当にいーやつだよな」

「よせよ。俺は楽しんでるだけだよ。お前もいいやつだろ」

 そうだ。僕も楽しむのだ。人生を。彼女との出会いを。そのためにはまず彼女のことをもっと知ることが肝心なのだ。

 母の目撃情報を無視するわけにはいかない。まずはそこからだ。

「ところでヒデちゃん、ちょっといい?」

「ん?」

「実はね……私のパンティがどこにも見当たらなくて……昨日物干し台で干してたんだけど……」

「僕じゃないから!」条件反射的に長谷川秀樹は答えてしまう。

「わかってるわよ。けど嫌ね。全く誰かしら」

「ここの庭って道路から近いし丸見えだし、そんなとこに干しとくのが悪いんだよ」

「ついうっかりね。ちゃんと隠したつもりだったんだけど。それに白い地味なやつだったし」

「変態はそういうのが好きなんだよ」

 長谷川秀樹は真顔でそう言った。

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