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長谷川秀樹はいつものごとく監視カメラの死角を利用してゴミ集積場のあるドアから建物内に入る。中はひんやりしているが寒くはない。正面入り口脇にある階段を二階まで上がると、今度は通路を一番奥まで進んでから非常階段を使って四階まで上がった。
目的の部屋の入り口玄関まで来ると、おもむろに鍵を取り出して鍵穴に差し込む。
鍵はすんなり入ってスムーズにドアが開いた。差し替えられてはいなかったのだ。サッと中に入ると素早く、しかし慣れてた手つきでドアを閉めてロックする。ここまでは誰にも見られていない。もちろん室内には阿木野ビビがいないことも確認済みだ。
さすがに今回は緊張した。それだけにふーと息が漏れる。見ると、まだ靴紐の切れた靴が無造作に置いてある。そこまでお気に入りの靴ではないんだな。
箒でサッと掃いてから集めたチリをトイレに流す。何度もやっているだけに淀みない動作だ。その後で靴をベランダに持っていった。
「そうかぁ」
思わず声が出る。前回はこのベランダの鍵を閉めた……と思っていたのだが、閉め忘れたんだな。今回は忘れないようにしなければならない。
長谷川秀樹は携帯電話のカメラで写真を撮る。今回は入念に撮った。撮りながら事細かに確認する。特に「モノの位置」にはこだわった。少しでもずれてはいけないのだ。すでに手にぴたりとフィットするゴムの手袋をつけているので指紋の心配は全くない。むしろ、指紋が目立つ場所はないかを執拗に調べた。プラスチック素材のモノは指紋が目立ちやすい。また、凹凸のないのっぺらしたモノもやはり指紋が目立つものだ。カラーボックスはしっかりと確認して、いつものシートでしっかりと拭く。そういえば洗濯機は上の蓋しか拭いていなかった気がするので、今回は拭ける部分を全て拭いた。この日のために用意した腰の位置で固定するポーチにあれこれ詰め込んできたが、その中にはメガネ拭き用のシートも大量に詰め込んでいた。とにかく指紋はどこについているのかわからないから、誰の指紋であってもとにかく消すと決めていたのだ。ひたすら丹念にあちこち見て周り、そして証拠隠滅作業を淡々と行う。長谷川秀樹はこの手の単調な繰り返し作業を苦に思わないどころか、なんならずっとしていられるというちょっとした自信があった。単調な中にも変化が欲しいのは事実だが、逆に単調なものには必ずちょっとした変化があることも知っていて、その変化があるときには思わず嬉しくなる。今回のそのちょっとした変化はメガネだった。
テーブルの上にフレームを畳んで置かれていた四角いメガネに、はっきりと指紋がついていたのだ。
「あれ、今日はメガネして行かなかったのかな?それとも他にもメガネを持ってるのかな?」
考えてみたら、阿木野ビビがメガネをいくつ持っているのか、長谷川秀樹は知らなかった。そういうことには興味がなかったからだ。そもそも長谷川秀樹はこの部屋をそこまで物色していなかった。パンティやブラジャーには興味があったが、通帳やら現金などには興味がなかったし、アクセサリー類にも無関心なら、冷蔵庫の中身にも興味がなかった。目的はあくまでも阿木野ビビ本体とその付属物なのであって、具体的には性、つまり体そのものと下着類、そして彼女が興味を持っているであろう本や映画の類だ。
メガネは確かに彼女の付属物だが、性を感じさせるものではない。とにかく"性"が重要なのだ。
長谷川秀樹はメガネを見ながら思案した。そして写真を撮った。撮影された画像を何度も見たが、指紋は映っていない。
「うーん」
やっぱり無理か。このカメラでは指紋は写せない。単純に窓の近くにメガネを持って行き、そこで写せばいいのかもしれないが、今回はできる限り余計なことはしたくない。悩んだ挙句に撮影を断念した長谷川秀樹は、メガネの指紋を丹念に拭き取ると、元の位置に丁寧に置く。
腕時計を見ると、室内に入ってからすでに一時間半経過していた。
彼女は大学に行っているからまだまだ時間はたっぷりある。しかし、部屋での動きには制約がある以上、長くいるのはリスクが高い。
やることを一通り終えると、長谷川秀樹は「ふー」と一息ついた。
どうしてもしておきたいことがあった。そしてそれは絶対に気づかれることはないであろう安全牌でもあった。安全ならばやらない理由などどこにもない。それに、やらなければのちにものすごく後悔することもわかっている。
長谷川秀樹は脱衣室に向かった。そして先ほど丁寧に拭いた洗濯機の蓋を開ける。ゴム手袋のまま洗濯槽に手を入れて中を物色すると、やはり中には脱いだ服と下着が入っていた。下着はパンティが二枚とブラジャーが一枚。ブラジャーは洗濯ネットに入っていて、ネット越しからもパンティとセットになっているのがはっきりわかる。となると、当然パンティ一枚が余るが、ほんの少しだけ温かいことから、脱ぎたてのこの一枚は出かけ前まで身に付けていたのだろう。そして柔らかい桃色の生地に上品で丹念に刺繍が施されたセットの下着は、昨日身につけていたに違いない。見覚えのあるジーンズが洗濯槽に入っていたことからも、それが一番自然な考え方なのだ。
そうかぁ。昨日はこんな下着を身につけていたのか……
長谷川秀樹は昨日のことを思い出した。阿木野ビビとはあまり会話ができなかったが、その美貌は目に痛いほど焼き付いている。端正な横顔。流れる金髪。甘美な匂い。
長谷川秀樹は喘ぐような呼吸になり、股間がものすごく熱く、そして固くなった。辛抱たまらない。すぐにでも自分を慰めたい。
しかし、それでも彼は手順を守る。ポーチから大きな風呂敷を出すと、それを床に敷き、そしてその上に衣服を脱いで置いた。今回はちゃんと帽子もかぶっていたが、それは脱がない。これらの行為は髪の毛を残さないために必要なことなのだ。
素っ裸になると、浴室のドアを開けてからゴム手袋を脱ぐ。そしてブラジャーとパンティを持って浴室に入った。浴室は当然濡れている。阿木野ビビは朝にシャワーを浴びるのだ。なのでここなら証拠は何も残らない。思う存分自分を慰められるし、出たものも洗い流せる。
長谷川秀樹は立て続けに二度も自分を慰めた。そしてそれでも興奮は収まらなかった。昨日の阿木野ビビ、そして彼女がその時身につけていたであろうパンティとブラシャーが目の前にあるのだ。思う存分股間の匂いを嗅いだり、頬擦りしたり、舐め回したりしたいではないか……
湧き上がるものを抑えることなど到底できない。長谷川秀樹は全てを忘れて没頭した。
どの程度の時間が経ったか。
ようやく興奮が収まり、疲れも感じたので、長谷川秀樹は浴室から出ることにした。一瞬だけ、誰かが浴室のドアの向こうに立っているような気がしたが、これはドラマではない。そう簡単に波瀾万丈など起こらない。
パンティとブラジャーを洗濯機に入れると、濡れた足はいつものようにシャツで拭き、そして靴下を履く。あとは流れ作業だ。しっかりと着替えると、新しいゴム手袋を付けてから風呂敷を畳んでポーチに入れる。そうだ!ブラジャーはネットに入れてからでないと!その後はいつものようにシャツで下着を隠せば万事問題なしだ。そして洗濯機の蓋を閉めるとさっと脱衣室を出た。少しだけ股間が痛いが、使い過ぎが原因だとわかっているので気にしない。
長谷川秀樹は室内を再確認することにした。ダブルチャックともいうが、本来であれば二人でする作業を一人でやらねばならない。時間を空けてチェックすることでより確実性が増すことを知っていた長谷川秀樹は、だからこそ念入りにいじった場所、拭いた場所など、思いつく限りの場所を再確認して回った。
よし……
これ以上することはない……
したいこともしたし、満足できる状態にもなったと思う。合格と言っていいだろう。
とりあえず、今日はこ
ガチャガチャ
まさに心臓が口から飛び出すのではないかと思った。と同時に素早くベランダに向かう。一瞬の躊躇も許されない。確認してはいけない。こういう場合はとにかく動くしかない。開閉音よ鳴らないでくれ!と思いつつ窓を開け閉めし、靴を履いて、隣のベランダに移った。室内に入ることはできない。その後すぐにベランダのドアが開く音。
長谷川秀樹は体をベランダに設けられている敷板にくっつけてじっとしていた。鼓動がものすごい。呼吸を抑え込んでいることでさらに鼓動は激しくなる。
頼む!バレるな!
隣の、すなわち阿木野ビビの部屋のベランダには明らかに誰かがいた。それどころか声も聞こえる。
「なんでだろう?閉め忘れたのかな?」
え、男?
それは男の声だった。
どういうことだ?
長谷川秀樹は混乱した。なぜ男が彼女の部屋に入ってきたのだ?
「うーん」
男は何やら考え込んでいるようで、その場からなかなか動こうとしない様だ。
長谷川秀樹はなおもじっとして様子を伺う。ひょっとしたら、彼女の感じた違和感はこの男のことを指しているのかもしれないと思った。この付近には変態が出没するという話。長谷川秀樹はそのことを思い出していた。そうか。そうかもしれない。だとすると、こいつのせいで僕のことがバレるかもしれない。とばっちりというやつだ。
長谷川秀樹は怒りにも似た感情が湧き上がった。自分のことはさておき、勝手に彼女の部屋に侵入するのは許せない。
どうにかしてやらないとならない。
しかし、その思いはいとも容易く打ち砕かれた。何かをトントンと叩く音の後で、
「あ、もしもし、ビビかい?」
男は電話していた。しかも相手は阿木野ビビ本人らしい。
「……そう。今ちょうどビビの部屋にいるんだけどさ。ところで今は学食かい?電話しても大丈夫だったかな……そうか。ところでベランダの鍵だけど、やっぱり空いてたよ」
どうやら男は事情をあれこれ知っているようだ。
「そうそう。隣って誰かが住んでるんだよね……まあ人がいるなら覗くのはまずいか。けどここって確かに視界が悪いというか、わりと死角だね。木がすごい邪魔だし。悪い奴ならこのベランダを使って移動しそうだ」
そうか。状況を確認しているのか。
「うん、うん……なるほどわかった。でもさ、本当にいいの?」
何が本当にいいんだろう?
「僕は構わないけど……」
なんの話なのか気になる。長谷川秀樹は声に集中した。
「いいよ。今日は仕事休んだし、部屋の中はざっと見てみるけど、多分大丈夫じゃないかな……あ、……場所はビビに任せるよ」
一緒にどこかに出かけるのか?何やら随分と親しい仲のような……
不意に窓が閉められ、ロックする音、カーテンをひく音が聞こえた。それ以上は何も聞こえない。
長谷川秀樹はもう少しだけその場に留まりじっとしていたが、やがて動き出した。もちろんこの部屋のベランダから室内には入れないが、実はこのベランダのすぐ脇には窓があり、それが各階をつなぐ階段に接していたのだ。長谷川秀樹はあらかじめその窓の鍵を開けておいていたが、閉められることはなかったようで、今回それが役に立った。難なく階段に到達すると、ゆっくりと階段を一階まで降り、そして例の通路を通りゴミ集積場の入り口から外に出る。
曇り空の天気は間もなく雨が降りそうだったが、長谷川秀樹はアパートから立ち去るつもりはなかった。アパートの入り口を見ると車はない。とすると駐車場の方か……
長谷川秀樹は確認したかった。言い換えるなら、確認するまではこの場を離れるわけにはいかなかった。このアパートの出入口は二箇所ある。正面入り口、そしてゴミ集積場につながる勝手口だ。おそらくさっきの男は正面入り口から出てくるだろうと判断した長谷川秀樹は、道路をさりげなく横断して反対側にあるバス停に立つと、時刻表を見るフリをしながらアパートの正面入り口を見た。
どのくらいそうしていただろうか。
はたして、一人の男が入り口から出てきた。長谷川秀樹は驚いた。見覚えがある男だったのだ。向こうは全く知らないだろうが、こちらはあんたを知っているぞ。
その男は、阿木野ビビの部屋にあった写真に写っている男に間違いなかった。こうして見てみると、太っているというよりはガタイがいいと言い変えた方がいい。優しい顔立ちで、いかにも漫画やアニメに出てくるような「気は優しくて力持ち」「五人の戦隊ヒーローモノなら間違いなく黄色担当」といった風貌だ。
そうか、父親が来たんだ……
彼女は父親に相談したんだな。そりゃあそうだ。こういう話はまず最初に父親に相談するもんな。
長谷川秀樹は納得した。父親が出てくるのは当然のことだからだ。警察までとはいかないが、なにかがおかしいという時にはまずは父親だよな。
娘に相談されて心配になったんだな。函館からわざわざ来るなんていい父親なんだな。 けれど、考えてみたら父親も大変だ。あんな美人の娘、おそらくは連子だと思うけど、あんな美人が自分の子供になるなんて、どんな気持ちなんだろうなぁ。
僕なら辛いな。赤の他人なのに自分の子供だなんて。けど、子供があんなにも美人なのだから、実は母親も相当美人なのかもしれない。とすれば、案外辛くはないのかもな。
美人親子と家族になる。悪くない話だよな。それになんとなくだけど、外国人なら性にも大らかな気がするし。それとも逆に厳しいのかな?その辺りはよくわからない。海外ではフリーセックスなんて言うけど、実際のところはどうなんだろう?
まあでも彼女はエスエム漫画を読んでるくらいだから、セックスは嫌いじゃないだろう。室内の様子からしてまず相手はいないと思うけど、チャンスがあればセックスだってしたいはずだ。僕ならすぐにでも期待に応えられるのなぁ。
なんでも女性の快楽は男性の十倍以上になるという。ならば、ますますチャンスを探していることだろう。十分の一の快楽しか得られない男ですらものすごいのに、この十倍ともなったらそりゃあ病みつきになるに違いない。そんな快楽を是非とも彼女に与えてあげたいものだ。それに頭のいい女性は早熟だというではないか。そういう女性はきっかけさえあれば化けるのだ。
長谷川秀樹は阿木野父を見送ると、そのまま自分も歩き出した。気がかりな点はあった。自分は彼女の父親が来る前に浴室を使っていた。ということは、その痕跡、具体的には湿気と熱が浴室にはまだこもっていたのだ。これは致命的に思えた。
が、もしもそれに気づいたなら、間違いなく警察を呼ぶだろう。しかしまだ警察は来ていない。それどころか通報したのなら、父親は部屋から出てくるはずがないではないか。
長谷川秀樹は確信した。バレなかったのだ。それならそれでいいのだ。目的は済んだことだし、このまま帰るのだ。大丈夫なのだ。そしてこの安心感は長谷川秀樹のある思いをますます強固にした。
これは運命なのだ。
いつかは彼女ともつながるのだ。
僕のこの行為が彼女にバレるのはまずいが、事前に僕が相手を知っておくのは問題ない。それどころか、むしろあれこれ知っておいた方がいいのだ。なぜならこれは運命なのだから。彼女のためにも彼女のことをより多く知っておくべきなのだ。
いずれはちゃんと出会い、そして付き合い、結婚する。ならば相手をより早く知っておくことは大事なことであり、今はそのための準備期間に過ぎない。とはいえ、知りすぎるのも良くはないから、そこは抑えているつもりだ。たとえば金銭問題なんて、学生の彼女にはあろうはずがないが、室内を見る限り金使いは荒くはないだろう。むしろ控えめだししっかり貯蓄できるタイプだと思う。おそらく僕と彼女の金銭感覚は似ているだろうから、結婚してもその方面での苦労はないだろう。むしろ医者の妻として、彼女は安定した暮らしが約束されている。いいことじゃないか。
長谷川秀樹は帰りの道すがら、このような妄想を心ゆくまで楽しんだ。
彼女の父と遭遇しそうになったことはなんとも思わない。なぜならバレなかったから。運命だから。ちゃんと会わないようになっているのだから。適度な緊張感はむしろ身が引き締まるし、自分のためにもなる。
次の"訪問"も楽しみだ。いつにしよう?来週?それとももう少し日にちを空けようか。
彼女の部屋のカレンダーによると、再来週の日曜日は予定が入っていた。「お出かけ」と書いてあったから、おそらくはまた父親と出かけるのだろう。
チャンスが来るのをじっと待つ。
そう。待てば必ずチャンスがやってくるのだ。
地下鉄駅を降り、少しだけ長い距離を歩きながらもまだ妄想は続いていた。そうだ。やっぱり盗聴器やカメラはいるな。おいそれとは手に入らないと思うが、詳しい奴はいるだろう。インターネットで調べればわかるかもしれない。家にはパソコンはないが、大学に行けばあるからそれを使おう。
個人の妄想は誰も止めることができない。そして止められないからこそ膨らむ。誰かが「それはおかしい」と言えば止まるのかも知れないが、個人の妄想に他人が入り込む余地はない。
もちろん、妄想は個人の自由なのであって、妄想のままなら何も問題はない。しかし、長谷川秀樹はこの妄想を強化することのできる成功体験を得ていた。さすがに今日は危うい橋を渡ったが、それも含めて、今までは全て成功と言えた。うら若き女性の部屋に入ることは誰にでもできることではないし、それだけにとどまらず、やりたいことをやれるのは、間違いなく素晴らしい成果だ。この素晴らしい成果をこれからも受け取りたいし、受け取るつもりだ。そのためにはさらに強力な情報収集が必要なのであって、そのためにはどうしても盗聴器やカメラが必須なのだ。
長谷川秀樹は思う存分妄想に耽る。家に帰ってからも楽しい時間は続いた。そうなのだ。今の彼は無双状態なのだ。
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