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 玄関に入ってドアを閉め、鍵をかけると、長谷川秀樹はまず玄関の写真を撮った。紐が切れてるシューズが一足あったが、それには一切触らない。

 靴の紐が切れるなんて不吉だよなぁ……

 心の中でそう思いつつ写真を撮り終えると、収納棚から箒とちりとりを取り出した。もう勝手はわかっている。何がどこにあるのかもお手のものだ。長谷川秀樹は靴を脱ぐと底面を見て汚れがないのを確かめ、それでもいつものように靴の底を箒でさっと撫でると、紐の切れてるシューズを避けるようにして玄関も掃いた。掃いたところでほとんど何も出ないが、それでもやるべきことをやらないと気が済まない。無理やり集めたちりは玄関を上がってすぐのトイレに流した。その後、いつもの場所に箒とちりとりを戻し、脱いだ靴をベランダに運ぶ。この部屋にはベランダが二箇所あって、そのうちの一箇所はうまい具合に木が邪魔をして隣接するアパートやマンションからは目立たず、道路からも目立たない位置にあった。ついでに言うなら隣の部屋には人が住んでいないことも確かめていて、まさに好都合な"逃走経路"なのだ。長谷川秀樹はいつものごとくそのベランダに靴を隠す。これでよし。すると今度は携帯電話のカメラで室内を撮影し始めた。どこに何があるのかを暗記するより、写真を撮った方が早いし確実だ。経験から学んだ長谷川秀樹は、時間をかけてじっくり撮影し続けた。うっかり何かを動かしてしまうことはあり得ることで、その時のためにどうしても記録することが必要なのだ。特にソファの上、テーブルの上は細心の注意が必要だった。ひょっとしたらそこまでやらなくていいのかもしれないが、いつの場合であっても「万が一」ということはある。今の長谷川秀樹にとって、その万が一は致命傷になりかねないのだから、そこは否応なく慎重にならざるを得なかった。帰る際には完璧に現状復帰しなければならない。怠れば人生がおしまいになってしまうかもしれない。

 しかし写真撮影の目的は何もそれだけではなかった。写真を撮りながらいろいろなことに気づくのも醍醐味の一つだった。

 今日はテーブルの上に旅行雑誌が置いてあり、見ると特集ページが開かれている。どうやら出かける直前まで見ていたらしい。さっきアパートの入り口で見かけた時、旅行バッグなどの重い荷物は持っていなかったことを考えると、今日は日帰りで、ならば行ける範囲は限られている。そしてこの雑誌のページから推測すると、どうやら支笏湖に出かけたらしい。

 長谷川秀樹は微笑んだ。父と娘の日帰りデートという構図はいかにも微笑ましいものだからだ。ふと思い室内を見渡すと、いつものごとくカラーボックスの上に、父と娘の二人が並んで写っている写真を収めたフォトスタンドが立っている。写っている場所はよくわからないが、岬であることは確かだろう。その岬を背景に親子二人が並んで写っているのだが、お世辞抜きによく撮れているなぁと思う。

 父親の方は黒く短い短髪で太い縁の丸メガネをかけ、いかにもおじさんといった感じに太っているが、見た目は若く、まるで住職には見えない。タンクトップが妙に似合っているが、おそらくは隣に写っている娘がプレゼントしたのだろう。

 娘の方はというと、先ほど車に乗り込んでいた女性と同一人物で、長い金髪に四角い縁のメガネ、赤いシャツといういでたちだが、はっきり言うならかなりチグハグだ。折角の美貌が台無しと言ってもいい。長谷川秀樹はこの赤いシャツと同じシャツを知っていた。シママチで売っている安物のシャツで、友人の母親が着ていたのをはっきりと覚えていた。金髪の美女がなぜこんなシャツを着ているのかはよくわからないが、本人が選んで着ているのだとしたら、そのセンスを疑わないわけにはいかない。ファッションに疎い長谷川秀樹ですら疑問に思うコーディネートだった。

 ところで、写真を見ただけでは二人の背景はわからないが、はっきりしていることが二つある。この女性はどこからどう見ても白人で、隣に写っている男性はどう見ても日本人。しかもこの二人の間には明らかに大きな年齢差があるということだ。

 最初にこの写真を見た時、長谷川秀樹はあれこれ悩んだ挙句にこの二人を「親子」だと判断したのだが、その理由は歳の差以外にもあった。

 というもの、どう見ても彼氏彼女の関係には見えないのだ。さりとて、この娘がこの男性の愛人だとも思えない。愛人ならもっとおしゃれな服を着せるだろうし、もっと派手にするはずではないか。美人の愛人に、シママチのいかにも安っぽい服を着せるなどという成金親父なんていないだろう。そもそもこの男性は成金親父には見えない。

 長谷川秀樹は事前情報として、写真の娘は函館にある寺の娘であるこということを知っていた。ならばプライベートの塊である自分の部屋にあるこの写真の男性は父親であると考えるのが当たり前のことなのだし、であるなら写真の男性は寺の住職だと推測するのも当然のことだ。しかしそれにしては全く似ていない二人なのだが、この娘は連子だと考えると辻褄が合った。細かなディテールはわからないが、寺の住職と外国人が結婚してはいけないというルールはないはずだ。結婚相手にたまたまは子供がいたとしてもなんの問題もない。

 しかし、本音を言うなら、長谷川秀樹は娘の素性についてはそれほど気にしていなかった。なぜなら長谷川秀樹の目的はあくまでもこの娘の素性ではなく本人そのものだったからだ。境遇なんてどうでもよかったのだ。

 境遇なんて人それぞれ。そんなことより彼女は頭がいいし、信じられないくらいに美人だ。最初に会ったその日から、長谷川秀樹は文字通り"彼女の虜"になってしまったのだ。

 全ては友人の滝川隆二の何気ない誘いから始まった。

「俺の彼女の友達なんだけどさー」

「え、お前ってもう彼女作ったの?」

「いやぁ、たまたまさー」

「で、彼女の友達がなんだって?」

「おいおい。そこはそうじゃなくて、まずは俺の彼女の話を聞くのが先だろ?いやぁ、実はさ、その時たまたま学食で隣に座っててさー」

「ふーん。わかった。で、その彼女の友達とも知り合って、実はそっちの方が好みで失敗したなぁって話か?」

「おいおいなんで分かるんだよ?」

 滝川と長谷川秀樹は小学生から付き合いだ。お互いに示し合わせたわけではないが、結果としては義務教育期間も、部活も、そして大学に入ってからも同じような人生を歩んできている。そのうちの何年かは同級生だったりもしたし、そうでなかった時もある。お互いに剣道部のレギュラーだった時もあれば、補欠だった時もある。今は同じ大学の医学部の学生だ。

 少しだけ深入りするなら、実は滝川が行く方向に"なんとなく"長谷川秀樹が合わせてしまっていた感は否めない。長谷川秀樹には別にこれといった目標はなかったが、滝川にはそれがあったからだ。

「俺は医者になりたい!」

 小学生の頃、早くもそう宣言していた滝川に対し、長谷川秀樹は内心「すげーやつだ」と思っていた。

 滝川は天才タイプでも秀才タイプでもなく、家が医者というわかりやすいパターンの家庭育ちでもなかった。家は農家で自身はミーハー。女の子が好きで騒ぐことも好き。流行に背を向けたことはほとんどなく、体を動かすことも好きで、人の集まる場所の中心、あるいは中心から限りなく近くにいたがるようなタイプだ。

 けれどもただ単に享楽志向かと言えばそうでもなく、滝川は努力の人だった。やるときは全力。頑張るときは100パーセント。わかりやすいといえばわかりやすいし、単純だとも言える。が、他人がそれを真似できるかといえばなかなかできない。

 滝川という人間は、長谷川秀樹にはなんとも魅力的な人物に思えた。一言で言うならいいやつなのだ。

「お前ってさ、本当にわかりやすいよな」

 長谷川秀樹はいつもそう言ってにやにやする。しかし滝川は別に気にしない。それどころか滝川本人がこの掛け合いが続く流れを好んでいる。それがいつものパターンだからだ。

「あーそうかいそうかい。せっかくいい話を持ってきてやったんだけどなー。じゃあもう教えなーい」

「え、なんだよそれ!いい話ってなんだよ」

「聞きたいか?」

「決まってるだろ」

「しっかたねーなー。けど長谷川さー、言っとくけど、お前、俺に感謝しろよ」

「なんだよいきなり」

「いいんだよ。どうせお前は俺に感謝するんだから」

「なんだよそれ。ってかもったいぶんなよ、話せよ」

「わかったわかった。実は俺の彼女の友達ってさ、お前のいう通り美人なんだよ。しかもめっちゃ美人。俺、実際に見てびっくりしたからさー」

「そんなにか?」

「いやもうものすごいのなんのって。特に胸とかもうこーんな感じだし」

 滝川は自分の胸の位置で大きなお椀をなぞるような仕草を見せるとすかさず長谷川秀樹がツッコミを入れる。

「それかよ!」

「いや、お前さー話は最後まで聞けよ。なんとその友人って、本物の白人でさー」

「白人?」

「俺さー、初めて間近で白人を見たさ。いやもうすごいのな。どんだけ白いんだよ!って感じで」

「そりゃあ白人なら白いだろ」

「話の腰を揉むなよ。……あれ、折るな、だっけ?まあいいや、とにかくすげー美女なんだよ。しかも金髪だしさ。キラキラって光っててすげー綺麗なんだぜ!本物の金髪はやっぱ違うよな。けど相手は外人だろ?英語とか全く思い浮かばなくて、それで話しかけることもできねーとか思ってたら、相手は日本語で挨拶してきてさ。なんでもずっと日本に住んでるから日本語しか話せないって」

「へー、なんかひょっとして複雑な家庭って感じのやつか?」

「それがそうでもないらしいぜ。寺の娘ってことで、なんかこう姿勢もしゅんとしてて綺麗だし」

「寺?……の娘?」

「俺も彼女の話を聞いててよくわからなくなったんだけど、けど函館のそれなりのでっかい寺の娘だってさ。寺の名前はなんて言ったっけなぁ……忘れた。けど確かに言われたら、なんか全然派手じゃないし、着物似合いそうっていうか……とにかくものすげー美人なんだよ。ここだけの話、ちょっと後悔したよ。だって白人だぜ?こっちと付き合いたかったなぁってな」

「……あのさ、お前さ、それは自分の彼女に失礼だって思わないか?」

「だからここだけの話って言ってんだろ。それにもう諦めてんだから」

「マジかよ。ってか、お前実はその美人に全く相手にされなかったんだろ?」

「違うって。俺には彼女がいるから諦めたって言ってんだろ」

「わかったわかった。……でだ、結局何の話なんだ?その美人が彼氏募集中とかって話なのか?」

「いや、そこまではわかんねーんだけど、実は昨日さ、俺の彼女が『今度その友達連れてくるから、誰かいい人いたら四人でどっかに行かない?』っていきなり言ってきてさ。もちろんいきなりだから普通なら『そういう話はもっと先に言えよ』ってことなんだけど、とにかく俺はもう勝手に決めてきたぞ。わかった、次の日曜に四人で出かけよーって。というわけで、俺の彼女は友達に話をつけるし、俺は俺でお前に話をつけるってことで決めたからな。いいよな?もちろん来るだろ?予定とかないよな?」

「ないけど、本当にいきなりだな」

「思い出した!その白人の名前は阿木野ビビっていうんだけど、その阿木野さんに会いたいだろ?」

「まあ、そんなに言うなら見てみたいけど」

「じゃあ決まりな!」

「おう……」

 そして日曜の朝。

 長谷川秀樹は自宅前で滝川のド派手な赤い車に拾ってもらうと、既に助手席には滝川の彼女である岸辺薫子が乗っていた。滝川の彼女に会ったのはこれが初めてで、いかにも滝川好みだと納得。一見派手だけど、ちゃんとしてる女って感じは悪くない。その女はこう言った。

「ビビちゃんてすごくシャイだけど、本当に可愛いし性格もいいから期待して。あ、ビビちゃんのアパートってここここ!ちょっとこの辺りに車止めて待ってて」

 岸辺がいなくなると、滝川は自慢げにこう言った。

「いい感じで可愛いだろ?」

「そうだな。美人だよな」

「だろ?俺って幸運だよ。けどお前だって今に驚くから」

「だといいけど」

 しばらくして岸辺薫子が友達を連れて戻ってくる。遠くからでもはっきりわかるその友達を見て、長谷川秀樹は文字通り衝撃を受けた。

 滝川の話は誇張ではなかったのだ。それどころか……


 全然表現が足りないじゃないか!

 

 なんというか……

 何かを頭に撃ち込まれたかのようなショック、と言うのが一番近い表現だろう。

 岸辺薫子の友達としてやってきた阿木野ビビは、およそ美人などというスケールで測れるような女性ではなかったのだ。いや、そもそもどう表現していいのかまったくわからなかった。美人"すぎる"という表現はあまりにも陳腐すぎた。

 白い、のではなく透明感のある煌めく肌。上品に控えめに、けれども光輝く金髪。カラコンでも再現できないような豊かな色の瞳。口紅なんて塗ってないにも関わらず、瑞々しい張りと艶のある桃色の唇。

 チラ見しただけで網膜に焼き付く美貌だったのだ。長谷川秀樹は体がガチガチに固まるのが自分でもわかった。本能がそう命じ、勝手に緊張しているのだ。

 ただし、せっかくのその美貌にも関わらず、阿木野ビビの表情がこわばっていることに、長谷川秀樹はすぐに気づいた。これは事前にちゃんと話を聞かされてなかったのかもしれない。その証拠に彼女はとてもめかしこんでいた。他に用事があると言わんばかりの服装で、合コンというには気合の入り方が違っていたのだ。少なくとも膝上のスカートはこの場にはふさわしくない。それなりに胸の膨らみを感じさせる服も場違いだ。

 彼女の話自体もこの場にはチグハグで全く噛み合わない。それどころか、この美貌の持ち主は絶えずソワソワし、落ち着きなさげに時間ばかり気にし、なんとか場を盛り上げようとする滝川の努力も完全に空回りしていた。

 長谷川秀樹は阿木野ビビのその美貌には驚嘆しながらも、同時に車内の空気にはハラハラせざるを得なかった。なんとも微妙な空気が流れていたのだ。

 結果として、彼女はその後すぐに"いなくなって"しまった。車で少し走った後、何か買おうということで立ち寄ったコンビニで、彼女は忽然と姿を消したのだ。阿木野ビビを除く三人が買い出しに出かけた一瞬の隙をつかれてしまった格好だった。もちろん残された三人はあちこち探したのだが見つからず、どうすることも出来ない。

 結果として警察沙汰にはしなかったが、なんとも後味の悪い展開だった。残された三人を乗せた帰りの車内のなんと重苦しい雰囲気だったことか。

 そもそもどうして阿木野ビビはいなくなってしまったのか。

 その真相は後日明らかとなる。

 実は札幌市中央区にあるコンサートホール―Kureba―の十周年記念コンサートにプレゼンテーターとして参加していたのだ。長谷川秀樹は次の日の新聞の写真でそれを知った。確かに阿木野ビビがそこに写っていたのだ。なんという名のドレスかは知らないが、そのドレスに身を包んだ阿木野ビビはまさに映画のヒロインにしか見えない。

 さらにはその日の午後、岸辺薫子経由で阿木野ビビからの謝罪の電話もあった。

「本当にごめんなさい。気が動転してしまって……ちゃんと事情を話せばよかったんですけど」

「いいんですよ。誰だって気が動転するときはありますから」

「本当にごめんなさい」

 ……

 長谷川秀樹は阿木野ビビとのこの一連の出会いをことあるごとに思い出す。そしてなぜかそれを「運命の出会い」だと思い込んだ。心からそう思えたからだし、今でもそうとしか思えない。確かに日曜日の一件は後味の悪いものではあったが、後から理由を知ったことで大いに納得したし、仕方がないとも思えた。しかもこれによりわかったことがある。

 阿木野ビビはかなりシャイなのだ。自己主張が苦手なのだ。

 ゴリゴリ押してくるタイプではない。自分の妹とは色々な意味で真逆で、いわゆる女らしさがあったのだ。

 信じられないレベルの美人なのにものすごくシャイで女らしい。

 長谷川秀樹には阿木野ビビは「宝石」のようにキラキラと輝いて見えた。いつまでも見ていたい。そう思えた。以後ことあるごとに日曜日の出会いと電話での謝罪の声、新聞の写真を何度も何度も脳内再生し直した。

 しかし、そんな思いとは裏腹に、現実世界での阿木野ビビとの接点はその後全くなく、校内で彼女を見かけることすらほとんどなかった。大学という接点があるはずなのに、彼女の姿はどこにもいない。滝川はことあるごとに

「また四人でどこかに行きたいな」

と言うものの、そんなチャンスも全くやってこない。

 長谷川秀樹は自分から運命を打開するタイプではない。運命の変化をじっと待つタイプだ。自分からは動かないが、変化には敏感で、しかもそれを逃さない。獲物を狩るのではなく、獲物が自ら飛び込んでくるのをひたすらに待つ。そういうタイプなのだ。そしてこれまでの長谷川秀樹は、これで成果を出してきた。 

 そう。長谷川秀樹は今、阿木野ビビの部屋にいるのだが、これもその成果の一つだった。「ひたすらに変化を待つ」ことで、長谷川秀樹はこうして阿木野ビビと接点を持つことができたのだ。

 すでに車内で出会った時に、こうなることは確定されていたのだ。

 偶然大学校内に落ちていた鍵。

 長谷川秀樹のみが気づいたそのアイテム。それをうまく使い、そしてここまできた。いずれは本人とも直接話をし、そして親しくなることもできるだろう。

 長谷川秀樹は注意深く、そして用心深くその機会を待つつもりだ。そしてそれまでは、今のこの現状で満足するのみ。

 長谷川秀樹は今のこの現状におおむね満足していた。

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