長谷川秀樹の優雅な日常

中野渡文人

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 長谷川秀樹は朝の六時過ぎに目覚める。正確には六時五分前後。秒針が前後十五秒ほどずれるが、それでも毎日判で押したようにほぼ正確にこの時間に目覚める。

 時間が同じなら体勢もいつも同じ仰向け。目覚めると必ず両腕を布団から出して伸ばし、そしてその動作の流れで見る天井の板の形も毎日同じだ。それを見ると長谷川秀樹はなぜかホッとする。

 長谷川秀樹は目覚めるとすぐにベッドから起き上がる。ダラダラするのは怠け者のすることだし、自分は怠け者ではない。そう自負する長谷川秀樹は、季節がいつであろうと、室内が暑かろうと寒かろうと、多少の疲れがあろうとなかろうと、やはりすぐに起き上がる。そして自分の体調を確認する。手足、首、その他。朝から面倒なこだわりだと自分でも思うことがある。にもかかわらず、どうしてもやらずにはいられない。習慣というよりは"儀式"と言い換えた方がいいのかもしれない。

 時には十分ほどかかるそんな"儀式"が終わると、ようやく服を着替えるのだが、当日に着る服は既に前日の夜にあらかじめ決めておくのも長谷川秀樹の儀式だ。ベッド脇の椅子の上に丁寧に畳んで用意しておいた服は、もちろん自らのコーディネート。今回は紺のポロシャツにベージュのチノパンだ。季節は九月上旬だが、今日の気温は例年の札幌にしては高くなるようなので、寒さについては考えない。大事なのは"わりとどこにでもいそうな感じ"なのであって、長谷川秀樹はそこを最も重要視した。とはいえ簡単そうでいて案外難しいことなので、長谷川秀樹は寝る前に丸々一時間ほど費やしてこの日のための服装を検討した。今こうして着替えてみると、昨夜の判断は正しかったと納得できる。寒くもないし、膝の屈伸も容易い。どこにも変なつっぱりはない。それにこういう感じの男はたくさんいるだろう。みんな無難な選択をしたがるものだし、自分だってそうだ。ファッションなんて気にするような男に碌な奴はいないのだ。

 着替えが済むと、長谷川秀樹は脱いだ服を持って部屋を出る。脇目も振らずに一階に降り、脱衣室にある洗濯機に脱いだ服を突っ込んでから、すぐ隣にあるトイレに入るのもいつものパターンで、大だろうと小だろうととにかく便器に座るのもこれまたいつもの日課だ。

 悩ましいのは着替える前にトイレに入るべきかどうかという判断で、長谷川秀樹はTシャツ姿のまま、つまり起きてからすぐにトイレに行った方が楽なのではないかという思いをいまだに捨てきれないでいた。しかし、定期的にその思いが湧き上がるその都度、「何かがあった時、たとえば地震が起きた際などにすぐに避難するためには、ちゃんと服を着ていた方が良い」という"正論"で打ち消した。もちろん「着替えの最中に地震が来たら」などといった極論はあえて頭から追い出す。長谷川秀樹はそういう極論を考えやすいたちなのだが、だからこそあえてそういう考えは無視するようにしていた。「僕は頑固者ではない」長谷川秀樹はそう自負している。

 トイレが済むと脱衣室にある洗面台で歯を磨く。丁寧に三分磨くのもいつものパターンで、これは親から躾けられたというより、本で読んだ影響が強い。磨く順番も決まっていて、左上の奥歯から左下の奥歯へと続き、徐々に右側に移行していく。丁寧にやると三分では足りないのだが、そこはアバウトに考えていた。そもそもストップウォッチで時間を測っている訳ではないのだ。僕は完璧ではない。長谷川秀樹は自分のこの中途半端さには全くもって納得していなかったが、だからといってそういう細かいことをいつまでも気にしていては身動きが取れないこともこれまでの経験から学んでいた。何事もやり過ぎは禁物。これまでの人生で実際にやり過ぎてしまったことが何度もあり、そこから痛みを伴う教訓を得ていた。

「おはよう!」

 妹のルイは珍しく早起きで、これまた珍しく自分から声をかけてきた。いつもは長谷川秀樹が朝食を済ませた頃に階段から音を立てて降りてくる。そしてめんどくさそうに誰に声をかけるでもないような感じでぼんやりと「おはよー」を声を出すのだ。

 それが今日はいきなり背後から肩越しに声をかけられたため、長谷川秀樹は思わずドキッと体を震わせてしまった。いつもと違うパターンはものすごく苦手だ。それどころか妹そのものも苦手だ。予測のつかないものはなんであれ苦手なのだ。

「今日は早いな」自分でもはっきりわかるくらいに声が低くなる。もっとも口の中が歯磨き粉の泡でいっぱいであり、声を出そうにも上手く出せない。

「何?悪い?」妹は不機嫌らしい。

「いや別に」

「兄貴のせいでアタシも頑張らないとならないんだからね」

 長谷川秀樹は今年、札幌市にある某大学の医学部に合格していた。塾にも行かず、側から見ると努力ゼロですんなり合格したものだから、周囲は色めき立ったが、本人はそれに対する感情をおくびにも出さない。淡々とミッションを、あるいはステージをこなすのは、長谷川秀樹にとってはごくごく自然、当たり前のことだからだ。

 しかし、そんな当たり前は妹にとって迷惑であったらしい。

「兄がそうなら妹もそう」

だと言わんばかりのプレッシャーが嫌でも重くのしかかるからだ。何もしてないのに比較される。もっと言うなら、兄のせいでいつもあれこれ言われる。強烈なプレッシャーが常にのしかかるのだ。

 長谷川秀樹はかなりのイケメンだ。それに何をやってもそつなくこなすし、全く自慢しない。自慢しないのにいつの間にか目立っている。

 長谷川秀樹は学校内では有名人だった。ルイは自分の友達から何度も「お兄さんってすごくカッコいいよね」と言われたし、友達のみならず、知らない生徒からも「あの人の妹なの?へぇ」と何度も言われた。

 言われただけならなんの問題もない。むしろ最初はそれが自慢だった。文句なしに自慢の兄貴だった。しかし、あまりにも隙がない兄貴に対して負担を感じるようになるまで、そう長い時間はかからなかった。自分経由での告白、自分経由でのプレゼント、そんなのあんたが自分でやればいいじゃないと言っても「だって恥ずかしいし」という一言で、ルイは否応なしに兄貴との繋ぎ役にされてしまった。

 しかしそれだけならまだ我慢できる。けれど、肝心の兄貴はといえば、女の子に興味がないかの如くその全てをほぼ完全に無視した。文字通り目もくれなかった。そのせいで、ルイは自分が全ての後始末までやらなければならない羽目になってしまった。「ごめんね、今は恋愛より大事なものがあるんだって」「他にもいい人いるよ」「プレゼントのお返しはできないけどありがとうって言ってたよ」どれだけ数々の言い訳を駆使したことか。

 兄貴はイケメン。頭もいい。運動もできる。剣道だって怪我をするまでは全国大会の常連だった。けど私はそれほど美人じゃない。可愛くもない。運動?そんなものできるわけないじゃない。そして挙句にパシリだ。

 兄が札幌市にある某大学の医学部に合格すると、さらにプレッシャーがかかった。「お兄さんすごいね」「ルイちゃんも行くんでしょ?」「お兄ちゃんから家庭教師してもらえるし」「いいなぁ」

 大学なんて行く気はこれっぽっちもなかったのに、周りがどんどん既成事実化していってしまう。ルイの心境としてはまさに「仕方なく」「いやいや」猛烈に勉強するしかなかった。元々成績は悪かったわけではない。それなりに頑張れば兄と同じ大学の医学部に行けると先生からも太鼓判を押されてもいた。けど、そんなことなんてどうでもよかった。なのに頑張らねばならない。

 そんな妹の思いを知ってか知らずか、長谷川秀樹はなんの感情も込めずに言う。

「なんで俺のせいで頑張らないとならないんだ?」

「別にぃ」とルイ。どうせそうなのだ。いつものことなのだ。長谷川秀樹はなんの感情も込めずに言い放つ。

「お前にはお前の人生があるだろ」

 長谷川秀樹は妹が苦手だ。自分に対してみょうに突っかかってくる感じが特に嫌いだ。

妹は友達も多いし、人生も楽しそうだ。なら、そのまま俺に構わず過ごしていればいいのに。日々を淡々と過ごしたい長谷川秀樹には、自分に執拗に絡んでくる妹の感覚がわからない。

鬱陶しい。朝から絡まれるとさらにその思いが強くなる。

「あらあらあなたたち、起きてきたなら早く朝ご飯食べなさい」

 居間の方から声がした。母だ。長谷川秀樹はすぐに返事をする。

「今行く」

「かーさん、あたし今日ご飯いらない」

「ルイちゃんどうしたの?」

「なんでもない。食べたくないだけ」

 ルイは階段を上げっていく。

「歯を磨かないのか?」

「別にぃ」

 妹のこういう感じも長谷川秀樹は嫌いだ。朝起きたら歯を磨くのが当然だろうと思う。歯が悪くなっても知らんぞ。

「ヒデちゃんはご飯食べるの?」と母。

「食べるよ」

 最近の朝の食卓テーブルは長谷川秀樹と母だけが揃う。そして大抵は母の独演会となる。昨日見たテレビ。昨日出会った人たち。あの人はどう、この人はそう、これはあれで、あれはそれで。

 長谷川秀樹は母の話を適当に聞き流した。そして適当に相槌を打つ。これで十分だった。鬱陶しいと感じたことはない。逆だ。

「自分の母親ではあるけれど、本当に美人だなぁ」

 いつもそう感心する。明るく元気、どんな時もほんわかしていて優しい母。母は確かに言葉数こそ多いが、その中に愚痴が混ざったことは一度もない。だからなのだろう。言葉数が多くても全く不快にならない。

「でね、昨日お父さんが電話で"いい本見つけた"ってあれこれ教えてくれたんだけど、よくわからない内容でね、ぼやにっちしゃきょう……だったかな。解説本の復刻版がどうとか言ってたけど、ヒデちゃんわかる?」

「わかるよ。正確にはヴォイニッチ手稿って言うんだ。父さんまた変な本見つけたんだね」

「あの人、本当に本が好きでしょ?」

「そうだよね」

「好きになるとのめり込んじゃうタイプなのよ」

「わかるよ」

「でも親子よね。ヒデちゃんにもそういうとこあるわよ」

「そうかな?」

「そうよ。やると決めたらやっちゃうし」

「かもしれないね。そういえば父さんと母さんが出会った頃、父さんがクイズ大会に出て優勝してるんだろ?」

「そうなの!あの時はまだお金がない時でね。それで父さんったら絶対優勝するって言い出して、しかも本当に優勝しちゃって。その時の賞金で指輪を買ってくれたのよ。ほらこれ!」

 キラキラとした指輪の輝きはあれから十数年経った今も全く色褪せない。指輪は母にとって自慢のアイテムなのだ。

 しかし、そんな指輪なんかよりもよっぽど母さんの笑顔の方が、いや母さんそのものの方が綺麗だと長谷川秀樹はいつも思う。

 朝食が済むと、長谷川秀樹はまたも歯を磨く。寝起きの歯磨きは口の中をさっぱりさせたいためだが、食後は口の中を純粋にキレイにしたいからだ。なのでまたしても丁寧に三分以上磨く。そして本人も納得したところで口を濯ぐと、居間に戻りカレンダーを見る。

 今日は土曜日。大学は夏季休業期間で九月いっぱいは休みだ。

「ヒデちゃんお昼は食べるの?」

 母が聞いた。

「いらないよ。出かけるんだ。夕方までには帰ってくるよ」

「わかったわ。気をつけて行ってらっしゃい」

 無言で右手を上げると、長谷川秀樹は玄関に向かう。いつもはリュックを背負うのだが、今日は手ぶらだ。だから部屋に戻ることはない。もちろんポケットにはあれこれ入っているがこれも必要最小限。携帯電話はすでにマナーモードに設定されていた。友達(と呼べるやつ)は片手で数えるくらいだが、やりとりは案外多く、だから携帯電話は欠かせない。とはいえやりとりの大半はメールであり、急ぐ用事なんてものはほぼない。

 名も知らぬメーカーの安いシューズを履くと、長谷川秀樹は家を出た。すでに日は高く、日差しもそれなりにあるが、それでも秋の気配をじんわりと感じた。空が高いのだ。九月の札幌は本州に比べたら穏やかな気候なのだが、まれに三十度を越すこともあり油断はできない。今朝は昨晩の天気予報通りですでにじんわりと暑かった。このままだと今日は真夏日になりそうだ。

 長谷川秀樹は家を出ると、いつものペースで歩き始めた。向かう先は某地下鉄駅。ここからはそれなりに遠いが、しかし気にはならない。事前にあれこれ検討しているので問題など何もないのだ。

 秋の街道は本当に心地よい。あと一ヶ月もすれば銀杏の木が鮮やかな黄色に染まるであろう並木道は、いかにも雰囲気があってなんともおしゃれだ。犬を散歩させている人も風景に溶け込んでいていちいち趣がある。父親の影響で多少の絵心もある長谷川秀樹は、思わず携帯を取り出して写真を撮ろうかと悩んだ。しかし悩んでいるうちにいい構図が崩れ、結局諦めた。いい場面は一瞬。その一瞬を逃してしまうことは、長谷川秀樹にはとても辛いことだった。

 二十分程度歩いて地下鉄駅に着くと、慣れた足で躊躇なく階段を降りていく。大怪我をした右足はまだぎこちないが、日常生活では特に問題はない。券売機で目的地までの切符を買い、改札口を通り抜け、ホームに向かうとホームにはまばらに人がいた。

 今日は土曜日。

 長谷川秀樹は人混みが嫌いだ。なので、普段ならまず地下鉄を利用することはない。通学は自転車で、雨が降っても傘を差しながら、あるいは濡れながら自転車に乗るのが定番なのだ。しかし今日は地下鉄を利用しなければならなかった。なぜなら長谷川秀樹の自転車はド派手な濃い目の赤い塗装で、いやでも人目につくからだ。移動中はそれでも別に問題はない。赤い塗装の車は何台もあちこち走っているし、赤い色だってあちらこちらにいくらでも溢れている。自転車が赤いくらいで騒ぐことなど何もないのだ。

 しかし長谷川秀樹は逡巡した挙句に自転車を諦めることにした。やはり赤い自転車はどうしても目立つ。特に止める場所を考えると、どうしても目立つわけにはいかなかった。そもそも防犯対策としてあえて目立つ赤色を選んだ長谷川秀樹だったが、今回はそれが完全に裏目に出た格好となってしまった。まあでも仕方がない。そういうこともあるさ。

 地下鉄駅のホームに立った長谷川秀樹はざっとあたりを見渡し、なるべく人がいないような場所を見つけると、そこに移動した。そして程なくやってきた電車に乗り込む。車内はそれほど混んではいなかった。座席は左右向かい合わせに並んでいて、座れる程度に席が空いていたので、長谷川秀樹は迷うことなく空いている席に座る。足腰には自信があるが、立っていると目立つような気がした。だから座るのだ。そして座るとすぐに俯いて目を瞑る。足を組むのは行儀が悪いと躾けられた長谷川秀樹は絶対に足を組まない。

 長谷川秀樹は耳だけを敏感にさせながらじっとしていた。普段地下鉄は使わないので、駅の並びはよくわからない。なので車両内に流れるアナウンスを聞き逃すわけにはいかなかない。

 何駅か通過した後でようやく目的駅のアナウンスが流れると、長谷川秀樹はゆっくりと頭を上げ、そして目を開けた。同じ車両に乗っている周りの人の数も配置もほとんど覚えてはいないが、おそらく各駅停車の度に増えたり減ったりしていたのだろう。しかしそんなことは誰も気にしてないだろうし、長谷川秀樹自身も気にしていない。

 電車が目的の駅に止まると、バラバラと人が降りていく。長谷川秀樹ももちろん電車から降りて、同じく降りた人の後をついていく。ホームの階段を上がり、改札口を抜け、また階段を上がって地下鉄駅を出ると、そこには青空の下に広がるいつもの札幌の風景が広がっていた。

「んー」

 声にならない声を上げながら長谷川秀樹は思わず背伸びをした。なんとも幸先がいい。そんな気がした。時計を見ると、これまた予想通りでちょうどいい時間。これなら大丈夫だろう。目的地まではもう少しだし、ここまではなんの問題もなく順調だ。

 しかし長谷川秀樹はここで立ち止まる。いきなり目的地に向かうことをためらったのだ。そして少し考えたのち、念のために一本裏の路地に入って移動経路を調整することにした。世の中は何が起こるかわからない。順調であればあるほど、落とし穴も大きいのだ。しかしそれだけではなかった。

 心臓の音が聞こえる。

 人はどうして緊張すると鼓動が聞こえるのだろう?

 長谷川秀樹はこの動悸に対処する方法を知りたいと強く願った。試験前も、剣道の大会の時も、どうしてもこの胸のドキドキを抑えることができなかった。そのせいで自分はみっともない状態になってるのではないかと思うと、恥ずかしくてどうにもならなくなるのだ。

 リラックスするための方法をあれこれ試してみたが、どれも全く効果がなかった。結局はドキドキしながら進むしかないのだ。平常心、とやらの境地にどうしたらなれるのか全くわからない。わからないからこそ、緊張しながらそれに耐えるしかない。

 目的地に近づくほどに緊張感は大きくなっていった。ゆえにその緊張を程よく解さねばならない。緊張感がなくならないにしても、軽減はしたい。

 路地を大きく迂回してから再度時計を見ると、ちょうどいい頃合いの時間になっていた。そして緊張感も程よく低下していた。

「よし、もう大丈夫だ」

 納得して元の路地に戻ると、はたして目的地はすぐそこにあった。同じような高さの建物があちこちあるにもかかわらず、その景色に溶け込むことなくみょうに目立つアパート。それなりに年数は経っているはずなのに古さを感じさせない四階建のアパート。長谷川秀樹の目的地はこのアパートだった。

 よく見るまでもなく、アパートの前には車が止まっていた。そして人が二人、車に乗り込んでいるのがはっきりと見える。そのうちの一人はまず間違いなく金髪の女性で、それを見た長谷川秀樹は喉から何かが出そうになり、思わず路地の影に隠れた。心臓の音はいきなり最高潮になる。

 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ

 しばらくして恐る恐る影から身を乗り出すと、もう車はどこかへ行ってしまい、アパートの正面入り口には何も止まってはいない。周りにも誰もいない。

 よし。

 よし。

 よし!

 もう大丈夫だ。落ち着け。落ち着くんだ。やはり時間を潰して正解だった。これでもうなんの問題もない。

 突如、背後から女性がスッと現れ、そして追い越していく。長谷川秀樹は文字通り飛び上がった。ド派手なピンクのトレーニングウェアの上下を着ていた女性は犬を散歩させていた。犬は小型犬で―長谷川秀樹は犬には詳しくないので犬種は分からないが―尻尾をピンと跳ね上げ、飼い主の持つリードをぐいぐい引っ張りながら弾むように進み、女性はそれに懸命についていく。

 まさかこの女、僕が隠れる場面を見てないよな……

 自意識過剰になりそうな心を抑え込み、しばしその場で何度も深呼吸をすると、長谷川秀樹は"何事もなかった風"にして歩き出した。自然に歩かなければならない。目立ってはならない。

 人影の全くないそのアパートの前まで来ると、入り口に何かが落ちていることに気づいた。よく見ると百円玉が二枚ほど落ちている。拾うかどうか一瞬だけ考え、見なかったことにした。このアパートの入り口には防犯カメラがついていることを知っていたからだ。しかし同時に、この防犯カメラの死角も知っていた長谷川秀樹は、その死角に入り込む形で入り口をあっさりと抜けた。それどころか、このアパートにはエレベーターがないことも知っていたので、そのまま慣れた足取りで階段を四階まで一気に上がる。目的地は一番奥の手前にある部屋で、もちろんあたりには誰もいない。目的地の部屋に住んでいる人物が出かけたことは先ほど確認したからなんの問題もない。。

 ドアの前に立つと、長谷川秀樹はおもむろにポケットから鍵を取り出した。それは真新しい鍵で鈍く光っている。いつものようにしてます感を出して鍵を差し込みドアを開け、まるで「ただいまー」とでも言わんばかりに中に入ると、あえてゆっくりドアを閉めた。

 当然誰も見てはいないのだが、長谷川秀樹はそれを分かった上で、あえてそうした。

 納得が大事。

 長谷川秀樹にとっては、それこそが納得できることなのだった。

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