第8話


▫︎◇▫︎


「はあ、はあ、はあ、はぁー………。すぅー、はぁー、すぅー、はぁー。」


 目標もなく、ただただ頭を冷やすために全速力で走り続けました。

 息が上がり、肺が凍るように冷たい空気を吸い続けたことにより、ひどく痛みます。心臓もいつになく、ドクドクと脈打ち、身体中に違和感も走ります。


「イタッ、」


 ハイヒールで走り続けてしまったことによって、靴擦れしてしまったようです。ニックに送ってもらったいっちょうらの靴が、血に濡れてしまっています。

 ぎゅっと唇を結ぶと、視界がぼやぼやと歪み始めました。


「なんで……。」


 ポタポタと目からこぼれ始めた汗はとめどなく流れてきます。


「私は傷物なのですよ?彼のそばにいる資格なんて、ありませんのよ?」


 嫌い、嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い………。

 ニックなんて大っ嫌い!!


 春の初めの朝の冷たい風が、汗ばんだ身体と、ほでった頬を冷やします。


「ふふふ、こんなに身体がぽかぽかするのなんて久しぶりね……。」


 氷の魔法をもっとも得意とする私はいつも身体が冷え切っていますから、ここまで熱くなったのは風邪をひいてしまったとき以来です。


「はぁー、今日はこのままお部屋に帰って訓練にしましょうかしら。」


 私は誰に向けるのでもなく、大きな声で言い切って、自分のお部屋に向かって歩き始めました。


 本当に、ほのかに冷たい風が気持ち良いわ……。


▫︎◇▫︎


「おかえりなさいませ、シャーロットお嬢様。」


 室内に戻ると、乳母のクリスティーナが暖かく出迎えてくれました。

 彼女は私がうめれてから今まで、娘のカロリーナと共に仕えてくださっていたのですが、来年には旦那様のご実家の方に行くということで辞めてしまうことになっています。


「ただいま戻りました、クリスティーナ。」


 彼女にドレスを脱ぐのを手伝ってもらい、髪をゆったりと纏めてもらっていると、唐突に話しかけられました。


「昨日の夜はどちらに?」


「………ニック、………ニコラス王太子殿下と晩酌をしていましたわ。」


 聞かれたくないことですが、いずれ誰かには絶対に聞かれることだと覚悟していた私は、ゆっくりと気持ちを整理しながら質問に答えました。


「まぁ!!それはようございましたね。」


 私が傷心だと思っているのであろうクリスティーナは、とっても嬉しそうに言いました。全くもってよろしくないことに陥っているのですけれどね………。

 溜め息を吐いて私は、そぅっと口を開きました。


「全くもって良くありませんわ。………多分、これから色々とゴタゴタに巻き込まれてしまうことになるかと思います。」


「それはなんともまあ………。王太子殿下は何をやらかして下さったのですか?」


 瞳に怒りの炎を灯した頼もしい侍女たるクリスティーナは、にっこりと笑って尋ねてきました。本当に、毎度のごとく思いますが、彼女は怒らせてはいけませんね。


「私と2人きりで夜通し飲み交わして下さったわ。」


 私がはっきり言わなくても理解してくれた彼女は、すぅっと瞳を細くしました。


「それはお嬢様の意志で、ですか?」


「いいえ、気がついたときには泥酔していましたの。」


「災難でしたね。」


 私は、あんの馬鹿太子!どのように絞めて差し上げましょうか♪という副声音がつくような労いを下さったクリスティーナに苦笑してから、ずっと胸の内に巣食っている禍々しい本心を曝け出しました。


「えぇ、全く。これは私だけでなく、ニコラス王太子殿下の評判にも関わることですのに。」


「………お嬢様は優しいですね。」


 クリスティーナの溜め息に、私は小首を傾げました。


「優しくなんてありませんわ。私、別れ際にニックに酷い視線をぶつけてしまいましたの。泥酔してしまった私が悪いのに………。」


「お嬢様………。」


 後ろからふんわりと抱きしめてくれたクリスティーナにびっくりとして目を見開くと、クリスティーナが耳元で、「あまりご自分を責めないでくださいませ。」と苦しそうに呟きました。

 私よりもよっぽど辛そうです。


「大丈夫ですわ、クリス。私、ちゃんとニコラス王太子殿下に被害が行かないように頑張ってみますわ!!それに、来週からは夢にまで見た王宮司書になれるのですよ!!私今からとってもワクワクしていますの!!」


「ふふふ、そうですね。色々な推薦まで蹴っ飛ばして手に入れた王宮司書ですものね。」


 座っている私の横に膝をついて視線を合わせたクリスティーナは、にかっと明るい笑みを浮かべました。


「本に1日中囲まれていられるなんて本当に天国ですわよね!!」


「『普通』のお嬢様方は、本よりもドレスや宝石などに囲まれることを喜ぶんですよ。」


「『普通』にこだわる必要なんてありますの?」


 私とクリスティーナはくすくすと笑い合いました。


▫︎◇▫︎


 クリスティーナに元気を分けてもらった私は、その足で談話室に向かいました。


「アルお兄様、」


「シャーリーか………。」


 そして、カウチで足を組んで目を瞑っているアルお兄様に、私は気配を消して近づいた後声をかけました。


「ニックは?」


 彼が1人でいることを確認してから近づいて行ったにも関わらず、私は一応形式として質問しました。


「ニコラスには帰ってもらった。」


「そうですか………。」


 安心のような虚しいような不安に心を支配され、私は俯きました。


「見送りたかったか?」


「いいえ、気持ちの整理ができるまではまともに顔を合わせられる自信がありませんわ。」


 困ったような微笑みを浮かべたつもりですが、おそらく私の今の表情は引き攣ってしまっているでしょう。


「………ニコラスは焦りすぎた。」


「焦り、ですか?」


 不安に困惑が加わり、私は気持ちの整理がつかなくなってしまいました。


 分からない、分からない分からない、分からない分からない分からない分からない分からない分からない…………。


「………お前が未だにその調子なら、焦るのも無理はない、か………。」


「アル、お兄様?」


 今の私はもう、引き攣った微笑みすら浮かべることができていないでしょう。


「ああぁぁぁーーー!!悪いこと言わないから、この件はもう一旦忘れろ、シャーリー。後始末は俺と父上がやっとくから。」


「!! そのような訳には参りません!!これは私の問題ですわ!」


 頭をガシガシと掻いたアルお兄様にビクッと身体を震わせた私は、その言葉に思わず大きな声を返してしまいました。


「この問題は十中八九お前が関わればややこしくなる。大人しく俺と父上に庇われておけ。」


「っ、………承知、いたしましたわ。」


 そして、普段のアルお兄様からは考えられないような有無を言わせぬ強い口調で命じられ、まんまと頷いてしまいました。


「すまないな、シャーリー。俺が一緒に行っておけば、お前がゴタゴタに巻き込まれることもなかっただろうに。」


 1度息を吐いて心身を落ち着かせたアルお兄様は、本当に申し訳なさそうに深く頭を下げられました。


「いえ、久しぶりに2人きりで愚痴がこぼせる………、ではなく、お話しできると舞い上がっていた私の責任ですわ。成人を迎えたにも関わらず、未だにお子様気分が向け切っていなかったようです。」


 伏し目で小さくこぼすと、アルお兄様が目をまん丸に見開きました。


「ふっ、ちゃんとーーーーーーーか。」


「アルお兄様?」


 何か大切なことをおっしゃられたような気がしたのですが、私には聞き取ることができませんでした。


「ごほん、えぇっと、その、なんだ、成人したては、誰しもそんなものだ。」


 気を取り直したかのように咳払いをされてしまえば、もう私には再度問いかけることなどできません。

 ですから、ちょっとした愚痴を言うことにいたしました。


「未だに大きな問題を起こしていないアルお兄様におっしゃられても説得力がございませんわ。」


「………大きな問題こそ起こしていないが、小さな細切れは大量に起こしているぞ。」


「私と違って、握り潰せる範囲ではないですか。」


 居心地が悪そうにおっしゃられても、今の私にとっては羨ましい限りのことです。

 大きな問題を起こさずにこの年までのうのうと生きてこられているのですから。


「まぁ、な。」


「でしょう?」


 ちょっとだけ自慢げに言ったアルお兄様に、私はおどけて肩をすくめてから、クルンとステップを踏んでみました。

 本当に、アルお兄様は私の憧れの兄です。

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