ある男の本⑤

「……あれ?」


 目が覚めた時、目に入ったのは「見知らぬ天井」。なんだかドラマや漫画でよくあるやつだと思いつつ身体を起こそうとすると鋭い痛みが走った。


「あっ!」


 俺の顔を見た看護師が慌てて医者を呼びに行く。参ったな。何が起こったのか全然思い出せない。


「定年した日に車に撥ねられるなんて……」


 連絡を受けて駆け付けた妻はため息交じりにそう言った。どうやら俺は交通事故にあったらしい。妻の言う通り、新卒で入社をして数十年、上手く行かないこともあったが自分なりに頑張って勤め上げた会社を定年退職したことまでは覚えている。部下に貰った花束を手に解放感と寂しさを感じながら自宅へ向かっていたのだ。


(それがどうしてこうなった?)


 全身を打ったのか身体を動かすと痛い。足も折れているらしく固定されて動けない。なんて仕打ちだ。


「相手のおじいさんあなたが急に飛び出してきたって言ってるみたい」

「えっ!」


 いやいや、俺は横断歩道を歩いていたはずだ。信号はもちろん青で、信号無視をしていたのは相手だろう。


「周囲に防犯カメラが無いみたいで……」

「目撃者は?」

「居ないって。ドライブレコーダーも取り付けてなかったみたい……」


 まずい。このままでは俺は「定年の日に浮かれて信号無視をした迷惑人間」になってしまう。それに俺に過失があるなんて事実認定されたらたまったもんじゃない。それに相手は信号無視を誤魔化そうとしているんだぞ。どうにかならないものか……


「あっ」


 突然大きな声を出した俺を妻が不思議そうな顔で見つめる。


(そうだ、人生図書館へ行けば何とかなるかもしれない)


「痛っ」

「ちょっと、無理しないでよ」


 体を動かそうそして悲鳴を上げる。ダメだ、この状態では到底図書館までたどり着けない。


(「本」の修正はいつでもできる。焦る必要はないか)


 確か俺の「利用者カード」は小さな出来事しか修正を出来ないはずだ。無茶をして取り返しのつかない状態になっては元も子もない。俺を跳ね飛ばした信号無視爺さんには腹が立って仕方ないが、絶対に体を直して一泡吹かせてやると心に誓ったのだった。



 無事に退院したのはひと月半ほど後のことだった。事故に遭ったのが退職後で良かった。意外と早く退院出来て良かったが職場に迷惑がかかるからな。

 退院後にやる事は決まっている。人生図書館へ向かうのだ。人生で一回しか使えない権利を信号無視爺さんに使うのは癪だが、未だに「相手が飛び出してきた」と主張しているらしいのでお灸を据えてやらねば気が済まない。


「本の修正をしたいのですが」


 人生図書館へ通って初めて、ついにその台詞を口にする時が来た。


「かしこまりました。ではこちらの書類に記入をお願いします」


 受付の職員からクリップボードに留められた用紙を受け取る。


「修正したいページにはこの栞を挟んで下さい。どこにどの文を挿入するか、または削除するかをこちらの用紙に記載してください」

「分かりました」


 用紙を本を受け取って個室へ入る。修正するページは勿論俺の定年日、あの事故のページだ。


『今日はいよいよ定年退職する日だ。長い間頑張ったなー』


 朝、車に跳ね飛ばされるとは知らない俺の呑気な一文で始まる。


『部下に花束を貰った。明日から出社しないで良いのかと思うと少し寂しい』


 退職して会社を後にする。問題はここからだ。


『もうすぐ家に着く。今日は俺の好物を作ってくれているらしい。楽しみだな。お、信号が青だ。ラッキー。早く家に帰ろう。そう思って俺は小走りに横断歩道を駆け抜けようとした。横断歩道へ一歩踏み出した時、ものすごい衝撃を受けて身体が宙に浮き、そののち地面にたたきつけられた。車から出て来た男性は俺を確認すると車内に戻って行ったが、音を聞きつけて駆け付けた通行人に咎められてその場にとどまった』


(な、なんだって!)


 信じられないことに、爺さんはひき逃げをしようとしたらしい。通報した人は音を聞きつけて駆け付けたようだから目撃者が居ないのは本当らしいな。この人が来てくれなかったら危なかった。


(とんでもない爺さんだ……)


 事実を知って怒りがふつふつと湧いてくる。


(さて、どう修正したものか)


 俺の持っている『白い利用者カード』では大した修正は出来ないという。つまり「事故は無かった」「けがをしなかった」みたいな大それたことは出来ない可能性が高い。「目撃者が居た」と言うのも影響度が大きすぎるので無理だろう。


『それ一つでは影響力が小さいことでも巡り巡って大きく人生が変わってしまうことがある』


 という女性職員の言葉を思い出す。「乗り遅れたはずの電車に乗れた」「ちょっとした失敗をしなかった」という些細な出来事を修正することによって、それが巡り巡って大きな変化をもたらすことがあると。


(だが、事故をなかったことにする方法もあるんだよな)


 そう、「事故は無かった」と書くことは不可能でも「小走りで駆け抜けようとした」部分を「ゆっくり歩いた」ことにしたり、「横断歩道の前でしばらく立ち止まった」ことにすれば事故そのものを回避できる可能性が高いのだ。そうすればきっと今も残る体の痛みや治りかけの怪我だってきれいさっぱり消えるし、入院で失ったお金だって返って来る。


(どうしても爺さんのことが許せない)


 問題は事故をなかったことにしても俺自身の記憶や爺さんに対する恨みは消えないことだ。事故が起きなくてもきっとこの爺さんは別の場所で事故を起こす。それになにより、ひき逃げをしようとしたことや俺に過失を擦り付けようとしているのが許せない。

 自分の怪我や入院費を取り戻すよりも「爺さんに報いを受けさせたい」という気持ちが勝ってしまっているのだ。……とすると、選ぶ道は一つである。


『周辺に監視カメラがある』


 という一文を差し込もう。


『そう思って俺は小走りに周辺に監視カメラがある横断歩道を駆け抜けようとした』


 少し不自然な文章になってしまうが問題ない範囲だろう。渡された用紙に記入をし、本と共に受付へ持って行く。


「お願いします」


 人生に一度だけ使うことが出来る権利。そんな大事な物をこんなくだらないことに使って良いのか? 一瞬だけそんな躊躇いがあったが、「あぶく銭」と一緒だと考えて迷いを断ち切った。


「確認致しますのでそちらで少々お待ちください」


 職員は本とクリップボードを持って裏へ下がって行った。


(本当にこれで過去が変わるのだろうか)


 「過去の改変」と言うとSFの世界のようだが、この現実世界で本当にそんなことが成し得るのだろうか。


「お待たせ致しました」


 三十分ほど待って名前が呼ばれ、受付で修正箇所の確認をする。


「こちらでお間違えありませんか?」


 職員が開いて見せた箇所には確かに「そう思って俺は小走りに周辺に監視カメラがある横断歩道を駆け抜けようとした」という記述がある。


「はい、間違いありません」

「では、これで『修正』は完了です。この度はご利用ありがとうございました」

「あの、本当にこれで過去が変わったのでしょうか」


 あまりに淡々と作業が進んでしまったので本当にこれで過去が変わっているのか不安になる。


「はい。結果は即時反映されますのでご安心ください」

「そうですか。で、えっと……利用者カードは?」

「使用後はこちらで回収致します」

「え!」


 思わぬ事態だ。どうやら「利用者カード」は使用後に回収されるらしい。ということは……


「今後本の閲覧をしたい場合はどうすれば良いですか?」

「申し訳ございません。当図書館のご利用頂けるのは『利用者カード』をお持ちの方のみとなっております」


 俺にはもう「人生図書館」の利用資格は無いらしい。本の閲覧は「権利を利用する箇所の選定」をする為のサービスだから権利を行使したあとは閲覧が出来なくなるということなのだろうか。


(これまで何度も『本』に人生を救われて来たから読めなくなるのは心細いが……。この『利用者カード』自体が棚から牡丹餅みたいなものだから元に戻ると思えば)


 「今までお世話になりました」と心の中でお礼を言って「本」を職員に返却する。そして「人生図書館」を後にしたのだった。

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