ある男の本④

「お父さん、今までお世話になりました」


 小さかった娘もすっかり大人になり、生涯の伴侶を見つけて家を出ていった。


「寂しくなっちゃったね」


 リビングでクッキーを頬張りつつ妻が言う。思い返せば娘が生まれてからは怒涛の二十数年だった。小さい頃は仕事が忙しくあまり一緒に入られなかったが、どんどん成長していく娘の姿を見て「これではいかん」と思い直し少しずつ家族との時間を取るようにしたのだ。

 そのお陰か喧嘩をしがちだった妻との関係も少しずつ良くなって、今では再び訪れた二人きりの生活が楽しみになりつつある。そういえば、どうしてそんな風に思い直すようになったんだっけ。


(……そうだ、確か……)


 すっかり忘れていた「あれ」の存在を思い出して机の引き出しを開ける。雑に詰め込まれた文具を掻き出すと引き出しの奥から少し古びた封筒が出て来た。


「そうそう、これだ。懐かしいなぁ」


 「人生図書館」、これのお陰だ。きっかけはある年の結婚記念日。確か仕事に忙殺されて結婚記念日のことを忘れていて、たまたま「本」を読んで思い出したんだ。もしもあの時人生図書館に行っていなかったら今頃離婚して独り身に逆戻りだったかもな。


『仕事で忙しいのは分かってた。だから中々言い出せなかったのよ。本当はもっと家族で過ごす時間が欲しいの。優子の誕生日だって、あなた私が言うまで忘れてたじゃない。子供の成長は早いのよ。この子が今何年生か覚えてる?』


 久しぶりに家族三人で外食をして帰宅したあと、娘を寝かしつけた妻は真剣な顔でそう言った。手作りのアルバム渡されたので見てみたら俺が「知らない」写真が沢山貼ってあってショックだったな。つい最近まで赤ん坊だと思っていたのに気づけば娘も小学生で、「三年生だっけ?」と答えたら「五年生よ」と呆れられてヤバいと思ったんだ。

 それから少しずつ仕事の量を減らして……。部下にも「一人で抱え込みすぎっすよ」と言われたっけなぁ。


「久しぶりに行ってみるか」


 せっかくまた利用者カードが出て来たのだ。これも何かの縁だと思って次の休日に人生図書館へ足を運ぶことにした。


「『本』の閲覧で」


 もうすっかり慣れたものである。受付で本を受け取ると個室へと移動する。そして一ページ目からじっくりと目を通すのである。前回読んだ箇所の続きから読めばいいのではないかと思うかもしれないが、人間は忘れやすい生き物だ。それに、やはり子供の頃の思い出を振り返るのはなんだかんだ言って楽しい。


「お、そうそう。ここだ」


 読み続けること数時間、ようやく前回読んだ所まで読み進めることができた。ということは、ここから先は未知の領域だ。妻の好きなケーキを買って帰り謝ったこと。上司に頭を下げて仕事量の見直しをしたこと。部下に諫められたこと。

 娘が中学に入学してバスケットボールを始めたこと。大会に出て惜しくも準優勝だったこと。高校受験で第一志望に受かったこと。彼氏が出来たと恥ずかしそうに報告をしてきてショックを受けたこと。

 娘のことだけじゃない。そういえば娘が高校に進学する頃に昇進したなとか、妻が豪華な手料理を作ってお祝いしてくれたなとか。忘れかけていたこともこの本を読めば昨日の事のように思い出せるのだ。

 久しぶりに二人きりでご飯を食べた時に交わした些細な会話や妻の表情。それが目の前にありありと浮かんでくる。


(そう言えば、これからは妻と二人きりの生活なんだな)


 娘が嫁に行き、これからどうしたものかと思っていたが……。娘が生まれてからの俺と妻は「父」と「母」だった。そこから「娘」が消え、今更二人きりの生活に戻ってどうしたら良いのか分からなくなっていたが――


(妻は妻。それは昔から変わらないじゃないか)


 父と母。妻と夫。それ以前に折れは俺で妻は妻なのだ。


「久しぶりに二人で旅行にでも行くか」


 「恋人に戻ろう」という訳ではない。ただ、「親」という役割を終えた自分たちを労っても良いではないかと思ったのだ。そして少し高い酒でも買って新しい生活の門出を祝おう。

 受付で本を返却して人生図書館を後にする。……果たして「利用者カード」の使い方は合っているのだろうか。本来ならば自分の人生を修正するために使う物なのだろうが利用者カードを手にして早十数年。一考に「修正したい出来事」が思い浮かばない上に本を読むためだけに図書館へ足を運んでいる。


(恐らく正しい使い方ではない……はずなんだが)


 だが、俺にとってはこれが自分に最も合った「本」の使い方なのだ。


「さて、旅行先でも探すかな」


 家に帰って旅行先を探そう。妻にはサプライズが良いかな。そう言えば前に行ってみたいと言っていた温泉地があったような。ちょっと奮発をして露天風呂付き客室でもとってみるか。浮足立つ気持ちで年甲斐もなくウキウキしながら足早に自宅へと向かった。

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