ある男の本③

 部下を何人か持つような年になった頃、俺も結婚をして所帯を持っていた。会社の同期だった妻と可愛い娘が一人。仕事もようやく「出来る」と自負できるようになっては来たが、何となく満たされない毎日を送っていた。

 その焦燥感とも倦怠感とも呼べるそれは所謂「マンネリ」というやつなのだろう。妻と子供に囲まれた幸せな生活。順風満帆の会社員生活。昔の仲間と会えば「お前は良いよな」と冗談交じりに言われるような「幸せ」な人生。


――そのはずなのに。


「あれ?」


 ある休日、たまには自分の部屋の掃除でもするかと思い本棚を整理整頓していた時のことだった。本と本の隙間から「それ」はするりと這い出て来たのだ。


「こんなところにあったのか」


 その封筒を目にするまですっかり存在を忘れていた。


「人生図書館……か」


 何故忘れていたのか。仕事が忙しかったのもある。だが、それ以上に大きかったのは家族との会話で一度も「人生図書館」の話題が出なかったことだ。



『これは全ての国民に等しく認められた権利です』


 女性職員の言葉が脳裏に蘇る。「全ての国民に」ということは、妻や娘にも利用者カードが届いているのだろうか。知らなかっただけで両親や知人にも?

 そうだとしたら何故誰も「人生図書館」について口にしないのだろう。「一生に一度だけ人生を修正出来る」だなんて夢のような話、テレビやネットで取り上げられて然るべきなのではないか。それが封筒を手にするまでたった一度も、「人生図書館」という単語すら聞かなかったのはあまりに不自然だ。


 だが、その理由は何となくわかる。


「あの人は一体何を修正したのだろう」

「もしかして自分の人生は誰かの『修正』の影響を受けたものなんじゃないか」

「あいつが成功したのはもしかして……」


 人生図書館の存在を思い出す度に無意識にそんな疑念を抱いてしまうからだ。


(妻も何かを『修正』したのだろうか)


 と俺ですら一瞬そんなくだらないことを考えたくらいだ。親しい人や大切な人を疑いの目で見るような浅ましい人間であることを悟られたくない。そして何より、自分が何を修正したいのか探られたくない。そんな心理から誰も「人生図書館」について口にしないのではないだろうか。

 一度口に出してしまえば最後、「お前は何を修正したんだ」としつこく聞き出そうとする輩が出るに決まっている。誰でもそういう嫌な奴に一度は当たったことがあるだろう。そういう怪我をしないためにも、「人生図書館」なんて知らない。そう振舞った方が賢明で幸せな人生を送れるに違いないのだ。


 とはいえ。


「どうしたものかね」


 発掘した利用者カードを目の前に、ある思いが湧いて来た。


「久しぶりに行ってみるか」


 あれから暫く経った。一体自分の「本」はどうなっているのだろう。なんて、妙な好奇心が湧いてしまった。これも何かの縁だと思い、早速次の休日に足を運んでみることにした。


「いらっしゃいませ」

「本の閲覧をしたいのですが……」


 久方ぶりの図書館は以前と全く変わりなく、淡々と受付をこなして自分の「本」を受け取ると開いている個室を探して席に着いた。二回目となれば慣れたものである。


「さてさて」


 パラパラとページを捲る。印字されている最後のページを開くと早速「人生図書館に来た」ことが記されていた。改めて見ても不思議な仕組みだ。「俺はページを開いた」という文字を確認した後に前の方へとページを戻す。前回図書館に来た時のページまで遡り、そこからじっくりと目を通すことにした。

 自分の人生を文字で振り返る、というのはなんとも不思議な心持になるものだ。気恥ずかしいような懐かしいような、自分ではすっかり忘れいたことなんかもあったりしてなかなか読みごたえがある。

 仕事で上手く行かなかったこと、同僚であった妻に励まされたこと、妻と結婚をして娘を授かったこと、娘の入学式、運動会……。「懐かしいなぁ」と独り言を言いながらページを捲る。

 文章を読んでいるだけなのにまるでアルバムを見ているかのようにその時の情景が目に浮かんで、当時の自分の気持ちが心の中に蘇って来るような感覚になった。


『あなた、再来週の日曜日なんだけど……』


 不意に妻の言葉を思い出す。


『夕飯は外で食べない?』

『ん? 良いけど、どうしたんだ急に』

『やだ、忘れたの?』

『何かあったっけなぁ』

『はぁ……、信じられない。大切な日なのに』


「ああ、結婚記念日だったか」


 日付が書かれた一文を読んでハッと思い出した。先週妻に言われた時はすっかり忘れていたが……。カレンダーも白紙だったし、ここ数年仕事が忙しくて祝えていなかったんだった。妻は気を使って仕事が落ち着くまで待ってくれていたのだろう。


「これはマズイことをしたなぁ」


 しかもよく考えれば結婚して十年の節目の年じゃないか。大変なことだ。俺は本を閉じて受付で返却の処理をすると足早に妻が好きだと言っていたケーキ屋へ向かった。今夜はケーキを片手に謝ろう。そして来週は家族三人でどこかへ食事をしに行こう。


「ごめん。すっかり忘れていたよ。来週はどこかへ食べに行こう」


 ケーキ屋の小箱を片手に帰宅した俺を見て妻はぽかんとした後に「雨でも降るのかしら」と言って満面の笑みを浮かべた。作戦は成功だ。


 夕食を食べた後、利用者カードを封筒に入れて机の引き出しにしまう。もしも今日「人生図書館」に行かなかったら……。そう思うと背筋が寒くなる。利用者カードを使うことは無かったが、俺は「本」に救われたのだ。


 本当に良かったと胸を撫で下ろし、俺は再び「人生図書館」を記憶の片隅へと追いやってしまった。再びカードが日の目を見るのはまたしばらく後のことだ。

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