第5話 恋に落ちた、その瞬間
「師匠! 師匠っ!」
うるさいほどに響いてくる、震えて今にも泣き出しそうな弟子の声に、ルシルはゆっくりと口元に笑みを作ってから目を開けた。
「おはよう、フィル」
「おはようじゃないですよ! っ――」
それ以上言葉が出てこないらしいフィリップの表情を見て、ルシルは苦笑するとその頬をつつこう、として手が動かないことに気がついた。
目に入るのは、寝台脇に座り真っ白な顔をしたフィリップと、見知らぬ天井だ。どうやらどこかに担ぎ込まれたらしいな、とルシルは悟り、どうにも動かない手にフィリップに悪戯を仕掛けようとするのを諦める。
「馬鹿なんですか師匠! あんな魔法の中に身一つで! 魔術具がなかったらどうなっていたかっ……!」
「君、仮にも師匠に向かってその口の聞き方はどうかと思うよ。全く、誰が育てたんだか」
ああ、私だった、と茶化してみせたルシルは、酷いことになっているであろう右腕をフィリップの視界から遮るように、かろうじて動く腰を捻ってかけられていた布の中に押し込もうとする。
「そんなことより、結局あの後はどうなった? まさか魔物を殺したなんてことは」
「そんなことってなんですか! 俺にとって師匠より大切なものはないんですから、そんな、そんなことって!」
「分かったから、フィル、少し落ち着きな」
「落ち着けると思います!?」
「フィル、私は常々、君に教えてきたんだけどね」
いつものようにフィリップの額をつつこうと思って、ようやく体が動かないことを思い出す。
「落ち着きは一番大切だ。気持ちが乱れると、勝てる戦いも勝てなくなる」
指を伸ばすことを諦めてぐったりと身体の力を抜いたルシルに、フィリップは項垂れると、堪えきれずに呟いた。
「どれだけ、どれだけ……っ。あなたがあの魔法の中で仰け反った姿を、焦げた木の中でぴくりとも動かないあなたの姿を、俺がどんな思いで見ていたと、思って」
言葉にしきれない激情が、涙となって溢れてしまいそうで、フィリップは数度短く息を吸った。
「治癒系統の術式は万能じゃありません。人体副属はただでさえ複雑なのに、ろくな道具もない今は自然治癒速度を高めるのが限界です。治せるのは、人間が本来治せるところまでなんですよ」
「そうだね。だけど君が咄嗟に魔術具に魔力を流してくれたから、この程度で済んでる」
君への信頼だ、と言ってルシルは笑った。
事実そうだ。今までは魔力が内蔵された魔道具しか使えなかったが、無尽蔵と言って良い魔力を持つフィリップとともに行動するようになってから、外部から魔力を供給する魔術具を使えるようになった。
魔道具に比べてかなり貴重であるため多くは手に入らないが、複数回使える上、威力も高い。だからルシルの身を守る力は格段に増した。
少しばかり無茶したくもなる、という言葉は飲み込む。
「結界から出るなって、言ったじゃないですか」
「そうだね。だからこれは私の自業自得で、君は悪くない」
「俺が悪いです。俺は、俺は今度こそ絶対に師匠を傷つけないって、誓った、のに」
「そこは履き違えちゃいけないね。今回私を傷つけたのは聖女の魔法であって、君じゃない」
「それでも俺が悪い。俺ならあの魔法を止められた。それなのに、何も、できなくて。判断を誤ってあなたのそばを離れて、馬鹿みたいに突っ立って、倒れて動かなくなったあなたの姿を、俺はもう見たくないと、思ったはずなのに」
忘れられない光景がある。
見渡す限りの荒野。かつて森だったはずの場所の中心で、1人震えているフィリップに向かって、近づいてくる人がいた。
その人は血に塗れていた。制御できなくなったフィリップの魔力に全身を切り付けられ、叩きつけられ、揉まれ、けれども這うようにしてフィリップに向かってきた。危険極まりない、まるで魔物のようなフィリップへと、迷わずに進んできた。
魔術師も魔物も、神がこの世界へと与える魔力との親和性が高い生き物、という意味では、同じだ。
その違いは、魔力を吸い込んでもなお、正気を保ち続けられるかどうか、という一点だけ。人間より遥かに魔力との親和性が高い動物は、魔力を吸うにつれて、正気を失い、身体を変化させ、魔物となる。
魔術師が魔術師たる所以。それは、魔力を抱えてもなお、人間であり続けられるということ。
そしてフィリップは、魔力との親和性が高すぎた。
流れ込んでくる膨大な魔力は、ある日、些細な感情の揺れをきっかけに、フィリップの理性を焼き切った。
人でありながら、魔物と同じところに堕ちた人間。
人はそんなフィリップを『魔人』と呼ぶ。
フィリップの心に呼応して、暴走する魔力が勢いを増した。傷つけたいわけではないのだ。けれど自分が人を襲い、『魔人』と化している事実がフィリップの心を乱し、さらに制御を奪う。
一瞬顔を歪めた彼女は、少しだけ遅くなった足取りで、それでも躊躇わずにフィリップだけを見つめて、前へと足を踏み出す。
見えるようになった顔は、まだ若かった。フィリップと、大して年も変わらないように見えた。土と血に塗れ、かろうじて白かったとわかるローブの胸元で、美しい花を模った金色の飾りがきらりと光ったのを、フィリップは覚えている。
その姿に一切の敵意がないことを、霞んだ意識の中でフィリップは悟っていた。これだけ攻撃しているというのに、彼女から攻撃系統の魔法はおろか、防御する様子もない。
その人からは、一切の魔力を感じなかった。
僅かに緩んだ暴風の隙間を縫って近づいてきたその人は、まるで多くの時を重ねてきたような落ち着いた口ぶりで、フィリップの額をつついて、言った。
「よく、頑張ったね」
ぴたりと止まった魔法を確認して、少しだけ安心したように唇を綻ばせたその人は、そっとフィリップを抱きしめた。
頭を数度撫でられたのを、フィリップは感じた。額がつつかれる感触があった。その人の顔を確認しようと顔を引いて、汚れ切ってもなお美しいその細い顔に息を呑んで、微かに微笑みの形を作った唇を認めた瞬間、その人はフィリップの腕の中で意識を失った。
そこから先は、あまり覚えていない。
夕暮れの光が僅かに差し込む部屋の中で、寝台に横たわるその人の姿だけが、今でも鮮明に蘇る。
そして、目が覚めた時、その人は言った。
「決めた。君は今日から私の弟子だ。そうだ、名前を聞いていなかったね。しまった、順番を間違えた」
そう言って照れたように笑みを浮かべてみせたその人は、笑いを滲ませた声で言った。
「私はルシル・アシュリー。君の名前は?」
そう言うその人――ルシルの胸元には、
「……フィリップ」
「フィリップ。うーん、フィルで良いね。その方が親しみがあって良いだろう?」
腕を動かそうとして失敗したルシルは、その翡翠を滲ませたような薄い色の瞳に、溢れんばかりの優しさを灯して言う。
「よろしく、フィル」
その瞬間、フィリップは恋に落ちたのだ。
あの時、力無く横たわっていたルシルの姿と、今腕を隠そうと躍起になっているルシルの姿が、ぴたりと重なる。
命に別状はないと分かっていても、それでも、フィリップは怖かった。
後に、本来なら『魔人』は聖マートリア教会に閉じ込められ、その魔力を封じられて一生を過ごす運命だったと知った。そして、ルシルがフィリップを引き取ったことで、教会から追放されたと知った。
全てを救われたフィリップは、ルシルを守ることを誓った。その強大な力は、ルシルのため以外に使わないと、心の奥底の一番大切な場所で誓った。
返しきれないほどの恩と、決して受け取ってはもらえない罪悪感と、引き攣れるような恋心を抱えて、フィリップはルシルを守ると決めた。
けれどまたルシルは、こうして力なく横たわっている。全ては、フィリップの至らなさ、故で。
「フィル」
あの日と同じように、ルシルは優しくフィリップの名を呼んだ。その瞬間に、フィリップは顔を歪める。
その表情を見て、ルシルは眉を下げた。
真面目で責任感の強いこの弟子が、ずっとルシルが教会から飛び出したことを気にしているのは知っている。
フィリップを見捨てるくらいなら、追放されようとも構わなかった、とどれだけ言い聞かせても、フィリップが罪悪感を抱え続けているという事実は消えなかった。
俯いたフィリップの首元から、金色の飾りがこぼれ落ちた。
一見
危険視されていたフィリップを外に出すための条件。それは、もし何かあったら、ルシルがその手で、フィリップを『処分』すること。
大聖女ルフェリアが手ずから作った、禁術の『呪い』と呼ばれる術式が封じ込まれた首輪。そして、その起爆装置は、常にルシルの手の中にある。
その気になれば、ルシルはいつだって、フィリップを『処分』できる。
それはいわば、拘束だ。決してルシルの元からは離れられないという、ルシルには逆らえないという、呪詛のようなもの。
それを知ってもなお、フィリップはいつだって真っ直ぐにルシルに手を伸ばす。自らの意思でルシルの隣を選んでいるのだと、ルシルに訴える。
泣き出しそうな、今にも自分で自分を刺しそうな、そんな表情で俯くフィリップを、ルシルは霞む視界で見上げた。どうやら熱が出てきているようで、瞼は重く、意識が朦朧としている。
「おいで、フィル」
その言葉に導かれるように、そろそろと近づいてきたフィリップの端正な顔を見て、ルシルは微笑む。
それが呪詛であるのなら。
フィリップに、せめて幸せを与えたいと思うのは、自己満足なのだろうか。
「もっと」
優しく、宥めるように声を掛ければ、戸惑ったような表情を浮かべたまま、フィリップがさらに身を寄せる。
先程よりも、この方がずっと良い。良いけれど。
「師――」
ほんの少しだけ動く身体を持ち上げて、ルシルはそっと、フィリップの頬へと唇をそわせた。
「な、し、えっ」
ルシルは、フィリップの顔を見つめる。
真っ赤になった頬。焦ってはき出された吐息と、どうして良いかわからないというように彷徨う視線と、けれど勝手に持ち上がっているらしい口角と。
こういう顔の方が、ずっとずっと良いのだ。
ほんのりと幸せな気持ちで、ルシルは再び意識を沈ませた。
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