第6話 誓いと呪い

 ルシルが次に目を覚ました時には、窓の外は暗くなっていた。

 寝る前までは全く動かなくなっていたはずの身体は、今はかろうじて上体を起こせるくらいには回復している。きっとフィリップがあらん限りの魔力を注ぎ込んだのだろうと、ルシルは苦笑した。

 フィリップは治癒系統の術式が苦手だ。それでもルシルのために、必死で魔法を使い続けたのだろうと思うと、ルシルの心は温かくなる。


「師匠!?」


 不意に、がしゃん、と扉の方で音がした。

 手に持っていたものを取り落としたらしいフィリップは、けれどそれらを一切気にすることなく、足早にルシルの側へとやってくる。


「師匠! 何起き上がってるんですか! 寝てください寝て!」

「寝てばっかりだと飽きると思わないかな?」

「馬鹿ですか!? 横になってください!」


 渋々横になりながら、ルシルは横目でフィリップの表情を伺う。

 呆れたような表情はいつも通りで、ルシルはこっそり安堵した。


 他意はなかった。フィリップに笑ってほしいと思って、どうすれば笑ってもらえるかと考えて、そしてあの時のことがふっと頭をよぎったという、それだけのことだったのだ。


 ひんやりとした布で手際よくルシルの額を拭い始めたフィリップの腕を止めようとするも、これくらいはやらせてください、と言われれば、今のルシルには従う以外の道はない。

 そういえば前にもこんなことがあったな、とルシルは懐かしく思い出していた。


 薄暗い室内の中で、灯された小さな灯りだけがゆらゆらと揺れる。

 そのなんともしんみりとした空気に耐えきれなくなって、ルシルは口を開いた。


「それで、あの後はどうなった?」

「そうですよ師匠、なんで魔法に飛び込むなんてことしたんですか」

「まず私の質問に答えてくれるかな? 師匠が優先、弟子はその後」

「暴論です。そういう上官は嫌われますよ」


 小さな軽口の応酬に、フィリップはルシルに気づかれないようにそっと息をついた。

 この方がずっと、ルシルらしい。決してあの時のように、熱で潤んだ瞳でフィリップを見上げて、その瞳の中に溢れんばかりの感情を閉じ込めて、唇を、などと、ルシルはそういう人ではないはず、だ。

 数度唾を飲み込んで息を整えると、フィリップは冷静を装って口を開く。


「師匠が意識を失った後、聖女の皆さんは死ぬほど怒ってましたが」

「だろうね」

「二発目の準備を始めた頃、突然魔物が追跡を振り切って、逃げ出したんです。森の中に入っていって、見えなくなりました」

「……へえ」

「誰も理由が分からなくて、呆然としていて。その後は俺も師匠を連れてあそこを離れてしまったので、知りません」


 考え込むように視線を落とし、一瞬の間の後にルシルは悪戯っぽく口を開いた。


「嘘はよくないね、君」

「……なんのことでしょう」

「魔物に関係がなくとも、起こったことはきちんと話してくれないと」


 気まずそうに視線を逸らしたフィリップの顔には、どうして分かる、とありありと書いてある。

 あまりにも分かりやすいフィリップの姿に小さく噴きだしながら、ルシルはフィリップを促した。


「それで?」

「師匠が気絶した後、その、あの女たちが師匠に向かって」

「フィル、口調」

「……すみません。あの聖女たちが、師匠を攻撃しようとして」

「あー、良いところで邪魔しちゃったからね」

「それで、つい、その……」

「手は出したのかな?」

「いえ! 少し威嚇というか、その近くにちょっとした術式を……」


 フィリップの「ちょっとした術式」が到底威嚇とはいえないものであることを、ルシルは知っている。

 師匠として窘めるべきと分かっていながら、ほんの少しだけそんな弟子の姿が嬉しいルシルであった。

 

 怒られる、とばかりに身を縮めているフィリップを見つめたルシルは、動くようになった手を伸ばし、軽くフィリップの額を弾いた。


「やりすぎ。……でも、ありがとう」

「っ師匠」

「私がこうして五体満足でいられるのは、どうやらフィルのおかげみたいだからね」


 そう言って笑ったルシルの姿に、フィリップは唇を噛む。

 優しい人だ。今回の件に関するフィリップの罪悪感を減らすために、ルシルはあえて叱らなかったのだと思う。


「ところで、君にお願いがあるんだけど」

「何でもします」

「いいのかな、そんなに即答して」


 咄嗟に答えてしまってから、フィリップは慌てて口を塞いだ。ルシルは、本当に、文字通り何でもさせてくるのだ。蘇るのは、今までの記憶。山を登らされたり下らされたり、川を泳いだり走ったり、修行と称した地獄のような使い走りの日々。

 それを思い出したフィリップの表情をあっさりと笑い飛ばしたルシルは、言葉を続ける。


「調べてほしいことがある。そうだね――この国の北の方で良いかな、そのあたりで起こった事件について」

「事件?」

「人が狂ったとか、そういう類のものが良いね。人でなくても良いけど、魔物は狂ったところで普通の人間には分からない。病とか、確実に原因の分かっているものは外して探してくれるかな」

「……なぜそんなものを?」

「秘密」

「師匠!」


 不満げな表情をありありと浮かべたフィリップに、ルシルはくすくすと人の悪い笑い声を立てる。


「大丈夫、今回の件にちゃんと関係のあることだから」

「今回の師匠の馬鹿――失礼、阿呆な行動にも関係のあることです?」

「全然訂正できてないね」

「訂正する気ないですからね」

「全く、誰に似たんだか」


 ひらひらと手を振り回したルシルは、そのまま言葉を続けた。


「まあそうだね」

「説明してください。そうしたら行きます」

「嫌だ」

「師匠!!」

「憶測で物事を話したくないんだ」

「そんなこと言って、俺を揶揄いたいだけでしょう」


 否定はせず、ルシルは指先を2本立て、棒を挟むような仕草をすると、口の前に持っていってわざとらしく息を吐く。


「探偵はいつだって、手がかりが全て揃ってから謎解きを始めるものだろう?」

「探偵はいつだって、自分の足で証拠を集めるんじゃないんですか!」


 勢いのままにそう叫んでから、フィリップは失言に気がついて口を噤んだ。すみません、と謝りかけた声を、ルシルの笑い声が吹き飛ばす。


「そうしたいのは山々なんだけどね。あー残念だなー、私も汗水垂らしてこの死ぬほど暑い国で昼夜埃まみれになって駆け回りながら調査したかったなー」

「……これから調査をする俺への当てつけですか?」

「いや、調査がしたくてしたくて堪らないんだよ。なんて言ったって、私は調査をするために生まれてきたと言っても過言ではないからね。あー、調査がー、したいぃー」


 奇妙な節をつけて歌い始めたルシルの姿を見て、フィリップは精一杯の笑顔を浮かべる。

 フィリップを気にさせないようにと、わざと道化のように振る舞っていることは分かっている。そういう人で、そういう人だから、フィリップはルシルが好きだ。

 今度こそルシルを傷つけさせない、とフィリップは心に誓う。そうして、ルシルの手を取った。そのまま、寝台の脇に跪く。ぴたりと、下手くそな歌が止まった。


「フィル?」

「師匠。俺があなたを、守ります」


 フィリップは顔を上げて、ルシルの顔を見据えた。

 驚いたように見開かれた薄い色の瞳から目を逸らさず、フィリップは告げる。


「俺の全ては、師匠に貰った。だから俺の全ては、師匠のものです」


 あなたが、好きなんです。

 その言葉は、胸の中にしまい込む。困った顔をさせたくはなかった。


 けれどその意図に反して、ルシルの眉が少しだけ下がる。顔を傾けて、フィリップを見下ろすルシルは、なんだか今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「フィル――フィリップ」


 初めてきちんと呼ばれた自分の名に、フィリップは息を呑む。

 これ以上なく慕っている人の口から溢れるその名前は、聞き馴染んだもののはずなのに、ずっと違う色を帯びているように思えた。


「君には、ありとあらゆる可能性がある。確かに最初は制御が効いていなかったけれど、今ではほとんどそんなことはない。感情と魔力を切り離せるようになってきている。……私が関わらない限り、ね」


 ルシルは目を伏せた。ずっと、考えていたことだった。

 フィリップはまだ若く、極めて優秀な魔法の才能を持ち、顔立ちも申し分ない。聖マートリア教会にしろ魔術塔にしろ、それ以外の魔術を必要とされる場所にしろ、就職先には困らないだろうし、どこへ行っても、ルシルの元よりもずっと良い暮らしができるはずだった。

 『魔人』だなんだと呼ばれていても、フィリップを気にする視線を向ける人間が多いことは知っている。結局のところ、『無能聖女』と一緒にいるから、そのように呼ばれているだけだ。

 強大な力は、敵にあれば魔王、味方にあれば勇者。


「これを」


 ルシルは、今まで片時も離すことのなかった装置を取り出した。フィリップの首にかけられた飾りと対になった、同じく首飾りの形をしたそれは、僅かな光を反射して鈍く輝いている。


「君に渡すよ。これで君は、自由だ。もう私が君を制御する必要はどこにもない」


 幸せにしたい、という気持ちに偽りは無い。笑っていて欲しいと、心から思う。

 ルシルにとって、もうフィリップはかけがえのない存在だ。

 その上で、それでも、今までその呪いを解こうとしなかったのは。フィリップを手放すことを決められなかったのは。


 強大な力は、手元にあるだけで武器になる。

 それが、大きな権力を持つ聖マートリア教会への嫌悪を、復讐心を燻らせながらも、聖マートリア教会に睨まれながらも、今までルシルが平然と生き延びられた理由であった。フィリップの力は、間違いなく、牽制として機能していた。

 それは紛うことなき、ルシルの私利私欲。


 本当に幸せにしたいと、願うのならば。


 そろそろ頃合いだと、分かっていた。


「君はさ、こんなところで燻ってて良い人間じゃないよ」


 痛いほどの、沈黙だった。

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