第2話 聖マートリア教会

「ちょっと、そこのあなた」

「急に何なのよ!」


 バラッタ山脈にほど近い街、ラツェル。

 リズリー樹林の中央に横たわる『王家の大河』に沿うようにして広がる、王国南部最大の街だ。

 反対岸が見えないほどに広い大河をひっきりなしに船が横切っていく。日に焼けた肌を晒し、水飛沫を立てながら舟を漕ぐ男性の横を、王都から来たであろう巨大な魔導船がゆったりと通過する。

 大きな波に煽られた舟を腕の力で押さえ込んだ男性の漏らした短い悪態は、魔導船の立てるけたたましい音にかき消された。

 

 南部の流通を一手に引き受けるこの街は、いつでも威勢の良い掛け声が響き渡り、喧騒に包まれている。

 そんな光景の中、ルシルは、同じく純白のローブを纏った人影の右腕をしっかりと掴んでいた。


「何って、あなたの行動が少しばかり気になってね」

「何がよ!」

「さっきから何、何って、それしか言えないのかな?」

「……師匠、無駄に人を煽るのはやめてください」


 溜め息をついたフィリップは、ルシルに買ってこいと頼まれていた魔道具を一度地面に置く。

 そうして目の前の光景を見て、やれやれと首を振った。


 彼女が纏っているのは、一見ルシルのものとよく似た白いローブ。しかしその生地の上には、金糸で精緻な刺繍が施されている。

 複数の花弁が重なり、その中央から、まるで流れ星が跡を引いて飛んでいるように細い線が伸びている。その線の先端には小さな丸が宿り、本当に花の中央から流れ星が飛び出しているように見える。

 聖花、マートリア。異国出身であったという始祖聖女が持ち込んだこの花は、魔法で完璧に整えられた環境の中でしか花開かない。

 

 彼女の胸元に輝くのは、金色の飾り。

 真円の中にマートリアの咲き誇るその紋章――聖女の証マートリア・エンブレムを身につけられる人間など、聖女以外にあり得ない。

 ほとんど何も持っていないに等しい軽装から、フィリップはラツェル第二支部所属の聖女だろうと当たりをつけた。

 そして、そんな人間の両手を片手でまとめ上げているルシルの姿は、あまりにも異質で目立ちきっていた。


「師匠、あなたは行く先々で問題を起こさないと気が済まないんですか?」

「起こしているわけじゃなくて、向こうから問題がやってくるんだよ」

「口の減らない人ですね。それで、どうしたんです」


 ぼうっと突然現れたフィリップに見惚れていた彼女は、その一言を聞いた瞬間に弾かれたように喋り出した。


「この人がいきなり私の腕を! 離しなさいよ!」

「あなたは何をしようとしていた? まさかとは思うけれど、彼からお金を取ろうとしていたのではないよね?」


 その言葉にゆっくりとフィリップが近づけば、2人の間でちょうど影になって見えなくなっていた人影が目に飛び込んでくる。

 幼い子供のようだった。痩せ細り骨が浮き出た彼は、震える指先で、金糸に彩られたローブの裾を握りしめている。

 一目見るなり、フィリップは彼が弱った様子であることを、そしてわずかに治癒系統の魔法がかけられた痕跡があることを悟った。そして同時に、この騒動の全ての理由を悟った。


 相変わらずな人だ、とフィリップは溜め息をついた。けれどその呆れた風を装った息の中には、抑えきれない温かい感情が滲み出ていた。


「これくらいの病人の治療など、あなたには容易いことだろう。人体副属の初歩の初歩、聖女であれば誰でも息をするようにこなすはずだ。こんな少年から、わざわざお金を取るほどのものではないんじゃないかな?」

「そう思うんだったら、あなたがやれば良いんじゃない!」


 その言葉に、ルシルは一瞬動きを止める。それを見逃すような相手ではなかった。


「できないんでしょ! あなた、魔力もなさそうだし! ただの人間は、黙っていてもらえ――」

「あの」


 乱暴な、低い声。

 突然腕を強く掴まれた彼女は、一瞬でその勝ち誇ったような笑みを消し、目に恐怖の色を浮かべた。


「黙ってくれませんか」


 一瞬で距離を詰め、低く絞り出すように口にしたフィリップは、冷え切った目で彼女を睨みつける。


「な、にを」

「黙って聞いていれば、俺の師匠に――」

「フィル」


 落ち着いた声に、フィリップは数度瞬いた。そうして震える声を押さえつけて、ゆっくりと返す。


「なんですか」

「やめなさい」


 ルシルは静かに、言い聞かせるように口にした。

 美しい顔を冷たく凍らせ、万力のような力で彼女の腕を掴むフィリップからは、ゆらゆらと湯気のようなものが上がっている。

 比喩ではなく、制御しきれなくなった魔力がフィリップの周りを漂っているのだ。近くにあった舟がぴしりと音を立て、風もないのにざわざわと木々が揺れる。

 その迫力に、蜘蛛の子を散らすように人が逃げていく。

 ちらりとその姿を横目で確認して、ルシルはもう一度繰り返した。


「やめなさい」

「でも」

「フィル!」


 一瞬声を鋭くしたルシルに、一度震える息を吐いたフィリップは手を離した。

 すぐさま飛び退いた彼女は、勢いよく話し始める。


「あなた、いきなり人の腕を掴み上げて何考えてるの! 痛いんだけど! ほら跡だって!」

「すみませんでした」


 静かに頭を下げるルシルの姿を、フィリップは呆然と見つめた。


「師――」

「うちの弟子が、ご迷惑をおかけいたしました」

「ふん!」


 まだ怒りが抑えられないという表情で立ち去ろうとする彼女を、ルシルは呼び止めた。


「彼に、お金を返してないだろう」

「は?」

「うちの弟子の失礼とこれは、別の問題だ。治療費を取るほどの術式ではないと、さっきから言っていると思うんだどね」

「あんた、まだ!」

「聖女であるあなたが、恥ずかしくないのかな? 聖マートリア教会は魔術塔と違って、庶民に寄り添う機関のはずだけれど」

「綺麗事を。みんなやってるじゃない!」


 その言葉を聞いた瞬間に込み上げた嫌悪に、ルシルは引き攣りそうになる頬を抑える。

 ルシルは聖女たちが嫌いだった。心の底から、と言って良いほどに。


 聖女は特権階級だ。

 魔力は神によって与えられる力。それを使うことができる人間は限られている。だが魔物は多い。病気は後を絶たない。

 優秀な魔術師たちが集う魔術塔は、全て王侯貴族の贅沢な生活のためにあり、軍事のためにあり、決して平民に手を差し伸べることはない。そもそも魔術塔の魔術師たちは、多くが専門機関で高度な教育を受けた貴族だ。だから困った人々は、もはや聖女に、聖マートリア教会に頼る以外の道は残されていない。

 そんな状況に思い上がって、法外な料金を取るもの、我が物顔に振る舞うもの。そんな人間だけとは言わないが、そんな人間ばかりではあった。本来彼女たちを監督するはずの上級聖女も、大聖女ルフェリアも、そんな光景を見てもなお一切動かない。

 

 一切の友であれ。


 聖マートリア教会に入るとき、ルフェリアの甘く涼やかな声で誰もが聞かせられることになる、神が始祖聖女に伝えたという言葉。

 色とりどりの光の中で、静謐な空気を揺らすその言葉と共に首にかけられる聖花マートリアは、聖女の誇りであるはずだった。


 ルシルは、目の前で憤る聖女を見つめる。顔を赤くして声を荒らげる彼女に、聖女としての気品も、誇りも、かけらも感じ取れはしない。


 魔力は、一部の人間が持つ選ばれた力だ。

 権力を持つ王侯貴族が全てを握り、贅沢のため、戦争のために使われて、決して民の元へと回って来ないその力を、民のために使えと啓示を受け、始祖聖女は聖マートリア教会を作ったという。

 始祖聖女は神に愛されていたと伝えられている。神の声を聞き、神の力を持って、神に代わって人々を救った。それを受け継ぐのが歴代の大聖女であり、聖マートリア教会であったはずだった。

 しかし、聖マートリア教会は、もはや聖の名を冠するに相応しくないところまで堕ちた。

 

 搾取するものと、されるもの。

 聖マートリア教会は、長い年月の間で歪み、腐り落ちていった。


 ルシルの母はかつて、聖女だった。まさしく、聖女と呼ぶに相応しい人だった。神の言葉を信じ、始祖聖女の後を追う、清らかで美しい人だった。憧れずにはいられなかった。母のようになりたいと、ルシルはいつでも願っていた。

 しかし、その母もまた、大聖女ルフェリアによって闇へと葬り去られた。


 今の時代に残る聖女は、ルシルが嫌う人間ばかり。

 そうして目の前の彼女は、その主たるものだった。


「やらないよりましよ! 命より高いものはないでしょう! やることすらできないあなたが、偉そうな口聞かないで!」

「そうだね」


 ルシルは苦笑する。


「確かに私はできない。けれど、私はルシル・アシュリー。ああ、『無能聖女』と言った方がわかりやすいかな?」

「っな!?」

「私の得意なことは、魔法を使わずに物事を解決すること。例えば――」


 ルシルは、ちらりとフィリップに目線を送る。その視線を辿った彼女は、一瞬で顔を青ざめさせ、硬直する。


「まさか」

「フィル?」


 優しい、ルシルの声。

 それを聞くや、彼女は一目散に逃げ出して行った。彼女の手から放り出された硬貨が、地面に跳ね返って甲高い音を奏でる。

 くるくると回るそれを拾い上げたルシルは、未だに座り込んだままの彼の手に、強引にそれを押し込んだ。そうしてゆっくりと立ち上がると、ぐうっと伸びをする。


「困ったね、今のは全然清らかでも聖なる感じでもなかったかな」

「師匠はいつだって俺の聖女です」

「ふふ、ありがとう」


 その言葉にふっと頬を緩めたルシルだったが、すぐに表情を一変させる。


「さて、フィル」

「……はい」

「私は常々、君に教えてきたんだけどね」


 ルシルは精一杯真面目な顔を作って、フィリップを見下ろした。

 

「さっきのは、よくない。分かるよね?」

「すみません。……師匠に頭を下げさせるなんて」

「私が言いたいのは、全くもってそういうことじゃないんだけどね」

「分かってます。でも俺は認めたくない」


 フィリップは、目の前に立つルシルを睨みつけた。

 ほっそりとした腰、華奢な腕。無能と蔑まれた時、純白のローブから覗く指先に、一瞬力が入っていたことを、フィリップが見逃すわけがない。


「あなたがあんな風に侮辱される姿を、黙って見ているなんて俺にはできません」


 だってこの人は、紛れもない天才だけれど、

 フィリップとそう歳も変わらない、1人の女性だと、そう思うのだ。


「気持ちは嬉しいけどね」


 ルシルが浮かべた、眉を下げた微笑みのような表情に、フィリップは唇を噛む。


「私はもう慣れているから、気にしていないよ。それより君、初対面の人に、あれはなかなか失礼な態度じゃ――」


 ルシルの言葉が途切れた。

 数拍置いて、大きく目を見開いたルシルは、離れていくフィリップの顔を見つめる。

 荒っぽく自らの唇を拭ったフィリップは、くるりとルシルに背を向けて、苛立ったように呟いた。


「すみません。でも、俺は、それだけ、あなたのことが好きなんです」


 うるさく騒ぐ心臓を、どこか他人のもののように抑えながら、ルシルは離れていく後ろ姿を見つめていた。

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