第一章 無能聖女と恋する弟子

第1話 お気楽聖女と不審な依頼

「師匠」

「何かな?」


 氷魔法もかくやという冷たさを持ったフィリップの声に、ルシルは読んでいた本を放り投げて寝転がっていたソファから起き上がる。

 フィリップに言われるまでもなくきちんと座り直したルシルは、頬に手を当ててわざとらしく首を傾げた。


「毎度毎度、あなたはどうしてこうなんですか」

「こう、とは?」

「こうといったらこうですよ!」


 フィリップの大声に、部屋の隅で毛繕いをしていたふわふわと丸い小動物が慌てて逃げ出す。

 散らかり切った室内。積み重なった本に、飲み差しの紅茶、倒れたインク壷の上によじ登った毛玉が、かりかりと固まった漆黒のインクに歯を立てている。

 開け放たれた窓からは、気まぐれに数匹の鳥が出入りしていた。


 フィリップに促され、ぐるりと室内を見渡したルシルは、そんなことか、と苦笑した。


「いつものことじゃないか」

「はいいつものことですとも! それで毎回毎回片付けるのは俺なんですよね!」

「しーっ、フィル。マオちゃんたちが驚いてる」

「……マオちゃん?」


 部屋の隅で震えている数匹の動物に目をやって、フィリップは深い溜め息をついた。


 毎回毎回、この人はそうなのだ。


 曰く。

 

 戦場にあっても一切揺るがずに戦局を見つめ、操り、最小限の労力で魔物を退治してしまう。

 王都の魔術塔に勤務している上級魔術師を凌駕するほど、魔術や系統、魔物への造詣が深い。

 腐敗した聖マートリア教会を飛び出し、人々のために尽くす始祖聖女の生まれ変わり。


 魔力を持たないというのは真っ赤な嘘であり、禁術を操って汚れ切った成果を上げる。

 聖マートリア教会の規範を無視して危険極まりない『魔人』を囲い込み、廃墟で怪しげな実験をしているという魔女。


 ありとあらゆる噂に事欠くことのない『無能聖女』ルシル・アシュリー。

 けれど一度気を許してしまえば、自由気ままで怠惰な1人の若い女性。


「私は片付けろだなんて一度も君に言ったことはないんだけどね」

「そうかもしれませんが! こんなんで、俺を拾うまでどうしてたんですか!」

「あー、まあここにはいなかったから問題ない、かな」

「……っそれは」


 言葉に詰まったフィリップの表情を目にしたルシルは、呆れたように笑う。


「君は気にする必要はないって、私は常々君に言ってるんだけどね」

「……はい」


 全て、フィリップが原因で。

 魔力を持たないながらも、国で最高と言って良い討伐実績を誇るルシルが、このような日差しの届かない小さな館に押し込められて、日々細々とした依頼をこなすぎりぎりの生活をしているのは。

 時折聖マートリア教会から面倒だが名誉にも金にもならない仕事を押し付けられているのは。

 全て、あの日に『魔人』フィリップを助けたせい。

 

 それでもルシルは、笑って言う。


「まああの時は、私も若かったってことで」

「師匠、何歳ですか」

「ちょっと君、それは女性には禁句だって教わらなかったのかな?」

「少なくとも俺よりは上ですよね」

「その話題はやめようか?」


 笑顔にただならぬ迫力を浮かべたルシルの姿を見て、フィリップは大人しく頷く。

 何やらごそごそと胸元を漁っているフィリップを、午後の眠気でぼんやりとする目で見つめていたルシルの前に、一枚の紙が置かれた。


「依頼です。教会からですね」


 それを聞くなり苦虫を噛み潰したような顔を浮かべたルシルは、まるで汚いものを触るかのように指先だけでそれを摘み上げる。

 面倒だ、と言うのがありありと見える表情で、再びだらりと崩した姿勢で文字を追っていたルシルだったが、読み進めるにつれて、その表情が少しずつ変化する。

 ぴしりと伸ばされた背筋。少しだけ目を細めて文字を読むその表情には、先程までの眠気は一切見受けられない。


 その表情にフィリップは一瞬見惚れ、そうして少し視線を落とす。


 この人はやはり、こんなところで燻っていて良いような人間ではない。

 ルシルは、気にするな、と言う。けれどフィリップは思うのだ。


 国の中枢に位置する聖マートリア教会。

 数百人の聖女が、日々魔法の腕を磨きながら民を癒し、魔を倒している、あの壮麗な建物。

 聖花マートリアを模ったステンドグラスが、白を基調としながらも豊かな色彩を辺りに振り撒くあの中央にこの人が立ったら、それはどれだけ美しい光景だろうか、と。

 

 かつてルシルは聖マートリア教会の聖女だった。

 『無能』すなわち一切の力を持たないルシルが、難関と噂の試験を突破し、聖女になるまでには、どれだけの苦労があっただろうか。きっとそれは到底、フィリップが想像できるようなものではない。

 この国に生まれた平民であれば、誰もが憧れる場所、聖マートリア教会。『無能』の身でありながらそこを目指したルシルは、一体どれだけその場所を欲していたのだろうか。


「またよからぬことを考えてるな、君は」


 突然響いたルシルの声に、フィリップは飛び上がった。

 とっくに渡された紙を読み終えていたルシルは、目を伏せて俯いていたフィリップの額をつつく。


「私はあの場所が嫌いだったんだから、むしろ感謝してるんだよ。君も知っての通り、あそこは腐りきってる。私利私欲で動く連中ばかりで、始祖聖女様が知ったらどう思うことか。君のおかげで格好よく辞められたんだから、さ。ほら格好いいじゃないか、道を失いかけているいたいけな青年の命を救って、だなんて」

「……」

「あーもう、ほら君の悪い癖だよ。そうやってすぐ落ち込んで、君は昔から変わらないね」

「昔といっても、数年前の話でしょう。人を赤子みたいに」

「赤子ねえ。確かに私にとってフィルは可愛い弟子だけど」

「男です」


 それはそうだろう、という表情を浮かべるルシルの、翡翠をわずかに溶かしたような色の薄い目を見つめ返すと、フィリップはもう一度繰り返す。


「男です」

「うん、そうだね」

「男ですから」

「知ってるよ、逆に男じゃなかったらなんなんだい?」

「男なんですよ」


 しつこくフィリップに見つめられ、ルシルは降参の意を込めて両手を上げる。


「そうだね、フィルは私の可愛い男の弟子だ」

「……」


 沈黙したフィリップの視線を遮るように、ルシルは紙の束を持ち上げる。

 強大な力を持つルシルの愛弟子、フィリップ。姓はない。少なくとも、ルシルは知らない。


 ルシルがフィリップについて知ることは少ない。

 フィリップ、という名前。孤児であること。信じられないほどに綺麗な顔立ちをしているということ。とにかく強大な、本人でも制御できないような強大すぎる魔力を持っていること。そして、


「俺は、男として師匠のことが好きですから」


 いつからか、こうしてルシルのことを口説くようになったということ。


「私も君のことは大好きだよ。なんと言っても可愛い弟子だからね」


 なんと答えて良いか分からず、結局はぐらかしてしまうルシルの顔を見て、堪えるような、苦しむような、そんな表情を見せること。それくらいだ。


「ところで、フィル、この書類は読んだ?」

「いえ、師匠宛のものですから」

「君は真面目だね。覗きの一つや二つ、誰でもやるものだろう」

「やって良いんですか?」

「許可をとってやって何が面白いのかな? こういうのは見つからないようにやるのが一番だよ」


 ルシルが無造作に投げた書類を危なげなく受け取ったフィリップは、さっと目を通す。

 すぐに、その眉間に皺が寄る。その様子を楽しく見守っていたルシルは、フィリップが目を通し終わったのを確認して、口を開いた。


「さて問題。気になることは?」

「師匠、俺を試してますね」

「全く? 優秀な弟子に教えを請おうと思って」

「相変わらずですね」


 もう一度紙に目を落としたフィリップは、少し緊張しながら口を開いた。


「魔物の規模が、大きすぎる気がします」

「というと?」

「被害者も多いですし、魔物もそれなりの強さです。しかし、他の討伐参加予定の聖女は聞いたことのない名前ばかりで、明らかに討伐難易度と釣り合ってない。これくらいの規模となれば、幹部級の聖女か、少なくとも上級聖女の1人くらいは出てきそうなものです。ラツェル第二支部も近いですし」

「そうだね」

「そして、それはともかく、一番はこんな大掛かりな討伐に、その――」

「私が呼ばれるわけない、か」


 言いづらそうに言葉尻を濁したフィリップの後を継いで、ルシルが頷く。


「これを倒せば相当な名誉。賞金も多いだろうから、教会から配られる報酬も多いだろう。そんな美味しい討伐に、私が呼ばれるわけがない。なんと言っても、私は残り物のお掃除係だからね」

「……っそんな言い方!」

「はいはい、落ち着いて。半分は正解。もう半分は?」


 ルシルに問いかけられたフィリップは、肩にかかった一筋の髪を弄りながら思案する。

 数年前から変わらないフィリップの癖に、ルシルはその髪に触れてみたい衝動を抑える。

 昔はよく勝手に触ってはフィリップに睨まれたものだが、フィリップが何度も強調するように彼も若い男だ。いきなり触れられたら嫌だろう。


 おもむろに、フィリップは立ち上がった。そのまま部屋の中をごそごそと歩き回り、本を引っ張り出してはひっくり返している。

 ぱっと散った毛玉たちが、本の山の影からこっそりとフィリップを覗いている。


「こらフィル、そんなに散らかして」

「師匠にだけは言われたくないです」

「何を探してる?」

「……リズリー樹林の魔物に関する本です」


 その答えを聞くや、満足げな表情を浮かべたルシルは、あっさりと口にする。


「どれだけ探しても、そこにはないよ」

「どうして分かるんです」

「私が持ってるから」

「師匠!」


 勢いよく振り返ったフィリップに、ルシルは先程から握っていた本をフィリップに向かって投げた。

 ばらばらと埃を振り撒きながら宙を舞うそれを一瞬嫌そうに見つめたものの、フィリップは受け取ると目当てのページを開く。


「やはり、この魔物ですよね」


 開かれたページには、大きな熊のような形をした魔物が描かれていた。

 体長は、ゆうに数メートルはあるだろう。尖った牙と鋭い爪、血のように赤い目が恐ろしげな風貌だった。全身が黒色だが、一つ特徴的なのが、その胸元にくっきりと浮き出た白い数本の筋だ。

 そこだけ毛がなく、皮膚が露出しているのだろう。

 ちょうどその部分をとんとんと叩いたフィリップは、真剣な顔で言葉を続ける。


「村人の目撃情報とも一致します。習性も極めて近い。この魔物だと思うのですが、師匠は?」

「さすが、よく勉強しているようで私は嬉しいよ」

「ですが」


 ふっと目を伏せたフィリップが、今度は書類に描かれていた地図を指差す。


「生息域が、大きくずれています」


 魔物の目撃情報のあった場所は、リズリー樹林よりやや東、バラッタ山脈の頂上付近だった。


「移動したとも考えられますが、樹林と山、しかも頂上付近では明らかに環境が違います。何かあったとしか思えません」

「そうだね」


 頷いたルシルは、未だ難しい顔で書類を覗き込むフィリップの背中を勢いよく叩く。


「ほら、行くよ」

「ど、こへ行くんですか」


 赤くなった頬を隠すようにフィリップは俯くが、ルシルはもうフィリップに背中を向けていた。


「それはもちろん、バラッタ山脈へ」

「待ってください師匠! 怪しすぎます!」

「そうだね」


 あっさりと肯定したルシルは、雑然と散らかった部屋の中で、唯一丁寧に壁にかけられていた純白のローブに袖を通す。


「何かあるとしか思えません! 師匠はもっと、教会に睨まれているという自覚を持ってください! この人選だって大聖女ルフェリア聖下でしょう、何か企んでいるかもしれませんし、もしかしたら師匠を陥れる罠かも――」


 白い袖を翻して、ルシルは振り返る。

 その顔に湛えられているのは、透き通るような、けれど芯の強さを感じさせるような、そんな微笑み。

 息を止めてその姿に見入ったフィリップの額を、ルシルはつついた。


「それでも、魔物は倒さなくては、ね。あんなに新米ばかりで、誰かに死なれでもしたら寝覚めが悪いじゃないか」


 扉の前に立ち尽くすフィリップの脇を通り過ぎて歩いていくルシルに、慌ててフィリップは振り返る。

 純白に包まれたその後ろ姿に向かって、フィリップは言う。


「師匠、好きです!」


 いつものように何も答えないルシルの後ろ姿を、フィリップも黒のローブを纏うや、慌てて追いかけた。

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