第2話 古枝の駐車場にて


 その人はキツいタール数のPeaceを吸いながら、ふう、とため息を一度吐いて、それからトントンと灰皿に灰を落とした。一緒に頼んだブラックコーヒを、ズズ、と汚い音で飲みながら、こちらに向かってまるで生気を感じさせない瞳で視線を寄越した。


 「それで? 書類はできた?」


 私は膝元を両手で擦り、もぞもぞと動いてから、夏だと言うのに冷えた背筋をぴしゃりと伸ばして、ぺこっと深くお辞儀するのだった。


 「申し訳ありません……っ! 弊社も急いではいるのですが、なにぶん人が足りていない状況でして……! の、納期には必ず間に合わせますので、それまでお待ちになって頂けると幸いです……っ!」


 私の言葉に、その人は眉を寄せて訝しんだ顔をして、粗雑な視線を投げかけてくる。

 信用ならない、とばかりに示されたその難色を、笑顔で何とか振り切るのが精一杯だった。


 そもそも、この人が会社に電話して、打ち合わせがしたいなどと言って私を呼び出すのが良くない。この人は私をじくじくとつついて謝るさまを喜んで眺めているだけなのだ。私を指名して今回この廃れた喫茶店に呼んだのも、私が必死に謝る姿が見たいという欲望のためだけだろう。熱心なことだ。この茹だるような暑さの中で、まざまざと突き刺さるような欲望だけが彼を駆り立てるのだろう。


 気持ち悪い、と、私はそのの禿げた頭頂部を眺めながら、特別美味しいわけでもない泥水のようなコーヒーを大人しく啜るのだった。



 「でさー、聞いてよ」


 私はこの人との打ち合わせが終わったら直帰していいと言われていたため、喫茶店を出るとそそくさと近くの駐車場に向かうのだった。紺色のワゴンRに乗り込む前に、もうすっかり暗くなった空を見て、はあ、とため息を吐く。

 取り出したスマートフォンの画面。時刻は20時を差していた。打ち合わせのあと直帰でもいいはずである、打ち合わせなんてものは退社時刻の五分前に入ったのだから。

 そこから約一時間半のあいだ、私はあの小汚いおじさんの相手をさせられ、もうすっかりくたくたに疲れ果ててしまっていた。


 慣れ親しんだ画面をスクロールし、いつものように電話をかける。会える時間はお互い週末にしかないから、仕事終わりにこうやって少しのあいだでも声を交わすのが当たり前になっていた。


 「ねえ、聞いてる?」


 「あー、悪い。今ゲームしながらだから反応遅れるかも」


 「はー? 何それ。彼女よりゲーム?」


 「通話は毎日してるんだから許せって」


 「信じらんない、本当に。私今までおじさんの相手させられてたんだよ?! よく分かんない所まで運転してきて、ナビ付けて帰らないといけないし! 今から帰るんだから!」


 「まー仕方ないじゃん、仕事なんだし。今どこ?」


 「そうやって仕事で片付けられる人はいいよね。今……どこだろ、……古枝って出てるけど、」


 「はあ〜? 遠っ! 早く帰れよ」


 「分かってるよー。でもよく知らない道だし、スピーカーにするから運転中通話しててもいい?」


 「別にいいけど」


 砂利を踏んで、車に乗り込む。

 バタン、とドアを閉めた瞬間、それは視界の端に見えた。


 ぼうっとした、黒い影。奇妙に伸びたふたつの黒い影は、腕のようだ。それが、私の車の前を、ひょろっとした形状のまま、塞いでいる。


 「……え?」


 そして、そのは、お面のような真っ白な顔をぐるんっと勢いよくこちらに向けて、どんどん近づいてくる。

 カーブミラーを覗き込むように、長く伸びたテープのような長い影の首は、そこからピタリとも動かなくなった。


 のようなそのお面の顔が怖すぎて、私も動けなくなる。

 硬直した身体は、びしょびしょになるほど汗をかいていた。

 おーい、と携帯のスピーカーから声が聞こえる。


 「今お前古枝のどこにいるの?」


 その声に、言葉を返すことは出来なかったし、息をつくこともできなかった。


 おかめのようなその顔は、スピーカーの音に反応すると、ぎょりっとその首を動かして、窓の方から私を覗き込んできた。


 「おーい、」


 形容し難いその影が発する声にもなりきれていない音に、私は錯乱して、何度もハザードをつけ、ありったけの力で叫んだ。


 スピーカーからどうしたと叫ぶ声がする。


 私は、それからのことを良く覚えておらず。


 次に意識が戻った時には、自分の部屋のベッドの上だった。


 私が体験した、夏の奇妙な体験談だ。


 

 

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