はるあらし・二

 12歳の春嵐姫が誓願の儀のために正殿に入った日、晴天、正中。

 片膝をついて首を垂れる王女の影が極限に短くなったとき、もう一つ王女の身に添う、そこにあるまじき影に神女は気づいた。

 感じたのはただ「不吉」だった。

 気涸れや悪意の類ではなかったために、ひとり秘めてきた。

 ときに健やかな皇女の姿を注視しつつ精霊に問い、ときに夢占をこころみ、そうした二年の末、影の主の名を知り、決めた。皇女は試しを受けなければならない、と。


 〈新涼の女神〉の本質は沈静と恵潤、ゆえにその名の泉にあるとされる効能は本来「浄化」だった。守護竜の見定めにかない泉に受け入れられた者は死という穢れさえも浄められる。それを人は「再生」という。

 安良と名のった少年とふたりがかりで翡翠色の竜の背から下ろした少女は、呼気さえあればただ眠っているかのよう、気がかりな影は見えなかった。神泉に触れさせるとそこから淡い光がひろがり、肌にしみいり沈んでいった。悩める神女がもちいた毒――正確には呪薬の効果は「停止」。浄化が為れば生命は止まった瞬間の続きを律動しはじめるだけのはずだ。

 だが皇女は影の主を知らない者のように言った。

 

 安良はつかのま憂わしげに考えこんだが

「姫さま」

 皇女の手をとり目をのぞきこみながら

「今のお名前を言えますか?」

「はるあらし」

「おいくつになられましたか?」

 穏やかに問いかけていった。

「14才」

「私がお別れしたときは?」

「10才」

 皇女は聡い。真顔ですなおに答えていた。

「12才のお祝いの日はどこで過ごされましたか?」

「帝城。宴につきあわされていた」

「では」

 安良は次に呆然としている女性を掌でしめす。

「あの方は、わかりますか?」

 真っ黒な髪が縁どる真っ白な顔から、濡れた膝、つま先まで見直してみる。呆然から不安に変わった様子であっても美しい。だが、

「ごめん」

 やはり覚えがない。

 安良はまた考えこんだ。軽く開いたままの唇に指をあて、視線を落とす。雲か、小島に寄り添っている巨大な生き物――おそらくは竜――が動いたのか、白桃色の姿が影に包まれた。

「夜と影に属する者の支配者たるお方。

 魔王――」

 口にした名をまだ秘めようとするかのように指を触れたまま。

明星あけづつおおきみの御名を、聞かれたことはありますか?」

 それは春嵐にとってもだいじな名であるらしいことは解ったが。

「……。

 知らない」

 眉のひそめぐあいから重大さが見て取れる――が、突如吹き荒れた風に驚いて眉根もまぶたも全開になった。

 泉はさざ波だち、藤の花が千々の波がしらとなってざわめいた。浮島のそばで青い巨竜が白金色の雲を残しながら空をかけのぼっていくのと入れ替わりに、蒼白な雷光を閃かせた暗雲が降りてくる。

皇女ひめみこさま…!!」

 ふたり、強風から庇いあいながら見ると、女神像のような女性は立ちあがって天――とどろく黒雲にむかい両手をさしのべていた。

「お許しください…!」

 花枝の波に打たれながら風にまけじと声をはりあげている。

「私、この場で罰をうけるつもりでした。

 ですが、いましばらくご猶予をくださいませ。

 私が確かめねばならぬことがございます」

 叫びきると花房の波をかきわけて走り、宙に身を投げた。その身が大風にすくい上げられ、ふたたび舞い落ちるのを、暗夜の津波のように迫りきた漆黒の竜の背が受けとめたと思うと、消えた。風だけを残して、ミルク壺に落とした木の実のように忽然と。


 巨竜が美女もろとも消え、晴れてゆく空を見あげて

「なんだ、今の」

 つい呟くと、安良がなぜだかふきだして、くすくすと笑う。

「そっ…、そんな笑うほど阿呆じみていたか、私」

「いえ、そうでは……」

 両手の指さきで口をおさえて笑いをのみこみ、それでもまだ可笑しそうに彼も空に目を向けた。

「あの方は、帝国最高の女神官。あらゆる霊的なものの大半から加護や奉仕を受けておられるとのことなので、ああいったこともおできになるのでしょう」

「それはすごいな。ほんとうに女神なのかと思った」

「そうなのかもしれませんね。〈夜の慈母〉さまの生まれ変わりだと言う方もいらっしゃるとか」

「そんな人に殺されかけたわけか……」

 今日初めて、いや、目覚めてはじめて気分が落ち込んでしまった。

 安良は聞きたがりの子をどう言いくるめるか考える母親のような苦笑を浮かべた。

「姫さまが落ち着いておられるのでホッといたしましたよ」

 幼いころにもよく、こんな表情かおをさせた記憶がある。

「お家でゆっくりお話ししましょう。

 ひとやすみなさって、もういちど起きればもとどおりかもしれません」


 遠く、白雲の波間を青竜が泳いでいた。

 上空を探すと翡翠色の飛竜が一人遊びのように旋回していたので、呼び寄せた。この子のことは憶えていて嬉しかった。

 二人乗りして西へと帰る。竜の背で支えあい間近で見る乳兄弟の、産毛が光る頬の線を見ながら、やはり桃の匂いがするなと思っていた。


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