はるあらし・一
はじめに感じたのは果実のような甘い香りで、母がふくませてくれた桃を思い出した。そのせいか春嵐はまぶたと同時に口を開いていたらしい。潤った冷たい空気が流れ込んで喉が鳴ると、頭をなでてくれていた手がとまった。淡い光に滲む視界に泣いている顔があって、そのまつ毛から吐息にふるわされたように涙がおちてきた。
なぜ泣いているんだろう。なんとなく、自分のために泣いてくれているのだとわかった。
――母様?
母の
泣いている人の膝を枕にしていたのだと気がつき、ずり下がって向き直りながら半身を起こした。
「すまない。重かったろう」
「いいえ」
驚いたように明るい色の目を瞬かせたが、ふわりと笑みこぼれて
「だいじょうぶですか?」
とたずねられた。急に起きて、ということか。寝ていたのだな、自分は。見回すと藤花が十重二十重に低く垂れこめた中にいて生家の庭かと思ったが、初めて見る泉のほとり、知らない場所のようだ。なぜ知らないところで寝ていたんだろう。
知らない人もいる。シダを踏む真っ白い足を澄んだ水に濡らして、女神像のように静かにたたずんだ女性に見守られていた。とんでもない美女だという他には、この人に感じることはない。だが、たちのぼる水しぶきがその人のまわりで虹色の靄となってきらめいている様子は後光を発しているかのようで目を奪われる。
あたりはほの暗くほの明るい。花とばりの向こう、藤の天蓋の上を巨大な生き物の体が覆っていたが、漏れ入る陽光を受けて輝く泉はどこまでも澄んで、清浄な気を溢れさせている。そこにたたずむ女性はほんとうに女神なのかもしれない。
いったいどういう状況かと戸惑いながらも、しずかに立つ女神のような人の清らかさと、泣いていた人の甘やかさに、満たされ癒されるのを感じた。
「姫さま」
心配そうな、やすらぐ甘やかな声音。聞きおぼえがおおいにある。
「たから」
「はい」
突風におされたように、何か思うより前に抱きしめていた。
「たから。
ごめんなさい。ごめんね」
「だいじょうぶですよ」
懐かしい乳きょうだいに、ポンポンと背をはたいてあやされた。
「もうだいじょうぶ」
「泣いていたじゃないか。私のせいだろう?」
「まさか。ただ……」
「それは、私のせいでございます」
女性の声に振り向くと、女神のような人が巡礼者のように膝をついて掌を合わせている。烏のぬれ羽色の髪が水面にひろがり、ますます濡れた翼さながらだ。
「私が……。申しわけも……」
(重そう……)
謝られているらしいのにかえって申し訳ない気分になるが、背中でたからの手に力がこもって、見ると表情もこわばらせている。
この人が泣かせたのか。
「私に何かしたの?」
たからは自分がいじめられて泣く子ではないから。
ぬれ羽が重みに負けて地に落ちたかのごとく女性は完全に身を伏してしまった。
「私は……私が、皇女殿下に毒杯をもたせました」
(どく)
ひしっと抱き寄せられた。
「やすら様がここにお連れくださらなければ、
夜と影の主どのの導きがなければ、
私はあなた様を殺めてしまっておりました。
竜と女神に認められるあなた様を」
(殺める。この人が、私を)
「やすら」
そうだ、この子はあの後、名前が変わったんだった。
白桃の肌にふしぎな色の複雑な模様の花の影を映した顔に目を戻す。
「この人、誰だ?」
安良は困ったような微苦笑を浮かべたが
「〈夜と影の主〉って魔王だよな?
導きって…… なぜ魔王が助けてくれるんだ?」
重ねた問いに、しずかに凍り付いた。
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