第四話 731部隊

『いわゆる昭和天皇論』


 

 激動の昭和。昭和恐慌から政治不信を背景に軍部の台頭、満州事変へ。シナ事変の泥沼化から侵略戦争や虐殺行為をした帝国日本軍。絵に描いた餅『大東亜共栄圏』をお題目にしてアジア諸国を侵略して「大東亜共栄圏によってアジアの人々を白人の支配から解放した!」とぬけぬけと抜かす右翼。

 その中で昭和という時代を一身に背負って苦悶する偉大な存在があったという。昭和天皇・裕仁、そのひとである。先の大戦では現人神であり、神の子孫というペテンで軍部のパペット(操り人形)と化し、統帥権=軍部で、敗北を一身に受けて戦後をつくった昭和天皇。

 「天皇陛下万歳!」国民はそれでも、戦争に敗北しても昭和天皇を神のように崇めたという。天皇陛下のために命を捧げた英霊たち。

 ちなみに小林よしのりの漫画では、神風特攻隊や回天特攻隊で若い日本軍兵士が特攻体当たりの際、「天皇陛下、万歳!」と叫んだという描写があるが嘘である。本当は「おかあちゃーん!」と叫んで死んだのだった。

  〝海行(ゆ)かば 水漬(みずく)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ〝

 実際、当時の兵士は昭和天皇=現人神と思って特攻や戦をした。だが、神ではなかった。天照大神の子孫というのはペテンであり、詭弁でしかなかった。

 戦争責任論

「昭和天皇の戦争責任論」、「大日本帝国」、および「大日本帝国憲法」も参照

概要

大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、統帥権干犯問題を起こす原因となった。

統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年(昭和6年)の満州事変から日中戦争(支那事変)、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)へと続く、「十五年戦争」(アジア太平洋戦争)の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張

大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問う事は出来ないとする主張

との間で、論争がある。

美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって、明治憲法下で天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、政府は当時、「国体明徴声明」を発して統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教示普及を禁じた。

終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を「戦争犯罪人」として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサーらの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、円滑な占領政策遂行のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追は起きなかった。

昭和天皇崩御直後の、1989年(平成元年)2月14日、参議院内閣委員会にて、当時の内閣法制局長官・味村治は、大日本帝国憲法第3条により無答責・極東軍事裁判で訴追を受けていないの二点から、国内法上も国際法上でも戦争責任はないという解釈を述べている。

マッカーサーに対する発言に関して

『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇と初めて面会した時、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、天皇は、

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、あなたをお訪ねした」

と発言したとされる。この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は、1975年(昭和50年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。翌1976年(昭和51年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」とした。

その後、現代史家・秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝える連合国軍最高司令官政治顧問ジョージ・アチソンの国務省宛電文を発見したことから、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、藤田尚徳侍従長の著書もこの事実の傍証とされている。

また、当時の宮内省総務課長で、随行者の一人であった筧素彦は、最初に天皇と会った時のマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、後に『マッカーサー回想記』等で発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している。

天皇自身の発言

1975年(昭和50年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー

[記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか

[天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。

1975年(昭和50年)9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー

[記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか?

[天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。

1975年(昭和50年)9月22日・外国人特派団への記者会見

[記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。

[天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。

1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見

[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)

[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。

[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)

[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。

1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見

[記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?

[天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。

陵・霊廟・記念館


武蔵陵墓地の昭和天皇陵「武蔵野陵」(東京都八王子市)


昭和天皇記念館(東京都立川市)

陵(みささぎ)は、東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。

皇居・宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族として祀られている。

2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、財団法人昭和聖徳記念財団が運営を行っている。館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。

敬称

平成に入ってからは「昭和天皇」が一般的であるが、敬称(「陛下」を付けた呼び方)で「昭和の天皇陛下」や「先帝陛下」と称される場合もある。また、「昭和天皇」という呼称は、それ自体に敬意が込められた追号であるため、昭和天皇陛下とは言わない。

皇后美智子は義父にあたる昭和天皇を「先帝陛下」と公の場では呼んでいる。

財産

終戦時:37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。

崩御時:18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。

皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満州鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。

なお皇室の財産も課税対象であり、昭和天皇崩御のときには相続税が支払われている。香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の今上天皇が全額を支払った。この時に御物とよばれる古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に三の丸尚蔵館が開館した。

終戦後、GHQにより皇室財産のほとんどが国庫に帰したとされるが、1944年(昭和19年)に参謀総長と軍令部総長から戦局が逆転し難いとの報告を受けた後、皇室が秘密裏にスイスの金融機関に移管して隠匿させた財産が存在した、という主張がある。

著書

自身の著書

裕仁『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年、生物学御研究所)

裕仁『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年、生物学御研究所)

宮内庁侍従職編『おほうなばら―昭和天皇御製集』(1990年、読売新聞社、ISBN 4643900954)

昭和天皇(山田真弓補足修正)『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年、生物学御研究所)

その他の著書

国立科学博物館『天皇陛下の生物学ご研究』(1988年、国立科学博物館)

田所泉『昭和天皇の短歌』(1997年、創樹社、ISBN 4794305222)


  昭和天皇は自らの『戦争責任』を自覚していたという。だから当時日本を統治していたGHQ連合軍のダグラス・マッカーサーとの会談や写真撮影のときも、

「朕には戦争責任がある。私の命はどうなってもいいから国民を日本国をなんとか無事にお願いする」というような意味のことをマッカーサーに言ったとされる。

 マッカーサーは驚いた。昭和天皇・裕仁は命乞いをして醜態をさらすと勘違いしていたのだ。まさに守護神である。

 このことは秘書と昭和天皇陛下とマッカーサーしか知らないことではあったが、自己顕示欲とプライドの高い自慢屋のマッカーサーは晩年『回顧録』でばらしている。

 マッカーサーの回顧録は自慢話や憶測や勘違いからの誤記が多く、参考文献としては信憑性が低いが、昭和天皇は例の写真で覚悟を示したのであった。

 マッカーサーは軍服で、昭和天皇は黒のモーニング姿にネクタイ。マッカーサー元帥はいばったようにわざと演出し「猫背で身長の低い近眼の男(GHQやマッカーサーの談)」を負け組の元帥として貶める意図で写真を撮った。

 だが、この無礼は日本の知識人たちを激高させた。作家の高見順は「かかる写真は、誠に古今未曾有」、詩人の斎藤茂吉は「うぬーっ、マッカーサーの野郎!」と怒ったという。

 現在の今上天皇である明仁皇太子(当時)は御学友とともに租界地の新聞で、例の昭和天皇とマッカーサーの写真を見て「日本が勝った!」「マッカーサーはネクタイさえしていない!田舎っぺだ!」「日本の三千年の礼節が、たった200年の白人米国文化に勝利した!」と逆に裕仁の株をあげただけにおわった。

 マッカーサー元帥は全ての日本人を支配する雲上人としてふるまい、吉田茂などごく一部の日本人以外は会いもしなかったという。例の記念写真の時もたばこが嫌いな昭和天皇にわざとたばこを差しだし「一服したら?」とすすめたらしい。

 こうしたことは最近の研究でわかったことで、当時のマッカーサーの人気はすざましかったという。ファンレターが全国から何万通と届き、中には「あなたの子供を産みたい」などの手紙まであったという。

 だが、元帥の目標は米国大統領である。日本人など好きではなかった。だから、後に「日本人の精神年齢は十二歳だ」と発言したのだ。

 この言葉を聞いてやっと我に返った日本人はマッカーサーを嫌悪しだした。歴史に詳しいひとならご存知だが、マ元帥は朝鮮戦争で「朝鮮半島に原爆を落としてくれ」とトルーマン大統領に要請してクビになっている。

「アイ・シャル・リターン(もう一度戻ってくる)」とフィリピンで負け惜しみを言って遁走し、アメリカ代表のような地位を得たと勘違いし日本に飛行機で来て、日本を支配し、無礼を働いたマッカーサー元帥。嫌われるのは当然だが、昭和天皇も元帥を嫌いだった。

 のちに米国訪問した昭和天皇は、死去したマッカーサー元帥の記念館となっていた施設にも絶対に訪問しなかった。車でわずか数十分でもいかなかった。

どれだけ恨みが強いか?がわかるエピソードである。マッカーサーの夢は米国大統領に当選することであったが、無理だった。

ちなみに玉音放送を阻止しようと軍部の過激派がクーデターをおこした事件をご存じだろうか?終戦というか敗戦の当時の内閣は鈴木貫太郎内閣である。昭和天皇にご聖断をあおいだ。一方で、軍閥系の最高責任者だった軍人・阿南惟幾(あなみ・これちか)は電話で「(外国と徹底抗戦を叫ぶ軍部関係者に)まだ本土決戦!一億総玉砕の道はある」と嘘をいった。ご聖断の有効の為である。

鈴木貫太郎首相はかつて軍部の若手将校の暗殺者に銃で殺されかけており、死後、荼毘に付すと骨とともに身体の内部にあったであろう銃弾が発見された、という。阿南は玉音後、「ご聖断はくだったのである!もし、不服ならこの阿南を殺しその屍をこえていけ!」と軍幹部たちに怒鳴るように伝えた。

「朕はどうなってもいい。日本国の「国体」や日本人達の命が無事ならば朕は死んでも構わない」敗戦の玉音放送後、阿南は皇居外苑で自刃して果てる。自らの死で軍部の強硬派を抑えたのだ。昭和天皇は自ら統帥権の呪縛をやぶって、敗戦のご聖断を下し、人間として象徴天皇としての道を選んだ。まさに英雄、まさに天皇陛下万歳!陛下は共産主義の悪もわかってらしたという。

クーデターは失敗におわり、昭和天皇が録音した『玉音(天皇の言葉)』が1945年8月15日に放送された。

二度のご聖断で、敗北を決定した昭和天皇。まさに満身創痍の決断である。

「玉音放送」(内容)

概要

御署名原本「大東亜戦争終結ノ詔書」

1945年(昭和20年)8月14日、日本は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾を決定した(いわゆる聖断)。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において日本が降伏することを意味した。御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言を確定した。詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を国民に宣布する文書である。ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に伝えられた。

昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎以下による御前会議の後も陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。

前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られた。

放送は正午に開始された。初めに日本放送協会の放送員(アナウンサー)・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送された。その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」等の補足的文書のアナウンスが行われた。

放送はアセテート盤のレコード、玉音盤(ぎょくおんばん)再生によるものであった。劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪く、天皇の朗読に独特の節回し(天皇が自ら執り行う宮中祭祀の祝詞の節回しに起因するという)があり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。直後のアナウンサーによる終戦詔書の奉読(朗読)や玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気、玉音放送の後の解説等で事情を把握した人が大半だった。また、ほとんどの国民にとって、現人神である昭和天皇の肉声を聴くのは、これが初めての機会であったため、天皇の声の異様さ(朗読の節、声の高さ等)に驚いたというのもしばしば語られることである。また、沖縄で玉音放送を聞いたアメリカ兵が、日本兵捕虜に「これは本当に天皇の声か?」と尋ねたが、答えられる者は誰一人いなかったというエピソードがある。

玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という文言が「日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏する」ことを表明する最も重要な主題ではあるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKの特集番組の、〝皇居前広場で土下座して昭和天皇に詫びる庶民達〝の映像と共に繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんき。信頼)し常に爾臣民と共にあり。」と続く)。

なお、ラジオ放送のマイクが昭和天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが、1928年(昭和3年)12月2日の大礼観兵式に一度起こっているが、その後、宮中筋は天皇の肉声を放送する事は憚りあり、として極端にこれを警戒し、結局第二次世界大戦の終結まで公式に玉音放送が行われたのは、この1945年(昭和20年)8月15日一度きりであった。天皇の声が電波に乗って正式に放送されたのは、玉音盤によるものが最初である。

終戦詔書

『大東亜戦争終結ノ詔書』は「終戦詔書」とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付けで詔として発布された。文体は非常に古典的な漢文訓読体なので、一部の民衆にとっては分かり難い。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。

喫緊の間かつ極めて秘密裡に作業が行われたため、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣・阿南惟幾が「戦局日ニ非(あらざる)ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、異説もある。

録音と放送


玉音盤

(玉音放送で流すべく、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)

NHK放送博物館所蔵

終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は情報局次長・久富達夫が総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。

日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に用意され、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定であった。しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音はずれ込み、詔書裁可後の23時20分頃から録音作業は始められた。2回のテイクにより玉音盤は合計2種4枚(1テイクが2枚となる理由は後述)製作された。2度目のテイクを録ることとなったのは試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから天皇から3度目の録音をとの話もあったが下村がこれを辞退したという(下村宏『終戦秘史』)。

玉音放送は日本電気音響(後のデノン)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製のセルロース製SP盤に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間分の玉音放送は2枚にわたって録音された。

作業は翌日1時頃までかかって終了。情報局総裁・下村宏及び録音班は坂下門から出ようとしたが、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁され、録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀・古賀秀正少佐の指示により録音盤の捜索が行われた(録音盤事件、宮城事件)。このとき録音盤は見つからなかったが、録音盤は録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫にほかの書類に紛れ込ませる形で保管されていた。

当日正午の時報の後、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会のアナウンサー・和田信賢である。

玉音盤が戦後しばらく所在不明とされていたため、玉音放送の資料音声は公式には現存していないことになっていた(この件に関しては、真偽のほどは不明ながら、放送を恥辱と考えた宮中筋による隠匿説もある)。しかし玉音放送から1年後、玉音盤を押収したアメリカ軍が複製を製作するに際して、担当の日本人技師が内密に自己用の複製を製作、これにより玉音放送は散逸を免れる事となった。この複製盤はNHKに寄贈され、その当時の再生技術で当時の磁気テープに記録された音源が現在でも継続使用されているが、複製盤製作時の玉音盤の再生速度と複製盤の回転速度、そして複製盤の再生速度、磁気テープの再生速度の誤差により現在通常に流布している音源は一様に遅く、音声が低い。

後に発見された玉音盤はNHK放送博物館に収蔵され、入念な修復作業を経て現在は窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。ただし、完成から1年で劣化するアセテート盤なので状態は悪く、実際の再生は困難であるとされている。

国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。

玉音放送と前後のラジオ放送

正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送等を含む放送は約37分半であった。また、放送を即時に広く伝達するため10キロワットに規制されていた出力を60キロワットに増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満州、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。

予告放送

玉音放送の予告は14日午後9時のニュースと15日午前7時21分のニュースの2回行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後一時頃に配達される所もあること」などが報じられた。

15日正午の放送内容

特記なき文は和田信賢によるアナウンス。

正午の時報

「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います」

「天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)

君が代奏楽

詔書(昭和天皇・録音盤再生)

君が代奏楽

「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)

「謹んで詔書を奉読いたします」

終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)

「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)

内閣告諭(14日付の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の内閣告諭)

これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)

交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)

一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)

万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(天皇による終戦決意)

ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)

カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)

共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)

緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)

鈴木総理大臣放送の予告(午後2時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際は総辞職の閣議のため、午後7時のニュースに続いて放送された)

15日の放送

1945年8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。

午前7時21分(9分間)

正午(37分半、玉音放送を含む)

午後3時(40分間)

午後5時(20分間)

午後7時(40分間)

午後9時(18分間)

全文

ウィキソースに大東亞戰爭終結ノ詔書の原文があります。

詳しくはWIKISOURCE 日本語版の「大東亞戰爭終結の詔書」を参照のこと

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク


朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ


抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所


曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス


然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス


加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル


而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ


斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ


朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ


惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス


爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス


朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ


若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム


宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ


爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ


御名御璽


昭和二十年八月十四日


その他

学習院初等科に在学中だった皇太子明仁親王は、疎開先の奥日光の南間ホテルで迎えた終戦の玉音放送の際に、ホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。

宮脇俊三の『時刻表2万キロ』・『時刻表昭和史』では父・宮脇長吉と今泉駅で玉音放送を聴くが、その際も鉄道が動いていたことが描写されている。

佐伯達夫(後の高校野球連盟会長)は玉音放送を聴いた瞬間、「これで中等学校野球(現・高校野球)が復活するぞ!!」とひらめき、連盟設立に奔走するきっかけとなった。

佐藤卓己の著書『八月十五日の神話』(ちくま新書・2005年(平成17年))では、「当時の人々は、玉音放送の内容を理解できなかった(後に流されたアナウンサーの解説で理解した)」「報道機関には前もって日本の敗戦が知らされ、記者は敗戦を知ってうなだれるポーズを撮影した写真を、放送前にあらかじめ準備した」といったエピソードが紹介されている。

この玉音放送以後、昭和天皇が直接国民に対してその声を放送波に乗せるということはなかった。なお、他の天皇のものも含めれば、この66年後、東日本大震災において今上天皇が発した「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」があり、これは「平成の玉音放送」と呼ばれることもある。

「昭和天皇の戦後の御巡幸」「人間宣言」

昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧

昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧(しょうわてんのうのせんごのじゅんこうどとうふけんいちらん)は、戦後の混乱期と復興期に当たる1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)までの間に、昭和天皇が巡幸した都道府県と年月日の一覧である。ほとんどの巡幸にはお召し列車が使われた。

1946年(昭和21年)

神奈川県 2月19日 - 20日

東京都 2月28日 - 3月1日

群馬県 3月25日

埼玉県 3月28日

千葉県 6月6日 - 7日

静岡県 6月17日 - 18日

愛知県 10月21日 - 23日

岐阜県 10月24日 - 26日

茨城県 11月18日 - 19日

1947年(昭和22年)

大阪府 6月5日 - 7日

和歌山県 6月7日 - 9日

兵庫県 6月11日 - 13日

京都府・大阪府 6月14日

福島県 8月5日

宮城県 8月6日 - 7日

岩手県 8月7日 - 10日

青森県 8月10日 - 11日

秋田県 8月12日 - 14日

山形県 8月15日 - 17日

福島県 8月17日 - 19日

栃木県 9月4日 - 8日

長野県 10月7日

新潟県 10月8日 - 12日

長野県 10月12日 - 14日

山梨県 10月14日 - 15日

福井県 10月23日 - 27日

石川県 10月28日 - 30日

富山県 10月30日 - 11月1日

鳥取県・島根県 11月27日 - 12月1日

山口県 12月1日 - 5日

広島県 12月5日 - 8日

岡山県 12月9日 - 11日

1949年(昭和24年)

福岡県 5月19日 - 21日

佐賀県 5月22日 - 23日

長崎県 5月24日 - 27日

熊本県 5月29日 - 6月1日

鹿児島県 6月1日 - 4日

宮崎県 6月4日 - 7日

大分県 6月8日 - 10日

1950年(昭和25年)

香川県 3月13日 - 17日

愛媛県 3月17日 - 20日

高知県 3月21日 - 24日

徳島県 3月25日 - 30日

兵庫県 3月31日

1951年(昭和26年)

京都府 11月12日 - 14日

滋賀県 11月15日 - 17日

奈良県 11月18日 - 19日

三重県 11月20日 - 25日

1954年(昭和29年)

北海道 8月8日 - 23日

※ 1948年(昭和23年)は東京裁判の判決に備え、御巡幸は行われなかった。御巡幸では漁民に「大漁おめでとう」。背広の袖をつかんだままずうっとついてきた子供から「またきてね」に「またくるよ」と笑顔。「天子さまはどこかいな?」と人ごみをかきわけたおばあさんが昭和天皇と並んで歩いていて気づかずみつけられず一緒に歩く。田舎の山道でキノコ狩りしていた御嬢さんに「これなあに?」「ずぼたけ」「これは?」「まいたけ」という不思議な会話もおおかったという。

ちなみに昭和天皇の口癖は「あ、そう。」という言葉だ。高校生時代の担任の先生が、〝昭和天皇の口真似〝をしていたのを思い出す。

※ 北海道へは津軽海峡に機雷の残留の可能性もあり、危険の回避から1954年(昭和29年)に先送りされた。

※ 復帰後の沖縄県への巡幸はついに叶わなかった。なお、次代の天皇によってようやく47都道府県すべての巡幸が達成されたほか、即位後15年間だけですべての県への訪問が完了している。

人間宣言

人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』の通称である。当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。なお、人間宣言という名称は当時のマスコミや出版社が付けたもので、当詔書内には「人間」、「宣言」という文言は一切ない。

詔書の概要

日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、詔書の主な目的だった。人間宣言については最終段落の数行のみで、詔書の6分の1しかない。その数行も事実を確認するのみで、特に何かを放棄しているわけではない。

いわゆる「人間宣言」についての記述は以下の通りである。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ


新日本建設に関する詔書より抜粋


このGHQ主導による詔書により、天皇が神であることが否定された。しかし、天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であることを否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。

名称

この詔書には公用文としての「題名」は付されていない。題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)及び「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇条ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)と2度にわたり付与されている。しかし、ともに冗長で引用に不便であるため、天皇自身の神格や優れた日本民族が世界を支配する旨を否定する詔書後半部に着目した通称として、学術・教育(教科書)・報道等の場で「人間宣言」、「天皇人間宣言」、「神格否定宣言」などが用いられる。国立国会図書館においても「人間宣言」の名称で所蔵されている。

一方、昭和天皇が詔書の主目的としている五箇条の御誓文を前半部で引用しており、また、詔書全体の文意としては神格等否定を踏まえつつも終戦後の新日本国家の建設を国民に呼びかけたものである。そのため、特定部分に依拠しない通称として、「新日本建設に関する詔書」、「年頭、国運振興ノ詔書」などを用いる例もある。国立公文書館では、片仮名の「新日本建設ニ関スル詔書」の名称で所蔵されている。

(註)法令・公用文における「題名」は、固有の名称としての性格を有し、その改題には正式な改正手続を要するため、引用時に片仮名を平仮名に置換するなど引用側が任意に改変することは認められない(旧字体の新字体置換のみ可能である)。一方、「件名」は、他の公用文において用いる便宜上の名称であって、正式な改称手続自体がないため、引用側において字体のみならず片仮名←→平仮名、文語体←→口語体などの置換が許容される。

起草の経緯

ポツダム宣言受諾による終敗から4か月余、日本は大日本帝国憲法の施行下にあった。

1945年(昭和20年)12月15日、GHQの民間情報教育局 (CIES) 宗教課は、国家が神道を支援・監督・普及することを禁止する「神道指令」を発した。さらに、天皇は他国の元首より秀でた存在で、日本人は他の国民よりまさっている、といった教説を教えることを非合法化した。しかし、天皇が皇居で執り行う宗教儀式(宮中祭祀)は私的な事柄とされて、禁じられなかった。占領当局は天皇自身で自分の神格を否定してほしいと期待したため、神道指令では天皇の神格について言及しなかった。自分を神と主張したことのない昭和天皇は、占領当局の意向に同意した。

宮内省は、学習院の英語教師・レジナルド・ブライスに、占領当局が納得するような案文を練るよう依頼した。ブライスはGHQの教育課長で俳句の造詣が深かったハロルド・ヘンダーソンに相談し、ふたりは人間宣言の案文を作成した。

12月23日、昭和天皇は、木下道雄侍従次長に対し、前日進講した板沢武雄・学習院教授の講義の内容について語った。板沢の講義は「マッカーサー司令部の神道に関する指令について」と題するもので、昭和天皇が語ったところによれば、最後の結びの言葉は「この司令部の指令は、顕語を以て幽事を取り扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏を以て煙を切るようなものと私は考えております」というものだった。また、昭和天皇は、興味を引いた点について、「後水尾帝御病にて疚(きゅう)の必要ありしも、現神には疚を差上ぐる訳には行かぬと云う所から御譲位の上、治療を受け給いしこと」、「徳川氏が家康を東照宮と神格化し、家康の定めたることは何事によらず神君の所定となし、改革を行わず、時のよろしきに従う政事を行わず、遂に破局に至りしこと」、「幽顕二界のこと。謡曲の発達、君臣の濃情を言い現わせる謡曲はかえって皇室衰微の時代に発達せること。顕界破れて幽界現われたること」の3点を挙げた。また、天皇は、23日にマッカーサー司令部の高級幕僚たちと鴨猟を行う予定であった石渡荘太郎・宮内大臣に命じて、板沢の話を高級幕僚たちにも聞かせようと考えたが、石渡がすでに鴨場へ出発していたため断念した。

12月24日、昭和天皇は幣原喜重郎・内閣総理大臣を召して、「ご病気の後水尾天皇が側近に医者を要請されたところ、医者の如き者が玉体にふれることは、汚らわしいとの理由でおみせしなかったそうだ。同天皇はみすみす病気が悪化して亡くなられた」という歴史的実例を挙げて、神格化の是非について暗示した。また、昭和天皇は、明治天皇の五箇条の御誓文を活用したいとも話した。これに対し幣原は「これまで陛下を神格化扱いしたことを、この際是正し改めたいと存じます」と答え、昭和天皇は静かに肯定し「昭和21年の新春には一つそういう意味の詔書を出したいものだ」と言った。

12月25日、昭和天皇は、拝謁した木下侍従次長に対し、「木下は昨日留守なりしが、大臣(石渡宮内大臣)より大詔渙発のことは、幣原がこれは国務につき是非内閣に御任せを願うとの希望を聞き、幣原を呼び、これを伝えた。Mac(マッカーサー司令部)の方では内閣の手を経ることを希望せぬ様だ。これは一つには外界に洩れるのを恐れる為ならん」と語った。

12月25日以降、幣原自身が前田案をもとに英文で原案を作成し、秘書官に邦訳を命じた。推敲は前田多門文相、次田大三郎書記官長、楢橋渡法制局長官等で行った。過労の幣原に代わり、前田文相が天皇に会い、天皇から「五箇条の御誓文」付加の要請を受ける。マッカーサーにも案文を示す。

12月29日、木下道雄侍従次長は原案に手を入れて別案を作り、石渡宮相・前田文相に示した。別案は天皇が神の末裔であることを否定するものでなく、「現御神」であることを否定するものであった。

12月30日、木下は石渡が手を入れた木下案を次田に渡し、閣議で検討された。同日午後4時30分、岩倉書記官が閣議案を木下の元に持参した。木下は更に手を入れ、天皇に中間報告を行い、閣議に戻した。5時30分、前田文相が天皇に会い、文案の許可を得た。午後9時、正式書類が整い、完成した。

12月31日、幣原の意を受けて前田文相は木下侍従次長を訪問し、マッカーサーに案文を示した天皇が神の末裔であることを否定する内容の復元を求めた。木下は侍従長とともにこれに同意し、天皇に報告した。天皇も天皇が神の末裔であることを否定する内容への変更の許可を与えた。また、天皇は、首相がマッカーサーとの信義を重んじて詔書の修正を願い出たことについて、嘉賞の言葉を与えた。

しかし、日本語で発表されたものは天皇が神の末裔であることを明確に否定したものではなく、「現御神」(現人神)であることを否定するものであった。これに対し、原案の英文は「the Emperor is divine」を否定するものであった。ただし「divine」は王権神授説などで用いられる「神」の概念である。

英文の詔書は2005年(平成17年)に発見され、2006年(平成18年)1月1日の毎日新聞で発表された。渡辺治は同紙に以下のコメントを寄せている。

資料は、草案から詔書まで一連の流れが比較検討でき、大変貴重だ。詔書は文節ごとのつながりが悪く主題が分かりにくいが、草案は天皇の神格否定が主眼と分かる。草案に日本側が前後を入れ替えたり、新たに加えたりしたためだろう。


渡辺治(一橋大学大学院教授・政治史)、毎日新聞2006年1月1日付


社会的影響

この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎された。退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象も好転した。しかし、日本人にとって当たり前のことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった。

1946年1月1日、この詔書は新聞各紙の第一面で報道された。朝日新聞の見出しは、「年頭、国運振興の詔書渙発(かんぱつ) 平和に徹し民生向上、思想の混乱を御軫念(ごしんねん)」だった。毎日新聞は、「新年に詔書を賜ふ 紐帯は信頼と敬愛、朕、国民と供にあり」だった。新聞の見出しでは神格について触れておらず、日本の平和や天皇は国民と共にあるといったことを報道するのみだった。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである。

詔書の起草に関わった人物の見解

昭和天皇

昭和天皇は、公的に一度も主張しなかった神格を放棄することに反対ではなかった。しかし、天皇の神聖な地位のよりどころは日本神話の神の子孫であるということを否定するつもりもなかった。昭和天皇は自分が神の子孫であることを否定した文章を削除した。さらに、五箇条の誓文を追加して、戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にした。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ。1977年の記者会見にて、昭和天皇は、神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだと述べた。

詔書草案と五箇条の誓文

昭和天皇は、1977年8月23日の会見で記者の質問に対し、GHQの詔書草案があったことについて、「今、批判的な意見を述べる時期ではないと思います」と答えた。

また、詔書のはじめに五箇条の誓文が引用されたことについて、以下のような発言をした。

それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです。はじめの案では、五箇條ノ御誓文は日本人ならだれでも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました。


昭和天皇、1977年8月23日の会見


この発言により、この詔書がGHQ主導によるものか、昭和天皇主導によるものかという激しい議論が研究者の間で起こった。その後の1990年に前掲の『側近日誌』が刊行され、GHQ主導によるものとしてほぼ決着した。

また、昭和天皇が1977年になって詔書の目的について発言したのは、人間宣言をした昭和天皇を厳しく非難し、1970年に自決した三島由紀夫へ意を及ぼしたためではないかとする指摘がある。

侍従長・藤田尚徳

当時、侍従長であった藤田尚徳は英語で起草された文を和訳した経緯もあり風変わりな詔書となったが、昭和天皇の真意を示すことができたと述べている。また藤田は、明治維新と個性有る明治天皇の登場により明治以降天皇は人間として尊敬されていたが、大正末期から天皇の神格化が行われるようになり、昭和天皇はこれを嫌っていたという見解を示している。

文部大臣・前田多門

文部大臣・前田多門は、学習院院長・山梨勝之進と総理大臣・幣原喜重郎とともに、人間宣言の案文に目を通し、吟味した日本の要人である。また、クェーカー教(プロテスタントのフレンド派)の信徒であり、多くの日本人クリスチャンと同様に天皇を尊崇していた人物である。1945年(昭和20年)12月、天皇は神であると、議会の質疑応答で答弁した。西欧的な概念の神ではないが、「日本の伝統的な概念で、この世の最高位にあるという意味で」は神である、と答えている。

当時の人物の見解

山本七平

終戦後フィリピンで米軍の捕虜になった山本七平らの日本軍将兵に対し、米軍軍人は熱心に進化論の基本概念を教育しようとした。日本人捕虜たちが一向に反発も感銘も示さないことを不思議に思う米軍軍人に対して、山本が「そんなことは日本では子供でも知っている」と言ったところ、その米軍軍人は驚いて「ではなぜ日本人は天皇が神の子孫だと信じているのか?」と反駁したという。

このすれ違いについて山本は、アメリカでのキリスト教根本主義と進歩派の創造論を巡る対立や、東アジアの「父子相隠」の倫理観が根底にあると考察する。さらに「『戦前の日本人が神話を事実と信じていた』という〝神話〝を戦後の日本人は信じている」と述べる。

また、外来の概念を、自文化の似て異なる概念の意味で理解した気になることや、その逆に「元々わが国にあったものだ」として受容させようとする〝掘り起こし共鳴現象〝についても言及している。

三島由紀夫

三島由紀夫は、「僕は、新憲法で天皇が象徴だということを否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇がお待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも」と述べている。また、小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された青年将校たちや、神風特攻隊で戦死した兵士たちの霊に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」、「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」、「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」と語らせている。

戦後の論説

大原康男と伊藤陽夫の疑義

昭和天皇による神話と伝説の否定、天皇の人間宣言という解釈については、神道界や右派勢力の一部から疑義が提出されている。

大原康男は「日本語の「且」には並列的意味のほかに「その上に」という添加的な意味もある」ことを指摘し、「その上に」という意味にとれば、「架空ナル観念」とされたのは、「天皇ヲ以テ現御神トシ」ということ自体ではなく、それに「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」ということが加えられたことと解釈できると述べている。同様のことは、伊藤陽夫も「動ぎなき天皇国日本」(展転社)で主張している。

大辞林は、「且つ」(接続詞)の語義を、「二つの動作・状態が並行あるいは添加して行なわれることを示す。同時に。また。その上。」と説明している。

当時の侍従次長の木下道雄の『側近日記』には、GHQが天皇が神の末裔であることを否定することを要求したのに対して、天皇が「現御神」であることを「架空なること」とすることで切り抜けたことが自慢げに書かれている。『国体の本義』(1937年)などで主張した「現御神」(現人神)を否定したのである(天皇を現御神とすることは古事記・日本書紀に始まることであって『国体の本義』によるものではないが、明治以降の公文書に「現御神」(現人神)が最初に登場したのは「国体の本義」であった。)。

また、大原康男は、皇室では元旦の宮中祭祀のために通例は詔書が出されなかった事を指摘し、さらにこの詔書はGHQによるものであることを検証し、日本人の神観念・天皇観を根底から変革した「人間宣言」の無効を主張している。

小林よしのり

小林よしのりは、GHQが人間宣言を薦めた理由は日本人は天皇を「絶対神」と信じていると誤解したためであるとしている。

漢字の「神」を英訳すると「GOD」となる。しかし日本語(やまとことば)の「カミ」・シナ語の「神(しん)」・西洋の「GOD」は全て違う意味なのだが日本人は十分の自覚も無く三つ全てを「神」と表記する。かつてフランシスコ・ザビエルらのポルトガルの宣教師は「DEUS」を「デウス」で通した。この時代では「DEUS」と「カミ」は違うものであると理解して、この様に通したがシナではアメリカの宣教師が「GOD」を「神(しん)」と訳したが「神(しん)」の意味は自然界の不思議な力を持つ物や心などを表す文字なので「GOD」の意味合いは無いので、いわゆる誤訳である。その後明治時代になり、アメリカの宣教師が来日する様になるとシナ同様、「GOD」を「神(しん)」と訳し日本人も古代からの「カミ」を「神」という字を当ててきたので、明治辺りから「カミ」と「GOD」の混合が始まりGHQは、この混合から日本人は天皇を「GOD」(絶対神)だと信じていると誤解したために昭和天皇に人間宣言をさせたが、それをあえて言うなら「漫画の神様」手塚治虫や「経営の神様」松下幸之助に「人間宣言」をさせるような滑稽な行為であるとしている。また天皇は昔も今も「アキツミカミ」であるが西欧流の「GOD」(絶対神)では決して無いとしている。また天皇に対する伝統的な「アキツミカミ」の概念は手塚治虫を「漫画の神様」・松下幸之助を「経営の神様」・サッカーのゴールキーパーや野球の抑え投手を「守護神」と呼ぶ様に生理的には人間でも、とてつもなく貴重な人を「神様」と呼ぶ、日本人が思わずやっている伝統的な習慣と同じようなものとしている。また日本人の、こういう感覚は一神教しか知らない欧米人には理解が困難としている。

参考文献

藤田尚徳『侍従長の回想』中央公論社〈中公文庫〉、1987年。ISBN 4122014239。

ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、講談社、2003年01月。ISBN 978-4062116756。



         6 ポツダム宣言





  甲板で、榎本中将は激をとばした。

「日本の勝利は君たちがやる! 鬼畜米英なにするものぞ! 神風だ! 神風特攻隊で米英軍の艦隊を駆逐するのだ!」

 若い日本兵一同は沈黙する。

 ……神風! 神風! 神風! ……

 榎本陸軍千余名、沖縄でのことである。地上戦戦没者二十万人……


 七月七日、トルーマン米国大統領はドイツのポツダムに着いた。

 そこで、「ポツダム宣言」を受諾させ、日本などの占領統治を決めるためである。

 会議のメンバーは左のとおりである。


 アメリカ合衆国     ハリー・S・トルーマン大統領

 ソビエト連邦      ヨゼフ・スターリン首相

 イギリス        ウィンストン・チャーチル首相               

 中華民国(中国)    蒋介石国民党総裁(対日戦争のため欠席)



  なおトルーマンは会議議長を兼ねることになったという。

 一同はひとりずつ写真をとった。そして、一同並んで写真をとった。

 有名なあの写真である。しかし、トルーマンは弱気だった。

 彼は国務省にあのジェームズ・バーンズを指名したばかりだった。

 トルーマンは愛妻ベスに手紙を送る。

 ……親愛なるベスへ。私は死刑台の前まで歩いているような気分だ。

 ……失敗したりしないか。ヘマをやらかさないか、頭の中は不安でいっぱいだ。

 議題は、

  一、ソ連対日参戦

  二、天皇制維持

  三、原爆投下(米国しか知らない秘密事項)

 

 七月十六日、トルーマンの元に電報が届く。

 ……手術は成功しました。ただ術後経過はわかりません。

              ヘンリー・スティムソン


 つまり、手術とは原爆の実験のこと。それに成功した。ということはつまり米国最新の兵器開発に成功したことを意味する訳だ。

 トルーマンは「ヤルタの密約」を実行するという。

 つまり、八月十五日に日本攻撃に参戦するというのだ。

 それまでのソ連はドイツ戦で大勢の兵士を失ったとはいえ、軍事力には自信をもち、いずれは米国政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、ソ連での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。

 とくにヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。

 しかし、「ソヴィエト連邦」は兵力を失ったかわりに米国軍は核を手にいれたのである。力関係は逆転していた。



  一九四五年八月昼頃、日本陸軍総裁山本五十六はプロペラ機に乗って飛んでいた。

 東南アジアのある場所である。

「この戦争はもうおわりだ」

 五十六はいった。「われわれは賊軍ではない。しかし、米国を敵にしたのは間違いだ」 だが、部下の深沢右衛門は「総統、米軍が賊軍、われらは正義の戦しとるでしょう」というばかりだ。

 五十六は「今何時かわかりまするか?」と、にやりといった。

 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。

 すると、五十六は最新式の懐中時計を取りだして、

「……この時計はスイス製品で最新型だ。妻にもらった」といった。

 そんな中、米軍は山本五十六の乗る大型のプロペラ機をレーダーと暗号解析でキャッチした。米軍はただちに出撃し、やがて五十六たちは撃墜され、玉砕してしまう。

  Bー29爆撃機が東京大空襲を開始したのはこの頃である。黒い編隊がみえると東京中パニックになったという。「急げ! 防空壕に入るんだ!」爆弾のあれ霰…一面火の海になる。その威力はすごく阪神淡路大地震どころの被害ではない。そこら中が廃墟と化して孤児があふれた。火の海は遠くの山からも見えたほどだという。10万人が死んだ。

 しかしリアクションの東京大空襲だった。被害者意識ばかりもってもらっても困るのだ。……恐ろしい戦争の影が忍び寄ってきて……勝手になにもしないで忍び寄ってきた訳じゃない。侵略戦争の果ての結果だった。しかし、これで幼い子供たちが親兄弟を失い、女の子は体を売り、男の子は闇市で働くことになる。がめつい農家は傲慢さを発揮し、高価な着物などと米や野菜を交換した。日本人はその日の食事にもことかく有様だった。



「……お元気でしたか?」

 スティムソンはトルーマンを気遣った。

 するとトルーマンは「私はとくになんともない。それより……」

 と何かいいかけた。

「…なんでしょうか?」

「あれが完成まで到達したそうじゃ。ジャップたちを倒すために『聖なる兵器』などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」

「馬鹿らしい?」H・スティムソンは驚いた。

「日本軍は満州を貸してほしい国連に嘆願しておるという」

「日本軍はドイツのように虐殺を繰り返しているそうです。罰が必要でしょう」

 トルーマンは、

「そうだな。どうせ原爆の洗礼を受けるのは黄色いジャップだ」と皮肉をいった。

 スティムソンは「確かに……しかし日本の技術力もあなどれません。戦争がおわって経済だけが問われれば、日本は欧米に迫ることは確実です」

「あの黄色が?」

 トルーマンは唖然ときいた。

  日本軍の満州処理を国連は拒否し、日本軍は正式に〝賊軍〝となった。

 同年、米国海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で硫黄島に接近していた。

 同年、米国軍は軍儀をこらし、日本の主要都市に原爆を落とす計画を練った。アイデアはバーンズが出したともトルーマンがだしたともいわれ、よくわからない。

 ターゲットは、新潟、東京、名古屋、大阪、広島、長崎……

 京都や奈良は外された。

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