第二話 731部隊

 明治天皇は紙に主色のペンで、〝裕仁〝と書いた。

 それが病弱な嫡男の皇太子(のちの大正天皇)の嫡男の名前である。

 昭和天皇(裕仁)は、一九〇一年(明治三十四年)、四月二十九日に産まれた。父は大正天皇となる皇太子である。その他に妻(良子・香淳)、弟君が擁仁、宣仁、崇仁といる。こののちの昭和の息子が平成天皇明仁(皇后美智子)常陸宮正仁(妻・華子)であり、孫 徳仁(妻・雅子、子・愛子)秋篠宮文仁(妻・紀子、子・眞子、佳子、悠仁)紀宮清子(05年、民間に嫁いだ)などである。(妻(良子・香淳)平成12年6月16日死亡享年97歳) 昭和天皇が生まれたとき、時代は混沌としていた。苦悩する世界。世界的な孤立とあいつぐ企業倒産、大量の失業者、夜逃げ、身売り、政治不満が吹き荒れていた。

「私は天皇家の長男として生まれた。殿下の希望の天皇にもなった。父は非常に有能なひとであった。が、病弱ですぐに風邪をおひかれになられた。父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、日本の経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」

 1908(明治四十一)年四月、裕仁は学習院初等科に入学した。院長は日露戦争の英雄でもある乃木希典陸軍大将である。

 十歳頃になると、もう帝王学を習いはじめ、事務や税務、事業、憲法、もろもろの〝いろは〝を手ほどきをさせられた。会議、部下からの報告、打ち合わせ、中学生になるともっぱら事業で一日が過ぎてしまったそうである。

 大正天皇は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。

 皇后は、クラシック音楽が好きで、レコードを聴かせた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。日本では第一号であったという。

 1912(大正元年)年、明治天皇が崩御した。それにあわせて乃木将軍は夫婦で後追い自殺を遂げている。裕仁の父は天皇……大正天皇となり、裕仁は皇太子となった。

 あわせて陸軍少佐にもなっている。

 裕仁は東宮学院で帝王学を学んだという。教えるのは東宮御学学問所総裁東郷平八郎である。帝王学と軍事兵法……

 1921(大正十)年、昭和天皇は皇太子としてヨーロッパを視察した。船でいき、第一次世界大戦後のヨーロッパをみてまわった。オランダ。ベルギー、イギリス……

 立憲君主として学ぶためだった。

 しかし皇太子は「……本当にこれでよいのだろうか?」と思っていたという。

 1926年(昭和元年)、つまり病気だった大正天皇が崩御して、皇位を継承した。元号は昭和となり、裕仁は昭和天皇となった。

 視力が悪くなり、眼鏡をかけ、国民の前にも姿を見せない。そんな天子さまは軍事色に染まっていく……

 1930年(昭和5)年4月、ロンドンで軍縮会議が始まった。このとき、「相当権干渉」と日本軍部が騒ぎ始めた。この頃から熱しやすい軍部と日本国民は軍事色の波にのまれていく。それはドイツでも同じであった。

  アドルフ・ヒトラー(ナチス党党首・総統)は画家になりたかった。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチス党宣伝大臣)は作家になりたかった。

 しかし、ふたりとも夢をかなえることは出来ず、右翼的思想を持ち、ナチスとしてさまざまな虐殺にかかわっていく。挫折が屈折した感情となって、侵略、虐殺へとむかった訳だ。その結果が、ユダヤ人を六〇〇万人も殺す原因となった。

 ゲッベルスは作家になりたかったが、誰も彼を認めなかった。(大学の国文学博士号を取得していたが)とうとう何にもなれず、定職にもつかず、金欠病に悩まされ続けたという。そんな若者は、藁をもすがる思いでナチス党のポストにしがみついた。

 そして、〝宣伝〝という武器で、ナチスの重要な人間にまでなる。

 しかし、それはまだ先の話しだ。

 アドルフ・ヒトラーもまた、苦労していた。

「私が画家になれないのは……画壇や経済を牛耳っているユダヤ人たちのせいだ! 憎っくきジュー(ユダヤ人)め!」ヒトラーは若かった。自分の力不足をユダヤのせいにした。とにかく、ユダヤ人が世界を牛耳っている……かれはそう考えていた。

 ユダヤ人たちを殺さなければ、わがドイツに未来はない!

 ヒトラーは屈折していく。

 しだいに彼は絵を描かなくなって、政治活動に目覚めはじめる。とにかく、偉くなってやる、とういう思いがヒトラーを揺り動かしていた。つまり、全部〝己のため〝である。 ヒトラーは「ユダヤ人たちを殺さなければ祖国はダメになる」といって憚らなかった。 呑むとかならず「ジューどもを殺す! それがドイツの再建だ!」とまでいった。

 そして、ヒトラーは〝武装蜂起〝を考えた。

 自分の意のままに動く組織をつくり、そのトップにたつ。そうすれば自分の政治指針は完成する。団体名はNSDAP(ナチス)、旗印は……

 ヒトラーは閃く。日本の神社の称記号「卍」、これを横に傾けて…ハーケン・クロイッツ(鉤十字)だ。色は赤と白にしよう。主義はナチズム、つまりドイツ第三帝国をつくり、ユダヤ人たちを一掃し、祖国をヨーロッパ一の大国にする。

 ヒトラーにはそれはとても簡単なことのように思えた。それにしてもこんなにおいしい計画なのに、なぜ自分の目の前でバラバラになってくずれてしまうのだろう。どうして、アドルフ・ヒトラーの耳のまわりでばらばらになって倒れてしまうのだろう。

 共産党もヴァイマール政権も糞くらえだ!

 失業者や餓死者を出すかわりに、祖国を再建するとか、ビルを建て直すとかしたらどうなんだ?!

  1920年代のドイツ・ベルリンは、まさにカオス(混沌)であった。

 第一次大戦の敗北によりすべての価値観は崩壊していた。インフレにより金は紙屑にかわり、大量の失業者があてもなく街をうろついていた。女たちは生きるために街角に立ち、人間的な感情は夜毎、乱痴気騒ぎの中でお笑いの対象となった。

 絶望と餓死がベルリンを飾っていた。

 ヒトラーは意を決する。

「よし、〝武装蜂起〝だ! NSDAP(ナチス)を決党し、ドイツを再建するのだ!」  それは、人々の絶望の中でのことであった。

 ナチスは人々に〝今日と明日のパン〝を約束した。輝かしい未来、〝ドイツ第三帝国〝をも……人々の飢餓に訴えたのである。

 街角には共産党とナチスたちがうろうろしてアジを張るようになる。

「ドイツ共産党です! 今こそドイツに革命を! ヴァイマール政権を倒し…」

「だまれ共産党め! 我々NSDAP(ナチス)に政権を! 敗戦の屈辱をはらし 再び大ドイツ帝国を…」

「売国奴! 楽隊、〝ホルスト・ヴェッセル〝をやれ!」

「ナチスを黙らせろ! 楽隊〝インター・ナショナル〝だ!」

 まさにカオス状態だった。

 ヒトラーの「わが闘争」は始まった。

「はやく武装蜂起を!」ハインリヒ・ヒムラーは焦っていった。ナチス党のNO2である彼は、のちにユダヤ人六〇〇万人を殺す首謀者となる。彼等はナチス党の本部にいた。

 ヒトラーは「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは政党として正式に認められなければならない。まず、選挙だ」

「しかし…」ゲッベルスは続けた。「勝てるでしょうか?」

「そのために君に宣伝係になってもらったんだよ」ヒトラーはにやりとした。「国民は飢えている。〝今日と明日のパン〝〝輝かしい未来〝をみせれば、絶対にナチスに従うに決まってる」

 ゲッベルスはにやりとした。「プロパガンダを考えます。まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」

「うむ」

「まず、人間の〝値札〝に訴えなければなりません」ゲッベルスはにやにやした。「〝値札〝とは人間のそれぞれのもつ欲求です」

「欲求? 金か?」ヒトラーは是非とも答えがききたかった。

「そうです。ある人間にとっては〝金〝でしょうし、また〝正義感〝、〝名誉〝、〝地位〝、〝女〝〝豪邸〝……その人間が求めているものにアピールしていけば九十九%の人間は動かせます」

 ゲッベルスは『プロパガンダ(大衆操作)』について論じた。

 この頃は、まだプロパガンダについての研究は浅く、しかも幼稚であった。しかし、勉強家のゲッベルスはあらゆる本をよんで研究し、プロパガンダの技を磨いていた。

「ゲッベルス博士、頼むぞ。わがナチスに政権を! ヒトラーを総統にしてくれ」

 ヒトラーは握手を求めた。ゲッベルスとヒトラーは握手した。

 こうして、ナチスは政権をとるために、動きだした。

 一九三三年、ナチス・ヒトラーが政権を奪取…

 一九三六年、ドイツ軍非武装地帯ラインラント進軍…

 一九三八年、オーストラリア併合

 ……「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒトラー!」

  (ヒトラー万歳)という民衆がナチス式敬礼で興奮状態だった。


  一九三二年、日本帝国は世界の反対をおしきって満州国という傀儡国家を作った。国際連盟はこれを非難、翌三三年連盟はリットン調査団の報告書を採択、満州国不承認を四十二対一、棄権一で可決した。一は当然日本、棄権はシャム……

 日本は国際連盟を脱退した。

 そのときの様子を日本の新聞は〝連盟よさらば! 総会勧告書を採択し、我が代表堂々退場す〝と書いている。これを機に日本は孤立し、ヒステリーが爆発して「パールハーバー(真珠湾)」攻撃にふみきる。結果は完敗。

 当時の世界情勢をきちんとみていれば日本はあんな無謀な戦争に突入するはずはなかった。しかし、現実は違った。軍部によってつくられた戦闘ムードに熱しやすい国民は踊らされ、破滅へと走った。そこにはまともな戦略もヴィジョンもなかった。

 あるのは「大東亜共栄圏」という絵にかいた餅だけ……

 その結果が、アジア諸国への侵略、暴行、強姦、強盗、虐殺である。

 その日本人のメンタリティーは今もかわらない。

 国会や世俗をみても、それはわかる。

「日本は侵略なんてしなかった」だの「慰安婦なんていなかった」などという妄言を吐く馬鹿があとをたたないのだ。

 最近ではある日本のマンガ家がそういう主旨の主張を広めている。

 戦争当時も盛んにマンガや映画やラジオで、同じように日本とナチスとイタリアは戦闘ムードを煽った。現在となんらかわらない。

 プロパガンダに踊らされているだけだ。


 その頃、石原莞爾は妻と共に茨城県・大洗町(おおあらいまち)の住居にいた。左遷されて身分は低かったが、辻政信(ノモンハン事件の実質的な戦犯)らから一目置かれていた。辻政信は石原邸を訪ねた。

「内地(日本国内)は暑いですな?」

「辻!日本と中国の戦争は早めにやめさせんといかん!でないと、日本は悲惨なことになる!天皇陛下のお命でさえ危うくなるぞ」

石原莞爾は予言めいたことをいったという。すでに癌に羅患していた。

「石原莞爾は満州を捨てて、内地に逃げ帰ったと…」

「なにぃ!辻!」石原は怒った。

「いえ!私がいってるのではなく、あくまで………世論が…。」

「どうせ、あの馬鹿の東條だろう。そういう噂を流しているのは…ちいさい輩だ。」

「そうですねえ」辻は冷や汗が出る。ハゲネズミのような顔に汗が滲む。

「東條や古見(古見忠之。協和会指導部長。のちに総務副長官。実力者)に負けたなどと。石原さんほどのひとが…」

「いわせとけ。馬鹿は死なねば治らん。東條や古見忠之はいずれ絞首刑だなあ(笑)」

「中国にですか?」

「馬鹿!いや、アメリカかソ連か…。辻!勉強が足らんぞ!」

「は、はあ。」

「中国軍はバラバラじゃないか。だが、中国国民党にせよ中国共産党にせよ、アメリカやソ連の傀儡だよ。操り人形さ。裏に大国がおる。それがわからんか?辻」

辻政信は「………はあ、大国でありますか?」と訊いた。

よくわからなかったからだ。辻政信のような小者には、石原莞爾のような先見性がある訳もない。あったら、ノモンハンであれだけボロ負けしなかったろうし、ああいう人生の終わり方もしないだろう。

確かに石原莞爾は天才だった。早すぎる天才、であった。

石原莞爾が東条英機ではなく、首相だったなら終戦をもっと早く工作し、謀略を仕掛けたに違いない。鈴木貫太郎内閣や昭和天皇の二度のご聖断も、玉音放送ももっと早く、原爆投下の〝人体実験〝〝戦争犯罪〝もなかったかも知れない。

だが、歴史にIF(もしも…)…は通用しない。石原莞爾は敗戦後、すぐに病死するが、それも運命であり、それが歴史でもあるのだ。

当たり前に知っていると思うが、日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文はこのハルビン駅で、暗殺者の凶弾で命を落としている。

 辻政信たちはハルビン駅にある伊藤博文銅像に敬礼していた。

ウムボルトは敬礼をしなかったが(もっとも現在ではハルビン駅に伊藤公像はない)、辻は「こらあ!伊藤公に敬礼せぬとは!…ふん、まあ、お前のようなツッパリ青二才に伊藤閣下の偉大さはわからんか?」というのみである。

そして旧式のベンツ車の後部座席に辻政信とウムボルト(→ここではジョルダビド)は乗り込む。天気のいい蒼天の午後くらいである。人通りが多い。

「みろ!ロシアのいい女たちが闊歩しておるだろう?いいか、我々が気を付けなければならないのは女と金だ」

「……」

「最近はソ連の赤化に反対するロシア御嬢さんどもが哈爾浜まで、南下してきているのだ。内地からやってきた助兵衛どもが毎夜小銭で抱いてやにあがっておる。堕落だな。」

「………」

「ウムボルト、女と裏金ワイロには気付けろ!やつらは、コミュニスト(共産主義者)だ。まあ、石原閣下はロシア人だけでなく、ユダヤ人も優遇して国家を満州で…と。まあ、ナチスドイツのヒトラーに気を遣っておもてだって動けんがな。ま、ユダヤ人が金持ちだから助ける価値があるってこったろ?貧乏なクルド人や琉球人やアイヌ人とは違うんだ」

辻政信がデカイ鼠鼻をぴくぴく動かし、丸眼鏡で、ウムボルトの顔を見た。

確かに、その通りだった。

戦後、国連や超大国・米国らがホロコーストでの(ナチスに大虐殺にあった)ユダヤ人たちに国家としてエルサレムを与えたのも〝ユダヤ人〝たちが金持ちだったからだ。ちなみにエルサレム以外にも、ロシアのシベリア地区や旧満州などユダヤ人たちに(国家建設地として)提案されたのだが、やはり、ユダヤ人たちは『約束の地』の、『エルサレム』を選んだのだった。

石原莞爾はそういう知恵、つまり、ユダヤ人たちに(満州を)ユダヤ国家建設地と提案する程ヴィジョンがあった、と。

さすがは天才である。

『虹色のトロツキー』第三巻では、ウムボルトの過去についての関係者の日本人の中年男が連行され尋問を受けるが、お茶に毒がもられていて、その禿げかかりの中年男は毒死する。ロシア人女性美人スパイがあらわれるが、所詮はジャムツ(→ここではダボルド)たちや麗花たちにロシアスパイの工作は阻止される。ロシア人スパイはジャムツに抱かれるが、麗花(→ここでは春麗)が「ジャムツは疲れているのよ。だから、あんなこと」とウムボルトにいう。ウムボルトは童貞であったが、やがて麗花と初めて、男女の関係になる。

 ウムボルトは所詮、〝根無し草〝である。

ジャムツたちに同行、レジスタンス(反政府)活動に参加したり、麗花(→ここでは春麗)と関係を持ったり、と、まさに〝根無し草〝のように時代に翻弄される。

ソ連側の女スパイに拉致されたウムボルト。窮地を、またしてもジャムツ率いる抗日聯軍(れんぐん)に救われ、しばらく行動をともにすることになる。ジャムツの過激な考え方に反感を覚えながらも、日本人でも蒙古人でもない、差別なき満州国人としての理想を追い求めていく。やがてジャムツなきあとはウムボルトが抗日聯軍を率いる、という設定。

勿論、この『虹色のトロツキー』は架空の物語だから、あくまで設定だ。

   

『虹色のトロツキー』第四巻は昭和十四年(一九三九年)一月の満州鉄道特別車両の中から始まる。訪欧使節団副団長甘粕正彦(あまかすまさひこ)(後の満州映画会社社長・敗戦後服毒自殺)が満州に帰国した。

甘粕は一団の席にいて「やっぱりいいですなあ、わが満州国の大地は」と感慨深げに言う。軍服や制服の男ばかりだ。

「その満州も、甘粕さん、あんたがいないとすこし寂しいな」

そういったのは満州国国務総理・張景(ちょうけい)恵(けい)で、立派な高そうな背広姿である。関東軍司令官・植田(うえだ)健(けん)吉(きち)(制服組)は、

「ヒットラーはずいぶんと戦車に力をいれとるらしいが強そうかね、ドイツは?」と訊く。ハゲのひげ男である。参謀長の磯谷(いそがい)廉(れん)介(すけ)は制服姿で隣に座っている。だるまみたいな風体の男である。

甘粕はインテリ風に「強いですなあ、彼は丸ごと機械化された部隊をどんどんと作っております。戦車とトラックと自走砲から成る機甲師団です。これは強い。フランスもイギリスも多分かなわんでしょう」などという。

植田は「キカイ――といえば、なあ?うちの二十三師団、小松原(小松原道太郎中将・ノモンハン戦を指揮)んトコ、アレもそうだが」と磯谷に水を向けた。

磯谷は「いやあ、キカイはどうも、アブラばかり食って困ります」と言う。

満州国総務長官・星野直樹は「しかし、まあ。強い――ということはたのむに足りるということかね、盟友として…」声が俳優の寺田農さんのようだ。

甘粕はふふんと笑ってから、

「ゲルマン民族は偉大ですよ。ヤマト民族ごとき東洋の野蛮人と馬鹿にしています。連中とは友達になれません」

と、ハッキリ言った。不敵な笑みである。

満州国の次長で、のちの東條内閣商工相、戦後に首相になる満州国二キ三スケのひとり岸信介(安倍晋三氏の母方の祖父)は苦笑して、

「こりゃ、手厳しい。甘粕さんらしいナ」と大笑いした。

甘粕は言う。

「わたしはムッソリーニともフランコとも会って話しましたがヒトラーは別格です!ムッソリーニは気性はいいがいい加減でたよりにならない。フランコの頭の中は内戦で勝った その後の、スペインのことで一杯です。相手として足りるはヒトラー一人しかいない!」

一同は甘粕のペースに引きつられる。

「――だが、ヒトラーには誠実さのカケラもありません。権謀術数と権力欲にこり固まったような男です!残念な事に、わが国には彼と張り合えるような人材がいない」

同席のお偉いさんが「近衛さん(近衛文麿首相・当時・戦後服毒自殺した)じゃ、ダメかい?」

甘粕は即座に「駄目です!格が違いすぎます。なにしろこう言っては失礼だが、あの方は蒋介石にさえ相手にしてもらえないのですから!」

「………う~むぅ」

「しいてあげれば日本人でヒトラーの相手が出来るのは松岡洋右(まつおかようすけ・外相のちにA級戦犯)と――――あと、イシワラさんくらいのものでしょう」

甘粕は顎鬚を指でさすった。一同はしらけた。

………松岡閣下はわかるが、あの石原莞爾か?というのである。

場をとりもとうと岸信介は冷や汗を額に浮かべながら、

「ま、たしかにお二人とも、ハッタリはお上手ですからな」という。

甘粕は「岸さん、ハッタリもウソも必要な芸ですよ。それがなくてはきょう日の乱世は生きていけません」

…そりゃ、ま、そうですねえ…

「もっとも、お二人とも評価するか否かということならハナシは別ですよ。わたしに言わせれば松岡さんは策を弄しすぎるし、石原さんには明日の思想らきものはあるが今日の実践が―――ないっ!

 それはともかく、欧州をつぶさに見てきたわたしの感想では今年中には大事が勃発しますな!ヒトラーはたぶん大きな賭けに出るでしょう!」

植田は「なにかい、また…戦争になるのかい?」と水を向ける。

甘粕は頷いて、

「なります!ヒトラーはチェコを手に入れただけではおさまりません。彼は―――内心ポーランドもほしがっている。問題は当面はどちらと事をかまえようとするかです。つまり!…ソ連か―――英仏か。

 いずれにしても、ヒトラーは戦争をするつもりになっていますよ!」

星野は渋い顔をして、

「うぅ~ん。どちらかといえばスターリンに突っかかってほしいところだがねえ………」

「やあ、みなさんおそろいで」

そういってコート姿で来たのは松岡洋右(満鉄総裁のちに外相)だった。

一同、総立ちである。

「正月早々、我が満鉄が世界に誇る「あじあ」の一等を借り切って初会議ですかな?さすがに粋なことをなさる」

お偉いさんが「松岡さん、今、甘粕くんと岸くんがあんたのことを話していたんだよ」

松岡は「そうですか。……実は東京から急電が入りまして、近衛さんがとうとう内閣を投げ出しましてな。ちょうど連絡しようと思っていましたが、好都合です。

閣内では板垣さん(板垣征四郎・後の軍部幹部・國体維持派)と米内さん(海軍大臣・反戦派)が喧嘩ばかりで五相会議もあてにならんで嫌になったんでしょうが、ダメですなあ公家出身のあのダメ首相は…後任が平沼騏一郎らしいですが、ハッキリ言うとあの人じゃ駄目ですなあ。

もどかしいですなあ、内地は!まったく見ちゃおれん!」

「で、松岡さんの相談の向きは?」

「いや、僕はね、満鉄総裁を辞めようと思っておりましたんですよ」

「ほう?辞める?で、?」

「ぼくは日本の外交戦略のなさにムカムカしとるんですよ。まずはスターリンのソ連とは不可侵条約を結ばなくては。それと日独伊三国同盟ですわ!さらに赤化したソ連は米英仏とは水と油ですからな、ソ連を米英にぶつける。〝戦わずして勝つ〝これが戦略の最上等の外交戦略です。そうなれば満州も日本も安泰であるし、ぼくが外務大臣にならねば他のアホどもでは話にもなりません!」

「ま、松岡さんらしいお考えではありますなあ。いま、ヒトラーと話が出来るのは松岡さんと石原さんくらいだと甘粕くんがねえ。」

「ほう?まあ、卓見かもしれませんなあ。僕のやり方で外交をさせてもらえればヒトラーともスターリンともうまくやる自信があります。」

「ほう。そうかい?」

「ところで植田閣下!閣下の下にはずいぶんとふざけたチンピラがいますな!」

「チンピラ?…ああ、辻の事か?あいつ随分とふらふらなんかわけのわからんことをやってるが…」

「この大事な時に、トロツキーを招聘するだのユダヤ人自治州だの…、誰の入れ智慧か知らんが馬鹿げた軽挙妄動をしてもらっては困るのです!ソ連やナチスドイツを刺激する!」

「辻政信は馬鹿でな。あいすまぬ」

「馬鹿ならせめて内地に閉じ込めておいてもらいたい!目障りだ!」

「まあ、あれも一応皇国日本の為と、天皇陛下の為と、まあ、行動自体が馬鹿なんだが」

松岡はパイプのタバコをふかした。

そうである。辻政信は馬鹿げた敗戦『ノモンハン事変』をのちに引き起こす。

歴史に詳しいひとなら誰でもご存じだが、ソ連軍やモンゴル軍や中国軍に惨めなほど叩き潰されて敗北するので、ある。

終戦工作の鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣が阿南惟幾(あなみこれちか)に決まったとき、陸軍幹部や畑中少佐らは「やった!これで軍の士気があがる!」と喜んだ。まさか敗戦工作の内閣だとは思っていない。車で桜の道をいく鈴木貫太郎首相(当時)は、「本土決戦になれば桜は咲かないねえ。」とため息をついた。

五月二十五日は東京大空襲であった。しかし、アメリカ軍は宮城(皇居)は焼かなかった。

防空壕の中の通路で昭和天皇裕仁は「阿南(あなん)よ。お前の娘の結婚式は帝国ホテルで開くといっていたが、帝国ホテルは休業したという。式は無事にすんだのか?」

阿南は「……は、はい。式場を変更いたしまして、無事行いました」と嘘をついた。





 昭和6年に『満州事変』が勃発した。事変……などというと何か自然におこったことのようだが、ハッキリいうと日本軍による侵略である。1932年(昭和7年)には満州     

国という日本軍の傀儡政権国が成立する。

 浜口雄(お)幸(さち)首相暗殺の後の後継者は若規となったが、人気がなく、ついに犬養(いぬかい)毅(つよし)が昭和6年(1931)12月13日、第29代首相となった。大蔵(現・財務省)大臣には高橋是(これ)清(きよ)が就任した。

 犬養毅は軍縮をすすめようとした。そこで軍部からの猛反発にあう。

「満州は仕方ないとしても、中国との関係をよくしなければならない」

 しかし、またも軍部が暴走する。

 昭和7年(1932)2月9日 前大蔵大臣・井上準之助が暗殺される。続いて3月5日には三井の会長が暗殺。そして、ついに5月15日午後に軍部の若手将校たちが首相官邸に殴り込む。将校たちは警備の警察菅たちを射殺していく。そして、ついに犬養毅が食堂で発見される。将校は拳銃を向けて、トリガーを引くが弾切れ。

「まぁ、待て。話せばわかる」犬養毅はいった。

 しかし、午後5時30日頃、将校が「問答無用!」と叫び、犬養毅に発砲して殺した。

 世にいう〝五・一五事件〝である。

 事件を起こした青年将校たちの90%もが東北などの貧しい地方出身者であったという。 自分の妹や親戚の娘が売春宿に売られ、大凶作で餓死者が続発しているのに恨みを抱いての事件だった。

 斎藤実海軍少佐が犬養毅の後の首相に。これで事実上、政党政治がダメになったのだ。軍部が実権を握った瞬間だった。斎藤は満州国を認め、昭和8年(1933)3月、日本は国際連盟から脱退した。…すべては軍部のためである…………

  この当時、世にいう二・二六事件が勃発していた。

 昭和11年(1936)2月26日、軍の若手将校一団が徒党を組み、斎藤実や高橋是清らの邸宅を襲撃し、暗殺した。そして、次の年には日中戦争が勃発した。

 昭和天皇はいう。

「これまでのところ満州国はうまくやっているようだが、万一のときにそなえて仇義をかかさぬように…」

 天皇は米英の軍事力を心配していた。のちの山本五十六のように欧米の軍事力と日本の差を知っていたからだ。ならばもっとましな策を考えればよさそうなものだが、神の子としての天皇に、「人間的な言葉」は禁じられていた。

 ただ、「であるか」という「お言葉」だけである。

 今でいう、カリスマ・ジャーナリスト(勝海舟や森鴎外、山本五十六、中曽根康弘、東篠英機などと親交)徳富蘇峰(とくとみ・そほう)はTVがなかった時代、ラジオで、

「アメリカ人たちに一泡ふかせてやれ! あいつら天狗どもをぶっつぶせ!」とアジる。そして、蘇峰は天皇の『開戦』の詔まで執筆する。

 昭和12年(1937)7月7日には盧溝橋事件(侵略)が勃発して本格的な日中戦争になった。昭和天皇は軍部の暴走を止められない。

「重点に兵を集めて大打撃を加えため上にて(中訳)、速やかに時局を収拾するの万策なきや」昭和天皇は戦争の早期終結を望んでいた。

 しかし、パペットには何もできはしない。

 昭和13年(1937)11月、皇居内に大本栄が設置される。天皇は国務と統帥に任ぜられた。といっても〝帽子飾り〝に過ぎない。

 昭和15年(1940)6月、ナチス・ドイツがパリに入城した。つまり、フランスがやぶれてドイツが侵略したのである。ヒトラーはシャンゼリゼ通りをパレードした。ナチスの鍵十字旗が翻る。ナチス式敬礼……

 日本は真似をした。原料補給のための侵略は日本軍部にとっては口実だった。

 同年9月、日本軍は北部仏領・インドシナに侵攻した。

 昭和天皇は呟く。

「私としては火事場泥棒的なことはやりたくないが、認めておいた」

 それは心臓がかちかちの岩のようになり、ずっしりと垂れ下がるかのようだった。

 ……朕は無力ぞ……

 そして、日独伊三国同盟が成立される。悪のトライアングルである。

 昭和天皇は帝国日本の象徴として、白馬に跨がって軍事パレードを行った。

 昭和16年(1941)4月、日ソ中立条約が成立した。つまりソ連(現・ロシア)と中立にいると日本側がサインした訳だ。

 昭和16年(1941)7月には、日本軍は、南部仏領・インドシナに侵攻した。米国のフランクリン・D・ローズベルトは日本への石油輸出を禁止。日米関係は悪化した。

 昭和天皇はいう。

「外交による戦争回避をしたかったが、御前会議で軍部が猛烈な戦争運動を展開。もっともらしい数字をあげて戦争には必ず勝てるという」

 天皇はパペットに過ぎない……

 米国国務長官コーデル・ハルによる命令書『ハル・ノート』が出される。東篠英機は何とか戦争を回避したかった。昭和天皇も同じだったろう。

 しかし、統帥部(陸軍統帥部と海軍統帥部)の暴走に負けた。東篠は天皇に開戦の言葉を述べながら号泣したという。すべての運命はここで決まった。破滅の道へ……

 そして、

 昭和16年(1941)11月「大海令」……日本は戦争の道を選んだ。


 阿南惟幾(あなみこれちか)は威風堂々としたがっちりした体格で、禿げではないが坊主頭で包容力があるというかなんかカリスマ性があった、という。昭和天皇の侍従長を四年間も務め、昭和天皇の信頼も篤かった。天皇陛下の父親的な立場でもある。

何故なら父親の大正天皇は病気がちで体が弱く、まんぞくに子育ても出来ない人間だったからだ。阿南が父親、というよりは明治天皇にとっての乃木希典が昭和天皇の場合は阿南であったということであろう。

阿南の評伝を書いた作家の角田(つのだ)房子(ふさこ)は、阿南を「立派な平凡人」と評している。華やかな戦歴もなく、頭脳明晰・才気煥発(かんぱつ)というタイプでもない。

ただ公正無私で「八方美人」ともいわれたが、部下にも同僚にも好かれる人物であった。

映画『日本のいちばん長い日』の俳優・役所広司さんみたいに昭和天皇(役・俳優・本木雅弘さん)が軍衆の前で御言葉を述べられる前に、背後から歩み寄って軍服の乱れをなおした、というようなところはよく描けていた。実際にああいう場面はあったそうである。阿南氏の遺族も証言しているし、他にも目撃者がいる。

最近の2015年版の半藤一利氏原作の『日本のいちばん長い日』(監督・脚本 原田眞人氏)を観たがよく複雑な人間模様を描き切っていた。原田監督の天才的な才能には目をみはるしかない。昭和天皇がたばこや酒を一切好まず、あまり庶民とぺらぺら話す方ではないというナーバス(繊細)さ、も見事に俳優の本木雅弘さんが演じていた。見事!と思った。

また、鈴木貫太郎おじいさん(第二十四代内閣総理大臣役の俳優・山崎努さん)も見事な飄々とした老獪さが出ていた。山崎努さんは「今までの役の中で一番難しかった」とおっしゃる。そうだろう。老獪な男で、軍部を手玉にとりながら、老人ぼけや耄碌(もうろく)を演じながら、終戦工作を隠密にすすめる古狸老人…。まるで家康のよう(笑)

降伏か?本土決戦・一億総玉砕か?鈴木首相の書記官長の迫水久常(俳優・堤真一)は今でいうなら官房長官である。玉音放送を阻止してクーデターを起こし、戦争継続を叫ぶ陸軍将校・陸軍少佐畑中健二役は若手の松坂桃李さん、である。

松坂さん演ずる畑中少佐は只のファナチティック(狂信的)な国体維持の青年将校という一面だけでなく、最後まで天皇陛下の為に動く、企む、走る、祈る。

あくまでキャラがひとりひとり際立って、最後まで目が離せない映画であった。

ひとりも〝いなくてもいいキャラクター〝がいない。原田監督の天才ですよね(笑)

旧版の映画『日本のいちばん長い日』(1967年版)もDVDで拝見しましたが、現代版(2015年版)のほうが当たり前だけど素晴らしいですよね。

同じ原作の映画でも脚本と監督が違うとこうも違うのか?と当たり前ですがパソコンの世界の進化〝ドックイヤー〝後の世界観みたいな(笑)

まさに進化版の映画『日本のいちばん長い一日』(2015年版)でした。

 この物語は当たり前ながら、半藤一利氏著作原作、映画『日本のいちばん長い日』(1967年版、2015年版)、小林よしのり氏著作『昭和天皇』、NHK著作プレミアムドラマ『玉音放送を作った男たち』等を参照して執筆して話を展開させていきます。

不出来な部分も多いでしょうがしばらく御付き合いください。

後で参考文献は一覧にして掲載していますので、文章が似ている=盗作、ではありません。裁判とか勘弁してください。盗作ではなく、引用、です。


         2 パールハーバー







「この局面を打開するにはこの作戦しかない」

 日本軍軍幹部は、暗い部屋で薄明りの中いった。皆、軍儀で黒い軍服姿である。

 いったのはそのうちの幹部の老人だった。日本軍の暗号はとっくの昔に解読されていた。「ハワイの真珠湾攻撃! これしかない」

「しかし…」           

 軍儀に同席していた軍服の、山本五十六総裁は何かいいかけた。

 五十六は米国に留学した経験があり、米国の軍事力、兵力、技術力を熟知していた。その結論が、日本の力では米国軍には勝てない……

 というものだった。

 しかし、軍儀ではみな集団ヒステリーのようになっている。天皇(昭和天皇・裕仁)でさえ戦争反対ともいえない状態にあった。

 五十六はためらった。

 自分の力では戦争を止める力はない。天皇陛下が「戦争回避」といってくれればいいが、天皇は何ひとつ発しない。現人神だから、自分の、人間としての言葉を発しないのは当たり前なのだ。五十六は……〝短期決戦なら勝てるかも知れない〝と甘くよんだ。

 長期戦となれば、圧倒的に軍事力が違うから勝つ見込みはほとんどない。

 山本五十六は意を決した。

「わしも真珠湾攻撃は賛成いたす。ただし、奇襲ではいかん」

「……もちろんだとも」

「まず、米国外務省に電報で〝攻撃〝を知らせてそれから開戦だ!」

 五十六はいった。

 ……日本軍は確実に米国に〝攻撃通知〝を打電した。しかし、米国の外交官がそれを見るのを忘れ、結果として「日本軍はパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃した」などと事実を歪曲されてしまう。これはあきらかに米国役人のミスなのだ。

「総統、わが日本は勝てるでしょうか?」

 あるとき、部下がきいてきた。

「日本と米国の差は歴然……短期決戦なら勝てるかも知れない」

「しかし」

 部下は訝しがった。「わが日本帝国は清国(中国)にも、露国(ロシア)にも勝ちまし               

た。わが国は尚武の国です。まける訳がないじゃないですか?」

 五十六は何もいわなかった。

 ……負けなきゃわからぬのだ。この国の人間は…


  日本が太平洋戦争に踏み切ったこと自体、考えれば、国家戦略などなかったことを物語っている。ちゃんとした戦略があったなら、あの時点で、アメリカと戦うなど考えられなかったからだ。

 当時の日本はアメリカと比較すると生産力は十分の一でしかなく、領土は二十四分の一、人口は半分、島国のうえ原料はほとんど輸入に頼っており、補給路を絶たれたらそれでおわりである。

 これではちゃんとした戦略などたてられる訳がない。

 少なくても生産力がアメリカの二分の一、原料、とくに石油の自給率が七十パーセントくらいならまだ勝てるチャンスがあったかも知れない。

「この絶対的不利である日本国をすくうために開戦するのだ!」

 軍部の老人はいきまいた。

「ABCDラインからの自衛の戦争である!」

 老人たちはいう。

 確かに、彼等のごく狭い視野からみればそうであったかも知れない。

 ちなみに『ABCDライン』とは、米国・英国・中国・オランダによる対日包囲網のことである。

 ABCDラインで外交的にシャットアウトをくらい、日本はいきづまっていた。

 原料確保のためにはなんとか行動をおこさなければならない。

 そこで南方進出を決定する。

 ブルネイやインドネシアには石油がある。フィリピンには天然ガスが……

(当時、日本は満州国を保有していたが、石炭しかでなかった。また侵略していた中国では長期戦に引き摺りこまれていた)。

「この戦争はなんとしても勝たなければならない!」

 日本軍部はいきまいた。

「この国は、皇国帝国日本は必ず米英に勝てる!上官の命令は即ち天皇陛下のご命令である!少し負けても最期には皇国日本国に神風がふく!日清日露戦争にも勝った!日本軍の一個師団は米英の三個師団に匹敵する!神の国帝国日本は最後には神風が吹いて確実に勝てる!」

何を根拠に言っているのかよくわからないが、当時の日本軍人たちは必ずそう狂信的に発言していたという。文句があれば鉄拳制裁、つまり、殴られ蹴られ、暴力を受ける。

雄弁でも強くもない庶民や一兵卒は黙るしかない。

確かに戦争終結を希望した軍人や庶民もいたに違いない。(小説『少年H』妹尾河童著作みたいな大嘘じゃなく(笑))

だが、主張すれば『鉄拳制裁(暴力)』だ。確かに「天皇陛下万歳!」と言って死んでいった軍人や特攻隊員も大勢いたのだろう。

だが、昭和天皇も政治家も一部の軍事官僚も馬鹿じゃない。硫黄島やサイパン島、ダガルガナル島、ルソン島まで陥落して、東京や名古屋、大阪、福岡、仙台、兵庫など大空襲を受けて、沖縄もやられていよいよ本土決戦!となれば「もう(おわりで)いいのではないか?」という声だっておおきくなる。日本国内中焼野原である。

しかし、ポツダム宣言受諾にしても、『国体護持確約(つまり、天皇制度維持の確約)』がなければ日本国として丸呑みする訳にもいかない。

 この物語の元ネタは作家半藤一利氏原作の映画『日本のいちばん長い日』、小林よしのり氏著作漫画『昭和天皇』、NHKプレミアムドラマ『玉音放送を作った男たち』で、ある。

が、この物語では映画『日本のいちばん長い日』ではあまり活躍のなかった鈴木内閣の情報局総裁下村海南(かいなん・号、本名・下村宏)も主演級で物語の中にいれてみたい。

1945年(昭和20年)は屈辱的な敗北が続いている最中で、ある。

昭和天皇はさすがに眉間に深い皺をよせていた。

痩身なお体に軍服、近眼の為に丸い縁なし眼鏡をかけていて、猫背で背が低い。口髭。

軍部のプロパガンダ(大衆操作)の道具になっていたラジオや新聞は『大本営放送』を続けていた。まさに〝勝った、勝った〝の嘘八百の大号令である。

だが、庶民も天皇も馬鹿じゃない。そんな大嘘でごまかしきれる訳はない。

昭和天皇は「もう充分国民は苦しんだのではないか?」とおっしゃった。

しかし、誤解があると困るから書くが当時の昭和天皇は、陸海空軍を統べる国家元帥、ではあったが、所詮は立憲君主制度である。

いわば〝帽子飾り〝であり、〝自らの決定権〝もなかった。

いわゆる〝統制権〝は陸海軍にあって、天皇がどうこう言える立場ではなかった。

当時の憲法では、現在のように〝元帥(象徴)〝ではあるが、何でも〝軍部(特に陸軍・関東陸軍)が統制権を握って〝いた。

天皇陛下は思ったろう。クソッタレ、と。

このままでは軍部の狂人たちの言うように『本土決戦』『一億総玉砕』、である。

だが、昭和天皇の偉大なところはあくまで国民側のお立場にお立ちになったことだろう。

政治経験がまったくない鈴木貫太郎を懇願して内閣総理大臣として、しかも軍部トップの陸軍大臣にはなじみの阿南惟幾をもってくる。随分な策士ではないか。

私の記憶にある昭和天皇は「あ、そう。」を繰り返す眼鏡の白髪のご老人であるが、それは晩年であり、私が19歳の誕生日の次の日(つまり1989年1月7日)崩御(ほうぎょ・天皇が死ぬこと)なされたので正直、あまり馴染みがない人物ではあった。

だが、現在、歴史を勉強してみれば以外にも『偉大な人物』であったことがわかる。

昭和天皇なし、で、昭和も終戦も語れない、のだ。

昭和天皇は当時、まだ丸焼けになる前の皇居執務室で、ひとり、椅子に座り、考え込んだ。

深いため息が出た。

「………朕は無力ぞ」

言葉にするといっそう〝自分の無力さ〝がわかった。

陸海空軍を統べる元帥、総司令官、現人神(あらひとがみ)としての自分…。

拳をぎゅっと握って、震えた。

「…朕は……無力ぞ。」

そういってひとり泣きした。ハンカチで涙をぬぐった。

そして、かっと目を見開いた。「国民はもうじゅうぶん苦しんだ。泣いている場合じゃない!朕にも何か出来るかも…知れぬ」

そうか!朕が…!そして昭和天皇は自分の〝歴史的存在価値〝を確信した。

……朕が………この国の戸締りをする…!

昭和天皇は椅子から立ち上がった。やっとわかった!そういうことか!

「宮内省大臣を呼べ!」

昭和天皇は声を発した。粋な発音の言葉であった。

昭和天皇は考えたのである。自分と腹を割って話せる側近たちで「終戦工作をする」…要するに昭和天皇はそう考えたのである。

「なんでござりましょうか?陛下」

「鈴木貫太郎を呼べ!今の小磯国昭首相の後任の首相としてお願いしたい」

「…な?……天皇陛下?鈴木さんはもうよぼよぼの老人で政治家でもないですし…」

「とにかく鈴木貫太郎じゃ!急げ!」

昭和天皇は激しく言った。

「ははっ!」部下は平伏した。

やがて、鈴木貫太郎が皇居に呼ばれた。第二十四代内閣総理大臣、鈴木貫太郎内閣が発足するのは1945年(昭和20年)4月7日である。

鈴木は昭和天皇(裕仁)に、首相就任を懇願されるとは夢にも思っていない。

もうよぼよぼの老人である。禿ではないが白髪に白い口髭、天子さまへの拝謁とあって燕尾服を着てきた。

「鬼貫(おにかん)」の愛称で知られた海軍大将。日清・日露戦争で武勲をあげ、海軍トップの軍令部長まで登りつめた。退役後は侍従長を8年間務め、天皇の信任は厚い。また、侍従長時代、2・26事件で青年将校に襲撃され、四発もの銃弾を受けるが奇跡的に九死に一生を得た。信条は「軍人は政治に干与せざるべき」(阿南、鈴木人物説明小林氏本参考)

「天皇陛下におかれましてはご機嫌うるわしゅうことと…」

「挨拶はよい」昭和天皇は遮った。「それよりものう鈴木、頼みがあるのだ」

「なんでございましょうか?」

実は鈴木貫太郎の嫁は元・裕仁の乳母である。父親のような感覚がある。

ゆえに終戦工作を隠密にすすめる大役は彼しかいなかった。

「鈴木よ、今度現内閣の小磯国昭内閣が総辞職する。代りの総理大臣(第二十四代内閣総理大臣)に、次の首相に就任してはくれまいか?」

「えっ?」

鈴木貫太郎は驚いた。そして「いやいや、陛下。わたくしはもうヨボヨボの老人で、耳も遠くなり、政治などやったこともありません。無理です!」

「鈴木よ!まあ、聴け!」

「はっ!」

「じつはそのほうには、この国の〝戸締り〝をお願いしたいのだ」

「えっ?戸締り?」

「そうだ。隠密に終戦工作をしてほしいのだ。お前なら出来る。頼む!」

「しかし…」鈴木はためらった。「統制権は完全に帝国日本陸軍が握っております。軍部がどんな横槍をいれてくるか…確実につぶされます!断言してもいいです!」

昭和天皇は鈴木貫太郎の言葉を受けて、遠い目をした。考えた。

「鈴木よ、ならば本土決戦、一億総玉砕、でよいとおもうのか?」

「いいえ、それは。そのような惨事では日本は復興さえできません」

「…だから!だから、貴様に頼むのだ!もう国民はじゅうぶんに苦しんだ」

「しかし…軍部が…」

天皇は頷いた。「わかっておる。だから、軍部を統べる陸軍大臣には阿南(アナン、本当はあなみだが昭和天皇はよくあなみをアナンと呼び間違えたという)をあてることにする」

「阿南閣下をですか?しかし、阿南惟幾閣下といえばごりごりの交戦派で口を開けば〝本土決戦!〝〝一億総玉砕〝と叫ぶほどでして…」

「阿南なら、わかってくれる。あの朕が知るあの阿南なら…」

昭和天皇はゆっくり言った。「もはや、戦争継続は無理である。朕には最後に神風が吹き勝つとはとても思えん。降伏か?本土決戦か?一億総玉砕か?阿南ならわかるであろう」

「なにとぞ、この一事だけは拝辞(はいじ)のお許しを願い奉ります」

「そう申すと思っていた。その心境は、よくわかる。しかし、この重大な時に当たってもうほかにひとはいない。ほかにひとはいない」

「………」

「頼むから、どうかまげて承知してもらいたい」

「わ…わかりました!」鈴木貫太郎は深々と平伏した。

何故だか涙がでてきた。

当然ながら阿南惟幾は陸軍大臣になるのを固辞し続けた。

阿南は、しばらく考えさせてほしい、と桜の木々の間の山道をたったひとりで散策しながら考え込んだ。

山から帝都の町並みをみて、俯瞰して、感慨ふかげにため息をもらした。

この帝都もいずれは火の海になり、国民は焼け出される。

自分が隠密に終戦工作を…?

頭をふった。

馬鹿な!しかし、陛下のおっしゃられることもごもっともである。

阿南は東京大空襲後に同じく山道から焦土と化した帝都を見て唖然となった、という。

阿南惟幾は小磯国昭内閣総辞職後の鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。

600万人の陸軍軍人を統べる陸軍大臣である。

その当時は戦争末期の状態で、大本営放送のウソの〝大勝利情報〝とはうらはらに日本軍は負け続けた。日本軍は『神風特攻隊』『回天特攻隊』などと称して、戦闘機や潜水艦に爆弾を積んで米軍艦隊に体当たりで攻撃する〝自爆テロ〝のようなことをしていた。

大勢が「天皇陛下ばんざーい!万歳!」といって体当たりして死んでいった。

国会内で、鈴木おじいさん内閣が発足すると前首相・小磯(こいそ)国昭(くにあき)(のちにA級戦犯)が嫌味をいった。鈴木貫太郎は飄々としている、そして「は?」と耳を傾けた。

「なに?わしは爺じゃで、耳が遠くて聞こえんかった。何て?」

無論、わざとである。小磯は顔を真っ赤にして怒り、「なんでもない!」と怒号を発して、去った。まさに鈴木おじいさんの策士ぶり老獪ぶり、がわかる。まさに家康(笑)

阿南惟幾のほうには『戦争継続・本土決戦』を叫ぶ畑中健二少佐たち青年将校が集合して阿南にお伺いをたてる。頭を下げて平伏して、「阿南閣下!戦争継続ですよね?閣下!?」等と問う。まさに狂信的な青年帝国軍人たちである。負ける、敗北する、??まだ数百万の兵士が残っておる!沖縄の次は本土決戦である!天皇陛下万歳!陛下の為にも戦争継続!

鈴木内閣の情報局総裁は下村宏(号・海南)で、ある。

首相が懇願して就任してもらったのだ。下村宏は当時、有名人、であった。

鈴木貫太郎の孫で、現在(2015年)映画評論家として活躍する鈴木道子さんは、鈴木貫太郎の嘆願で、秋田県に疎開したという。「祖父の〝決死の覚悟〝が語らずともわかった」という。また、阿南惟幾が覚悟を決めた日の朝、出勤する阿南惟幾のただならぬ〝決死の覚悟〝を感じた妻が小さな子供達を必死に連れ出し、〝無言の今生の別れ〝、をさせた。

その阿南邸の玄関先での場面は、映画『日本のいちばん長い日』でも描かれたが、号泣確実の名シーンである。まさに満身創痍の阿南惟幾と日本国………

下村宏は明治8年から昭和32年までの人生である。逓信省から朝日新聞に入社、妻は文という。文の親戚は佐々木信綱という有名な詩人であるから、下村海南(雅号・本名 下村宏)はよく漢詩や詩をつくったという。仲のいい夫婦、である。

「この詩をどう思う?」

「そんな、親戚のおじさんに訊いてください。わたしが詩人ではありませんから」

妻は思わず笑った。

「それもそうか?」宏は笑った。

「その沢山のファンレター、旦那様はもう有名人ですねえ(笑)」

下村宏はラジオで番組を受けもって有名人になる。テレビもないパソコンもない携帯やスマートフォンもない時代だから、ラジオは最先端のマスメディアであった。

下村は政府に不利な情報が〝検閲〝されている、と耳の痛いことも言ったがラジオの放送はそれをいわせなかった。途中でラジオの音源を遮断して、言論統制をする有様であった。

「〝正確な正しい情報〝こそ〝武器〝なのに〝英語を話す事を禁止〝したり、大本営は間違っている!」下村はそういう男である。

妻の文は「それでも相手の気持ちも考えて発言することも大事なのですよ」と、当たり前のように言う。これは釈迦に説法か?と思うが違った。

「それもそうじゃのう」

確かにその通りである。そういう下村だからこそ、情報の重要さがわかっているからこそ、鈴木貫太郎は下村海南(宏)を情報局総裁に任命したのである。就任時は朝日新聞の専務役員であった。誰よりも情報戦略、外交戦略、等戦略に長けていた。

下村海南は早くから『天皇陛下の肉声』つまり、『玉音放送』に着眼する稀有な人物でもあった。だが、下村は早すぎたジャーナリストでもあった。

『玉音放送構想』は木戸幸一やらに「無理だ」「現実的じゃない」と拒絶されたし、空襲の情報を正しく伝える事も拒絶される有様であったという。

下村は〝天皇陛下のお写真〝を〝庶民が陛下に親近感を抱く為に朝日グラフ等に掲載〝していた。が、庶民からは「不敬だ!不敬罪だ!」と反発されていた。

まだ、天皇陛下が象徴でも人間でもなく、現人神の陸海空軍を統べる大元帥、の時代、である。天皇陛下の写真は『ご神体』と呼ばれていた。

下村宏(雅号・海南)おじさんは〝早すぎる改革者〝であった。

「下村さん、どうか鈴木内閣で終戦工作に与力してはくれまいか?」

鈴木首相は渋る下村海南に嘆願し、頭をさげた。

「わかりました!」下村は涙声で、言った。

参謀の内閣情報次長の久富辰夫氏(毎日新聞記者の若者)、内閣情報局秘書官の川本信正(朝日新聞記者の若者、オリンピックを「五輪」と最初に訳したひと)らである。

「玉音放送ですか?」

久富さんは下村に聞きかえした。「天皇陛下の御肉声を?」

川本は「無理じゃないですか?この前だって軍衆によびかける陛下の声を遠くのマイクが拾ってしまい大問題になりましたばかりでしょう。陛下のお言葉は確かに強大だとは思いますが軍部がだまってないでしょう」

「だからこそ、だ。」下村は強く言った。「今こそ陛下のお言葉でこの地獄のような国民の凄惨なありようを伝えて、終戦に導かねばならん。それが国の為道の為だ」

「しかし…」

「しかしも屁ったくれもない。今こそ玉音放送なんだ!」

下村たちが出会ったのがのちの『玉音放送担当アナウンサー』の和田信賢(わだ・しんけん)さんである。和田氏は安芸ノ海VS双葉山のラジオ中継をやって「双葉山敗れる」と

実況して有名になった。戦後は日本初のクイズ番組の司会で有名になった。

「私は只のトーキングマシーン(話す機械)ではなく、声優とまで呼ばれるくらいのアナウンサーになりたい」下村の前で和田さんはそう夢を語ったという。

当時のアナウンサーの悩みは空襲警報の情報検閲であったという。〝軍事情報は漏らさず〝等の綺麗ごとで空襲警報の正確な情報がラジオで流れない。よってその被害者は莫大なものとなり、いつしか少国民らはアナウンサーや大本営を憎むような心情になっていたという。下村宏(雅号・海南)はその情報検閲を規制して、徐々に正確な情報がラジオや新聞で伝えられるようになっていく。まさに情報改革、であった。

空襲が激しくなり陛下の身を案じた君臣たちが、東京の宮城(皇居)の壕から、長野松代に建設していた地下壕に大本営の移転を強く願いあげたが、陛下は、

「わたくしは、国民とともに、この東京で苦悩を分かちたい。わたくしは行かない!」

と強く申されたという。皇太后さまも同じ意見であった。

(小林よしのり氏著作より引用)

1945年(昭和20年)4月12日、米国のローズベルト大統領死去

1945年(昭和20年)4月30日、ヒトラー自殺

1945年(昭和20年)5月8日、ナチスドイツ、連合軍に無条件降伏

1945年(昭和20年)5月25日、東京大空襲(宮城(皇居)も焼失・天皇ら皇居近くの防空壕基地に移動)

「空襲警報をすぐに出させてください!」

軍人は「いや、まて!検閲が先だ!」等という。

和田信賢さんは怒鳴るように「何を考えているんですか?!国民の命がかかっているのですよ?!検閲は国民の命より大事なんですか??」と我鳴った。

鈴木貫太郎はもう悟っていた。

「もうこの戦争に勝ち目はない。軍部がいじになっている」

下村は「国内が焦土と化し、本土決戦、一億総玉砕………となったら新しく根ぶくこともない」とため息を漏らした。ひどく疲れていた。

「下村さん、なんかアイディアがないかい?」

「総理、それはわたしより総理の方がアイディアがあるんじゃありませんか?」

うながした。

「……天皇陛下の御聖断か?」

「御明察。今こそ玉音放送、陛下のお言葉です。軍部でも政治家でもなく天皇陛下のお言葉だからこそ国民は敗戦でも受け止められるでしょうな」

「それしか…ない……な。」鈴木首相は深く頷いた。

御聖断をあおぐ。それが〝最後の道〝である、な。

1945年(昭和20年)7月27日に米英中3国が、ポツダム宣言で日本国に無条件降伏をせまってきた。しかし、『国体護持』つまり天皇制の維持の約束がまるでない『ポツダム宣言受諾』に反対する者も多かった。阿南も軍部も文句たらたらである。

だが、8月6日午前7時17分に広島市に原爆が投下されると日本国は「もう駄目だ」という意見が大半になった。アメリカ人が学校で教わる詭弁『広島・長崎の原爆投下で戦争が早期終結した。原爆は必要だった』等とは私(著者)はけっして思わない。詭弁であり、大嘘である。原爆の人体実験がしたかっただけだ。庶民が住む非軍事施設への原爆投下や空襲は明らかな『戦争犯罪』である。

広島・長崎で何十万人も犠牲になったのだ。しかも、軍人でもない庶民が、である。

あの当時、日本国中が焼野原であり、確かに一部の狂信的な軍人は竹やりででも戦ったであろうが、象に立ち向かう蟻、である。『戦争終結を早める為に原爆投下は必要だった』等とふざけるな!とアメリカ人には言いたい。そして、アメリカ人は広島や長崎にきてちゃんと歴史を学んでほしい。話はそれからだ。

当時は核爆弾を投下された、という認識はまだなく、「何やら新しい新型爆弾を米軍がつかったようだ」という認識だった。が、専門家らは「あれは原水爆だよ」という意見もあった。要は『人体実験』の『原爆投下』であり、黄色い日本人等どうなろうが知ったことではない、という〝アメリカ人(WASP)の主張の塊〝のような〝新型爆弾〝であった。

広島や長崎の被爆者は爆弾を『ピカドン』と呼んだが、正式名称を知らなかったからで、『原爆投下』は後付けの歴史観である。

日本放送協会会長の下村海南は、君民一体となる為に、天皇陛下のお声を一億国民に向けて放送すべきと考えていたが聞き入れられなかった。その下村は、終戦時の鈴木貫太郎内閣に情報局総裁として入閣していた。昭和20年(1945年)8月8日、下村は天皇に拝謁する。君民の間はあまりにも隔離されていた。この重大時局にあたり、玉音放送などとんでもないことと堅く阻止されている。しかしいまや日本帝国存亡の秋(とき)に直面した。さような窮屈なことなどいっていられる時ではない。下村はそのような内容の奏上(そうじょう)を熱心に行い、拝謁は二時間にも及んだ。そしてその帰りの車中、下村は涙を目にため、震えた声で言った。

「陛下は承知してくださった。わたしが陛下に「マイクの前にお立ちください」と申し上げると、陛下は「必要とあらばいつでもマイクの前に立つ」とおっしゃったんだよ。」

(小林よしのり氏著作より引用)

1945年(昭和20年)8月8日にソ連軍が、日本国に宣戦布告して満州や樺太・クリル列島や北方領土を蹂躙、『シベリア抑留』という悲劇がうまれた事は歴史に刻まれている。

もはや、ここまでか!御前会議で鈴木首相は、突如、天皇陛下の御聖断をあおいだ。

「陛下!天皇陛下、どうかご聖断を!天皇陛下の御心をおききしたい!」

鈴木首相は伝家の宝刀を抜いた。

『最高戦争指導者会議』1945年(昭和20年)8月9日午前11時30分。宮中で開かれたその会議のメンバーは、総理大臣・鈴木(すずき)貫太郎(かんたろう)、外務大臣・東郷(とうごう)茂徳(しげのり)、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)、海軍大臣・米内(よない)光政(みつまさ)、参謀総長(陸軍最高指揮官)梅津(うめづ)美(よし)治郎(じろう)、軍司令総長(海軍最高指揮官)豊田(とよた)副武(そえむ)。

鈴木貫太郎首相の書記官長の迫水久常氏は「1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、今度は長崎に新型爆弾がおとされて大勢が死んだそうです(広島原爆投下(ウラニウム型水爆 長崎の原爆はプルトニウム型水爆)1945年(昭和20年)8月6日午前7時15分)。…最後の一兵まで戦うしか…ないのでしょうか?」という。

最高戦争指導会議では決戦派と和平派とが紛糾して議論がまとまらない。

だからこその、鈴木首相の、突如の、ご聖断の懇願である。

「広島長崎の原爆といいソ連の参戦といいこれ以上の戦争継続は不可能であります。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかない。ついては天皇陛下のお言葉をたまわりたく願います」

昭和天皇は「国民はもうじゅうぶんに苦しんだ。もう戦争はよろしかろうと思う」と述べた。御聖断である。つまり、戦争終結、ポツダム宣言受諾、である。一同は号泣した。まさに満身創痍の御聖断で、あった。嗚咽だけが静かに聞こえる。おわった……。

しかし、軍部や国民が納得するのか?それが最大の問題であった。

(小林よしのり氏著作より引用)

陸軍大臣の阿南惟幾に「戦争終結という噂はデマですよね?日本はまさに神の国で天皇陛下がおられる限り負けはしません!一億総玉砕、本土決戦で戦争継続を!どうか軍部の総意をお守りください!」等と若手将校らがせまる。

阿南は戦争継続など、無謀で、もうおわり、とわかっていたが「貴様たちの総意はわかっておる!まだ、本土決戦、一億総玉砕、の道は残っておる!まだ望みを捨てるな!」

と一喝した。嘘だった。御聖断を有効にするための大嘘であり、詭弁だった。

「日本に天皇陛下がおられる限り皇国日本は亡びない!」

「はっ!天皇陛下万歳!」

畑中少佐らはにやりとなった。

だが、御聖断はくだったのである。

ファナスティック(狂人的)な軍人は机を叩いて「国体護持」を叫ぶ!古賀少佐と畑中少佐は阿南邸宅で阿南と酒をくみかわした。

「阿南閣下は呑まれないのですか?」

「ううん。息子が戦死してから断酒してねえ。これも七生報國だよ。」

この頃、軍部の青年将校の間では『ポツダム宣言』の「サブジェクト トゥ…」が問題となっていた。「おい!この〝サブジェクト トゥ〝は隷属(れいぞく)するって訳せるぞ!」

「何?! アメ公め、ふざけやがって!」

「阿南閣下はどうしますか?! 本土決戦、一億総玉砕がなければ皇国日本が滅びますよ!」

「………天皇陛下次第だろう…」

こうして日本政府は『(降伏要求の)ポツダム宣言』を〝黙殺〝……広島、長崎に原爆が落とされ、不可侵条約を結んでいたソ連が参戦してきた。

阿南惟幾陸軍大臣が「御聖断はくだったのである。もし、まだ戦いたいのならこの阿南を斬ってからにせよ!この阿南の屍(しかばね)を越えていけ!」と喝破する。

すると畑中少佐は机をばんばん叩き「……まだ戦えますよ、閣下あ!一億総玉砕!後、二千万人の特攻をだせば勝てます!」

部下や同僚は荒れる畑中少佐をはがいじめにして下がらせた。

鈴木貫太郎内閣は『ポツダム宣言』の閣議をしていた。自体は一刻の猶予もなかった。

鈴木はいう。「一日遅れればソ連は樺太、満州、北方領土どころか北海道まで侵攻し、北海道がドイツのように分断される。敵がアメリカのうちにやらねば……ここは天皇陛下の御聖断を仰ぐしかない。まことに異例のことだがなあ」

天皇は言う。「わたしは一億総玉砕に反対である。わたしの命はどうなってもかまわないから和平をすすめてほしい。わたしのことばが必要ならいくらでもマイクの前に立つよ」

下村海南は天皇陛下と拝謁した。そこで『玉音放送』の話をした。

天皇は「大変に参考になった」という。

下村は部下たちに涙を流して「玉音放送が出来るかも知れない」と言った。

「それは〝朕(ちん)、大いに嘉(か)尚(しょう)す(私は大いに褒め称える)〝ですね?」

鈴木首相はにやりとなった。

吉積参謀が軍服のまま「鈴木首相、話が違うではありませんか!」と詰め寄るが、

阿南が割って入り「吉積、もういいではないか!」と止めた。

「首相、総辞職しますか?」

「玉音放送の後にね。我々の内閣はそのためのだけの内閣だ」

「算盤づくでは米英には勝てない!国体護持ならば…しょうがないですね」

やがて、昭和天皇により玉音放送用の録音、が行われた。

録音の音声はレコード盤(玉音版という)に収められた。だが、その情報が近衛兵や抗戦派の若手将校に流れると、畑中健二少佐たちは顔面蒼白になった。そして怒りに震えた。

「馬鹿な!まだ内地に三百七十万の兵がいる!神国日本が負ける訳はない!ふざけるな!」

こうして、クーデター計画は始まる。

畑中少佐と古賀少佐らはクーデター計画を決意する。

どうしても天皇陛下の玉音放送をストップする。彼らは天皇陛下が君側の奸にだまされて、降伏の宣言を録音させられた、としか思っていない。

「現在のうちに陛下の玉音放送をおとめして、君側の奸らにだまされた陛下の名誉を回復し、一億総玉砕!本土決戦への道を!まだ間に合います!本土決戦で後二千万人の特攻をやれば必ず勝てます!この皇国日本が負ける訳ありません!」

「畑中!もうおわったんだ……陸軍士官は全員切腹……それだけだ。」

「まだ間に合います!君側の奸らにだまされた陛下のご名誉を……」

「畑中!……このままではクーデターでただの反乱だぞ?貴様、わからんのか!?」

畑中少佐と古賀少佐らはクーデター計画を推し進める。自転車で東部司令官の下にいくが、叱られた。「貴様らー!何しにきたー!馬鹿野郎、お前らの無謀な行動はわかっている。調子に乗るな!馬鹿たれ!」

畑中少佐と古賀少佐らは近衛軍師団長の下に向かった。

「……森師団長!お話があります!近衛師団で玉音放送をとめて頂きたい!一億玉砕!本土決戦しかありません!」

「まあ待て!それより俺の人生論を一時間ぐらい聞いてくれ」

「……師団長!時間がありません!」

「………じゃあ、参拝するか?」

「は?!」

「明治神宮にだよ。」

「……時間稼ぎだ。」

「近衛師団長の印鑑と偽勅で近衛師団を動かせ!何としても玉音盤を破壊するんだ!」

軍は本土になお370万の兵士を有し、本土決戦、徹底抗戦を叫ぶ声が圧倒的だった。

若手近衛兵たちは畑中少佐をリーダー格にして、クーデターを企んだ。

まず、畑中少佐ら叛乱将校らは上官の近衛師団長に「師団長!玉音放送を阻止してください!陛下は君側(くんそく)の奸(かん)(君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような奸臣(悪い家臣・部下)、の意味の表現。「君側」は主君の側、という意味。)に騙されたのです!この皇国日本軍が負けるわけありません!必ず本土決戦でけりがつきます!どうか、師団長(森赳)、ご決断を!」

だが、近衛師団長は「馬鹿を言うな!畑中!これは御聖断だ!ならん!」と首をふる。

「……なら死ね!」

畑中少佐は森赳師団長を拳銃で撃ち殺した。刀を鞘に納める叛乱(はんらん)将校ら。

「とにかく、玉音放送をとめるぞ!戦争継続だ!君側の奸を倒すぞ!」

「おおっ!」

叛乱将校らは怒号の元、狂気の行動を続ける。森近衛師団長の偽命令書で近衛兵を動かす。

畑中健二少佐は、総務省で玉音版を必死に探すがなく、自転車(自動車を動かす石油がないから)ですすみ、放送協会まで占拠し、和田さんらアナウンサーらを銃や銃剣で脅す。

「玉音版は何処だ?玉音放送をやめよ!われら青年将校の主張をラジオで流せ」と銃で脅す。だが、「ここでは放送をすることが出来ません」と和田さんが言うと畑中は「なにい?」と怒鳴ったという。和田さんらは恐怖でぶるぶる震えていた。相手は狂人集団だ。

「今は空襲警報が出ていて東部軍からしか放送できません!」

「嘘を言うな!軍人の命令は天皇陛下からのご命令だぞ!」

「いえ。事実です。どうしてもというならその直通電話で東部軍の軍人さんとお話し下さい!」アナウンサーたちは冷や汗を流しながら言う。

叛乱将校らは銃や刀で武装して、脅迫する。脅す。畑中少佐は電話を掛けるが…

「そんな…閣下!君側の奸に陛下は……天皇陛下は…騙されているのです!我が日本軍はいまだに内地に三百七十万もの兵がいるのです!戦争継続を決断すれば必ずや勝てます!」

「馬鹿もん!出来ない!諦めろ畑中!」

だが、もうおわり、であった。

万事休した畑中少佐は椎崎(しいざき)中佐と二人、宮城周辺でビラを撒いて、決起を叫んだ後、午前十一時過ぎ、「我らは草莽の志士!皇国帝国日本軍は不滅也!いざ立てよ!天皇陛下の為に草莽の民よ、たちあがれ!」宮城前二重橋と坂下門との間の芝生で自決した。

「て…天皇陛下、万歳!………日本国…ばん…万歳!」

 血だらけで畑中らは自決して命を絶った。

同じころ、陸軍でも陸軍大臣阿南惟幾に青年将校らが詰問しているところであった。

だが、阿南は一歩も引かない。

「御聖断は下ったのである!もはや、天皇陛下は御聖断を下されたのである!もう終戦は決まりだ!もし、陛下の御聖断に不服があるならこの阿南を斬ってからにせよ!

 この阿南の屍を越えていけ!」

阿南は怒号を発した。

すると、会場内のひとりの少佐が火をつけたように泣き出した。号泣とはこういうことか、というぐらいの凄い泣きっぷりに会場はどよめきと騒乱が襲った。

「阿南さん、死にますね」

迫水書記官が鈴木首相にささやくように言った。

「阿南さんはいとまごいに来たんだよ」

「鈴木首相、首相も死にまするか?」

「いや。」鈴木はおおきく息を吸い「こんなヨボヨボ老人の命など何の役にも立たん。阿南さんはひとりで自刃して軍部の全責任を負う覚悟だ。花道を汚す訳にはいかんよ。」

阿南惟幾は8月15日午前4時40分、宮城庭園で割腹(かっぷく)。介錯(かいしゃく)を断り、絶命したのは午前7時10分であったという。着ていたワイシャツは天皇陛下に拝領したものだった。「お上がお肌につけられた品だ。これを着て逝く」と言い残して………

血染めの遺書には『 一死 以テ大罪ヲ謝シ奉ル

            昭和二十年八月十四日夜

            陸軍大臣阿南惟幾[花押]

             神洲不滅ヲ確信シツツ』

(小林よしのり氏著作より引用)



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