大河小説 731部隊その真実~戦慄の記録~恐怖の人体実験エリート医学者の犯罪最期の真実

長尾景虎

小説 戦後79年最大のドキュメント   大河小説 731部隊その真実~戦慄の記録~恐怖の人体実験エリート医学者の犯罪最期の真実

小説 戦後79年最大のドキュメント

  大河小説 731部隊その真実~戦慄の記録~恐怖の人体実験エリート医学者の犯罪最期の真実


              ~耐え難きを耐え忍び難きを忍び~


                  裕仁 ひろひと しょうわてんのう

                ~昭和の象徴・昭和天皇の人生!

                 わが心の昭和史~

                 total-produced&PRESENTED&written by

                   NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎

         this novel is a dramatic interpretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.

        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〝

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



     ーwith history the final judge of our deeds, let us go

      forth to lead the land we love asking his blessing and

      his help, but knowing that here on earth god’s work must

      truly be our own. ー   JFK


  〝歴史をわれわれの究極の審判とみなし、神の恵みと助けをもとめながらも、

  この地上では神のみわざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ  愛する祖国を導き、前進していこうではないか〝

                     ジョン・F・ケネデイ

                      1917~1963



          あらすじ


  昭和天皇は1901年に生まれた。明治天皇が裕仁と名付けた。そんな明治天皇も死に、乃木希典は後追い自殺を……裕仁は嫡男として皇太子に。しかし、病弱だった大正天皇はすぐに死んでしまう。時代は昭和へ。日露、日清戦争で勝った日本帝国は野望をもち中国などを侵略していく。時代は黒闇の戦争へ……

 昭和天皇は軍部のパペット(あやつり人形)と化して太平洋戦争を黙認する。しかし、日本に勝ち目はない。やがて原爆投下で日本は敗戦。天皇は「人間宣言」をして巡幸してまわる。やがてそんな天皇は八十七歳で崩御……時代は平成へと移る。ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊……冷戦終結…時代は新たな一ページを刻む。

 昭和天皇はいう。

「戦争がさけられないのならばせめて治療法のない兵器は使わないでください」

2014年8月21日に2億円もの費用をかけて『昭和天皇実録』と称する裕仁の87年余の全生涯の研究実録書数十巻(60冊1万2000ページ)が平成天皇皇后に上程された。

                                    おわり

『人物表』大河小説731部隊その真実

731部隊隊長軍医・石井四郎… 

731部隊衛生兵古都証人… 731部隊軍医・西俊英… 

731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清…

731部隊元少年兵・三角武… 731部隊元少年兵・須永鬼久太… 

731部隊第一部(チフス)部長・田部井和… 

京都帝国大学医学部長・戸田正三… 昭和天皇裕仁…… 

畑中健二…… 阿南惟幾…… 迫水久常…… 下村海南……

下村の妻・ふみ…… 鈴木貫太郎首相…… 

石原莞爾…… 小磯国昭…… 山本五十六…… 辻政信…… ウムボルト……

東京帝国大学学長・長興又郎… 東京帝国大学医学部・吉村寿人…

731部隊軍医・柄沢十三夫…

 他


  



         1 天子誕生と戦争



  



 戦後79年経て、終戦へのプロセスは戦後最大のドキュメントである。

『降伏(敗戦・ポツダム宣言無条件受諾)』か?『本土決戦(一億総玉砕)』か?

1945年8月15日、日本のもっとも長い一日がそれで、ある。

この物語の主人公は、まず昭和天皇(裕仁)平和を追求する偉大な天皇である。「国民は苦しんでいる。もうじゅうぶんではないか?」そして、それを阻止し、本土決戦・一億総玉砕の道に、戦争継続を謀る陸軍少佐畑中健二「決起すれば全軍が立ち上がり本土決戦・一億総玉砕でも最後には皇国日本軍が勝つ!」、そして陸軍大臣、阿南惟幾(あなみこれちか)「御聖断は下ったのである!御聖断に納得出来ないならこの阿南を斬れ!阿南の屍を越えていけ!」、そして、書記官長の迫水久常「最後の一兵まで戦うしかないのでしょうか?」そして、第二十四代内閣総理大臣鈴木貫太郎「この戦争はこの内閣で決着です」、そして、下村海南(号・海南(かいなん)、本名・宏)「なんとしても陛下の玉音放送しかないのではないでしょうか?」

 これは終戦までの最大のミステリーに迫る物語で、ある。

 かつて、『侵略戦争と罪と罰』というような〝かつての日本軍・日本兵は全部、悪であり、ナチスと同じだった〟〝侵略・虐殺〟、というような自虐史観があったと思う。

 まあ、確かに、ある程度の虐殺行為も侵略行為も強姦などもあっただろうが、すべて日本軍だけが極悪だった……などはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)によるアメリカからの洗脳でしかない。

 では、日本軍だけが悪で、連合軍の、都市無差別爆撃や広島長崎への原爆投下は悪ではないのか?

 確かに、数十年前はみんな騙されていた。ひたすら、日本軍・日本だけの〝悪・戦争犯罪〟だけを言及したのである。だが、もうそのペテンは通用しない。

 と、同時に、韓国や中国の、「(かつての侵略戦争の)謝罪をしろ! 賠償金を払え!」というのも違うのではないか? と思うのだ。

 韓国には1965年の日韓請求権交渉・国交正常化交渉で、日本は国家としての謝罪もおわっているし、その当時、5億ドル(1860億円・現在の価値7700億円)の賠償金も韓国政府に払っている。慰安婦・徴用工の賠償金も「韓国政府」がその金で払うのが本来正しい。

 また、中国へも国家的謝罪も日本はおわっており、賠償金代わりに中国へのODA(政府開発援助)で、5兆円も払っている。もう、おわっているのだ(北朝鮮はまだ独裁国家なので、払えない)。

また、かつての戦争(太平洋戦争・大東亜戦争)でも物凄い欧米人達のアジア人・日本人差別があったことは否定しようがない。欧米人は日本人をイエロー・モンキー(黄色い猿)イエロージャップ(黄色い日本人野郎)と呼んでいた。

東京や大阪などの無差別大空襲や、広島・長崎の原爆投下もその差別からのものである。

原爆で30万人が死に、大空襲でも数万人が死んだが、〝黄色い猿〟と思っていたからこそ躊躇なく攻撃できたのである。しかも、被害者は非戦闘員で、子供や老人や女性だらけ。

前にアメリカの外交筋の馬鹿が、「ローズベルト大統領が真珠湾攻撃を知っていた……なんてふざけるな!」とか激怒していたが、「お前ら原爆を落としただろう!」と言いたい。

米大統領が真珠湾攻撃を知っていたことはもう常識レベルの歴史の事実だ。それでも外交官か!欧米での日本人捕虜の虐待は『アーロン収容所』という本に詳しい。

映画『グレムリン』というのがあるが、あの小さくてうるさくて水で凶暴化するギズモーグレムリンは、「日本人」がモデルだとか。そうまで馬鹿にしているのである。

だが、日本軍は〝差別主義者〟の欧米兵士に勝った! とまでは言わない。

けしてあの戦争は『正義の戦争』ではないからだ。ある程度の虐殺も、ある程度の侵略も、ある程度の強姦もあったのだ。日本国のために戦い、戦死なされた英霊たちには失礼だが、過去の日本兵や日本人を英雄やヒロインにしたところで、何も変わらない。

我々は現実を見よう。〝アジア人差別〟〝黒人差別〟はなくならない。

だが、憎しみあっても意味がない。それに最近の日本人だって外国人差別をしているではないか。アメリカ兵は原爆で大虐殺をしてもまったく裁かれない。

ベトナム戦争時でもアメリカ兵は酷いことをやったが、何も裁かれない。

だが、日本だけが過去に〝自虐的〟になって、何でも、「謝罪しよう」「賠償金を払おう」というだけでは何一つ解決しない。

 過去の謝罪も賠償金もおわっている。(北朝鮮へは独裁政権が崩壊してから)

まずは、現実をしっかりと見よう。現実に立脚して戦略を練ろうではないか。



 


「731部隊(帝国日本陸軍・関東軍防疫給水部)」ウィキペディア参照

731部隊

731部隊司令部

場所

満州国の旗 満州国、ハルビン市、平房区

座標

北緯45.6度 東経126.63度座標: 北緯45.6度 東経126.63度

日付

1935年 – 1945年

攻撃手段

人体実験

生物戦争

化学戦争

武器

生物兵器

化学兵器

爆薬

死亡者

人体実験でおよそ3,000人、戦場ではおよそ数万人

犯人

軍医総監・石井四郎

中将・北野政次

防疫給水部

再建された建物(1号棟)

初代731部隊長石井四郎(陸軍軍医中将)

731(ななさんいち)部隊(ぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。

満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。

沿革

1932年(昭和7年)8月に陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた。

1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した。

関東軍防疫給水部本部731部隊ボイラー棟建物。1945年8月9日のソ連軍の満州への侵攻直後、大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)」である。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた。厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている。

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された。

防疫活動

1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈られた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある。

生物兵器の開発と実戦的使用

「生物兵器」および「化学兵器」を参照

第一次世界大戦での化学兵器使用をうけ、1925年のジュネーヴ議定書では化学兵器や生物兵器の使用が禁止された。しかし、日本は批准していなかった(1970年批准)。

常石敬一や秦郁彦によれば、731部隊は、単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、これを実戦で使用していた。731部隊ではペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われ、寧波、常徳、浙贛(ズイガン)などで実際にペスト菌が散布されたと常石は主張している。

731部隊の傭人として3年間勤務した鶴田兼敏は、ノモンハンでの生物戦での実体験について次のように語っている。「8月下旬の夜、急に集められ、トラックに乗せられ真っ暗な道を現場のホルステイン河に向かった。別に血判などはつかなかった。トラックは3台で、2台にそれぞれ兵隊が10人ほど乗り、残りの1台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ。」さらに、中身を河に流す際、鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を頭から浴び、腸チフスで死亡している。

また、元関東軍の大尉であった小島隆男は、731部隊と協力し、中国大陸にコレラ菌を拡大させる作戦に従事したとして次のように語っている。「コレラ菌は対象地域に撒きました。まず病気が発生したことを確認し、対象地域に入ります。日本軍が侵入すると中国人たちは逃げて、新しい人たちに次々に感染させ、我々の計画通りに病気を蔓延させます。死者の死体や動けない人々が、あたりに横たわっていました。夏になると蝿がたかり、ぞっとする風景でした。私たちは2週間これらの作戦を続け、任務成果報告書に中国人およそ2万人がコレラで死亡したと記入しました。」

元部隊員への尋問・関連論文

1947年に米軍の細菌戦研究機関キャンプ・デトリック(現フォート・デトリック)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、日中戦争において、浙贛作戦(1942年)などで12回の生物兵器の使用があったとする。また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在する。部隊長石井四郎軍医は、フェル博士による尋問で炭疽菌の効果について次のように語っている。「炭疽菌についていえば、もっとも有効な菌であると確信しました。量産できるし、抵抗力があって猛毒を保持し、致死率は80%〜90%にのぼる。最も有効な伝染病はペスト、媒介節足動物による最も有効な病気は流行性脳炎であると考えました」。一方、田中淳雄少佐は尋問で、1943年に防疫研究の余暇を使ってペストノミの増殖の研究を命ぜられたものの、ペストノミの増殖に不可欠な白ネズミが不足していたことから、ペストノミの大量増殖は不可能であったと供述している。

金子順一論文

1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の金子順一軍医の「論文集(昭和19年)」が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見された。論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明していたものと一致している。

また金子論文は、太平洋や東南アジアでペスト菌を撒くことを想定し、地域や季節による効果を試算した研究内容を記述している。これらの計画は初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする秦郁彦の説もある。

2012年6月15日衆議院外務委員会で社民党の服部良一議員は金子論文について質問すると、玄葉大臣は時間経過などを考えれば政府調査で事実関係が断定できるか難しく、今後の歴史学者の研究を踏まえていきたいと答弁した。

ペスト菌攻撃とされる事例

寧波

1940年10月27日早朝に行われた寧波へのペスト菌攻撃は、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われた。この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している。

満州新京

1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点についてシェルダン・ハリス(英語版)や解学詩は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと主張している。

常石敬一は新京や農安で発生したペスト流行については日本軍の細菌攻撃説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病だったのではないかと指摘している。

しかし、ジャーナリストの渡辺延志は、2011年の金子論文発見によって、731部隊の細菌攻撃は新京から60キロの農安で始まり、農安から持ち込まれた犬が入院していた新京の日本人経営の犬猫病院を起点として、新京でのペスト流行が拡大していったもので、日本軍による細菌攻撃であったと主張する。

常徳

1941年11月4日に常徳で行われた同様のペスト菌攻撃は、散布の効果が薄かった。これは、中国側が寧波での経験を生かし、日本機が菌を散布した後に衛生担当者がただちにまかれたものを収集し、破棄したからである。結果として中国側は死者数を一桁に抑えられた。

浙贛

一方で、同1941年に行われた浙贛への細菌攻撃では、1万人以上の被害が出た。コレラ患者を中心1700人以上が死亡したものの、犠牲者はすべて日本兵だった。被害にあった日本兵は上官から、これは中国による生物兵器攻撃だと教えられたという。

被害者の証言

両親と4人の弟、それに叔父までもペストに奪われ、家族の中でたった1人生き残ったという当時15歳の王栄良は、1942年9月に崇山村でのペスト菌攻撃の様子について、次のように語っている。

日本の軍用機が低空で円を描きながら、煙のようなものを落としました。小麦やトウモロコシなどでした。数日後死んだネズミが見つかるようになり、開明街の一帯で高熱や痛みに苦しんでどんどん人が死んで行きました。街のみんなは一体何が起きたのかまったく理解できませんでした、自分の家族が次々と死んでいくのです。本当に悲惨な状態でした。みんな死ぬ時は苦しみもだえて、全身痙攣しながら死んでいきました。その体ははじめ赤くなって、死んだあとはだんだん黒くなりました。母は私の目の前で水をくれ、水をくれと叫び、父も喉をかきむしりながらライオンのようなうなり声をあげて死んでいきました。(中略)村民380人が死亡しました。20人も亡くなる日もありました。最初の死人が出ると、保護衣とマスクを着用した日本人が村に入り、3日間村中を巡回して村人に注射をしました。

もう一人の生存者、王達は、この生体解剖所について次のような手記を残している。

丘の頂上の寺に行くと、治療を受けられると言われました。私の友人は、妻が治療を受けるためにそこに行って、数日後台に縛り付けられて体を切り開かれているのが発見されたと私に話しました。彼女の足はまだ動いており、生体解剖されたことは明らかでした。

人体実験

「四方楼」。ロ字型の建物で15,000㎡ある細菌実験、生産の主要的建築があった場所で1945年8月に日本軍により爆破され地下基礎部分のみ現存する。

石井四郎は医学研究において「内地でできないこと」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「(日本)内地でできないこと」とは主に人体実験を指していると常石敬一は主張している。

元陸軍軍医学校防疫研究室の責任者で、石井四郎の右腕といわれた内藤良一(のちの「ミドリ十字」の設立者)は、戦後のニール・スミス中尉による尋問で次のように証言している。「石井がハルビンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。(中略)石井はハルビンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルビンでは何の妨害もなく捕虜を入手することが可能でした。」さらに、細菌部隊のアイデアは石井ひとりのものだったとし、「日本の細菌学者のほとんどは何らかの形で石井の研究に関わっていました。(中略)石井はほとんどの大学を動員して部隊の研究に協力させていた」と供述している。

実験材料「マルタ」と呼ばれた人々

元隊員の郡司陽子の証言によれば、人体実験の被験者は主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていたという。ジャーナリストの西野瑠美子によれば、731部隊が性別、年齢層、人種を超えた、幅広い実験データを必要としたためであり、女性マルタは主に性病治療実験の材料になったという。

731部隊の人体実験に関わった上田弥太郎は、自らの研究プロジェクトに関する手記の中で、マルタの様子について次のように言及している。

すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる。同胞を囲んで8つの眼がかたずをのんで見守っているが、誰も口を開く者はいない。(中略)ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。彼らがこの中に入れば、その名前は胸につけられたアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。私たちは、マルタ何本と呼んでいる。

高い外壁で囲まれ、コンクリート造りの特設監獄(「マルタ小屋」と呼ばれた)に一度収容されると、脱出は極めて困難であったといわれる。石井四郎付き運転手であった越定男は、野外の安達細菌爆弾実験場で脱出を試みたマルタたち40人をトラックで轢き殺したとして、次のように証言している。「一度、縛られていたマルタおよそ40人が、お互いに縄をほどき合って、散り散りになって逃げたことがあります。しかし、遠隔地の空港ですから、逃げおおせる場所はありません。トラックで次々に彼らを轢き殺しました。前輪でひっかけたり(中略)、轢いた時は衝撃を感じました」。

マルタの人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされる。731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年に「毎日2〜3体、生きた人を解剖し(中略)多い時は1日5体を解剖した」と証言している。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという。こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、以下に示す元部隊員など関係者の証言である。

細菌学的実験

731部隊における人体実験は通常、生体解剖を意味した。これは被験者が死亡してしまうと人体に雑菌が入るため、人体に雑菌が入らないうちに解剖して臓器などを取り出す必要があったからであるとする。

元731部隊員で中国の撫順戦犯管理所に1956年まで拘留され帰国後は中国帰還者連絡会(中帰連)会員として活動してきた篠塚良雄は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」に配属され、ペスト患者の生体解剖に関わったという。篠塚は帰国後、高柳美知子との共著の中で、中国人マルタの生体解剖の様子を次のように語っている。

「ワクチンなしでペスト菌を注射されたその男性は(中略)、2、3日後には、高い熱が出て顔色が悪くなり、その翌日くらいには瀕死の状態で顔が黒っぽく変わっていきました。(中略)この男性はまだ息のある状態で裸のまま担架に乗せられ、私たちが待機している解剖室に運ばれてきました。(中略)大山軍医少佐から「はじめよう」の命令がでました。細田中尉が、目でメスをわたすように私に合図します。足かせ手かせで固定された男は、カッと目を見開き、この凶行を確かめるように首を回しましたが、体の自由はききません。男は無念の涙を目にたたえ、天井の一点を見つめています。何か叫びを発しようとしているようですが、乾ききった口からは声は出ず、わずかに口を動かすだけです。男の首をなで回していた細田中尉が、右手のメスでズバリと頸動脈に沿って切り下げました。血がジューッと流れ出しました。男は、ペスト病の苦しみと、切りさいなまれた痛さで首を左右に振り回します。そのたびに顎にかかっている首かせが食い込み、ついにガクリと首をたれ失神しました。私はあわてて血を抜き取りました。(中略)ビタカン(ビタミン剤とカンフル剤を混合したもの)を4本打っても、男の鮮血を絞ることはできません。「鬼子ッ!」男は憎しみの火と燃える一言を絞り出すとスーッと顔色が代わり、呼吸が止まりました。「解剖刀をよこせ」細田中尉は、解剖刀を逆手に握ると、上腹部から下腹部へ得意然として切りさいなみ、骨を切るノコギリを引いて肋骨を引き切り、内臓の全部を露出させました。」

生体実験では、日本人が犠牲になることもあったという。篠塚はペストに感染した友人の少年隊員であった平川三雄の生体解剖に立会った時の様子を、次のように語っている 。

「平川三雄は、すでに特別班の隊員によって真っ裸にされ、解剖台にかつぎ上げられているところでした。(中略)うつろに開かれた眼には涙が溢れ、口をダラリと開けてハーハー苦しそうに息をはき、そのたびごとにビクビク腹を波うっていました。(中略)「少佐殿、少佐殿」平川の必死な叫びが、部屋にむなしく響きます。私の頭の中には、石井部隊に入隊するとき、「三雄と仲良くしてやってネ」と私の手に小さなくだもの籠をわたしてくれた平川の母親の顔が浮かびました。また、それ以来、共に過ごした生活が渦を巻いて脳裏に押し寄せてきました。「助けてやりたい」そう思った私の手が、止血剤を取ろうと薬物箱に伸びようとした瞬間、平川の全身をつつきまわして検査していた大山少佐の命令がかかりました。「はじめろッ」(中略)江川技手は、解剖刀を逆手に握ると上腹部を刺しました。「助けてくれーッ」平川の口からうめきがもれると、江川技手の手が震えました。「その態はなんだ」後ろから一喝を食った江川技手は、サーッと解剖刀を下にひくと、かえす刀で胸部の皮膚をさきはじめました。血は解剖台の血流しを通じて、下にボタボタ流れ出しました。「畜生!」平川の口から、血をしぼる叫びが出ました。それと同時に、解剖台上に内臓がズッズーッとはみ出て、彼は絶命しました。」

(なお篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている。田辺敏雄は、こういった中帰連関係者などの証言について、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定(自己批判)させられた者の証言であるとして、信憑性を疑問視している)。

上田弥太郎は手記の中で、人体実験を行った時の様子を次のように描写している。

すでに紫藍色を呈して冷たくなりかかった手が入口に出された。私は嬉しさと勝利感でいっぱいだった。「班長は、どんなに結果を期待しているだろう」と言い表すことのできない興奮を抑えて、注射器を手に取った。

注射器はぷすりと鈍い音を立てて、肘静脈に刺された。赤黒い血液が注射器の中に吸い込まれていく。3cc~5㏄、彼の顔はしだいに蒼ざめ、もううめき声さえも聞こえない。喉がひーひーと虫の啼くような音を立てている。耐え難い屈辱と憤りの眼は、まばたきもせず私は睨んでいる。 しかし、そんなことはどうでもよいのだ。だた10㏄の血液を採りさえすれば・・・、これがいわゆる研究に携わる者の悦びでありまた天職なのだ。人の死の苦しみも私には何ら同情するに値しない。 手早く血液を処理し、再び監房の中を覗いてみた。彼は引きつった顔を時々ピクッピクッと痙攣させて、呼吸も次第に浅くなり、チェンストーク氏呼吸(死の前に起こる呼吸状態)に入った。同じ運命にある同房者はたまらなくなったのか流れる水を汲んで、まさに逝かんとする同胞の口に注ぎ込んでいる。ああ、何という暴虐!」

生理学的実験

731部隊では、ガス壊疽実験、凍傷実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた。

元731部隊員の越定男によれば、731部隊で最も熱心に行われた人体実験は、ガラスで覆われたガス室の外から犠牲者を観察するガス実験であったという。越は、ガス実験に立ち会った時の様子を次のように語っている。

マルタと一緒に鳩、鶏などが籠に入れられたまま運び込まれる。(中略)背の高い眼鏡をかけた通訳生がマルタに適当な嘘を言って送り込んでくる。やがてガス発生機の音や風車の音がし始める。大抵ガスは眼に見えない。ガラス越しにマルタの表情を見て、ガスの濃度や効果を知るわけである。

ガラスを通してみるマルタの表情、動きは刻々に変わる。ガスの種類によって突然、泡を吹き出す者もあれば、苦痛に顔をゆがめる者もあり、鼻水を出したり、時には喀血する者もいる。使用ガスは、イペリット、ホスゲン、ルイサイト、青酸ガス、一酸化炭素ガスなどさまざまである。(中略)絶命したマルタは解剖室へ、半死半生のマルタは特別室へ入れて、二度、三度と実験に使い、決して生かしておくことはない。

さらに、同じく731部隊の印刷部員だった上園直二は、「2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。」という証言をしている。

731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖した時のことを次のように回想している。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった。」

石井部隊長の私設秘書的存在として活動していた、731部隊の郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟の友人から次のような証言を聞き出している。「ときには、マルタが3、4人ずつで中庭の散歩を許された。この時は、手錠だけで足枷は外されたようだ。自分が見た中で忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられたマルタが、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった。」

1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、「自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると『大人、味のある水を飲ませてくれ』と訴えました。45日間生きた人は左光(サコウ)亜(ア)という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。」と語っている。

細菌爆弾の効果測定

常石によれば、マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化した。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された。

731部隊の女性隊員郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたことを示す次のような証言を聞き出している。

「やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、1回に2、30人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混じっていた。服装は私服のままだった。(中略)覆面トラックから降ろされた「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(中略)「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。そこは、「丸太」の地獄だった。「丸太」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた者、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「丸太」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」

性病実験と女性マルタ

731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個師団相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。

当初、731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制した。性行為に立ち会ったという元隊員は、西野瑠美子とのインタビューの中で、「目の所だけが開いている白い袋のような帽子を、頭からすっぽりかぶり、白衣を着て、まわりに立っておった。4、5人が見ている前で、セックスをさせたんですよ。拒否することはできない。モーゼル拳銃を構えているわけですからね。」と語っている。

また、元隊員の上田弥太郎の証言記録によれば、1942年4月に行われたマルタを使った毒ガス演習で、小林という隊員が「それはもったいないことをした。俺の子供まで殺しちゃった。」と言っていることから、隊員による女性マルタの強姦もあったものと西野瑠美子は推測している。

マルタが性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した。また、731部隊の研究員だった吉村寿人(のちの京都府立医科大学の学長)が戦後に発表した論文には、乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実験に使用されたものと西野は考えている。

元731部隊員の胡桃沢正邦は、証言ビデオの中で、生体解剖時の麻酔から目覚めた女性マルタの様子について次のように回想している。

(インタビューワーの女性) 「眼は開いているの?」

(胡桃沢正邦) 「眼は開く場合もある。」

(インタビューワーの女性) 「叫んだりする人もいた?.....何と言ったの?」

(胡桃沢は力なく泣き始め) 「そのことは2度と思い出したくない!」 (胡桃沢は謝罪し、数秒後しゃくりあげながら答えた) 「『私は殺されてもよいが、子供の命だけは助けてください』と言った」

証拠隠滅とマルタの処理

1945年8月9日のソ連軍の満州への侵攻直後、731部隊の施設建物が大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする。秦郁彦は、終戦時には、生存していた40~50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたと推測している。元隊員の越定男によれば、これらのマルタは青酸ガスを噴出させて殺害するか、銃で脅しながらマルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープを巻き、その中央に棒を差し込んで、2人にねじらせることで殺害したという。作家の森村誠一は、マルタの毒ガスによる集団殺戮を目撃したとする以下の元隊員の証言を聞き出している。

「マルタの中の数人は毒ガスで死にきれず、鋼鉄製のドアをたたき、苦悶のうなり声をあげのどをかきむしって苦しんでいた。特別班員がゆっくりと近づき苦悶するマルタを胸に向けてモーゼル拳銃の引き金を引いた。殺したマルタの足を引っ張って、7棟横にあった大きな穴の中に、次々と死体を放り込み、ガソリンと重油をかけ、火をつけた(中略)11日の午後だったと記憶している。731の焼却炉は、生首の標本や細菌培養の寒天、膨大な書類や器具を焼却するためふさがっていた(中略)マルタの死体はなかなか燃えなかった。しかし撤収は一刻を争う。浮き足立った特別班員らは死体焼却作業の半ばで土を掛け、逃亡してしまった(中略)そのため土の中から手足が突き出ており、とても証拠隠滅の役を果たしていない。部隊幹部がこの状況を見て『もう一度死体を掘り出し、完全に焼いてしまえ』と命令した(中略)目をむいて硬直しているマルタの死体(中略)掘り出す役目に当たった隊員らは、吐き気をこらえながら作業を続けた。」

また、撤退時の証拠隠滅とマルタの処理に関わったという元隊員の篠原鶴男は、ソ連軍の侵攻翌日の1945年8月10日にマルタの処理に関わった時のことを次のように証言している。

明けて10日、これまで入れなかったロ号棟の監獄の部屋に、私を含め3人で入りました。マルタが3人ほど転がっていましたが、ほとんどがロ号棟の外に運ばれていて、穴を掘って薪の上にマルタを、そのまた上に薪を載せてマルタを、というように積み上げ、火をつけるばかりになっていました。(中略)私たちは、12号まである監獄の爆破作業にとりかかりました。12号室の壁に爆薬をしかけるために入ると、白っぽい壁に血書を見ました。新しい血で「日本帝国主義打倒!必勝蔣総統万歳!」と書いてありました。字を書いた人の顔を一目見たいと、手で血で汚れているマルタを捜しましたが、薪と一緒に積み上げられてわかりませんでした。

731部隊が証拠隠滅を急いだのはマルタだけではなかった。1棟2階の「陳列室」をはじめ第一部各課研究班には、ホルマリン容器に入った生首、腕、胴体、脚部、各種内臓の標本が、伝染病の種類や病状ごとに計1000個ほど保存されており、これらは夜陰に乗じて松花江に投げ捨てられたという。さらに、増産を重ねてきた各種細菌のストック、夥しい数のネズミ、数億匹のノミ、解剖記録、病理記録、細菌培養記録などは掘った穴に集められ、重油で焼却されている。その後、施設建物が大量の爆薬によって破壊された。この時の爆破の煙はハルビン市内からも見えたと言われている。篠原鶴男は、証拠隠滅と爆破に関わった時の様子を、「13日夜から14日明け方にかけて何回もトラックで初花江という河に研究機材、薬品、標本を入れた容器などを運んで流しました。爆破の時には30人しか残っていませんでした。18時、爆破スイッチを入れ、爆破音が轟く中を列車に乗り込み、出発しました。」と証言している。

731部隊付き看護婦であった赤間まさ子によれば、石井四郎は日本への帰路において731部隊員と家族に対し、「戦争は負けた。俺は、君たちみなを故郷に送り返す。帰郷したお前たちが731部隊の秘密を漏らすようなことがあったら、この石井はどこまでも、草の根をわけても捜すぞ。」と悪魔のような形相で叫んだという。

戦後

アメリカ合衆国による731部隊調査

アメリカ合衆国は、日本の敗戦直後から4次にわたって細菌戦専門家による731部隊調査団を派遣した。調査はすべて、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部部長チャールズ・ウィロビーの全面的な協力のもとで進められ、報告書(レポート)がアメリカ国防総省あてに提出された。

第1次 - 責任者マレー・サンダース、1945年11月1日付「サンダース・レポート」、部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし

第2次 - 責任者 アーヴォ・トンプソン(Arvo T. Thompson)、1946年5月31日付「トンプソン・レポート」、部隊組織や実験内容を詳述、人体実験への言及なし

第3次 - 責任者ノーバート・フェル(Norbert H. Fell)、1947年6月20日付「フェル・レポート」、人体実験への言及あり

第4次 - 責任者エドウィン・ヒル(Edwin V. Hill)、1947年12月12日付「ヒル・レポート」、人体実験への言及あり

731部隊の実験データの行方

ウィリアムズとワラスは、731部隊の実験データの多くは元隊員たちが密かに持ち帰ったため、最終的にはアメリカ軍の戦後の生物兵器開発に生かされたと主張している。また、人体実験に手を染めたものの、ハバロフスク裁判を免れた軍医たちは連合国から戦犯として裁かれることなく、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得たと述べている。

青木冨貴子によれば、終戦直後に特別列車で日本に帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。石井は連合国軍による戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらました。

731部隊の大連実験所で、薬学の専門家として働いていた目黒正彦は、部隊員の戦後の処遇について次のように告発している。「戦後も、元隊員には多額のお金が支払われました。200万円もらった人もいます。昭和23~24年当時に、このような支払いが行われたということは信じられないことです。恐らく、米軍からの支払いがあったのだろうと思います。731部隊関係者はほとんど例外なく、いくばくかのお金を受け取りました。731部隊の仕事は、最高の稼ぎを保証しました。大勢の大学教授が731部隊に関連していました。とりわけ厚生省の幹部のような上層部の人たちやワクチン関係者は、みな石井部隊と何らかの関係を持っていました。彼らはそのことについて口をつぐんでいますが、部隊での研究で報酬を得たのです。彼らこそが、現在の日本の基礎を築いたのです。」

実験データの取引に関する青木冨貴子による説

青木冨貴子によれば、ジャーナリストの野口修司がソ連が石井への尋問を行った際に立ち会った通訳の吉橋太郎から聞き出した内容によれば、石井は「細菌戦エキスパートとしてアメリカに雇っていただきたい。ソ連との戦争準備のために、私の20年にわたる研究と実験の成果をアメリカに提供できるのです。」と語ったという。結果として、その後のソ連の石井たちへの尋問は失敗に終わり、戦犯から逃れようとする石井ら731部隊幹部と、ソ連にいかなる情報も与えまいとするアメリカ側の利害関係は見事に一致することになる。

青木冨貴子によれば、米国が731部隊員に提示した条件は、以下の9項目からなっていた。

--- 鎌倉会議で取り交わされた9ヵ条の密約 ---

1.この秘密調査報告書の閲覧はフェル博士、マックェール中佐、および吉橋通訳とGHQのアメリカ人、そして石井と約20名の研究者のみに限定されている。

2.日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる。

3.報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人のみに提供される。

4.ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである。

5.報告書は一般に公表されない。

6.研究者はアメリカ合衆国の保護下にあるという事実が明らかにされないよう注意が払われる。

7.主要な研究者は米国へ行くことを許可される。

8.細菌戦実験室が作られ、必要な経費が支給される。しかし、アメリカ人実験室長の下に行われる日本人研究者との共同研究はさらに考慮される。研究に基づく特別実験が予定される。

9.アメリカ人だけによる全面的な共同研究は日本の問題に良い影響を与える。アメリカ人とこれらの条件を決定するに当たり、8以外はすべてアメリカ人の一般的意図に基づく。

さらにフェル博士が発見し、石川太刀雄丸が解説をつけた病理標本8000枚が、メリーランド州フレデリックのアメリカ陸軍キャンプ・デトリック(現フォート・デトリック)に送られた。

アメリカ政府は次のように結論した。

a. 日本の生物戦研究の情報はアメリカの生物戦研究プログラムにとって大きな価値があるだろう。

b.【略】

c. アメリカにとって日本の生物戦データの価値は国家の安全にとって非常に重要で、「戦犯」訴追よりはるかに重要である。

d. 国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」裁判にかけて、その情報を他国が入手できるようにすることは、得策ではない。

e. 日本人から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め置くべきであり「戦犯」の証拠として使用すべきではない。

さらに、アメリカのエドウィン・V・ヒル博士(化学戦部隊基礎科学部主任)は最終報告書において、「今回の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた補強するものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たものである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するものである。こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、われわれの研究室で得ることはできない。これらデータを入手するのに今日まで要した費用は総額25万円である。この費用はこれらの研究の価値と比べれば些細な額にすぎない。」と記している。

ハバロフスク裁判

「ハバロフスク裁判」を参照

第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判では731部隊関係者に訴追が行われ、判決で強制労働が命じられた。

柄沢十三夫証言

731部隊の実験データに強い感心を示していたソ連は、ハバロフスク裁判で731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった柄沢十三夫少佐を厳しく尋問し、柄沢は1946年9月26日から30日までの間に、731部隊の編成と責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中華民国での細菌兵器使用、寧波と常徳で行われたペストノミ攻撃の事実を認め、総指揮者が石井四郎であったと証言した。また、ハバロフスク裁判の判決準備書面で「昭和18年末あるいは19年の初めに安達付近演習場にて人体および動物に関する実験が行われたり」と述べている。この時は炭疽菌爆弾の実験が行われ、犠牲となったのは10〜20人であり、その他に馬20頭についても実験が行われたという。

川島清証言

また、柄沢の上司だった川島清軍医少将(731部隊第4部長)も、飛行機によるペストノミの散布、ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの供給と受領の仕組みなどについて供述した。川島によれば、実験の犠牲者は3,000人以上とされる。

倉員サトル証言

731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、凍傷実験を目撃した様子について次のように証言している。「生きた人間を使用する実験を私が初めて見たるは、1940年12月のことであります。第1部員である吉村研究員がこの実験を私に見せてくれました。(中略)私が監獄の実験室に立ち寄りました時、ここには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、これらの中国人の中2人には、指が全く欠け、彼らの手は黒くなっていました。三人の手には骨が見えていました。」

朝鮮戦争における細菌戦

朝鮮戦争でアメリカは日本軍の731部隊のデータをもとに細菌戦を実施し、また石井四郎も従軍したといわれる。

一方、キャサリン・ウエザースビー(Kathryn Weathersby)は、米軍が朝鮮戦争で細菌戦を行ったというのは、北朝鮮、ソ連、中国による捏造でありプロパガンダであるとした。

日本国への賠償請求

詳細は「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」を参照

1997年に中華人民共和国の180名が、ハーグ陸戦条約3条違反などにもとづき細菌戦の被害者への謝罪と賠償を日本政府に求める裁判を日本で起こした(731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟)。2002年、東京地方裁判所は、ハーグ陸戦条約が個人に国際法主体性を認めておらず、また日中平和友好条約で日中共同声明の「戦争賠償の請求放棄」原則が確認されて国際法上は国家責任は決着した、補償法令の立法不作為も認められないなどとして請求を棄却した。他方、東京地方裁判所は細菌戦の事実関係について、当該訴訟では原告側の立証活動だけで被告側による反証活動がされていないという制約があり、複雑な歴史的事実であるから歴史の審判に耐え得る事実の認定は学問的な考察と議論に待つほかはないとしたうえで、当該裁判所の事実認定としては731部隊や中支那防疫給水部(1644部隊)が1940年から1942年にかけてペスト感染したノミを散布したり、コレラ菌を井戸に入れるなど細菌兵器の実戦使用(細菌戦)があったと判断した。同事件は、2007年に最高裁判所で原告側の敗訴が確定した。

旧陸軍軍医学校跡地で発見された人骨との関連

1989年に7月東京都新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地に建設予定の国立感染症研究所建設現場で、四肢が様々な位置で切断された形跡が残った大量の人骨が発見された。人骨の身元は不明だが、731部隊の犠牲者の可能性があるとして市民団体は政府調査を要求した。

1992年4月、札幌学院大学教授の佐倉朔の鑑定結果は次のようなものであった。

1.人骨は100体分以上のものである。

2.人骨は一例を除き人種的にはモンゴロイド(アジア系の人種)だが、単一の人種からなるものではない。

3.10数個の頭蓋骨には人為的な加工の跡がある。

4.いくつかの頭蓋骨その他には、拳銃で打ち抜かれた孔や刀で切られた跡が残っている。

5.骨が現地に埋められたのは1890年〜1940年頃までの間である。

6.人骨は四股の骨の多くは何ヶ所かで切断された形跡がある。

以上の理由から「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(人骨の会)」代表常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと指摘している。また、新宿区が遺骨焼却予算を計上したため、焼却差止住民訴訟が起こされたが、2000年に敗訴確定(人骨焼却差止住民訴訟事件)。

2001年の厚労省調査報告では、陸軍軍医学校関係者368人への聞き取り調査によって、標本類また医学教育用に集められたもので、戦死者等から作成された可能性はあるが、731部隊によるものを否定する回答もあり、確定できなかった。

2011年、厚労省が初の発掘調査を行った。

2016年、人骨の会代表常石敬一らはミトコンドリアDNAの鑑定などを厚労省に要望した。

人体実験を裏付ける資料とその真偽

アメリカ

近年になって機密指定解除された日本の戦争犯罪に関するアメリカ政府や軍の公文書からは、731部隊により非人道的な実験が行われた記録はいまだ発見されていない。その理由として、米陸軍戦史センター(英語版)(CMH)の元主任研究員エドワード・ドリューは、「終戦直前の1945年8月12日からアメリカ軍の一部が日本に上陸する8月28日までの間に、人体実験に関わる主要な記録の多くが日本当局により隠滅されたため」であると指摘している。また、コロンビア大学教授のキャロル・グラック(日本近代史専攻)は、アメリカの、日本軍の満州での初期の軍事行動に対する感心が終戦時と比べて低かったこと、そして連合軍がヨーロッパにおけるホロコーストの資料作成を優先したのに比べ、戦略諜報局(CIAの前身)が日本軍の満州での初期の軍事行動に対して徹底的な調査を行わなかったからであると指摘している。

ただし、アメリカ、ユタ州のダグウェイ細菌戦実験場では、731部隊による人体実験の数百ページに及ぶ詳細なデータ「ダグウェイ文書」が1991年に発見されている。この「ダグウェイ文書」には、炭疽菌について400ページ余にわたり、30例の解剖所見の人体模型図入りの記録、さらに心臓、肺、扁桃、気管支、肝臓、胃というように18の臓器ごとの顕微鏡写真入りの記録が記載されている。

石井四郎手記

また、ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されており、それには戦後の石井の行動の克明な記録に加えて、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていたが、その中には非人道的な活動を明示する内容は無かった。

関連が指摘される史料

ほかに確認されている文献史料としては、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いについての特例措置に関するものがあり、これが731部隊に移送されて人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯、匪賊、アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソ連のスパイ(ソ連の諜報員の略で「ソ諜」「蘇諜」等と表記)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している。

また、秦郁彦によれば、現存する731部隊の医学的成果を分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷治療法の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという。

原正義は、1928年の済南事件での日本人犠牲者の遺体を済南病院で検視している写真(『山東省動乱記念写真帖』〈昭和3年、青島新報 1928〉に掲載)が、731部隊が中国人に細菌人体実験をしている写真として『日本侵華図片史料集』や吉林省博物館、粟屋憲太郎の論文などで誤用・転用されていることを指摘している。

旧址

731部隊旧址

中国語と英語で書かれている731部隊本部建物説明。

6号棟跡

煉獄門と書かれた建物

建物内部は現在資料館。

1号棟右側

731部隊遺跡建物表札

元監視塔

参考文献

青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2005年 ISBN 978-4-10-373205-1(文庫 2008年 ISBN 978-4-10-133751-7)

軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(編) 『日本医学アカデミズムと七三一部隊』 風社新、1990年。新装版:樹花舎、1993年

群司陽子 『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店)

常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年 ISBN 4-06-149265-9

常石敬一 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 朝日文庫 1999年 ISBN 4-02-261270-3

常石敬一 『戦場の疫学』 海鳴社 2005年 ISBN 4875252269

常石敬一 『謀略のクロスロード 帝銀事件捜査と731部隊』 日本評論社 2002年 ISBN 4-535-58337-4

越定男『日の丸は紅い泪に』教育資料出版会、1983年

近藤昭二(編) 『731部隊・細菌戦資料集成』 CD-ROM 柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2404-7

篠塚良雄、高柳美知子『日本にも戦争があった 731部隊元少年隊員の告白』新日本出版社、2007年

田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』不二出版、1991年(731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書」などを収載)

田辺敏雄 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 自由社、2002年 ISBN 4-915237-36-2

西野瑠美子 『731部隊のはなし』明石書店、1994年

秦郁彦 『昭和史の謎を追う (上)』 文春文庫、1999年 ISBN 4-16-745304-5

ハル・ゴールド 『証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡』 廣済堂出版、1997年7月。ISBN 978-4-331-50590-8

松村高夫 『日本帝国主義下の植民地労働史』 不二出版、2008年

森村誠一 『悪魔の飽食 新版』 角川文庫、1983年 ISBN 4-04-136565-1。

渡辺延志 「731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見」『世界』830号、岩波書店,2012年。http://avic.doc-net.or.jp/siryou/20125watanabe.pdf

関連作品

小説

『凍河』(日本、五木寛之著、1976年)

『妖魔夜行/魔獣めざめる』(日本、山本弘著、1996年)

映画

『凍河』(日本、斎藤耕一監督、1976年)

『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』(香港、牟敦芾監督、1988年)

『黒い太陽七三一II 悪魔の生態実験室』(香港、ゴッドフリー・ホー監督、1992年)※DVD題:黒い太陽 恐怖の細菌部隊731 殺人工場

『黒い太陽七三一III 石井細菌部隊の最期』(香港、ゴッドフリー・ホー監督、1993年)※DVD題:黒い太陽 恐怖の細菌部隊731 II 死亡列車

舞台

『エッグ』(日本、野田秀樹監督、2012年)

マンガ

『メタルK』(日本、巻来功士著、1986年)

音楽

長渕剛 1983年発売のアルバム『HEAVY GAUGE』収録の「冷たい外国人」。

池辺晋一郎 混声合唱組曲『悪魔の飽食』、1984年。原詩は森村誠一。

スレイヤー 米国のスラッシュメタルバンド。2009年発売のアルバム『血塗ラレタ世界』収録の「ユニット731」。

話を戻す。


  立憲君主と大元帥……

  慈悲深い立憲君主と大元帥……                  

 これが昭和天皇・裕仁(1901~1989)の名称である。

 しかし、実のところは白馬にまたがり軍部の前であやつられるパペット(操り人形)に過ぎなかった。日本人には驚きだろうが、かの昭和天皇は、ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ第二次大戦の大悪人のひとりなのだ。                             

 しかし、崩御(死亡)のさい、日本のマスコミはこのことにまったく触れなかった。

 ……死んでしまえば「いいひと」とでもいいたげにお涙頂戴の報道に徹した。

 NHKを初めすべての報道局が昭和天皇の死を報道したが、戦争犯罪に触れたものはひとつとしてなかった。世界はこれに呆れたことだろう。

 先の戦争でも昭和天皇は「もう一度戦果をあげるのがよろしそうろう」などと沖縄戦の一ケ月前に「お言葉」を述べている。

 太平洋戦争末期に出来た近衛内閣の近衛文磨首相は「最悪なる事態は遺憾ながら早々必要なりと存候。一日も早く戦争終結を申し候」と述べた。

 しかし、神の子・天子である天皇は人間らしいことは何もいえない。只、「無駄な血が流れなければよいが…」と他人事のような「お言葉」を述べるだけだ。

 熱しやすい軍部は暴走して、「一億総玉砕!」などと泥沼にひきずりこもうとする。

 これは太平洋戦争の二十数年前に遡らなければならない。


ここから数行は漫画家・安彦良和著作『虹色のトロツキー』(中公文庫)から引用する。

昭和十三年六月満州(まんしゅう)――新京(しんきょう)(長春(ちょうしん))、日本の建国大学に旧・満州国旗がはためく。五族同和のシンボルである。

時代が時代なだけに西部劇などで出てくるようなベンツのクラシックカーが蒼天の元、大学正門にやってくる。参謀旗章の黒いやつだ。

大学内で野良仕事をしていた学生たちは「すげい、ベンツだぞ!」「誰なんだ?」「げ!鬼辻!」等とひそひそ噂している。

辻(つじ)政信(まさのぶ)――関東軍参謀(建国大学創設主任)後ノモンハン事件、シンガポール戦、ダガルカナル戦等の作戦指揮。強引・専断・無情――鬼参謀として知られる。背が低く、痩せていて、丸ぶち眼鏡に大きなネズミのような鼻の軍服の小男。戦後、衆議院議員、ラオスにて行方不明――鬼辻はあるモンゴル人と日本人のハーフの〝将校チョッキを着た〝ウムボルト(安彦良和先生の『虹色のトロツキー』ではウムボルト)、ここではジョルダビドが降り立った。「なんだあいつ?」「学生じゃねえの?」「軍の車で?偉そうに?」

「ジョルダビド、こい」

辻政信は建国大学の学長に、そのモンゴル系の男子参謀候補生を「例外的に六か月間だけ入学させろ!」と、大声でまくしたてる。辻のくせは主張が強く、怒鳴り声のように要求することである。小心者だが、残虐性がある。この人物の存在がのちに『ノモンハン事件』を一層悪質なものにして、その陰湿で無残な敗北であるが故に、天才・歴史作家・司馬遼太郎(故人)をして「ノモンハン書いたら僕死んじゃうよ」といわしめた。

司馬先生は何千冊もの関連本をあたり、取材も行っていた。それでも書けなかった。

いや、書く(価値)にあたらなかった、のである。

〝建国大学〝五族協和の実現(石原莞爾が唱えた理想・五族とは漢・満・蒙・朝・日の五民族を指す)。辻政信は石原莞爾の心酔者。登張信一郎名誉教授、中山優教授、辻権作教授。〝建国大学〝――それは満州国国務院直属という位置づけで、昭和十三年に開学を見たばかりの大学だった。総長は満州国総理・張景(ちょうけい)恵(けい)の兼務。そして創設委員長は当時の関東軍参謀長・東條(とうじょう)英機(ひでき)……。

見事なまでの国策大学の図式だが、実態は少し違った。

総長職はお飾りであり、東条英機は創設に使なりと担がれた〝オミコシ〝にすぎなかった。

元々、建大の理想は東條英機のライバル・石原莞爾の持論『五族協和の実現』に立脚する。

石原莞爾は建国大学の演説で「ソ連との戦争は必ずあるが、すぐにではない。多分、日ソ不可侵条約を結ぶだろうが必ず日ソは戦争状態に突入する」と予言する。

現実に、日本が敗戦を発表した1945年8月15日の玉音放送後、ソ連軍は南下して進撃して樺太や満州国(日本国の傀儡国家・中国東北部)やクリル諸島を占領し、日本人を〝シベリア抑留〝した。天才の参謀・石原莞爾にはそこまで〝見えて〝いた、と描いた。

話を変える。安倍首相(当時)靖国神社参拝 第1次政権含め初、現職は小泉氏以来。安倍晋三首相(当時)は2013年12月26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。現職としては、2006年に当時の小泉純一郎首相(当時)が参拝して以来7年ぶり。第2次安倍政権発足からちょうど1年での決行で、首相としては初めてとなった。

首相の参拝を求める保守層に配慮したとみられる。

参拝後、首相は記者団に「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、手を合わせた」と述べた。中韓両国は、東京裁判のA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社への首相や閣僚の参拝に反対しており、反発は必至だ。

首相は第1次安倍政権のときに参拝しなかったことを「痛恨の極みだ」として、参拝への意欲を強調。12月9日の記者会見では「参拝するか否かを今、申し上げるべきではない」と述べていた。

首相は到着殿から拝殿を抜けて、本殿で参拝した。「内閣総理大臣 安倍晋三」名で白い菊を献花した。

26日に参拝した理由について、記者団に「安倍政権1年の歩みを報告し、再び戦争の惨禍で人々が苦しむことのないよう決意を伝えるため、この日を選んだ」と強調。「中国、韓国の人の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」と述べ、両国の首脳に直接説明したいとの考えを示した。また「戦争の惨禍や、苦しむことのない時代をつくるため、不戦の誓いをした」とも述べた。4月の春季例大祭では「真(ま)榊(さかき)」と呼ばれる供物を、8月15日の終戦記念日には玉串料を私費で奉納した。

10月の秋季例大祭でも真榊を納めたが、それぞれ参拝を見送っていた。沖縄県・尖閣諸島や島根県・竹島をめぐり冷え込んだ中韓両国との関係改善に向け、首相は早期の首脳会談開催を呼び掛けてきた。だが今回の参拝により、会談は当面困難となりそうだ。

◎保守層離反に危機感。【解説】安倍晋三首相が靖国神社参拝に踏み切ったのは、これ以上先送りすれば自身を支える保守層の離反を招き、政権基盤に影響しかねないとの危機感があったためだ。仮に見送っても、参拝に反対してきた中韓両国との早期の関係改善は現状では難しいと判断したとみられる。

首相の思想や保守層の期待感がどんなものであろうと、一国のトップの行動が国内外に波紋を広げるのは避けられない。

政権発足1年の節目で自身の信念に固執した首相には、衆参両院で多数を握る権力者の高揚感さえ垣間見える。

参拝見送りを望む政権内の一部の慎重論は封じられた。首相は7月の参院選で幅広く支持を得る狙いから、4月の春季例大祭に合わせた参拝を見送った。

参院選後の終戦記念日や秋季例大祭でも、中韓両国との首脳交流再開をにらみ参拝を控えた。ただ、首相の足元では、参拝に期待した保守層を中心に不満が蓄積。就任前の昨年10月に参拝した首相自身も年1回の実施にこだわっていたとされ、年末も自重すれば来春の例大祭まで参拝のタイミングがなくなるため、周辺では待望論が高まりつつあった。日本と中韓の関係悪化を懸念する米国への対応を含め、首相は一層の外交努力を求められる。

「首相や閣僚の靖国参拝は憲法の政教分離原則に反する」との批判にも応える必要がある。<靖国神社>東京都千代田区九段北にある神社。国家のために命をささげた人々の御霊(みたま)を慰めることなどを目的に、明治政府が1869年に「東京招魂社」として創建し、79年に靖国神社と改称した。

第2次世界大戦などの戦死者246万6000余柱の御霊が祭られている。戦後、国家神道が廃止され、一宗教法人となった。

1978年には東京裁判のA級戦犯14人が合祀(ごうし)され、85年に中曽根康弘首相(当時)が戦後初めて公式参拝した。(産経新聞記事参照2013年12月26日木曜日) 

安倍首相の靖国神社公式参拝は、A級戦犯合祀が「戦争被害者への配慮に欠ける」という事だ。天皇陛下皇族の皆さまも1978年に東条英機らA級戦犯が合祀されてから一度も参拝してない。

安倍氏は保守勢力の票の為に参拝した訳だが愚かだ。国の為に死んだ英霊を弔うなら戦犯無縁施設建設しかない筈だ。今年も陛下とともに被災地に訪れられた上皇上皇后両陛下には一年でも長生きしてください、と思うだけですね。

また神社の教えは「神道(しんとう)」。八百万(やおろず)の神(いろいろな神がいる)という宗教。靖国神社が出来たのは明治2年(1869年)創設(当時は「東京(とうきょう)招魂社(しょうこんしゃ)」という)。

1879年(明治12年)に改名・「東京招魂社」→「靖国神社」へ。(靖は安全の安と同じ。国が安泰なようにとの祈りの神社。創設者、大村益次郎(長州藩士・官軍。戊辰戦争の(官軍の)戦没者の英霊を祀る為))。明治・戦前まで宗教は国家宗群(国家神道・天皇崇拝)を国是としていた。

戦後にそれらの神社は護国神社となる。国家神道の中心が靖国神社。靖国のご祭神(さいじん・多くの神)の数が「246万6000余柱」。(柱(はしら)は神様を数えるときの単位・第二次大戦の日本人英霊が246万6000人、ということ)。

高杉晋作・坂本竜馬・吉田松陰も祀られているが、西郷隆盛(吉之助)は、西南戦争を起こした為に祀られていない。「合祀(ごうし)」とは2柱以上の神を祀ること。別に遺骨を祀るのではなく、名簿に名前を記入するだけ。A級戦犯合祀は密かに1978年におこなわれた。その為、1977年から現在まで天皇陛下(裕仁(昭和天皇)・明仁(平成天皇)含め)や皇室関係者は靖国神社を参拝していない。

海外では「YASUKUNI Shrine(シュライン・神社)」ではなく「War Shrine」と呼ぶ。

1985年中曽根首相(当時)が公式参拝して(原因①8月15日であった②内閣総理大臣という立場で公式参拝したこと)批判が中国・韓国含め海外からあがった。

解決策①A級戦犯の分祀(靖国神社反対)②靖国神社以外他の宗教祀る神社建設(例えば千鳥ケ淵戦没者墓苑)(靖国神社反対*戦没者の英霊が「靖国で会おう」というのに反しているから)。ちなみに全国の宗教法人は18万2253法人もあり、「税金の免除」「小学校や幼稚園の公益事業の運営の免税」等ある訳です。

学校法人・公益法人も同じです。宗教法人にも出来ない事があって、風俗業・カジノ・ギャンブル業・投資業です。

お守り・お札・おみくじは無税ですが、数珠や線香は課税されます。違いは神社以外でも売っているか?で「数珠」や「線香」はデパートや仏具店でも買えるから駄目なのですね(笑)。

伊勢(いせ)神社(天照大御神・アマテラスオオミカミを祀る)の式年(しきねん)遷宮(せんぐう)は20年に一度の神様のお引越し(戦国時代や戦後すぐの貧乏な時期は遷宮は延期されました。それどころではなかった(笑)訳です)です。

総費用は一回550億円。ちなみに天皇の三種の神器は「八咫(やた)鏡(のかがみ)(伊勢神宮の祀る神祇はこれ)」「草薙(くさなぎの)剣(つるぎ)」「八尺瓊(やさかたの)勾玉(まがたま)」です。また、神社に飾られている枝は「榊(さかき)」という神聖なもので巻かれているギザギザの紙は「紙(し)垂(で)」という稲妻をイメージしているのですよ。

沖縄の基地はまだ必要なんです。そのかわり沖縄でカジノ合法化とかどう?

北朝鮮・中韓問題を考えてね。

終戦戦没者慰霊日である。

とにかく学歴に拘らず外交戦略のある人材登用をするしかない。外交は戦争、とわかる人材が官僚政治家にいるか?

私にとって「島人(しまんちゅ)を舐めるな」等といった感情論は関係なくて、沖縄に基地が集中しているのは沖縄に貧乏籤を引かせている訳ではない。地政学上有利だから沖縄に基地が集中しているのだ。

例えば「非武装中立」等馬鹿でしかない。防衛力がなければやられるだけだ。北朝鮮というテロ国家・独裁国家、中国との尖閣諸島問題、韓国との竹島問題…パックスアメリカーナ(アメリカによる核の下による平和)…。もう少し大人になって考えることだ。

後、いっておくが本当の国防軍は在日米軍だ。

自衛隊などまともに戦えば3時間ももたない。在日米軍こそが防衛の要だ。よく考えろ。

今まで自衛隊が日本国を防衛したか?右翼政治家は軍国主義に走る。

このまま日本の外交・防衛は大丈夫か?

橋下徹氏が外国人記者クラブで「いわゆる従軍慰安婦(風俗と戦場の性の問題)」を他国でもあったし、慰安婦を正当化する訳ではないが謝罪する、といった。

自国が慰安婦つかっていたけど他国でもやっていたからいいだろう…というあまりに幼稚な話で賛成できない。

その意味で歴史家と政治家の歴史認識の乖離は恐ろしい。橋下氏は残念。またここでは「従軍慰安婦問題について詳しく教えてください」ということであるので少しだけ「慰安婦問題」をご説明しましょう。元々は戦前戦中には「慰安婦」とよばれていた女性たちは何故「従軍慰安婦」と呼ばれるようになったか?

まず一つ目の転機は1973年千(せん)田(だ)夏光(かこう)氏が三一出版から「従軍慰安婦」という著作を発表してから「慰安婦」が「従軍慰安婦」と呼ばれるようになります。

いまから80年前頃に戦場で性的慰安をしていた女性たちのことで、施設は400か所もあり、帝国日本軍が重要書類をほとんど焼却した為に証拠がほとんど発見するのは不可能です。

が、慰安婦は2万人から3万人(20万人から30万人との説も)当然売春婦もいたが甘言で慰安婦になった女性もいたそうです。

二つ目の転機は1991年に元従軍慰安婦であった韓国人老女・金学(キム・ハク)順(スン)さんが日本政府に謝罪と賠償金を求めて提訴したことです。何故1991年にやっと声をあげたのか?

は1987年当時までは韓国は軍事政権であり、「慰安婦=売春婦」と差別を受けるから民主主義政権になり声をあげた訳です。

「河野談話」とは1993年官房長官であった河野洋平氏が「いわゆる従軍慰安婦については、軍の強制連行や甘言による強制があった。おわびする」という談話のことです。

ですが最近になって朝日新聞社が「故・吉田清治氏による一連の従軍慰安婦報道は「誤報」で、日本軍による強制連行はなかった」とやっと謝罪しました。

そう強制連行でのいわゆる「従軍慰安婦」はなかったのです。

日本側は、1965年日韓基本条約で日本側が5億ドル(1860億円・現在の価値7700億円)の経済援助をするかわりに韓国側が「請求権の放棄」を約束した為に、「慰安婦問題は解決済み」というスタンスです。

だが、悪いと思ってか、1999年から2000年代にかけて「アジア女性基金」という民間の基金で、義捐金を民間から260億円募って、慰安婦というひとたちにひとり200万円と首相の詫び状が贈られています。

歴史的なことをいわせてもらえば日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で「戦後賠償」は終了しています。

また条約加盟国でなかった韓国、台湾、インドネシア、フィリピン、タイなどの国へも戦後謝罪も賠償もおわっています。1965年には日韓基本条約で韓国に5億ドル(1860億円)払い、さらに民間の「アジア女性基金」で100億円払っています。

おかしいと思うなら国際政治裁判ハーグで訴訟にて話し合いましょう。

だが、韓国の慰安婦だけは韓国国内で「日本人に尻尾を振った売国奴!」と罵られるのをおそれて受け取りを拒否しています。結局政治なのですよ。

ちなみに日本の外務省は「慰安婦」のことを「Comfort woman(慰安婦)」と呼ぶが海外では「Sex slaves(性奴隷)」といいます。

20万人も拉致した事実はないが。結局政治なのですよ。

中国へは戦後賠償の代わりに、政府開発援助(ODA)を40年間で3兆6500億円払い、謝罪もおわっています。

2013年5月23日、韓国のあるジャーナリストもどきの不貞な輩が「日本の広島長崎への原爆投下は「神の懲罰」であり、ドイツは侵略戦争を謝罪したが「日本は侵略戦争も慰安婦問題も謝罪も賠償もまだだ。神が罰を下したのだ」」等と発言して反発されている。韓国の日本大使館も日本政府も抗議しているが、橋下氏や石原氏や小林よしのり氏らの「誤った侵略戦争否定論」のせいだ。(日本軍=悪、侵略・虐殺は自虐史観。確かに悪いこともしただろうが、戦争下のことであり、すべて悪の東京裁判史観だけでは甘い。むろん戦争を美化する気はさらさらない。が、自分で資料に当たって「日本軍=侵略戦争を犯した」というみかたが正しいのか自分の頭で考えて貰いたい。例えば「南京大虐殺で30万人」も、「数が例え百人でも人を殺せば虐殺」とか。死者数が30万人でなければ間違っているということ。当時、南京には20万人以下しか中国人はいないのに、どうやって30万人殺したのか?従軍慰安婦の強制連行は正しいのか?「連行がなくても強制性はある。」とかふざけるな!数十年前の、「日本軍が何もかも悪かった」という嘘はもう通用しない。なら原爆や大空襲の米軍の虐殺行為は悪ではないのか?頭を使って考えて!自虐史観などに騙されないで!)

極めて遺憾だし、激しく抗議したい。

まず広島長崎の原爆被災者やその霊に謝罪して欲しい。話はそれからだ。

大体にして原爆被災者の写真を観た後に同じことが言えるのか?

頭のおかしな輩をジャーナリストにするな。

2013年5月13日、大阪市長で日本維新の会共同代表の橋下徹氏がいわゆる慰安婦に対しての見解として「慰安婦はけして正当化は出来ないが、他の国もやっていたように、兵士の戦闘の疲労を癒すための風俗施設は必要だったのではないか」という事を発言した。あまりに次元の低い見解であり、到底容認出来ない。

また慰安婦などとされた女性、というよりすべての女性の尊厳を侮蔑するものであり大変遺憾であり、激しく抗議したい。

国会議員が靖国神社を公式参拝した。

後述するがもっと中国韓国に反発されないような英霊たちを供養する施設は造れないものか?香港の活動家たちは何故上陸出来たのか?海上保安庁の目をかいくぐって何故上陸出来たのか?ニュースだけではわかりませんね。

多分、活動家のバックにお金持ちのパトロンがいてお金を出しているのでしょう(中国政府関係者も含めて)。だが、今回も強制送還で「正解」である。

何故なら国民も民主党議員や凡俗の政治家も知らないかつての自民党と中国側との昔の「密約」があったからです。

それは(1)中国は、実効支配の原則から尖閣諸島を日本領土として認める。(2)しかし一方で、中国も国内法では領土権を主張できる。というもの。

尖閣諸島で逮捕した中国人は「密約」によれば日本で裁判にかけることなく逮捕して中国側に引き渡すのが「正解」であり、「約束」なのです。

ゆえに、今回は中国政府も公式には大きく騒ぎ立てるようなことをしていないのです。オスプレイ問題もまた「「軍政」に関わることは米軍に従う」という日米安保条約ならびに「沖縄返還の条件」でもあります。

知らないのは国民と民主党政治家と無能集団だけ、というまたまた「お先真っ暗」な状態なのです。

ベトナム戦争や湾岸戦争などでも、日本の国防とは関係ない争いでも、米軍が沖縄を利用したのは「約束通り」に米国軍は「軍政」として沖縄をつかったまでなんです。日本政府(国)が合意しているのですから、米国軍人からみれば「当たり前じゃん」ということ。

沖縄県知事や県民や日本国民は「沖縄の軍政に文句を言う権限」など密約上ない、のです。

北方領土もまたしかり、です。北方領土に関しては森喜朗元首相がその辺を知っていますから森氏に任せるのが正解ですね。

残念なことに民主党議員も国民も無知で傲慢です。「脱原発」だの「沖縄に基地いらない」だの無邪気に強く主張はしますが、「外交感覚ゼロ」…まるで「集団ヒステリー」「農民一揆」「団塊世代の安保闘争」です。こういう密約があることさえわからないで、したり顔で主張してないで、ここはまず反省と熟考の余地を、という事ですね。

韓国の大統領が「日本の天皇(皇后両陛下)は訪韓して謝罪」するべきだ、とお冠です。

どうも国内の不満分子の「ガス抜き」のようなんですが。

改めて上杉の義と論語と算盤が必要ですね。

1945年8月15日は終戦(敗戦)月目ですですが、実は8月15日が終戦記念日なのは日本だけです。世界では1945年9月2日が終戦記念日(アメリカでは対日戦勝記念日(VJ Day))です。つまり、東京湾に浮かんだ米国艦ミズーリ号で日本が降伏条約に署名した日です。

何故日本では8月15日かは昭和天皇の玉音放送があったからなんです。もちろんラジオでです。当時の方にお聞きすると朝に「正午に天皇陛下からのお言葉がある」と知らされ正午に直立不動で「耐え難きを耐え、忍び難きを…」という玉音放送を聴く訳です。

が、当時のひとはよく意味がわからなかった、といいます。

その後のアナウンサーの説明でやっと「敗戦」と知り、大人たちは号泣した訳です。

日独伊三国同盟対60ヶ国で1億人の兵士が動員されました。ちなみに「第二次世界大戦」は1939年のナチスドイツのポーランド侵攻からのおおまかな大戦のことです。

「太平洋戦争」とはアメリカからみた戦争で1937年のABCD包囲網(米国、英国、中国、オランダによる日本への経済制裁)から1941年12月8日の日本軍の真珠湾奇襲攻撃から見た対日戦争です。

「大東亜戦争」とは日本側からみた戦争で、当時帝国日本は「大東亜共栄圏」という神国日本がアジア諸国を占領から開放するという「侵略案」からみた戦争です。

1945年5月7日にはナチスドイツもイタリアも降伏。後は日本だけになり、「降伏書」が突きつけられますが、日本は「黙殺」。つまり無視して、トルーマンは「しめた。核実験が出来る」と広島と長崎に原爆を落とします。

その後、ソ連まで攻め込んできていよいよ駄目だな、とやっとポツダム宣言を日本がのむ訳です。

国連の議長と米英仏の大使が参列しました。

だが、実は米国では核の被害や死体やらが教えてられていません。

「原爆投下は戦争終結を早めた」という詭弁を教えています。またベトナム戦争での枯葉剤での奇形児も教えられていません。まあ、「臭い物に蓋」をしている訳です。日韓併合(侵略)から100年で菅首相(当時)は「痛切な反省と心からのおわび」を表明しました。

謝罪みたいですが謝罪ではないという訳のわからぬ表明です。賠償金はどうするのですか?戦争では850万人が戦死しました。民主党政権が靖国神社にかわる国立追悼施設を建設することが明らかになりました。まあ、新たなハコモノか?それとも靖国神社参拝へのアジア諸国からの反発を意識してか?わからないです。

長崎の原爆の日(8月9日)がありました。長崎市長は「すべての核武装国のトップは長崎にきてください」と宣言しました。これはオバマ米国大統領のプラハ宣言(核兵器保有国の核兵器廃棄宣言)を受けてのことです。

ちなみに「広島の原爆ドーム」は「広島県産業会館」というもので、今、平和公園となっている広場は「中島地区」という4400人が住む住宅街でした。それが、相生町のT字橋をターゲットに原爆を落とされ一瞬にして焦土と化す訳です。

何故アメリカが「原爆」を造ったか?はナチスドイツが原爆を開発中で、ドイツ系ユダヤ人のアインシュタインがローズヴェルト大統領に「原爆を開発中するべき」と手紙を送ったからです。

で、実験の為に日本に二回も落とした訳です。ですが、今、世界のひとを何億回も皆殺しに出来る程、1発で広島原発の1000万倍の爆発力です。

「これはいかん」と思ったのか、国連常任理事国(米国、フランス、英国、中国、ロシア(旧ソ連))が、核拡散防止条約(NPT)をきめこの5カ国以外「核兵器保有」を禁止します。ですが、加盟してないインド、パキスタン、イラン、シリア、北朝鮮などが保有もしくは開発中です。

南米でも特にブラジルとアルゼンチンがもめていて「トラテラルコ条約」が批准されブラジル、南ア、リビア、アルゼンチンが「核放棄」します。

86年レイキャビク会談でレーガンとゴルバチョフ書記長が会談して東西冷戦が崩壊します。「戦略核兵器(ICBM)」と「戦術核兵器(戦争下で使用される核ミサイル)」があり、「戦略核兵器」を米露が減らそうとしている訳です。

北朝鮮がいろんな悪辣なことをやると「日本も核兵器を。保有国になるべきだ」などというのが聞かれるが、馬鹿だと思う。核武装などしなくても、在日米軍基地にすでにある。

また私は戦争は悪だと思う。またやるべきではないし、自衛隊の「先制攻撃能力を」などという武装論などとんでもないことです。

この世界で「戦争が大好きだ」などという馬鹿はいません。が、自衛の為の戦いは自衛隊でなく在日米軍がやってくれます。だから日米安保があるのです。何の為の日米安保ですか?何の為に在日米軍に何十億円も払っているのですか?

例えば私はアメリカ軍が軍事行動をするのはおかしいって思いません。

例えばナチスドイツや帝国日本軍を連合軍が叩き潰さなければ今頃世界はどうなっていましたか?ユダヤ人や朝鮮人中国人は絶滅させられたかもしれない。が、だからと言って自衛隊がアメリカ軍やロシア軍みたいに戦える訳はありませんよ。自衛隊にそんな能力はありません。

よく考えてください。過去の日本人の「侵略戦争」の罪と罰です。

過去は過去という訳ありません。過去の日本人による罪と罰は妄想で過去の日本人や皇室天皇をヒーローやヒロインにしても変わらないって思っています。

「八紘(はっこう)一宇(いちう)」(皇国日本が侵略されたアジアを救うという建前論)や「大東亜共栄圏」だの言って、アジア諸国を侵略したのはどこの何という国ですか?例えば日本人は過去の戦争を「被害者」として語ります。が、本当に小林よしのりや櫻井よしこがいうような「過去の日本人」は「被害者」だったのでしょうか?

「新しい歴史教科書をつくる会」という右翼集団の教科書を横浜市の8区で採用していいのでしょうか?

確かに神風特攻隊や回天特攻隊やひめゆり学徒隊や広島長崎の原爆や沖縄戦やシベリア漂流など悲惨でしょうか。東京大空襲など悲惨です。

またエノラ・ゲイ(広島に原爆を落とした爆撃機)の元・乗組員のモリス・ジェンプソン氏(故人・87)がいまだに「原爆投下は戦争早期終結の為に必要だった」などという。確かに彼の立場ではそう言い訳するしかありません。だが原爆など投下しなくても戦争早期終結はなったと思います。

当時の日本は焼け野原です。誰しも戦う気力すらありませんでした。当然一部の軍人は竹槍でも戦うのであろうが、象に立ち向かう蟻です。が、では我々自身は日本人は被害者だったのでしょうか?何もしていないのでしょうか?

違います。

わかりますか?ならいいですね。

頑張ってくださいね。それからですよ。

まあ、韓国にも中国にも戦後賠償や謝罪はおわっているのですがね。中国には戦後賠償の代わりに、政府開発援助(ODA)を40年間で3兆6500億円払い、謝罪もおわっています。韓国には1965年の日韓基本条約で、韓国政府に5億ドル(1860億円・今の価値で7700億円)を戦後賠償の代わりに払い、謝罪もおわっています。「歴史を学べ」みたいな話なんです。


 中国東北部にある中国哈(ハ)爾(ル)浜(ビン)。ロシア人が建設したこの街は、戦時中、満州として(帝国日本の傀儡(かいらい)国家・満州国)日本軍の拠点となっていた。

ハルビン郊外から20キロ。731部隊の拠点跡(ハルビン平房)が今も残っています。

破壊させた建物のざんがい。終戦前夜、部隊の存在を隠すために徹底的に爆破されました。当時の写真です。731部隊の建物は周囲9キロメートルもの大きさで極秘に研究を進めていました。四角い三階建ての建物は冷暖房完備の研究室がいくつも並んでいたといいます。

その中央に周囲からは見えない形で牢獄が設置されていて、実験材料にされた人々がとらわれていたといいます。731部隊が編成されたのは1934年(満州国 ハルビン)。

日本は軍事的脅威を感じていたソ連軍に対抗するために細菌兵器を開発していたのです。

731部隊を率いていたのは、

731部隊部隊長 軍医・石井四郎。当時、細菌兵器は条約で禁止されていました。

しかし、石井は、

「確かに細菌兵器は条約で禁止されている。だが、防衛目的の研究はできる。開発をつづけよう。だが、極秘にだ。人体実験は匪賊(ひぞく)の囚人達をつかう。確かに〝禁じ手〝……かも知れない。だが、腑分け(病理解剖)や人体実験をしなければ医学はすすまないし、細菌兵器の開発の為に罪人達の命を研究のためにつかう」

と、開発をすすめました。731部隊の人体実験の人数は最大三千人………石井は細菌兵器の開発と病気感染病の実験のために全国からエリート医学士たちを集めて極秘で人体実験を続けていた。その731部隊(関東軍防疫給水部)のその極秘の人体実験が明らかになったのはロシア・ハバロフスクで終戦4年後に行われた『ハバロフスク裁判』で、でした。

戦犯として旧ソ連の裁判で裁かれた関東軍の幹部や医学界の幹部……多くの証言がソ連の発表した証言しかなく、「731部隊はねつ造だ」とする声もありました。

今回、見つかった証言テープ(12巻)では731部隊の中枢幹部が、部隊の人体実験について証言していました。

ロシア人裁判員「人体実験はどのようにおこなわれたのか?できるだけ詳しく話してください」

731部隊衛生兵 古都証人「昭和十八年頃だと記憶しています。ワクチンの効力検査を行うために、中国人それから満人(満州人)を約50名あまり人体実験に使用しました。砂糖水をつくって、砂糖水の中にチブス菌を入れて、そしてそれを強制的に飲ませて細菌に感染させて、それでその人体実験でなくなった人は12~13人だと記憶しています」

エリート医学者の指示の上で致死率の高い細菌をつかって人体実験をしていた事実が語られました。

731部隊軍医 西俊英証人「ペスト蚤(のみ)(ペスト菌に感染させた蚤)の実験をする建物があります。その建物の中に約4~5名の囚人をいれまして家の中にペスト蚤を散布させて、そしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストにかかったと言いました」

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