第4話

 桃李はきつく目を閉じて、ただぽむちゃんを離すまい、離すまいとぎゅっと抱きしめていた…。

 キイキイ、チイチイ、と鼠たちが鳴き、桃李の頭のてっぺんからつま先まで走り回る…。その感触がじょじょになくなっていき、おそるおそる目を開くと…、そこは、さっきまでいた旧校舎の教室ではなく、新校舎の廊下だった。

 ここはすでに亜空間のようだ…。さっきまで感じていた、天使庁の職員達が校舎のあちこちに出入りする気配が全く感じられない。

 おまけに窓の外は、ベニヤ板に黒いペンキを塗ったようにべったりとした「闇」だった。試しに窓の外を見てみたが、何も見えない…。

 廊下を照らす蛍光灯の明かりが、やけに白々と感じる…。ぽむちゃんが、ぷいぷい…、ぴいぴい…、と鳴いて、桃李にほおずりしてきた。

「ぽむちゃん…、満琉くんか、天使様のいるところ、分かる?私とあなただけでは…、やっぱり、心細いわ…。」

 ぴい、ぷいぷい…、と、ぽむちゃんが鳴いて、小さな羽で、ぱたぱたと飛び始めた…。ついてきて、と言うように、桃李をふり返る。

 だが…、少し進むと、蛍光灯が明滅をはじめ、やがてふっつりと消えてしまった…。ぽむちゃんだけがほのかに発光している…。

 懐中電灯が欲しい…、そう思ったとき、どこかから…、美しい歌声が…、聞こえて、きた。知らない歌だ…。

 するとぽむちゃんが、猫がするように、フーッと威嚇して、さっと桃李の背中にまわり込み、背中にしがみつくと、ばっと羽を増殖させた。

 歌声がどんどん近付いてくる…。そうして、闇の中に、ぽつん…、と、美しい少女の顔が浮かび上がった。まるで闇をまとっているように、首から下は見えない…。

 桃李が戸惑っていると、少女が笑みを浮かべ、口を開いた。

「こんにちは、」

 この平凡な挨拶が、この異空間にあまりに似つかわしくなくて、桃李は逆に寒気を覚えた。

「私は森田紘美…、貴女は?」

「あ、青柳桃李です…。」

 この子が、森田、さん…、行方不明の生徒の一人…。とりあえず無事なのだな、と思ったが、安堵するよりも、何か…、嫌な感じがする…。

 闇の中から…、森田が、少しずつ全身を現してきた…。胸に何か、丸いものを大事そうに抱えている…。ああ、なんと言う事だろう、桃李は愕然とした。

 胸に抱えた丸いものに添えられた手が、六本もある…。彼女は全裸で…、そして、両脚がももの付け根から、ない。そして背中に…、蝶のような巨大な羽があり、ゆっくりと羽ばたいて…、森田は浮いている…。

 桃李はあまりの事に声を失った…。身体が小刻みに震え、歯の根も合わない…。同じだ、悪魔に喰われてしまったという、脳髄、眼球、そして…、両脚…。

「ねぇ、私、綺麗でしょう…?」

 森田が夢見るように言う…。

「私は生まれ変わったの…、そう、さなぎから産まれたのよ…。神さまは、私の太くて醜い足と引き替えに、この翼を授けてくれた…。」

 逃げ出したい、桃李は切に願ったが、足も震えてしまって力が入らない。

「貴女も、神さまの薬、いる?」

 森田は六つある手の一つに、丸薬を持っており、桃李の方に差し出しながら、自分でも一錠、それを口にした。悪魔の血だ…。

「この薬はすごいのよ…、飲むとどんどん美しくなって、男の子達も夢中で私を求めてくるの…。そして…、」

 森田は手に持っていた、黒っぽい球体を桃李の方に投げた。桃李は反射的にそれを受けとる…。が、次の瞬間、思いっきり悲鳴をあげていた。

「きゃあぁぁぁあああぁ!」

 それは、森田とはまた違う雰囲気の…、ショートカットの、美少女の生首だったのだ。桃李がそれを放り出すと、森田はクツクツ…、と笑った。

「それは美幸ちゃん…、」

 そこで、きゅうに森田の目つきが険しくなった。美幸…、行方不明の生徒の一人、吾妻美幸…、橋野が、確か殺されたと言っていた少女…。

「美幸ちゃんがいなくなった今…、私が一番美しくなったと思ったのに…、貴女…、美しいわね、この世で、一番美しいのは私よ!」

 森田の、肩ほどの長さの髪が、まるで生きているかのようにざわざわと蠢き出す。

「あんたの羽!何それ!美しいじゃない!あんたはなんて美しいの…!まるで天使!美しいのは私!私だけで充分なのよ!あんたなんか…、消えてなくなれ!」

 森田が突然キレて、羽を大きく揺すり、天井のあたりまで舞い上がった。そうして髪が…、口吻、と言うのだろうか、蝶の口に酷似した形になっていく。

 あたりに鱗粉が舞う…、するとぽむちゃんが、きぃ、っと鋭く鳴いて、翼の一部で、桃李の口と鼻をおおった。この粉…、毒、なのか…、桃李はぞっとする。

「美しいのは私!美しいのは私!うぅつくじいのはわだじぃぃいいい!」

 森田の口吻が鋭い音を立てて、桃李の顔面めがけて一直線に向かってくる。ぽむちゃんがそれを羽ではじき飛ばす。

「お、落ち着いて!話をしましょう!私は、天使様と、白魔術師の方と一緒に、この亜空間に来たの!貴女たちを助けるために…!」

「うつぐじいのわ、わだじいぃいぃぃぃい!うつぐじいのわ、わだじいぃいぃぃぃい!」

「お願い!話しを聞いて!貴女はだまされているのよ、貴女たちが飲んでいた薬は、本当は悪魔の血で、それは肉体だけでなく、魂魄までも穢し、貴女は、悪魔に隷属させられてしまう、って、天使様が…、」

「うつぐじいのわ、わだじいぃいぃぃぃい!うつぐじいのわ、わだじいぃいぃぃぃい!」

 森田の眼球が…、細胞分裂するようにどんどん増えていき、昆虫の複眼のようになる…。髪が触覚をつくりだし、胴体もどんどん変形していく…。森田は、巨大な蝶そのものになっていく…。

「うつぐじいのわ、わだじいぃいぃぃぃい!わだじぃいいいぃぃぃ!」

 まるで聞く耳を持たず、口吻による攻撃を何度も繰り出す森田…。それをぽむちゃんがはねのける…。こんなチャンバラごっこをくり返していても仕方ない…。どうするべきか…。


 桃李が森田と対峙している頃…、満琉は、大量の鼠を発生させている、その元凶と向き合っていた…。藤沢修吾の「死体」だ…。

 藤沢は壁によりかかるようにして、立ってはいたが、もはや眼球は白濁し、腐敗がはじまっている…。

しかしその口はぶつぶつと呪文を詠唱し、手足の指が、ぷうっとふくらんだかと思うと、鼠の姿になって、落ち、それが無限にくり返される…。

おそらく体内に、この亜空間を維持するための呪文が刻まれた「遺物」を埋め込まれ、死してなお「道具」として利用されているのだろう…。

四方の壁は薄気味悪い赤黒い光と、濃緑の光が明滅し、鼠たちはその壁をがりがりとかじっている…。亜空間を押し広げているのだ。

このまま亜空間が成長し続けると、現実の伊勢崎学園の空間に侵食していき、何かの拍子に、生徒が亜空間に入り込んでしまう…、「神隠し」のようなことが、起こる。

そうしてこの異空間で待ち伏せている、アブラクサスによって、また悪魔の血を受けてしまう者が出る危険性がある。

満琉は聖水で結界をはっていたが、鼠たちは本能的に、結界に自ら飛び込み、臓物と血をまき散らして結界を穢し、これを消滅させようとしてくる。

満琉は胸の前で十字を切って、ケプラーの剣を発生させると、さらに気を加え、これをガトリングガンの形状に変えた。

ガトリングガンから、「聖なる光」の弾が次々と撃ち出され、鼠に当たると、鼠は破裂するが、藤沢に当たっても光は中和されてしまう…。

一体どれほどの量の悪魔の血をその身に受けてしまったのか…。近付いて、直接ケプラーの剣で斬るしかない。

満琉は結界を盾の形にして、一歩、また一歩と藤沢に近付く…。ガトリングガンはそのまま…、鼠を斉射していく。

藤沢の元まで、あと二、三歩…、と言うところで、藤沢が勢いよく、口から大量の鼠を吐いた。それらが満琉の聖水の盾にぶつかり、破裂し、結界が穢れて消滅してしまった。

さらに、藤沢の体内で濃縮された悪魔の血が満琉に降り注ぐ…。満琉は天使庁の制服…、これも天使の羽で出来ているのだが…、だったが、藤沢の口から吐き出された悪魔の血で、制服は酸に焼かれたように煙を上げた。

満琉は、ケプラーの剣を、ガトリングガンの形状から、元の剣の形にもどした。かつていじめられ…、保健室登校児だったという、藤沢修吾…。

「ごめんね…、」

 満琉は呟いた。僕は君の事何も知らない…、君を救ってあげる事も出来ない…、君の魂は、すでにアブラクサスの手に落ちたのだろう…、ごめんね…、君の身体を傷付けるよ…。

 満琉は両手で剣を握りしめ、勢いよく藤沢の首を斬り飛ばした。すると中空に、火の文字で、藤沢が唱えていた呪文が刻印され…、そして蝋燭の火が消えるようにかき消え…、鼠たちが、四方八方へと走って逃げていく。

 ようやく藤沢の詠唱と、その指からの鼠の量産がとまった。しかし、こうなるともうあまり時間が無い…。

 亜空間が不安定になり、アブラクサスを倒せないまま、三人とも強制的にこの空間から排除される可能性もある。満琉は羽のカードを取り出してみた。

「ロッシュ?ロッシュ?」

 天音の名を呼ぶが、ザーッと言うような雑音が聞こえるだけで、天音に通じていないようだ。それはまだ亜空間の密度が濃い事を示していたが、合流できないままでは…。

 満琉は、四方の壁を斬ってみた。切れ目のむこうも、赤黒い光りと濃緑の光で満たされている…。

 だが一カ所だけ…、その薄気味悪い光りの中に、白い…、明るい光が混ざっているところがある。

 天音か、桃李がその方向にいるのかもしれない。満琉は、そちらへ向かって、空間を斬り進んでいく事にする。ケプラーの剣をぎゅっと握りしめる…。


 どれほど切り進んだろうか。亜空間の密度が薄くなり、周囲の壁はまるで硝子のようだ…。その硝子の壁に、ペンキを流したような闇がべっとりとはりついている。

 やがて白い光の正体が分かった。硝子の壁のずっとむこうに、桃李とぽむちゃんが見えてきた。桃李の天使服と、ぽむちゃんが光っていたのだ。

「青柳さん!」

 叫んでみたが、桃李は気付かない…。巨大な…、蛾のようなものと交戦している。

「青柳さん!」

 満琉はケプラーの剣に念を込めて、これを二つにし、一本をその蛾のようなものめがけて投げた。

 ケプラーの剣は亜空間の壁を次々と打ち破りながら、桃李達の元へ飛んでいく。割れた亜空間の裂け目を通って、満琉も走る。

 先に投げたケプラーの剣が、桃李の前をかすめて壁に突き刺さった。

「青柳さん!」

「満琉くん!」

 すると、さっきまで猛り狂い、桃李に攻撃をしかけていた森田がブル…、っと身を震わせた。

「オ、ト、コ…、」

 身もだえし、情欲むき出しの声で呟く…。森田はもう桃李にかまわず、羽をわずかに震わせ、満琉の方へ向いた…。

「ミツルさん、って言うの…?貴方…、すごくステキ…、」

 おずおずと、昆虫の腕を満琉に差し出す…。

「ねぇ、私と、イイコト、しない…?私も…、男の子達から、綺麗だって、言われるわ…、」

 満琉は桃李と蛾か蝶か分からない「怪人」の間に入り、ケプラーの剣をかまえた…。

「満琉くん、これは、森田紘美さんよ…。」

 満琉はふー、っと息をついて、またケプラーの剣に念を込める。刃が幅広になり、大剣に変形した。

「綺麗なのは、こんな君?」

 大剣の刃が鏡の役割を果たし、森田の全身をうつした。はじめ…、森田は、そこに映っているのが、自分だと分からなかったようだ…。

「え…?」

 森田が羽を動かす…。すると、大剣に映った巨大な昆虫も羽を動かす。森田が手を動かせば、巨大な昆虫も手を動かす…。

 森田は、自分の手を見た…。複眼にうつるのは、人間の手ではない、昆虫の脚だ…。

「これが、私…?」

 森田は身体をぶるぶると震わせはじめた。昆虫の脚が、人間の手にもどり、複眼も消えてじょじょに森田の顔にもどっていく。

「私、私、そんな…!こんな、ば、化け物…!」

 森田の身体が蝶の胴から人間の体にもどる。翼がばらばらに砕け散り、森田の裸身は床に投げ出された。六本もあった腕のうち四本はからからにひからびて抜け落ち、森田は自身の顔をおおって転げ回った。

「いやぁぁああああぁぁぁ!」

 錯乱状態になった森田のもとに、桃李があわてて駆けよる。

「ぽ、ぽむちゃん!羽で、布を作って!」

 ぽむちゃんは四、五枚の羽をふ…、と中空へ飛ばす…。それはたちまち、純白の布となって桃李の手に落ちた。

 桃李がその布で、森田の半身をおおう。

「森田さん、森田さん!もう大丈夫!私達、助けに来たのよ、落ち着いて…、」

 満琉も森田の横にかがみ込み、すっ、すっ、っと十字を切った。すると森田の動きが突然止まり、ぐったりとして、眠ったような状態になった…。

「満琉くん…、」

「魔法で眠らせた。青柳さん、あんまり時間が無いかも知れないんだ。僕はさっき、むこうで藤沢修吾くんの遺体を見つけた。」

「し…、死んでしまっていたの?藤沢くん…、」

 満琉は小さくうなずく。

「体内に『遺物』を埋め込まれ、亜空間の形成と拡張、維持を果たす道具にされていた…。今はもう機能していない。だからこの亜空間は、じょじょに不安定になっていくと思う…。」

 桃李は満琉の説明を聞きながら、森田の身体に布を巻き付けた。

「早々にロッシュと合流したほうがいい。ここには必ずアブラクサスがいる。今倒しておかないと、悪魔の血を摂取してしまった、四百人以上の人々の魂魄が、全て持ち去られてしまう…。」

「ぽむちゃん、天使様がどこにいるか分かる?あれ?ぽむちゃん?」

 さっきまで、桃李の背中にくっついていたぽむちゃんがいない…。と、見ると、ぽむちゃんは廊下に放り出された吾妻の頭部を、一生懸命持ち上げようとしている…。

「あ、吾妻さんの頭…。満琉くん、森田さんが、この吾妻さんの頭を、持っていたのだけれど…。」

桃李はおそるおそる、吾妻の頭部の方へむかう…。満琉がさっと前へ出た。ぽむちゃんが何か言いたげに、ぷいぃ、ぷぷぷ、と鳴く…。

満琉は吾妻の頭部に手をかざした…。そして思わず、目を見開き、声を上げた。

「え?」

「どうしたの?」

「この頭部…、物質的には、この通り切断されてしまっているけれど、霊的には、まだ身体とつながっている…。つまり、魔術的には、生きている…!」

「え!そんな事ってあるの?」

「ロッシュなら…、もしかしたら、ロッシュなら、吾妻さんを、生き返らせる事が出来るかも…。」

「本当?」

 もし本当なら…、死者は、少ないに越した事はない。

「青柳さん、僕は森田さんを背負うから…、その、吾妻さんの頭部、持ってこれる?」

「う、うん!」

 勢い込んで返事はしたものの…、生首を、素手で持つのはさすがに気が引ける。

「ぽむちゃん、もう一枚、布をくれる?」

 ぴい、とぽむちゃんが元気に鳴いて、翼をふるわせ、布を作り出してくれた。桃李はなるたけその生首を見ないようにしながら、なんとか、布に包む事が出来た。

「行こうか…、ぽむちゃん、先導してくれる?」

 満琉が言うと、ぽむちゃんは、ぴい、ぴぴ、ぷい、と、ついてこい、と言わんばかりに、元気に飛びはじめた。

 桃李は後ろをふり返る…。白々と光っていた、新校舎の廊下はもう見えない…。ぽむちゃんの行く先は、赤黒い光りと、濃緑の光を合わせ持つ、いかにも、異空間、と言う雰囲気を漂わせている…。

 まるで巨大な魔物の体内に入るようだ…。桃李は、心細くなった…。


 その「部屋」の天井の隅に、大淵悠真の身体がはりついている。顔に生気はなく、土気色で、目もどんよりとしている…。

 しかしその両脚から、次々と小さな毒蛇が生まれ、それらが全て天音にむかってくる。毒蛇の「毒」は悪魔の血で、その牙から体内まで、全て巡っている…。

 天音は自身の翼を大きくふくらませ、毒蛇をはね返し、時に切断する。やはり大淵の体内で濃縮された悪魔の血が、毒蛇からあふれ出し、天音の翼を焼いた。

 天使の超回復力をもってすれば、翼の再生などわけもない。むしろ翼は、盾であり武器であり、消耗品だ。

 両脚が蛇、と言うのは、アブラクサス本体の特徴であり、大淵には、かなり高価な「遺物」が使用されている可能性がある。回収したいが、部屋は毒蛇でいっぱいで、なかなか大淵に近づけない。

「面倒だな…。」

 天音は一人呟く…。その時、背後の亜空間の壁によく知っている気配がし、空間が切り裂かれたのが分かる…。

「ロッシュ!」

「ああ、満琉…、マリ…、桃李も一緒か。見ての通りだ、ちょっと手を貸してくれ。あの男の死体まで、近付きたい。」

「え?きゃっ!」

 桃李は天音の言葉を理解出来ず、空間を乗り越えてはみ出してきた毒蛇にぎょっとする。ぽむちゃんが翼を増殖させ、素早く毒蛇を払いのけると、再び桃李の背中にはりついた。

 天音が、す…、と十字を切り、軽く跳躍する…。途端、すさまじい炎の渦が発生し、部屋中の毒蛇を焼き払った。

 満琉も十字を切る…。するとケプラーの剣が、無数の短刀に変わり、今まさに大淵の脚の細胞から変化して、床に落ちようとしていた毒蛇たちを磔にした。

 天音が一気に大淵の元へ距離をつめる。そして片翼を変形させ、その胸に深々と羽根の刃を突き立てた。

 大淵の死体が震え…、そして、天音の羽根の刃をつかむと、にやり、と口を笑みの形にゆがめた。そして…、爆散した。

 天音はとっさに翼をふくらませて全身を覆う。満琉も聖水で結界を張った。ぽむちゃんも翼を大きくふくらませて、桃李と満琉を守ろうとする。

 大淵の体内で濃縮された悪魔の血が…、雨のように降り注いだ…。それを見て桃李は…、すでに、大淵は死んでいたようだったけれど…、また、一人犠牲者が出たのだと実感して、思わず震えた。

 天音の翼が部屋中を覆い尽くさんばかりに広がり…、大淵の、肉片をさぐっている…。

「あった!やはりこれは多少高価な『遺物』のようだ、満琉も見るか?」

 天音は大淵の体内にあった「遺物」を回収し、羽根でくるんで、満琉の方へさしだした。桃李もこわごわとのぞいてみる…。

 それは、ただの蛇をかたどった、金属製の飾りのように見えた…。

「これが、『遺物(アンティーク)』…、魔力を持った、魔法の道具なのですか?」

とてもそうは見えない。桃李は思わず声に出して疑問を発していた。

「悪魔は、陰性霊子が強く、天使のように肉体を自在に変化させる事が苦手だ。そこでこのような道具…、『遺物』を使う。こう言ったものを回収していくのも天使庁の役目だ。まぁ、粗悪な量産品もあるから、ゴミ拾いのようなものだが…。」

 天音はふくらませた翼を元の大きさにもどし、ちょっとのびをした…。そんな何気ない動作も、天音がすると、まるで一枚の絵画のようだ…。

「状況は?」

「僕は藤沢くんの死体を見つけた。亜空間を形成するのに使われていたみたいだ。『遺物』は回収してない…。でも、今はもう機能していないから、この亜空間はじょじょに不安定化していくと思う…。」

「あの…、私は、森田さんに会いました…。でも、彼女は、両脚を、悪魔に…、捧げて、しまったようです…。それと、この、吾妻さんの頭部なのですが…、」

 桃李は吾妻の頭が入った布のつつみを天音に差し出した。

「うん?」

 何か興味深いものでも見るように、天音が目を細める…。布の包みをほどく…。すると、突然、閉じていた吾妻の目がかっと見開かれ、口が開き、ゲラゲラゲラ…、と笑い出した。

「きゃぁぁああ!」

 桃李は思わず包みを放り出す。地震に似た振動がその「部屋」を揺さぶり、周囲の壁に亀裂が入って、赤黒い光、濃緑の光は失われ、変わって、赤紫の妖しい光があたりを照らしはじめた。

 壁が全て崩れ去り…、さっきの部屋より一回り大きな空間に…、全裸の、少女の首無しの死体が、立っているように見えた。

 桃李が放り出した生首は、ゲラゲラ笑いながらその死体の方に転がっていく。死体が…、すっと動いて、その首を拾い上げ、当然のように、自分の首のあるべき位置に押し当てる…。


 首が…、繋がった…。


 と、見るや、その髪は、赤と青と黄色の、毒々しい羽毛に変わって、頭部から背中をおおい、膝から下の両脚が、太い毒蛇に変化していく。

 つめを長く伸ばした手を、左右に広げると…、そこが、水面のようにざわめいて、左から盾が、右から鞭が現れた。

 黄色い眼が、爛々と光り輝いている…。

「アブラクサス…、」

 天音が、吐き捨てるようにその名を呼んだ。

「先日よりは、少しは面白いもてなしが出来たかな?ロシュフィエル…。」

「なれなれしく名前を呼ぶな。貴様の悪趣味な演出など、新潟のあの一件だけで、うんざりだ。」

 吾妻美幸…、いや、アブラクサスは、少女の美しい声で、クツクツクツ…、と笑う…。

「弦巻満琉…、お前も覚えているぞ…、太陽の魔方陣に守られし子…。あの時はまだあどけない少年だったのに、たった五年で…、人間は、すぐ成長するな。もう青年のようだ…。」

 満琉がぎり…、っと歯ぎしりするのが分かった。桃李は、これが悪魔の憑依…、と、心臓が、激しく鼓動し、身体が震えそうになるのを、やっとの思いでこらえていた。

「新潟?あの田舎くさい街で起こした事は、ほんの遊びだった…。でも今度は…、ふふ、ずいぶん上手くやっただろう?四百十六人だ…、私の血を受け、闇に落ちた者が…、四百十六人も…、ふふ、ふふふ…、」

 すると…、満琉の背に負われていた森田の身体が、きゅうに、がくがくと激しく震えはじめた。あまりに激しい動きで、満琉は背負いきれず、思わず森田を落としてしまう。

 森田は白目をむき、口の端に泡を飛ばし、手は宙をかき、身体を左右に振っている。

「私の顕現で、私の血を受けた者達が様々な反応を起こしているぞ…。今ごろ天使庁は大騒ぎだろうな…。」

「薄汚いお前の魂魄を砕いて、人間達の魂は返してもらうぞ!満琉、桃李、援護しろ!」

 天音がばっと翼を開いた。

「やってみろ!お前達三人の肉体で、『愛』のオブジェを造ったら、そいつをひっさげて天使庁に乗り込んでやる!この日本国の津々浦々まで、悪魔の血で穢してくれよう!」

 アブラクサスが右手の鞭をぶん、とふった。すると鞭は、無限に伸びたかのようになって、壁にぶつかっては反射し、無数の攻撃となって部屋中に満ちた。

「きゃっ!」

 ぽむちゃんの羽に守られながら、桃李は思わず悲鳴をあげた。援護しろ、と言われてもどうしたらいいか分からない。ぽむちゃん頼りだ。

「青柳さん、落ち着いて!ぽむちゃんにアブラクサスを攻撃するように言うんだ!」

 満琉はなんとか森田の身体を部屋のすみに引きずって、そこで片膝をつくと、ケプラーの剣を増殖させ、一気にアブラクサスにむけて放った。

「アブラクサスの盾と鞭は、そこらの安物じゃない!奴を象徴する『遺物』だ!気を付けろ!」

 天音は翼を変形させ、片翼を盾に、片翼を無数の刃に変えて、次々と発射する。

「ぽむちゃん!天使さまを援護して!」

 羽を大きくふくらませ、桃李を守りながらぽむちゃんも、羽の一部を刃に変えて、アブラクサスにむけて放つ。

 天音は壁を蹴って縦横無尽に駆け巡り、アブラクサスの死角を狙うが、その悪魔の持つ盾は小さいのに、そこから発せられる結界は、アブラクサスの全身を包んで、隙がない。

「桃李!満琉!もっと攻撃密度を上げるんだ!三対一だ、手数で押し切る!」

 アブラクサスの鞭と、羽根の刃、ケプラーの剣の激突する音があたりに鳴り響く。桃李は恐ろしくて、その場にしゃがみ込んでしまった。でもなんとか気を保って、ぽむちゃんがもっと攻撃できますように…、と祈る。

 桃李の祈りを受けて、ぽむちゃんの身体が光り輝き、翼がいよいよ大きくなる。桃李を守りながら、羽根の刃を無数に飛ばす。

 天音は天井まで駆け上がり、上空から一気にアブラクサスに攻撃をしかけるが、まだアブラクサスは強気だ。

「やはり悪魔の血を受けた者に憑依するのはいい…。自分の身体のようにあつかえる…!」

 ぶん、と鞭を再びふるう。その攻撃の一部が、満琉の横をすり抜けて、森田にあたりそうになった。

「危ない!」

 桃李は手足を地面につけたまま、急いで森田の横につく。

「青柳さん!森田さんを頼む!」

 言って満琉は、ケプラーの剣をかまえ、聖水の結界を盾に、アブラクサスへの間合いを一気につめた。

 ギン、と言う鋭い音がして、ケプラーの剣がアブラクサスの結界に食い込んだ。

「…いい白魔術師になったな、弦巻満琉!」

 アブラクサスが満琉をはね飛ばす。

「満琉!」

「満琉くん!」

 だが満琉は、はね飛ばされる刹那、アブラクサスにむかって、聖水をふりかけていた。その結界の密度が薄くなるのを、天音は見逃さなかった。

「くらえ!」

 天音の全身が強い光を放ち、その背中から、もう一対の翼が現れる…。天音に宿る、智天使の力が発現したのだ。

 四枚の翼、全てを刃と化して、天音はアブラクサスに斬り込んだ。何十枚という白銀の刃がアブラクサスに突き刺さる…。

 アブラクサスは…、吾妻の、美しい顔のまま、「信じられない」というような顔をしていた…。口の端から、血が一筋、つう…、ともれる。両手をだらりと下げ、もう鞭の攻撃は止んでいる…。

 そして…、白銀の刃は強い光を放ち、吾妻の体内に宿るアブラクサスの霊質を焼いた。アブラクサスが甲高い悲鳴をあげる。

 吾妻の身体から、黒い煙のようなものが立ちのぼり、宙で渦を巻き、悲鳴の尾とともに、亜空間のむこうへと消えていった…。

 吾妻の身体にはえていた、赤、青、黄色の細かい羽毛がばっと散り、両脚も人間のものにもどって、どう…、と倒れた。「遺物」も消失している。

 その身体は傷だらけで、焼け焦げ…、そして、首もまたごろ…、ととれてしまう…。

「吾妻、さん…?」

 桃李はなんとか立ち上がり、吾妻の方へ歩を進める…。あたりはまだ赤紫の妖しい光に包まれていたが、壁や床が、薄氷のように不安定になっていくのが分かる…。

「満琉、よくやった。とどめは刺せなかったが、アブラクサスの奴の霊質に、直接攻撃を食らわす事が出来た。」

 天音はまたわずかにのびをして、羽を震わせ、二対あった内の二枚を体内にもどす…。

「これでもう、五年や十年の単位では物質世界に影響を及ぼすような活動は出来ないだろう。下手をすれば、魔界の高位霊体の誰かに、餌にされるかも…。」

 桃李はそっと、吾妻の頭を持ってみた…。さっきまでは、確かに「生気」があって、生き返りそうな気配がしていたのに、今はぼんやりと目を開き、顔も土気色になっている…。

「満琉くん…、吾妻さんは、生きていたんじゃなかったの…?」

「…ごめん…、アブラクサスに生かされていただけのようだね…。」

「橋野?とか言う奴の話によると、この女は、大淵?に自らの首を絞めさせ、自分自身を生贄にアブラクサスの顕現に力を貸してしまった。」

 満琉は辛そうな顔をしたが、天音は淡々と話す…。

「この女の身体の中も、悪魔の血の濃度が相当に濃い…。もはや思考も肉体もアブラクサスに操作された、生き人形…、奴隷以下だ。」

 桃李の目に…、大粒の涙があふれてきて、ポロポロとこぼれ落ちた。

「私が…、ステラ・マリエルだったら、もっと、多くの人の命を助けられたでしょうか…?」

 すると天音が、きゅうに淋しそうな表情をした。

「そんな風に考える必要はない…。君は、青柳桃李だ…。」

 薄氷の亜空間が溶けていく…。あたりは、元の旧校舎にもどり、真昼の陽光が、窓から燦々と教室を照らしていた…。

 窓の外は、青空、白い雲、日に透ける青葉…。美しい…、こんなにも世界は美しい、その美しさと裏腹に、今、亜空間で起こった出来事の、なんと陰惨な事か…。


 桃李は、虚しくて、悲しくて、ただ、涙を流した…。

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