第3話

 悪魔の血が、「性的快楽が得られる薬」として、学園内に広く流通してしまっている事が、満琉の報告によって天使庁に知らされると、天使庁は今度こそ学園を完全封鎖する。

 そうして、生徒、教員の別なく、血液検査を受けることになる…。天音の計らいで、桃李は真っ先に血液検査を受けた…。

 もちろん、悪魔の血など入っていない。そうして、桃李には特別に帰宅が許された…。天使庁の公用車がまわされ、満琉が同乗して、送ってくれた…。

「え、と…、アブラクサスと、交戦したんだよね…?ロッシュは、ひどいダメージで…、一度天界に帰るって。」

「そうなんだ…、」

 桃李は複雑な気持ちになった…。人間一人助けるために、天使である天音が限界まで頑張ってくれた…。やはりお礼を言うべきだったのか…。

 天使から見れば、人間など、犬猫同然なのだろうか…。その犬猫に、「愛しい」マリエルが、身をやつしている…。でも…、天音の気持ちなど分からない、分かりたくない、と思ってしまう…。

「あの…、ロッシュには、今の青柳さんは、マリエルの記憶はない、別人格なんだ、って説明は何度もしたんだけど…。近いうちに、アブラクサス本体を叩くから、青柳さんはかならず参戦するように、って…。それまでに何か、青柳さんにあつかえる武器を用意しておく、って…。」

「……、」

 桃李は思わず震えた…、また、あんな怖い思いをしなければいけないのか…。

「ごめんね…?」

「…どうして、満琉くんが謝るの?」

 桃李は無理に笑った。

「ロッシュはあくまでも…、青柳さんに、アブラクサス討伐で功績をあげさせて、その後天使庁に入庁、どんどん活躍してもらって…、死後は天界に復帰、って筋書きを描いて、それに固執してるみたい…。」

 桃李の意思は、完全に無視か…。マリエル、マリエル…、私は、マリエルじゃない…。

「誤解しないであげて欲しいんだ。今まで、ロッシュがこんなに人に関わろうとしたのは、はじめてだよ…。彼は、物事に執着すると言う事は滅多になくて…、その、君のこと、本当に、好きなんだと思う…。」

「…天使様が好きなのは、私じゃなくて、マリエル様なんでしょう…?」

 満琉を責めてもはじまらない…、満琉を、天音と桃李の間で板挟みにしてしまうだけだ、でも…。

「武器なんてもらっても、私に、悪魔討伐なんて無理!天使様が現れてから…、恐ろしい事ばかり、私は、普通に暮らしたいの…。天使庁に入庁するつもりなんてない!」

「うん…、ごめん…。」

「満琉くんのせいじゃない…、」

 桃李はたえきれず、顔をおおった…。

「僕の携帯の番号、メモしておいたから、何かあったら気軽にかけて?ロッシュにも、青柳さんのこと、マリエル、マリエル、ってあんまり言うの、やめてあげて、って言っておくから…。」

桃李は顔を上げた…。満琉が、困ったように微笑んでいる…。その顔が涙でにじむ…。

「恐い…、私、もう元の生活にはもどれない…、そうでしょ…?」

「そんなことないよ、天使庁に入庁させようって思ってるのはロッシュだけなんだし…。君には、ちゃんと断る権利がある。大丈夫…、今回の事件さえ終われば、少しずつ、平穏がもどってくるさ…。」

 満琉がそっと桃李の肩に手を置いた…。満琉は…、「新潟県X市事件」の生き残りで…、今は、天使庁に身を置いている…。悪いけど…、説得力がない、とは、さすがに言えなかった…。

 桃李の住むマンションに着いた。

「本当に、些細なことでも、雑談でもいいから、電話して?」

 別れぎわに満琉が念を押してくる。満琉は…、桃李の味方か…、天音の味方か…、分からない…。せっかくの携帯の番号…、でも、電話できない気がする…。

 天使庁の公用車は走り去っていき、桃李はエレベーターに乗って、自宅へ帰った…。

「ああ!桃李!おかえりなさい…!」

 大好きな父と母が、抱きしめてくれる…。家に帰るのが、本当に久しぶりな気がして、安堵が胸に広がる…。

 母の手料理、家のお風呂、家のベッド…、なにもかもが懐かしい。悪魔の出現など…、悪い夢ならいいのに…。

 しかし、窓辺のハンガーに、天音の羽で作った、天使服が掛けてある…。これはどう処分したらいいのか分からない。とりあえず天音に返すか…。

 お前は自分の婚約者だ、と言って一方的に愛を告げる、美しい天使…、天音…、ロシュフィエル…。

 その天使をサポートし、何事もそつなくこなすけれど、「新潟県X市事件」、という傷を負う、どことなく淋しげな少年、弦巻満琉…。

 ばらばらに切り刻まれた、浅田という少年…、脳を悪魔に喰われ…。眼を生け贄に取られた、池田菜都美…、桃李に迫る、恐ろしい肉塊の化け物、悪魔、アブラクサス…。

 恐くて、たまらない…。私はマリエルなんかじゃない、そんな「天使」知らない…。桃李は、頭から毛布をかぶり、ベッドの中で、一人、嗚咽した…。


 天使庁は伊勢崎学園の事件を公表しているため、マスコミは連日その報道で持ち切りだ。いつもより寝坊した桃李がリビングに入っていくと、テレビの中で女性アナウンサーが喋っている…。

「安全で、副作用もなく、依存性もなく、快楽のみえられるなどという薬物は存在しません。悪魔の血は、思った以上に身近にひそんでいるのかも知れません。取り返しのつかないことになる前に、少しでもおかしい、と思ったら、天使庁に連絡しましょう。電話は…、」

 母は、桃李がリビングに入ってきたことに気付くと、テレビを消した。

「なんだ、疲れているでしょう?もっと寝ててもいいのよ?学校は当面お休みだし…、」

「うん…、」

「朝ご飯、いつも通りでいい?トーストーと…、」

「うん…、」

 生返事…。テーブルの隅に置かれた、新聞の一面にも、「私立伊勢崎大学附属高等学園で悪魔暗躍」と書いてある…。読む気にはなれない。

 これからどうなってしまうのだろう…。好奇心で、悪魔の血を摂取してしまった生徒はどれぐらいいるのだろう…。その人達のご両親は、さぞ悲しむだろうな…。

 悪魔の血を摂取すると、良識や理性などは飛んでしまうのだろうか…。乱行など…、潔癖な桃李には考えられない、おぞましい…。

 何もしていないと、変になりそうなので、桃李は趣味の油彩画を描いて過ごした…。高い山のそびえた、外国の写真をモチーフにする…。

 満琉に連絡せず…、満琉からも連絡もなく…、二週間ほどが過ぎた。このまま…、自分の知らぬ間に、悪魔討伐が終わり、元の生活に戻れたらな…、と、淡い期待を抱く…。

母が、慌てた様子で桃李の部屋の戸を叩いた。

「桃李!桃李!て、天使様がたずねていらしたわ!」

「え…!」

 天音が、たずねてきた…、どう言う要件だろう。しかし古びたジャージ姿で絵を描いていたところだ。さすがにこの格好では会いたくない。リビングにでも通して、少し待ってもらえるように伝える…。

 急いで着がえ、髪もざっととかして、リビングにむかった。どうか母にまで、桃李は天使マリエルの生まれ変わり、などと言っていませんように…。

「天使様、お待たせしました…。」

「いや…、君の母上に、紅茶をいただいていた…。今日は君に贈り物がある。部屋に行っていいか?」

「は、はい、どうぞ…。」

「母上殿、紅茶をありがとう。」

「い、いえ、なんのおかまいも出来ませんで…、」

 母の声がうわずっている…。無理もない。天音は手に大きな包みを二つ持っている…。

贈り物とは、なんだろう…。

 天音を私室に通した。

「ほう…、油彩画を描くのか…。なかなか上手いな。」

「ありがとうございます…。あの、天使様、お体のほうは…、」

「正直、まだ万全とは言えない。一度天界の自宅に帰って療養していた。マリエルの噂を聞いて、ずいぶん力天使仲間がたずねてきたよ。それで、笑われた。」

「え…、」

「確かに、この傲慢で、怠け者のロシュフィエルを、ここまで疲弊させられるのは、ステラ・マリエルをおいて他にいないだろうね、だと。」

 桃李はあわてて頭を下げた。

「あの!申し訳ありませんでした!池田さんのこと、本当にありがとうございます!」

「池田…、ああ、あの莫迦な娘か。あの女には、今後数百年にわたって、魂魄の監視がつくぞ。悪魔の血を一度受けた者が、どのように更生していくか、記録を取る。」

「そうなんですか…。」

 数百年…、気の遠くなるような話しだ…。天音はしばらく桃李の絵を見ていたが、やがて断りもなく、桃李の勉強机の椅子に腰かけた。

「さて、本題に入ろう。満琉から、君のことでずいぶん叱られた。君に怖い思いばかりさせて、すまない。まずはお詫びの品だ。開けてみるといい。」

 そう言って天音は、まず一つ目の包みを桃李に渡した。開けてみる…、優しい芳香がただよう…。

「わぁ…、これ、本物なんですか?すごい、なんてきれい…。」

 中から、美しい青い薔薇の鉢植えが現れた…。花弁や葉に触れてみる…、造花ではない。本物の「ブルー・ローズ」だ…。

「知っての通り、この青い薔薇は天界にしか咲かない。特別に持ち出し許可を取った。二日にいっぺんぐらい水をやっていれば、まず枯れない。花も次々に咲く。窓辺にでも飾ってくれ。」

「ありがとうございます…。申し訳ありません、むしろ私が、お礼の品を差し上げるべきだと思うのですが…、」

「そんなに恐縮しなくていい。もう一つはこれだ。」

 天音がもう一つの包みを差し出す。少し重みがある…。開けてみてびっくりした。

「こ、これも天界の生物なのですか?」

 中には…、子ウサギぐらいの大きさの、不思議な生き物が入っていた…。見た目はハムスターに似ている…。クセのある金色の毛、美しい青い瞳…、背に小さな翼が生えている。身体の大きさに対して、つめがやけに大きい…。

「これは私の血液に陽性霊子をあてて作った、一種のホムンクルスだ。ちょっと手に持ってみろ。」

 抱き上げてみるとふわふわとやわらかく、暖かい…。ぴい、ぴい、と小さな声で鳴き出した。可愛い…。

「餌は野菜の皮で充分だが、水は聖水…、普通の水を、レモンと塩で清めたもの…、をやってくれ。排泄はしない。」

 ぴい、ぴい、と鳴きながら、その生物がぱたぱたと飛び始めた…。桃李が戸惑っていると、その生物は、桃李の背中に、大きなつめでしがみついた。

 その途端、その生物の羽が、一気に大きくなった。バサッ、バサッと羽ばたくと、なんと桃李の身体が浮き上がった。

「きゃっ!ど、どうしたらいいんですか?」

「それが君の『武器』だ。今は自分に出来ることの一部を見せているのだろう。その翼は、天使の羽と同じで、悪魔の血をはねのけ、浄化する力がある。悪魔と接触すれば、自動的に君を守り、自動的に攻撃する。君は何もしなくても、アブラクサス一匹倒すくらい、造作もない…。ただ、奴は『遺物』を使ってくるから…、」

 その小さな生き物は、桃李を持ち上げるのをやめて、また翼を小さくし、今度は、よちよち…、と桃李の背中伝いに歩いてきて、だっこをせがむように、ぴい、ぴい、と鳴いた…。

「あの…、私どうしても…、その、アブラクサス討伐に、参加しないといけないんですか?今のお話を聞いていると、この子さえいれば、別に私は…、」

「残念だが、参加しておいた方が君のためだ。」

 天音が長い足を組みかえる。

「アブラクサスの奴は、どうせ魔界で、ステラ・マリエルの生まれ変わりを見つけた、自分がその魂を穢し、魔界に持ち帰ってみせる、と吹聴しているに違いない。君が無防備だと知れば、他の悪魔も君の魂を狙う…。」

 赤黒い肉塊の巨人に、襲われそうになったのを思い出して、桃李はぞっとした…。

「だが、君がアブラクサスを撃退したとなれば、他の悪魔どももうかつに君に手は出せない。ロシュフィエルが君を守っており、君自身にも悪魔を退ける力がある、それを示すことが必要だ。分かるな?」

 ずるい…、きれいな青い薔薇…、かわいらしい生き物…、「自分自身の今後の安全のために、悪魔を退けておけ」…、断れないようにしている…。

「…私、あんな怖い思いは、もうしたくありません。それに、将来天使庁に入る気も…、」

「それも満琉から聞いた。君のため…と思ってレールを敷いてしまったな。無理強いはしない。君の魂の奥深くで眠る、マリエルの『意思』がどこにむかおうとしているのか、それは君自身にしか分からないことだ。」

 マリエル…、その名前を聞くと、心に暗い影がさすようにさえ思う…。

「学校関係者全員の血液検査に、もう少し時間がかかるし、私も体調を整えておかなければならない。二、三週間以内には連絡が行くと思うから、君もそのホムンクルスになれておくといい。」

 天音が席を立った…。

「…名前、つけてやってくれないか?」

「はい?」

「そのホムンクルスにだ。」

「あ、ああ…、はい…、えっと…、」

 ペットに名前をつける感覚でいいのだろうか。天音の手前、何か凝った名前のほうがいいのか…。しかし、桃李は「名付け」が苦手だった。昔飼っていたインコも「ぴいちゃん」だった…。

 えっと…、ホムンクルス…、ホムちゃん、クルちゃん、スーちゃん…、ぽよぽよ…、ふかふか…。

「…ぽむ、ちゃん?」

 小さな生物が、嬉しそうに、ぴい、ぴい、と鳴いて桃李のまわりを飛び回り、肩に乗って桃李にほおずりしてきた。

「…気に入ったようだ、『ぽむちゃん』。私がいない時は、こいつが君を守る。こいつに異変があれば、私もすぐに気付く。どんな時でも、君はけっして一人ではない。私が君を守る…。」

 けっきょく…、アブラクサス…、あの化け物と、再び対峙しなければならないのか…。天音が主導権を握っているかぎり断り切れない…。

「桃李、君は私が、嫌いか?」

「え!そ、そう言うわけでは、ありません…。ただ…、貴方の婚約者だった、と言われて、戸惑ってしまって…、」

 いつも「マリエル」と呼んでくるのに…、急に「桃李」と呼ばれて、どきっとする…。それに、嫌いか、と面と向かって問われると…、満琉に散々、「天使様なんて嫌いだ」と愚痴ってしまった…。

「三百年か…、正直、私だけが君を追いかけていて…、君はもうとっくに、『ロッシュの婚約者』をやめてしまったのかも…、と思うよ…。」

 天音が、目を細めて、少し悲しげな顔をした…。ずるい…、こんな美しい顔で、こんな美しい声で、自分の前世だという、「マリエル」を想うなんて…。

「邪魔したな。空間転移魔法が使えれば、移動も簡単なんだが、そんな初歩の魔法を使う気力もない。下で公用車を待たせてある…。」

 天音が踵を返す。

「あ…、せめて玄関まで、お見送りを…、」

「気遣いは無用だ。君は青い薔薇を見て、『ぽむちゃん』と遊んで、できるだけ楽しく時を過ごしてくれ。ああ、絵を描くのも、もちろんいい。」

 そうして、そっと手を伸ばし、桃李の髪に触れる…。

「またな、桃李…。」

 私室のドアを開けて、天音は出て行ってしまった…。母が何か言っているのが聞こえる。だがやがて…、玄関のドアが開いて…、閉じる音。天音は帰って行った…。

 桃李はベッドに、仰向けに倒れ込んだ…。一気に疲れた…。腕の中で「ぽむちゃん」が、ぴぴい、ぴい、ぷいぷい…、と鳴く…。

「天使様は…、ずるくて、勝手な方ね…。」

 たかいたかいをするようにぽむちゃんを持ち上げる…。小さな生き物は、ぴい、ぴい、と鳴くだけだ…。

この子に、果物でもやろう…。そう思って、ベッドから起き上がる。サイドテーブルに置いた、青い薔薇が眼に入った…。

マリエルも…、こんな鉢植えを自宅において、愛でながら暮らしていたのだろうか…。何も思い出せない…。何か覚えていたら…、もっと、気が楽だったろうか…。


それからしばらく、母が二言目には「天使様」が家に訪ねてくるなんて…、桃李は「天使様」とはどう言う関係なの…、と、そればかりだったのでうんざりした。

正直に、「自分は、天使様の婚約者、ステラ・マリエルの生まれ変わりらしい」、と話したら、どんな反応をするのだろう…。

学校ですでに噂になっているのだ。家でくらいは、父と母の子、「青柳桃李」のままでいたい…。

桃李は、悪魔顕現の現場に偶然居合わせてしまい、とても怖い思いをしたので、天使様がわざわざお詫びに来て下さったのだ、と話した。ぽむちゃんはすぐに家族に馴染んだ…。

それから二週間くらい経ったろうか。満琉から携帯電話に連絡が入った。

「こんにちは、青柳さん。元気にしてる?」

「ごめんなさい、電話しなくて…。あの…、天使様が訪ねてきて…、」

「うん、聞いてる。ホムンクルスもらったんでしょう?それで、アブラクサスの件なんだけど…、」

 お願いだから、もう片がついた、と言って欲しい…。

「今から作戦を伝えるから、公用車で迎えに行くよ。ロッシュからもらった、天使服ってまだ持ってる?」

「あ…、天使様に返そうと思って、返しそびれてしまって…、」

「別に返さなくていいんだよ。それ着ておいてくれる?すぐ行くから…、」

「うん、分かりました…。それじゃ…、」

 電話が切れる。桃李の淡い期待は、粉々に砕かれた…。しょせん自分は、天音の掌の中、自由などないのだ、と思ってしまう…。

 母になんと言って家を出よう…。あまり嘘はつきたくないが、「今から悪魔討伐に参加してきます」とは言えない…。

 天使服が目立たないように、上から春物のロングコートを着て、ぽむちゃんをだっこ、あとは天音がくれた、羽のカードを持っていればいいだろうか…。他に必要なもの…、と言っても分からない…。携帯電話くらいか…。

「あら、桃李、出かけるの?」

「うん…、あの、先日天使様が、わざわざ来て下さったでしょう?今日は、陣中見舞いって言うか、お礼を…、」

「あら、そしたら、何かお菓子とかあった方が良かったかしら…。」

「必要だったら、途中で買っていくから…、」

 ふと、不安な気持ちが胸にこみ上げてきた…。

「お母さん…、」

「?」

 母の首に手を回して、抱きついた…。

「いってきます。」

「ふふ、変な子ねぇ。気を付けて、行ってらっしゃい。」

 気をつけて…、いつもの何気ない言葉…。天音も、満琉も、そしてぽむちゃんもいる…、大丈夫…。でも、恐い…。母の優しい匂い…、行きたくない…。

 その時携帯電話が鳴った、満琉からだ。

「はい、もしもし、」

「満琉だけど…、マンションの前についたよ?支度できてる?」

「はい、今行きます。」

 もう一度母を見た…。

「それじゃあ…、いってきます。」

「はいはい、おりこうな桃李ちゃん、行ってらっしゃい。」

 母が優しく頭をなでてくれた…。子どもっぽいけれど…、勇気をもらったような気がする。


 マンションの外へ出ると、公用車の前で満琉が待っていた。心なしか表情が曇っている…。

「おはよう、満琉くん…、大丈夫?よく眠れてる?」

「おはよう、青柳さん…、ごめん、顔に出てたかな、状況はあまり良くない…、クルマの中で話そう。」

 満琉が後部座席のドアを開けてくれた。中に乗り込む…。クルマはすぐに走り出した。

「学校関係者の血液検査は全て終わった…。やっぱり、被害は深刻だよ…。」

「その…、何人ぐらいの人が、悪魔の血を…?」

 満琉がちょっとためらうのが分かった。

「驚かないで…、四百人、以上だ…。」

「え…、」

 実感がわかない…。四百人もの人が、同じ学校の中で、乱交パーティーに興じていたというのだろうか…。胸が悪くなりそうだ…。

「これは、日本史上最悪の被害だ…。新潟県X市事件では、悪魔の血を摂取した者はゼロ、憑依された者が一名、その憑依された生徒に殺された人数が三十五人だから…、規模も桁も全く違う…。」

 満琉の心に暗い影を落とす、新潟県X市事件を上回る規模だというのか…。自分の母校は、悪魔に汚染されてしまった…、これから、どうなるのだろう…。

「正直、青柳さんが参加してくれて、とても嬉しいよ…。助かる…。一気に四百人以上の悪魔の血を受けた者を、天使庁日本支部で診てるわけだから…、白魔術師も、天使も、全然足りないんだ。」

 満琉が形の良い眉をよせて話す…。

「それにアブラクサスほどの悪魔相手となると、ロッシュくらい優れた天使でないと…。そのロッシュは、青柳さんが手伝ってくれると思ってるからやる気満々なわけで…、申し訳ないんだけど…。」

「わ、私は平気!ほら、この子…、ホムンクルスの『ぽむちゃん』もいるから!」

 満琉が辛そうなので、つい虚勢をはってしまった。

「そう、さっきから気になってたんだ…。これが天使のホムンクルスかぁ…。可愛いね、ちょっと触ってもいい?」

 満琉がぽむちゃんをだっこする。ぴい、ぷいぷい…、ぴぴ…、ぽむちゃんは警戒することなく、満琉の手の中で大人しくしている。

「ふわふわだね…、ごはんは何をあげてるの?」

「天使様は、聖水をあげていれば、あとは野菜くずでいいようなことおっしゃってたけど…、果物とか、ときどきお菓子を…。可愛いから、つい甘やかしちゃって…。」

「いいなぁ…、僕も欲しいけど…、ペットやおもちゃじゃないからね…。『護身獣』…、または『守護霊獣』と言って…、特別な存在なんだよ。」

 う…、可愛いペット…、もう家族の一員だよ、などと思っていた…。「霊獣」というのは、人間より霊的に位が高い、と聞いたことがある…。

 

学校に着いた。校内はもう天使庁の職員しかおらず、学校関係者の姿は見えない。

「弦巻さん、お疲れ様です。青柳桃李さん、お疲れ様です。」

「弦巻さん、青柳さん、お疲れ様です。」

 次々に挨拶される…。どうして私がこんな、有名人に…、と、桃李は戸惑う。満琉がため息をついた。

「ロッシュが、天使庁でも、青柳さんが、ステラ・マリエルの生まれ変わりだって吹聴しちゃったんだよ…。やめろ、って言ったんだけど…。」

 桃李が何か言う前に、すぐ近くで声がした。

「本当のことを言って何が悪い。」

 ふり返る…。天音が立っていた。

「それに、本当の事を伝えておかねば、なぜ民間人がアブラクサス討伐に加わるのか、理由が分からないだろう。」

「ロッシュ…、でも青柳さんは…、」

 天音は満琉の言葉を手でさえぎって、桃李の髪を一房取ると、指にからめた…。

「桃李、今日も美しいな…。」

 …ここまでくさい台詞も、天音ほどの美形が言うと、さまになってしまうので罪深い…。

桃李は思わず赤面し、満琉が小さくため息をつくのが分かった。

「さて、さっさと終わらせて、ランチと行こう。私は別段、何も食べなくても生きていけるが…、君たちは腹が減るだろう?」

 天音が先に立って、旧校舎の方へむかう…。

「この間、池田さんが亜空間を発生させた部屋を、入り口にするんだ。」

 満琉が補足するように言った。

「一度亜空間が形成された空間には、ひずみがあって、亜空間を再形成しやすいんだよ。」

 旧校舎の教室…、池田が、眼球を「喰われた」ところ…。桃李は、いよいよ悪魔討伐が始まる、と思うと、いやがおうにも緊張してきた。

「満琉、例のものを。」

 天音が手を伸ばす。満琉がクリアファイルを取りだして、そこに挟んであった黒いカードのようなものをさしだした。

「池田さんが作った亜空間の破片だよ。」

 また満琉が説明してくれる。天音が、何もない中空に、その破片をさし込むと、すう…、っと消えてしまった。

 すると、その何もない空間に、淡いブルーの液晶パネルのようなものが無数に現れた。天音がそれを次々と操作していく…。

「これも…、魔法なのですか?」

「まぁ、そうだな。自動プログラムが走っているだけだが…、魔法の初歩だ。」

 パネル様のものが点滅したり、現れたり、消えたり…、その上を、天音の長い指が素早く、無駄なく動いていく…。

「あの池田とか言う小娘は、アブラクサスの魔力で亜空間を開いた…。現在、行方不明になっている四人の生徒も、アブラクサスの血による魔力で亜空間を形成し、そこに潜んでいる可能性が高い。」

 天音は淡々とした口調でパネルの操作を続ける…。

「そこで、この破片を使って、同型の波長を持つ、アブラクサスの亜空間を引きよせる…。」

「青柳さん、気を付けて、ぽむちゃんを離さないでね。いきなりアブラクサスが飛び出してくる…、と言う事はないと思うけど、何か罠はあるかも…。」

「なんなら仲良く、三人で手をつないでいるか?それらしき亜空間に接続したぞ。もう扉が開く…、」

 天音が展開させていたパネルが、次々と閉じ始めた。そして最初に…、亜空間の破片、を挿入したあたりが、水面のようにざわめきはじめた。

 するとそこから、無数のドブネズミがあふれ出してきた。

「きゃあ!」

 思わず悲鳴をあげる桃李…。

「マリエ…、桃李!」

「青柳さん!ロッシュ!」

 天音と満琉が桃李に手を伸ばしたが、無数のドブネズミが、三人を覆い尽くしてしまう…。そして…、人間大の、鼠の小山が出来たわけだが、その小山はどんどん小さくなり、崩れていく…。

 もう三人の姿はここにはない…。そして、部屋にあふれかえっていた鼠たちも、次々と水面の中に消えていく…。

 そうして空間に現れていた波紋は…、やがて、何事もなかったように…、凪の、水鏡のように、静まって…、消えてしまった…。

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