第2話

 翌日…、美貌の天使様と、イケメン白魔術師のうわさは、あっという間に学園全体に広がり、休み時間ともなれば中等部からも「見物人」が押しよせる騒ぎとなった。

 教員が注意してもしてもきりがない。桃李はそんな人々を、気楽でいいな…、とうらやましく思う。

昨日の、昼休みのあと…、天使庁から増員が来た。地下倉庫を「霊的に」鑑識作業するためだという。

 警察はすでに学校のあちこちで鑑識作業をしていたが、殺傷を示唆する証拠は見出せなかった。

 と言うのも、悪魔は生贄の血の一滴までもどん欲に吸収するため、ルミノール反応などは出ないのだと言う。

 天音が美しい青色の瞳を、「見物人」のほうにむけると、きゃぁ、と言う黄色い歓声があがる…。

「アブラクサスの奴、誰かに憑依して、気配を断ち、このやじ馬に紛れて、こちらをうかがっているかもな。マリエル、何か感じないか?」

「い、いえ…、とくには…。」

「でも、『降霊術同好会・四分の三オンスクラブ』っていうワードは、大きな手がかりだよ。藤沢くんは、保健室登校で、授業には出ていなかったけど、放課後に誰かと一緒にいるところはたびたび目撃されてるんだ。つながってきた…。」

 満瑠がノートパソコンを操作しながら言う…。ただ…、なぜ、事件の捜査を、桃李の机に集まってやるのだろう…。

「こんなに人が集まったら…、満瑠くん、普通の学園生活なんて体験できないね…。」

 桃李がしょんぼりと言うと、満瑠は苦笑して、パソコンの画面から目をあげた。

「ロッシュといれば、いやでも目立つしね。でも、事件が解決すれば、事後処理があるから、しばらくは『普通の生徒』として通学できるはずなんだけど…。」

「そうなんだ、じゃあ、早く事件が解決したほうがいいよね、私でも、手伝えることってあるのかな?」

「簡単だ、君がマリエルの記憶をとりもどせばいい。そうすれば、天使としての霊力ももどる。」

 天音が言うのを聞いて、桃李は小さくため息をついた。何が簡単なんだか…。

「ロッシュ、あの『立体写真(ホロ)』持ってきたんでしょう?見せてよ。」

 満瑠が明るい調子で言った。

「ふふ…、満瑠よ…、『立体写真』はオーバーテクノロジーだから、地上では、天使庁以外の場所で開いてはいけないのだぞ。」

 そう言いつつ、天音はにやにやしている。満瑠もにやにやしだした…。桃李はなんとなく、時代劇の、「越後屋、お主も悪よのう」、「代官様のお仕込みで…。」と言うのを思い出した。

「マリエル、この『立体写真』は、私が本当に大切にしているもので…、満瑠にもまだ見せたことがない。ああ、記憶がないのだから、きっと驚くな。」

 天音はそう言って、シャツの胸ポケットから、一枚のカードを出した。小さなギフトカードに似ている、ふちに装飾がある…。天音がそれを開く…。

 一人の女性天使が、倒木に腰をおろし、右手を軽く上げている、小さな「映像」が現れた。その右手に、美しい、黄金色の小鳥が止まっている…。

 天音はカードをてのひらの上でくるくる回した。三百六十度、その女性天使の正面、左右、後ろ姿、すべて観察できる。いや…、それより…。

 その天使の笑顔…、桃李に、そっくりだ…。瞳の色が違うので、若干印象が違うが、カードの中で、桃李が、背中から翼をはやし、天使服をまとっている…。

「青柳さん…、」

 満瑠もびっくりしている…。桃李は…、頭の中に、わっと言葉がわくのを覚える…。マリエル、ロシュフィエルの幼馴染、婚約者、死、「愛を学ぶ」、転生…。

 だがそれらの言葉は、すべて天音がもたらした「情報」であり、潮が引くように消えていく…。自分が、「マリエル」だ、と言う自覚は一切ない…。

「…やっぱり、何も思い出せない?」

 満瑠が、桃李の顔をのぞき込む…。桃李は、見開いた眼を、満瑠にむけ…、それから、こわごわ、天音にむけた。

 天音は、ちょっと笑って肩をすくめた。

「何か思い出してくれると嬉しいが…、まあ贅沢は言わない。君に出会えただけでも、大きな成果だ。」

「ロッシュの霊質に触れていれば、それに感応して、何か思い出すよ、きっと。」

 満瑠がまるで、励ますように言うのを聞いて、桃李は思う…。「ちぇっ」…。満瑠くんも、自分が、「マリエル」になることを望んでいる…。「ちぇっ」…。

 その時、窓の外から、獣じみた咆哮が聞こえ、悲鳴があがった。

「え…、何…?」

桃李、天音、満瑠…、そしてクラスのほとんどの者が、窓にかけよる…。中庭が見える、そこに、まさに悪霊にとり憑かれたような形相の少年が一人、奇妙な機械をふり回していた。

 強いて言えば、その機械は、「銃」に似ていた。中庭に出ていた生徒数人が、逃げ惑うのも見える。

「てて…、てんんしぃ!ここ、ころぉすぅうううぅ!」

 少年は「銃」をかかげ、その先端から、何か、黒いものを連射した。遠くてはっきりしないが、BB弾のように見える。違うのか…。

 とにかくただ事ではない。

「天使様…!」

桃李は自分の右側を見る。確かにそこに天音がいたはずだが…、いない。

「えっ?」

 もう一度中庭を見る。するとそこにはすでに天音が立っていて、少年と対峙しているではないか。

天音は少し、笑みさえ浮かべていた…。両手を絡ませ、指先を天にむける…。その動きに合わせるように、純白の翼が現れた…。

天音は翼を大きく広げ、しゅっ、と言う空気を切る音とともに、前方に勢い良く伸ばした。無数の羽根が発射される。その一枚一枚が、黒いBB弾様の物を、包み込み、球体となって地面に転がる。

「満瑠くん…!」

 桃李は今度は左を見る。満瑠が、ちょうど窓枠を超えて、外へ飛び出すところだった。

「ちょ…!ここ三階…!」

 だが桃李の心配をよそに、満瑠は地面に華麗に着地する。ポケットから、すばやく小瓶を取り出すと、少年にむかって投げつける。

 一枚の羽根が、小瓶をかすめ…、切断すると、瓶の中の液体が、一瞬にして蒸気になった。

「聖水結界!発動!」

 満瑠が叫ぶと、蒸気が光り輝き、半球体の透明なドームが出現し、「銃」を持った少年、天音、満瑠を取り込む。

「グガガガガガ!てん、しいぃぃぃいい!いいいぃぃ、いまいま、しいぃぃいいい!こっ、こっ、ころぉすぅうううぅ!」

 少年はむやみやたらと「銃」を乱射する。「弾」は結界の外には出られないようで、半球体の中で跳弾し、そして天音の羽根によって回収されていく。

 中庭にはまだ数人の生徒が、うずくまったり、腰を抜かしたような格好で、動けずにいる。彼らを、校舎内に避難させないと…、桃李の体が勝手に動いた。教室を飛び出し、急いで階段を駆け下りる。

 満瑠はポケットから羽根のカードを取り出し、ぱんっ、と強く指ではじいた。瞬間、カードは巨大化して盾となり、「弾」を弾き飛ばす。

「満瑠!『ケプラーの剣』で斬ってみろ!」

 天音の声を受けて、満瑠は胸の前で十字を切る。するとそこに…、はじめぼんやりと、だが、じょじょにはっきりと、美しい剣が現れる…。

 満瑠は「ケプラーの剣」を握り、盾をかまえて少年にむかっていく。その姿はさながら現代の騎士だ。

 桃李が中庭につくと、満瑠がまさに少年に切りかかる寸前だった。

「満瑠くん!」

 満瑠が、人を、殺してしまう…、桃李はそう思った。満瑠が少年を袈裟懸けに切ってさっとすれ違った…。切った場所が、爆発するかのように光る。

「だめだ!手ごたえがない!」

 満瑠が天音にむかって叫ぶ。

「しうぃろま、じゅ、つしぃいい…!」

 少年が満瑠のほうへむきなおる。

「満瑠!やるぞ!飛沫に気をつけろ!」

 天音の翼の先端が鋭利になっていき、金属光沢を帯びる。びゅっ、っと空を切る音がして、翼が伸びた。翼は…、「天使の剣」となり、一瞬にして少年の首、胴、そして四肢を、切断してしまった…。

「きゃあぁあぁあああぁぁあ!」

 それが自分の発した悲鳴だと、桃李が気付くのに、数秒かかった。

「マリエル?」

「青柳さん!」

 桃李はふるえる…。ほかの生徒を避難誘導するためにここに来た、だがもう動けない、人が、人がバラバラに…。

 天音は翼をしまい、満瑠の手の剣も消滅し、盾も元のカードにもどる。ただ天音から分離し、黒い「弾」を吸収した羽根は、依然として野球ボールくらいの球体になって残っている。

結界が消え去った…。ばらばらになった遺体から、桃李は目を離せない…。その断面から、およそ血液とは思えない、黒く、どろりとしたものが流れ出ている…。

「マリエル…、なぜ来た?君は今戦えないだろう?こんなにおびえて…、かわいそうに…。」

 そう言って近づいてくる天音が、とても恐ろしいものに見える…。

「青柳さん、大丈夫?あの黒いつぶつぶ、一個でもうけてないよね?」

 桃李は何とかうなずく…。何が起こったのだろう、あの少年は…、黒い「弾」は、いったい…。

「え、と…、あの少年は、すでに死んでいて…、死体を、アブラクサスに操られてたんだ…。」

 満瑠が、桃李と天音を交互に見ながら言う。

「もし生きていたなら、僕がケプラーの剣…、ああ、魔法の剣ね、それで斬った時、魂魄とアブラクサスの『念』が分離して、正常にもどったはずなんだ…。でも、手ごたえがなかった。」

「ただの肉人形と分かれば、止めるには五体を刻むほかない。『銃(あれ)』は安っぽい『遺物(アンティーク)』だが、広範囲に大量の『悪魔の血』をばらまける。魔界に照会をかければ、出所がわかるだろう。」

「旧校舎の鑑識班はこの騒ぎに気づいてくれてるかな?連絡してみる。」

満瑠が、携帯電話を取り出して、通話をはじめた…。天音はそっと桃李の手を取ると、死体のほうに連れて行こうとする…。いやだ、と思うのに、足は天音に従ってしまう…。

「君ももう少し自覚したほうがいいな。天界で穏やかに過ごしていると、物質世界の危機…、ひいては、新たな聖戦の兆しが現れていることに気づけない…。」

 天音は再び翼を現して、その先端で、まるで汚いものにでも触れるように、少年の頭に触れる…。と、思うと、一瞬にしてその頭部が、真っ二つに割れてしまった。

「見ろ、大脳がない。アブラクサスに食われてしまったのだ。多くの悪魔は、このように野蛮で…、マリエル?」

 その、脳みそが空っぽの頭蓋骨の断面を見て…、桃李は、気を失ってしまった…。


 中庭で「銃」を乱射した少年の名は朝田伊久(あさだいく)…、二年三十五組、B棟の生徒で、「降霊術同好会・四分の三オンスクラブ」の主要メンバーである事が、持ち物などから確認された…。

 この同好会、ごたいそうな名前ではあるが、活動内容はホラー映画の鑑賞、狐狗狸さん、の類、あとはタロット占いなど…、そんな程度だったらしい。男女の人数は明らかではない。

 部室代わりの地下倉庫に、男子生徒ばかりが数名集まると、「どうすれば女にもてるか」と言う話題に花が咲いた。

 どこにでもあるお気楽同好会の一つだった…。ただ、半年ほど前から、「降霊術同好会では、ヤバい薬をあつかっている」、「降霊術同好会に行けば女とやれる」、と言ううわさが立ちはじめていたらしい。

 学園は、B棟を中心にパニックになった。朝田のクラスメイト、暇つぶしや好奇心で、一回でも降霊術同好会に参加した者…、それらが、自分の魂は清浄か、悪魔に呪われたりしていないか、と、司宮天音のもとに殺到した。

 確実にアブラクサスは学園にいる…。天使庁はさらなる増援を学園に派遣し、天音は…、自分に群がりくる人々の面倒を、すべて天使庁職員に押し付けた。

 中庭は立ち入り禁止になり、朝田の遺体の回収、血液が流れだした場所の洗浄、そして天音の羽根によって包まれた「弾」=悪魔の血、の回収と分析…、が行われている。

もちろんあの「銃」も押収され、どのような経緯で、魔界で製造、販売された物なのか、照会が行われている…。

魔界は、天使を敵視する悪魔であふれかえっている…、のかと言うと、そうでもない。天界と貿易できれば大きなビジネスチャンスになる、と考えている者…、天使に生まれ変わりたい、と、魔界で福祉活動を行う者など、様々いるという。

もう学園は授業どころではない。教師に変わって天使庁職員が学園を取り仕切り、当面、生徒、教員の帰宅を禁じる、と発表した。

家族などに連絡して、着替え等、必要なものを差し入れてもらうように…、食料は天使庁関連団体が手配する…、その旨通達された。

行政は学園に、大量のスクールカウンセラーを送り込んだ…。桃李も今、その一人と話し終わったところだった。

カウンセリングルームを出て、保健室へ行く…。あの日…、朝田の身体がバラバラに切断されて…、脳みそのない頭骨を天音に見せつけられて…、気を失った桃李を、天音が保健室に運んだ、という…。

それから数日、桃李は教室にもどっていない。ずっと保健室にいる…。ここ数日の動きは、何度か訪ねてきてくれた、満瑠から聞いた。

そして、何回も、天音が保健室を訪ねてきた。でも桃李は言った、「会いたくない」と…。しばらく震えが止まらなかった。空っぽの頭蓋骨、空っぽの頭蓋骨…。

一度両親とも会った。「大変なことになってしまったね…。」、「体に気を付けて…。」、「帰ってきたら、ごちそう作るね、何が食べたい…?」、そんな会話も、うわの空だった気がする。

生徒、教員ともに軟禁状態…、やることがないので、自然と授業が行われる。体育などは中止になった。人々は環境に順応していく…。桃李を残して…。

桃李が保健室のベットに身を横たえるのと、遠慮がちに戸がたたかれるのと、ほぼ同時だった。桃李には、誰が来たのかわかる…。

「満瑠くん…?」

 扉が開いて、満瑠が顔を出した。

「これ、授業のノート、お友達から…。あとさし入れね、どら焼きだって。」

 誰からの…、とは言わないけれど、食料は天使庁関連の団体のみから仕入れられている、お菓子など自由にできるのは、天音くらいだろう…。

 誰かが言いふらしたわけでもないのに…、桃李たちの会話を聞きかじっていた者があるのだろう、「青柳桃李は天使の生まれ変わりである」と言ううわさが広まってしまった…。

 もともと、「学園一の美少女」、「学年トップクラスの秀才」、と呼ばれ、敬遠されがちで、本当に親しい友達、というのが少なかった桃李である。「天使の生まれ変わり」のうわさは、さらに友達を遠のけた…。「住む世界が違う」と…。

 心がささくれ立つ…。桃李はほとんど無意識に、満瑠がさし出したどら焼きの包みを、ごみ箱に放り込んでいた。

「青柳さん…、」

「これ、天使様からなんでしょう?」

 涙声になっている…、泣いちゃダメ、満瑠くんだって、仕事の合間に、忙しいのに、来てくれてる…、泣いちゃダメ…。

「…ロッシュは、その…、悪魔の血に、身も心も侵されたものの『終焉』、に、君があんなに動揺するとは、思わなかったって…。会って謝りたい、って言ってる…。」

 人が人の「死」を見て動揺するぐらい、当たり前なのに…、天使様から見れば、人間なんて塵芥に等しいのだろう…。

「天使様なんて嫌い、私は、マリエルじゃない…!」

 満瑠はしばらく黙っていたけれど…、そっと桃李の肩に手を置いて、ぽつり、と言った。

「…そうだね、君は青柳桃李…、普通の女の子だ…。」

 こらえきれず、涙があふれた…。あわててハンカチを探すが、すぐに出てこない。満瑠が白いハンカチをさし出した…、小さく、ありがとう、と言ってそれを借りる…。レモンの香りがした。

 その時再び、ノックの音がして、誰かが、保健室に入ってきた。見覚えのない少年だが…、校章の色を見れば、同じ二年生だとわかる。

「俺…、橋野遼太郎って言います…。あなたが、白魔術師の、弦巻満瑠さん…。」

 橋野と名乗った少年は、ちらちら、桃李を見ている…。邪魔だろうか…、満瑠に話したいことがあるのだろう、事件と、関係があるのか…。

「気楽に構えてくれていいよ、ちょっと白魔術をかじっただけの、君たちと同じ、高校生だから。」

 満瑠が笑ってみせる。桃李も、なんとか、泣くのをやめた。

「じっ、実は俺…、『四分の三オンスクラブ』の、メンバーなんだ!」

 え…、桃李と満瑠は思わず顔を見合わせた…。大きな手がかりだ…、これが「潜入捜査」の効果だろうか…。

「このことは、警察にも話してない…。でも、朝田が、こっ、殺されるの見て、俺たち、怖くなって…。」

「今、『俺たち』って言ったね、ほかにも誰かいるの?」

 満瑠が穏やかにたずねる…。

「もう一人…、廊下で待ってる…。てっ、天使様は恐ろしい方だ!俺たち、何でも正直に話すから、身の安全を…、その、保障して欲しいんだ。弦巻くんと、青柳さんに…。」

「私?」

 桃李は驚く…。事件にふりまわされてばかりの自分に、何かできるだろうか…。

「青柳さんは…、天使様に…、目を、かけられてるって言うか…、そんなふうに聞いて…。」

 ああ…、「マリエル」の七光り、とでも言うべきか…。

「でも、青柳さんは、今、体調を崩して…、」

 満瑠が言うのを、桃李がさえぎった。

「ううん、私も、橋野くんのお話、聞きたい。私にできる事があるなら、したいの…!」

 そうだ、傷つけられた、苦しめられた、といじけてばかりいてはだめだ。満瑠に少しでも、普通の学園生活を、送ってもらいたい、それを手伝う、と約束したではないか。

「じゃあ、どこか…、人目につかないところで、話を…、」

「旧校舎に行こうか?今、旧校舎は天使庁が立ち入り禁止にしてるけど、僕が一緒なら、あの地下倉庫以外は入れると思う。」

 満瑠が立ち上がった。桃李もベッドからおりて、スカートを整える。橋野と廊下に出ると、少女が一人、不安げな表情で、壁にもたれていた。震えている…。

「…池田、奈都美です。」

 ぺこりと頭を下げた彼女は、満瑠と、桃李の表情をうかがっている。満瑠が安心させようと微笑むので、桃李もそれにならう。

 桃李は満瑠が貸してくれたハンカチを、ポケットにしまった。洗濯して、アイロンをかけて…、何か、お礼をそえて返そう。そう思う。


 四人で旧校舎にむかった。入り口は天使庁の職員が固めている。だが、満瑠が、ちょっと部屋を借りたい、と言っただけで通してくれた。一階と地下以外なら使っていいという。

 念のため、人の出入りが最も少なそうな、最上階、四階の一室を使うことにした。適当に椅子を集めて、車座になる…。

 桃李はふっと窓の外を見た…。今にも雨が降り出しそうな、重い雲が垂れ込めている。梅雨のにおい…。

 橋野と池田は顔を見合わせ…、橋野がまず、口を開いた。

「『四分の三オンスクラブ』は、もともと、大渕が…、大渕悠真が、立ち上げたクラブ…、同好会なんだ…。」


 池田はかなりおびえているようで、言葉少ない。橋野が主に事情を説明しはじめる…。


 大渕は、親は金持ち、成績優秀、スポーツ万能、容姿も悪くない。だが…、頭の中にあるのは、「女にもてたい」の一つだけで、中身のない、薄っぺらな男だった…。

 その大渕が、女子は占いが好き、ホラー映画などを一緒に観賞して、「吊り橋効果」を狙えば「もてる」、と考えて作ったのが、「四分の三オンスクラブ」だった…。

 主なメンバーは大渕、大渕とつるんでいれば、何かとおごってもらえる、と、財布目当てで付き合っていた朝田、橋野…。

 大渕を「完璧なイケメンくん」、と「誤解」して、クラブに入った池田…。あとは大渕が勧誘してきた、「嘘つきのインチキ霊能力者」、吾妻美幸、吾妻の「金魚の糞」、森田紘美、そしてオカルトマニアの藤沢修吾…。

 部室は地下倉庫を使い、大体この七人がたむろしていた。「暇つぶし」に吾妻のタロット占いを体験しようと、女子がちょこちょこ来る…。

 あるいは、小遣い前で金欠になった男子、テスト前でテスト範囲を何とか理解しておきたい奴…、などがクラブに、不特定多数出入りした。

 藤沢の知識を生かした西洋風の「狐狗狸さん」はうけがよかった。B棟の暇人どもは、降霊術同好会で暇をつぶした…。

 橋野が最初に感じた「変化」は、大渕が、朝田や橋野より、藤沢、吾妻との付き合いを重視するようになったことだった。

「財布目当ての俺らより、本当の友達が欲しくなったのかもね…。」

 橋野は自嘲する…。そして二つ目の変化…。吾妻と藤沢の雰囲気が、ある日をさかいにガラッと変わった。

 吾妻は明らかにきれいになった。そしてあんなにインチキくさかった彼女の心霊体験や、タロット占いに、真実味が増していき、占いがよく当たる、と行列のできる日さえあった。

 藤沢は太った体型を気にし、猫背で、いつも眼鏡をいじくっている「陰キャ」だったのに、自身に満ち溢れた雰囲気に変わり、授業こそ保健室で個別に受け続けていたが、休み時間になると自分のクラスに行って、クラスメイトと親しく話すようになったのだ。

 ただのおふざけクラブだった降霊術同好会は、二つの面を持つようになった…。占いが評判の、「表の顔」と、「不思議な薬」を提供し、性の快楽を求める「裏の顔」である…。

 大渕と吾妻は付き合っている、といううわさが立ったが…、一方で吾妻は手当たり次第に男を誘惑した…。

 高校二年生、性への興味が高まる年ごろだ…。それもなかなかの美少女が、ただでやらせてくれるという、拒む理由がない。

 橋野も…、大渕も、朝田も、藤沢も、その他大勢が、何度も吾妻を味わった…。そして吾妻、大渕、森田、藤沢は、周囲に「神さまの薬」、「不思議な薬」というものを、しきりに勧めはじめる。

 それは、違法性もなく、依存性もなく、副作用もなく、飲むと楽しい気分になって、それこそ楽園を味わえるという、小さな丸薬だった。

 そんな都合のいい薬があるわけ…、といぶかしむ者に、まるで、「毒じゃない」と言うように、彼らは薬を飲んで見せる…。

 橋野ははじめ薬を断った。だが拒むと、大渕は、橋野がしている借金の話を持ち出した…。仕方なく薬を飲む。するとどうだろう、開放感、万能感にあふれ…、そしてひどく、身体が熱くなった。

 そうして、地下倉庫で乱交がはじまった…。あの目立たない森田までも、そんなときは激しく男を求めた。池田も参加した。謎の薬、乱交、それらに関わった者は、数が知れない。

 しかし実は…、橋野は薬を飲んで、一時陶酔すると、ひどい吐き気に襲われて、薬を吐きもどしてしまっていた。そんな事が二、三回続き、以降は飲んだふりをして捨てていた…。

 橋野は、吾妻のことが好きになっていた…。どうにかして彼女を独占したい、という思いが芽生え、異常だ…、と感じながらも、乱交に加わらずにはいられなかった。

 いつか吾妻を、自分だけのものに…、いつか吾妻を…、いつか…。橋野は、彼女に恋い焦がれる…。

 そんなある日、「今日は特別な集会にしよう」、という呼びかけのもと、同好会固定メンバーの、七人だけが集められた。

 珍しく、その日は藤沢が仕切っていた…。彼は赤いチョークで床に図形や記号、数字を描き、蝋燭を立てて部屋の照明を消すと…、何か、呪文を唱えた。

 藤沢に続いて、大渕、吾妻、森田も唱える。うながされ、朝田、橋野、池田も復唱した…。一通り「儀式」が終わると、また「薬」が提供され、乱交がはじまった…。

 橋野が池田を抱いていたとき…、吾妻は大渕に抱かれていた。そして彼女は、紐を取り出すと、大渕に、自分の首を絞めて欲しい、と頼んだ…。

 首を絞められ、もうろうとした状態で「する」と、より高いエクスタシーが得られる、とは、橋野も聞いたことがあった。

 橋野は大渕がうらやましくなった…。吾妻は、いかに奔放にふるまっていても、やはり本当は大渕のことが好きなのではないか…。

 だが、次に気が付いた時、吾妻はぐったりとして…、動かなくなっていた…。死んで、いる…。そう思った橋野はパニックになった。

 薬が切れたのだろう、ほかの面々も、正気にもどり、うろたえはじめた。藤沢だけが、変に冷静で、大渕に、森田に、何か耳打ちする…。大渕が言った。

「この死体は、俺たちで何とかしておく。橋野たちは帰れ、今日のことは、もちろん誰にも言うなよ。絶対の秘密だ。」

 素っ裸でいる自分が、ひどく醜くいびつに思えて、橋野はあわてて服を着た。逃げるように地下倉庫を後にした。吾妻が死んだ、吾妻が死んだ、吾妻が…。


 俺、これからどうなるんだろう…。


 おびえながら帰宅し、不安で眠れぬ一夜が明ける…。仕方なく、いつも通りに登校すると、大渕、吾妻、藤沢、森田は行方不明になっていた。そして「神さまの薬」の供給は、ぴたり、とやんだ…。


 橋野は頭を抱え、池田は突然立ち上がった。

「それ以来、俺たち、ずっとおびえて暮らして…、」

「橋野くん!あの薬飲んでなかったの!」

「たっ、大変だ!その丸薬に関わったと思われる人物の、大まかでもいい、人数はわかる?」

 橋野、池田、満瑠がほぼ同時にしゃべった。桃李は乱交の話を聞いて、正直気分が悪かった…。

「え…、だから俺、なんかあの薬飲むと、吐いちゃって…。B棟で、あの薬のうわさを、知らないやつはいなかったと思うけど…、実際に関わったかどうかは…。」

「その薬は、間違いなく『悪魔の血』だよ!それを摂取してしまった人間は、霊性遺伝子のレベルで、情報が書き換えられ、陰性霊子比率が上昇してしまう!」

満瑠も立ち上がっていた。

「『血』を取り込んだ人間は、肉体も、魂魄も、大きく魔界の側に引き込まれている!下手をすれば、百人単位の人間が、知らずにアブラクサスの下僕になってしまっているかもしれない!」

 満瑠はカードを取り出した。

「すぐにロッシュに連絡…、」

「ま、待って!私はどうなるの?私はあの薬を飲んじゃったよ!私も、朝田くんみたいに、天使様にこっ、殺されるの?」

「池田さん、落ち着いて、朝田くんは…、」

 天音を擁護するつもりはないが、今池田にパニックになられると、満瑠の仕事に支障が出る…。そう思って、桃李は、池田の手を握る。落ち着かせようと背中をさする。

「美幸が、すごくきれいになったから…、『神さまの薬』は美容にも効果抜群だって…、美幸が…、私…、」

「大丈夫、落ち着いて…、あなたは…、」

「あ…、」

 池田の動きが、急に止まった。つられるように、全員の視線が池田の顔に注がれる…。すると、ドロリ…、という音がして、池田の両の眼球が、溶けた。

「あぁぁぁぁぁああああああああああぁぁぁぁぁああぁあぁ!」

 池田が叫ぶと、ものすごいスピードで、彼女の髪が伸びはじめる。髪の毛は、壁を、窓を、天井をおおい、現実の空間を侵食し、ゆがませ、漆黒の亜空間を形成していく。

 池田の姿は、複雑にうごめく髪の毛の壁にはばまれ、見えなくなってしまった…。橋野はがくがくと震えだし、桃李は…、思わず唖然とした。

「満瑠くん、何が起こっているの…?」

「アブラクサスが、池田さんの眼球を生贄として、彼女に魔力を与え、亜空間を形成させたみたいだ…。」

 満瑠は言いながら、聖水の入った小瓶をとり出し、さっと撒いた。半径一メートルくらいの円形に、髪の毛が溶け、ぼんやりと光る空間が出現した。

 それからカードを取り出すと、指で軽く、トントン、と叩いた。すると、まるで手品のように、カードが二枚になる。

 カードを橋野に渡し、聖水で作った円の中に彼を招きよせて、満瑠は言った。おびえ切っている橋野に、幼子を諭すように…。

「橋野くん、このカードは、天使様と通話する機能がそなわっている。天使様の、真の名前は『ロシュフィエル』だ。カードにむかって、『ロシュフィエル』様、と唱え続けて。反応があるはずだ。」

 満瑠は胸の前でさっ、さっ、と十字を切って、短く呪文を唱えた。するとまた、銀色の美しい剣が現れた。さらに満瑠は、目を閉じてもう一度呪文を唱える。剣が光り輝き…、これも二本になった。

「青柳さん、この剣は『ケプラーの剣』と言って、陽性霊子を金属様に具現化させたものなんだ。僕の力量にもよるんだけど…、ある程度、悪魔の力に対抗できる。」

 そう言って、一本を桃李に渡してくる。意外と軽い。

「手分けして、亜空間の壁を切っていこう。隙間ができればできるほど、早くロッシュに通話がとどく。」

 いまいち成り行きについていけない…。池田の目が溶けたことも、この亜空間も、桃李にはまるで現実味がなかった。

「もし池田さんを見つけたら、刺激しないで、いったん橋野くんのところまでもどって…。カードで、僕を呼んで。青柳さんの身の安全が第一だからね。」

 そして、満瑠は右方向…、桃李は、左方向に進むようにうながされる。

「ロシュフィエル様、ロシュフィエル様…。」

 橋野が、がくがくと、歯の根が合わない調子で、天音を呼んでいる…。桃李は満瑠の背を見送って、試しに、近くの壁を切ってみた。

 密集した髪の毛が、三十センチほど切り裂かれる…。その切り裂かれた向こうの空間は、ガラス窓のようだった。雨粒がいっぱいについていて、木々の緑がにじんでいる…。

 ほかの場所も切ってみる。上下、左右、剣先のとどくところは、すべてガラス窓だ…。常識のおよばない場所にいるのだと、少しずつ実感がわく。

 自分の、身の安全が、第一…、無理しない、無理しない…。そう心で唱えながら、桃李も、少しずつ前進する。

 亜空間内は赤っぽい光に満たされていて、薄気味悪い…。そこに「ケプラーの剣」で斬りつけると、わずかだが自然光がさすので、心強い。

 どれくらい歩いたろう…。亜空間は教室内に発生したように見えたが、それよりはるかに広い面積を進んでいるような気がする…。

 やはりここは常識の外…、自分の知らない「魔術」の世界に踏み込んでしまったのだ…。桃李がギュッと、「ケプラーの剣」を両手で握りなおした時、急に、広い空間に出た…。

 その「広場」だけで体育館くらいの面積がある…。その中央に、巨大な繭のようなものがあり、「髪の毛」に支えられて高さ一メートルくらいの位置に固定されている…。

 中から微かに、少女のすすり泣く声が聞こえる…。きっと池田だ…。彼女を見つけたらもどれ、と言われた…、しかし…、せめて、安心するように声をかけてあげてはいけないだろうか…。

 桃李は繭に近づくと、床にケプラーの剣を置き、繭の中に話しかけてみた…。

「池田さん?私…、青柳桃李…。池田さん、大丈夫?」

 大丈夫なわけがないか…、悪魔の血を摂取してしまったこと…、それに、眼球が溶けてしまったのだ。盲目の暗闇で、彼女は泣いている…。

「…青柳さん…、私、どうしたらいいの…?」

 すすり泣きながら、池田が答えた。繭がわずかに開き、池田の姿が見える…。膝を丸め、両手で顔をおおって…、なぜか、服は着ていない…。

「悪魔の血を摂取してしまった者は、悪魔に殺されて、魔界に転生するか、天使庁に幽閉されるって、青柳さんも、聞いたことあるよね…?」

池田が顔を上げた…。眼球のない眼窩から、大粒の涙がボロボロとこぼれる…。

「魔界に生まれ変われば、悪魔の奴隷になって、毎日死ぬよりつらい目にあわされるって聞いたわ…。でも天使庁に連れていかれても、悪魔の血を、完全に分離させる方法は見つかってないから、過酷な人体実験が、待ってるって…。」

 池田は桃李の姿を求めて、虚空に手をさまよわせる。桃李は池田が気の毒になり、優しく手を握った。

「みんなのところにもどろう?橋野くんも、満瑠く…、弦巻くんも、みんな心配してる…。きっと、池田さんのお父さんやお母さんだって、心配するよ…。」

 桃李はポケットを探った。今度は自分のハンカチがすぐ見つかった。池田の眼窩がひどくむごく見えて、おおってやりたかった。ぱっとハンカチを開き、包帯状にたたみなおす。

「天使庁の人体実験なんて、あくまでうわさじゃない…。そ、そうだ、私ね、天使様の、昔の知り合いに、そっくりなんだって。だから気に入られてるの、私から、天使様に話すよ、池田さんに、よくしてもらえるように…。」

 ハンカチを池田の目のあたりに近づける…。すると突然、池田が血を吐いた…。ごふっ、っという音とともに…。え…、桃李には何が起きたのかわからない、え…。

 少し視線を下げる…、信じられないものが目に飛び込んできた。池田の胸から、心臓が飛び出していた…。その心臓には、何か…、ブローチのようなものが、張り付いている…。

 え…、池田の身体が、繭からドサッ、っと落ちた。心臓だけが、中空に浮かんでいて、ドクン、ドクン、と鼓動を打っている…。

 え…、その心臓が、見る間に大きくなって…、赤黒い肉塊でできた、身長二メートルはあろうかという醜悪な大男に成長した…。

 え…、気づけば…、桃李は腰を抜かしていた…。

「…あぉやぎ・とぅり…、ぃや、ステラ・マリィエル…、ぉまえが、ほぉしぃ…。」

 男が、奇妙な発音で話す…。桃李は、ひどく震え…、頭が、真っ白になる。ケプラーの剣を拾うことも、羽根のカードを使うことも思いつかない。ただ、目を見開き、震える…。

「てぇんし、マリェルゥが、アブラクサスのてぇに、ぉちたとしったらぁ、ろ、ロシュフィエルゥは、どぉんあにくやしがるだぉう…。」

 男が桃李のほうにかがみこんできて、す…っ、っと指を動かした。それだけで…、桃李の制服はバラバラにちぎれ、桃李は…、ほとんど裸にされてしまう。

 それでも動けない、足に全く力が入らない、声も出ない。誰か、誰か助け…。

「はぁきだせないようにぃい、おぉまえのからだの、おくぅふかくにぃ…、あくまのちをそぉそぎこんでやろう…。」

 大男の陰茎は限りなく怒張し…、先端から、赤黒い液体がもれている…。桃李の目に涙が浮かぶ、だが動けない。誰か…、誰か…。

 その時突風が吹いた。無数の純白の羽根が「広場」に舞っている…。その羽根が桃李に触れると、一瞬にして可憐な天使服へと変わった。

 桃李のまわりに、小さな羽根が、つむじ風のようにらせんを描いて、まわる…、まわる…。桃李を守るように…。

 突風の中心に、天音が、翼を大きく広げて立っていた。その背中に…、桃李は完璧に守られていた。その背中が…、怒りに燃えていた。

 大男は、意外な俊敏さで、天音との距離をとった。

「ロ、ロシュフィィエル…、ちょっと、みなぁいなぁと、ぉおもったら、おんなのけつを、おおいぃかけているのかぁ?」

 そう言って、げっげっ、と気味悪く笑う…。

「貴様ごとき下郎と叩く無駄口はない!」

 天音が叫ぶと、翼の先端は、鋭い金属様になり、千の刃となって大男に襲いかかった。大男は横に一回転して身をかわすと、どこから取り出したのか、メリケンサックのようなものを指に装着する。

 すると大男の、親指を除く四本の指先から、びぃぃ、と音を立てて、「悪魔の血」らしき赤黒い液体が、勢いよく噴出した。天音にむかってまっすぐに飛んでいく。かなりの「水圧」だ。

 天音は片方の翼を盾にして、残るもう片方の翼を刃に変え、次々と攻撃を仕掛けていく。大男の立ち位置と、天音の立ち位置が、目まぐるしく入れ代わる…。

 大男の攻撃は、押しの一辺倒だが、天音の攻撃は流れるようで、実に変幻自在…。天音にはじかれた「悪魔の血」が、飛沫となって亜空間に降りそそぐ…。

 まさに血の雨だ。その飛沫が桃李に降りかかりそうになると、桃李の周りでらせんを描く小さな羽根が、じゅっ…、と音を立てて、相殺していく…。

 天音の攻撃が大男をとらえた。両手にはめたメリケンサックを、粉々に打ち砕く。するともう「悪魔の血」で攻撃できないのか…、大男は舌打ちして、大慌てで天音の攻撃圏内から飛び出した。

「…ちぃかいうちいにぃ、も、もうぅすこし、しゅこうぅをこらしぃたば、ばしょぉで、遊ぼう…。」

 そう言うと、大男…、池田の心臓を依代として顕現したアブラクサス…、は、どろっ…、と溶けた…。

あとには、ぴくぴくと痙攣する、池田の心臓と、そこにはりついたブローチのような物…、おそらく「遺物(アンティーク)」だろう…、だけが残された…。

「無事か!マリエル!」

「池田さん!」

 桃李を抱きしめようとする天音の手をすり抜けて、桃李は倒れ伏した池田にかけよった。天音がつまらなそうな顔をする…。

「せっかく助けに来たのだぞ?抱擁を交わすぐらいはさせてくれてもいいだろうに…。」

「天使様!池田さんはもう助からないのですか?」

 天音は桃李と池田から離れて…、痙攣する心臓のほうへ歩いていく…。

「人体の一部に憑依するための『遺物』か…。使い捨てにしているところを見ると、量産品のようだが…。」

 そう言って翼の先でブローチを取ると、器用に宙に投げる。ブローチは空中で光の玉になって、天使庁に転送される…。

「天使様!」

 桃李はつい声を大きくした。池田の胸にはこぶし大の穴が開いてしまっているが…、心臓が「生きている」せいか、脈はある…。

「マリエル、この空間を内側から押し破って、帰るぞ。」

「天使様!お願いですから池田さんを助けてください!まだ身体も暖かい…、生きています!」

「…君も聞いているだろう?悪魔の血を受けた人間は、身柄を天使庁預かりとなり、過酷な治療実験しか待っていない。」

 天音は汚いものを見るような目で、池田を見下ろしている…。「たんなる噂」、ではないのか…。「悪魔の血」を受けてしまった者は、「人権」を失う…。

「それにもう心臓を抜かれてしまっている。元にもどせないことはないが、こんな穢れた人間一人に何をこだわっているのだ?死んで魂を地獄で焼かれ、煉獄で罪を償って、せいぜい清浄な状態にもどれるよう努力してもらえばいい。」

 桃李はだんだん…、腹が立ってきた。腹が立って、腹が立って…、涙が、あふれてきた。

「ああ、今なら死んでも、アブラクサスの奴に魂を奪われず、私の名前で霊界に送れるぞ?なんだ、マリエル、なぜ泣いて…、」

「彼女は後悔し、ひどくおびえていました!」

 涙で霞む視界…、それでも、天音の目を、精一杯睨みつける。

「天使様は、『マリエル』を失って心を知ったとおっしゃったけれど、それは嘘です!他者の心が解るなら、池田さんにも、彼女の帰りを待ちわびる、大切な家族や友人がいることぐらい、容易に想像がつくはずです!それをまるで…、」

 まるで…。

「死んだ方がいい、みたいにおっしゃって!」

 この方は、今、自分が命を落としても、「マリエルの魂は天国でしばらく休ませて、それから天使に生まれ変わらせよう」とでも言うのだろうか…。自分は、天使「マリエル」じゃない…、人間の「青柳桃李」だ…。

 すると天音は…、苦い薬でも飲まされたような、ものすごく嫌そうな顔をして…、まず指を、「パチン」と鳴らした。

 すると池田の心臓が、ふわっと浮かび上がり…、桃李が抱きかかえる「身体」に、す…、っと入って、まばゆい光を放った。

 そのまぶしさに、桃李は思わず目を閉じる…。光が収束して、桃李が目を開くと、池田の胸の傷は、綺麗に治っていた。顔色もよくなった気がする。

「天使様…、」

 桃李はもううれしくなって、天音に礼を言おうとしたが、その気配を察して、天音は手で桃李を制した。

「待て、これからが本番だ。」

 そうして目を閉じ…、身体に力を入れたようだ。と、思ったら、天音が二人になった。いや、肉体と霊体に分かれたのだ…。

肉体のほうは、力なくその場に崩れ、霊体はほのかな光を放ち、背に美しい翼が生えている…。その姿を見ると…、自分が前世「天使」だったことを思い出すどころか、逆に、天音と自分は違う生き物なのだと感じるのだが…。

「マリエル、その池田だか言う娘から離れろ。羽根の結界はそのままにしておく。」

 桃李の周りでは…、まだ天音の小さな羽根がくるくると螺旋を描いて舞っている。

「…今から私がすることは、天界が極秘にしている、現段階で悪魔の血を受けた人間を救う唯一の方法だ。決して他言しないでくれ。君を信頼しているから見せるのだから…。」

 桃李は訳も分からず、とにかくうなずいた。これから見ることを、黙っていろ、と言うなら黙っていられる。口が堅い事には自信がある。

 天音の霊体は、池田の身体に覆いかぶさると、そのまま、す…、っと一つに重なった。天音の姿は見えなくなり、代わって池田の身体が微かに光りはじめる…。

 と、見るや、池田の身体はがくがくと大きくふるえだし、手足をばたつかせて、のたうちまわる。身体のあちこちに傷口が開き、大量の血液が噴出する。

 再び、床と言い、天井と言い、壁と言い…、血の雨だ。結界で守られている桃李にだけ、その飛沫はかからないが、桃李は、池田は、天音は、どうなってしまったのだろう、とはらはらした。

 やがて血液の放出はおさまり、傷口も嘘のようにぴたり、ぴたり、とふさがっていく…。池田の身体がふわり、と浮き上がり、まばゆい光を放つ…。

 あたりがしばし閃光に包まれ、桃李は手を目の上にかざして、池田の、天音の身に起きていることを確かに見ておこうと努力した。

 キン…、と金属音がして、光が終息する…。池田の身体はどさり、と床に落ち、それと同時に、天音の身体がピクリ、と動いて、ゆっくりと起き上がった。

 桃李は思わず池田のもとにかけよった。脈はある、呼吸もしている、ただ…、閉じた瞼は、残酷に落ち窪んでいる…。

 桃李は、恐る恐る、その瞼を押し上げてみた…。眼球が、ない。

「天使様…、」

 何が起こったのか、さっぱりわからず、桃李は天音をふり返った。だがその天音は、片膝をついて、肩で苦しげに息をしており、顔色も青ざめているように見える。

「て、天使様…!」

 池田をそっと寝かせて、桃李は今度は天音にかけよった。

「ど、どうなさったのですか?何が起きたのですか?」

 天音の衣服や髪には、池田の血がついているが…、それはシュウシュウと音を立てて、蒸発していく…。

「天使の霊体を構成する、『陽性霊子』の作用で、悪魔の血を構成する、『陰性霊子』を強制的に排出させ、その後、天使の超回復力を利用し、清浄な血液を池田の体内に流して蘇生させた。」

 天音は大きくため息をついて、なんとか、呼吸を整えようとしているようだ。

「ただし、『生贄』としてささげられた眼球は元にもどせない。それはアブラクサスの奴に権利がある。池田はこの先、何度も視力、あるいは眼球そのものを失ったまま、転生を繰り返すだろう。」

 それを聞いて、桃李は急に怖くなった…。だが、死んで魂を磨く道に入ればいい、と言う、天音の言葉にはどうしても賛同できない。

 ピキ…、というような、耳慣れない音がして、あたりの空間に、ひびが入りはじめた。亜空間が崩れていく…。

「この空間は、池田の闇の魔力で構成されたものだ。だが池田は清浄な状態になり、闇の力を失った。亜空間は消失する…。」

 そんな天音の声を聴きながら…、彼によりそっていると、柔らかな光があたりに満ちはじめ…、気が付くと、元の旧校舎の教室にいた。

 裸で倒れている池田、天音の「カード」を握りしめて、必死に祈っている橋野、ケプラーの剣を手にした満瑠…、そして、桃李と、天音…。

「ロッシュ!来てくれたんだね!」

 満瑠は一瞬うれしそうな顔をしたが、すぐに天音の様子がおかしいことに気が付いて、顔を曇らせた。

「ロッシュ、どうしたの?」

「アクシデントが起きた、ひどい疲労感だ…。すぐ天使庁に帰りたい、満瑠、『ゲート』は開けるか?」

「アブラクサスと接触したんだね?」

「あの下種は大した相手じゃない、満瑠、天使庁への『ゲート』を開いてくれ。」

「う、うん、その前にちょっと…、池田さんも、橋野くんも、天使庁に連れて行かなきゃいけない、人手を借りてくる。」

 満瑠は、ふっふっ、っとケプラーの剣をふって消すと、教室の外に出て行った。橋野は安堵からか、腰が抜けたようになって、床にへたり込んでいる。

「見ろ、中級第二位の『力天使(ヴァーチャー)』の私がこのざまだ。『大天使(アーク)』や『守護天使(エンジェル)』が同じことをすれば、『陽性霊子』を使い果たして死にかねん。悪魔の血を受け入れ、穢れ果てた人間を救うのに、天使がこれほどの霊力を消費するなど、愚の骨頂だと思わんか。」

 天音が、誰に言うともなく毒づいた…。桃李は…、桃李は、本当は、池田を助けてくれたことに、礼を言いたかったのだが…、このセリフを聞いて、言葉に詰まった…。


 司宮天音…、ロシュフィエルは、自分たちとは、違う生き物だ…。

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