第五話:謎の少女と、癒しの樹


  *


 狼と化したワダチはその金色に輝く瞳で、高いビルの屋上からぐるり周囲を見渡した。


 墨のように濃く暗い東の空には昇り始めた満月が輝き、陽の沈んだ西の空では微かな朱の名残が藍に押され消えようとしている。そしてその中間、天鵞絨めいた濃紺の天には砕いた宝石を散らしたかのように煌めきを放つ星々。対する地上には街頭が灯り、建物の照明こそ点いてはいないもののビルの硝子が明かりを反射し、届く月光と相まって美しい陰影を描き出す。


 月明かりに照らされたワダチの毛並みは炎めいて赤くふさふさと艶を帯びていた。しかし先程の闘いで負傷した影響だろうか、胸に当たる位置に赤黒い血が滲みゴワゴワと周囲の毛を固まらせている。


 この狼の姿ならば人間の姿の時よりも回復が早い。妖力に強い影響を及ぼす満月の夜なら尚更だ。しかし、ワダチの負った傷は何故か治りが遅く、じくじくと血が止まる事無く周囲の毛を濡らし続けている。ススグの妖力が回復を阻害しているに違い無い。


「これは、まずいな……」


 ワダチは一人呟くとビルを駆け下りて闇の中を走った。敵に遭わぬよう気配を探りながら風に紛れ、一心不乱に或る場所を目指す。


 ──やがて訪れたのは、時計塔を囲む広場。その中でもワダチが用があったのはある一点。座り心地の良さそうなベンチの後ろに広がる芝生、そこにそびえる一本の、大樹。


「……此処だ」


 その樹は企業が開発を進める前からこの島に生えていたものなのだという。かつて島の中心に座していた神社、その境内に生えていた神木をそのまま広場の緑として利用したのだ。ちなみに神社そのものは正式な手順を経て住宅街の一角に移築されている。


 狼の姿のワダチはよろよろと大樹に近付くと、その根元に隠れるかのように腹這いで寝そべった。そのまま力を抜き目を閉じると、清廉な霊気が大樹と地面から流れ込んで来る。傷から響いていた痛みが少しずつではあるが和らいでゆく。


 より自然に近しい存在の狼だからこそ得られる恩恵。──ワダチはこの樹を見付けていた過去の自分に感謝した。溜息をつき気の流れに身を任せる。


 ずっと隠れている事は無理でも、傷がもう少し癒えるまでは──ワダチがそう祈った時のこと。


「──そこにいるのは、だあれ?」


 鈴のような澄んだ声が、月下に響いた。


  *


 ワダチは驚きにビクリと身体を震わせ、瞬時に顔を上げる。大きく瞳を見開き、声の主を探った。


「……狼、さん?」


 ──そこに立っていたのは、儚げな少女。


 月光を織り込んだが如き黄金に輝く髪は腰よりも長く、その瞳もまた黄金に煌めいている。肌は滑らかな磁器めいて白く、小さな背丈と華奢な身体付きが整った顔と相まって、少女の繊細な美しさをより際立たせていた。


「……君は、誰?」


 ワダチが思わず発した問いに、少女は少し首を傾げた。年齢はワダチより少し下だろうか。淡い桜色の唇が澄んだ音を紡ぐ。


「わたしは、ミコト、ミコトだよ。……狼さんは?」


「俺はワタライ・ワダチって言うんだ」


「ワダチ、そう、ワダチが狼さんのお名前なのね」


 そして少女──ミコトは柔らかに微笑むと、ゆっくりとワダチに歩み寄った。しなやかな動作でワダチの傍に座る。金色のレースがあしらわれたゴシックな黒のドレスが芝生にふわり広がって、散りばめられた金のビーズが星空のようだ、とワダチは見惚れた。


「──ねえ、ワダチ、怪我してる?」


「えっと、ああ、うん」


 そっと自然な動作で背を撫でるミコトの手が心地良く、ワダチは少し照れながら頷いた。狼の姿で良かった、きっと人間の姿なら顔が赤くなっていただろうから、などと考えながら。


「ああ、血が滲んでる。痛いでしょ? 直ぐ治してあげるね」


 ミコトは言うが早いか、自らの左手の小指を口に含むと、何の躊躇も無くその指先を噛み切った。湧き出した血を右の手の平に垂らし、それをそっとワダチの傷へと押し当てる。


「じっとしててね」


 ミコトの血が燐光に変わる。綺麗な黄金の光はふわりとワダチの傷に染み込み、そして。


「凄い、傷が……治ってく」


 先頃ススグに穿たれた傷からじくじくとした痛みが消え、流れていた血が止まり、開いていた傷口が塞がってゆく。やがて燐光は役目を終えたように霧散し、ミコトの綺麗な指が痕すら残さず消え失せた傷を撫でた。


「これでもう大丈夫」


「あ、ありがと、その、えっと、ミコト」


 ミコトの微笑みと傷のあった場所を何度も交互に見比べ、しどろもどろにワダチは礼を述べた。その様子が可笑しかったのか、ミコトはふふっと笑った。


 あどけない笑みにドギマギとしながら目を逸らし、ワダチはずっと気になっていた事を、意を決して質問する。


「えっと、あの、ミコト。──君は何処から来たんだ? 君は一体、誰なんだい?」


 ミコトからは一切の敵意を感じない。ミコトの気配は何処までも透明で、ワダチにはこの少女が『結社』の人間だとは到底思えなかった。しかしその勘が正しければ余計に、ミコトが何者なのかという謎が浮き彫りになってしまう。


「わたし? わたしはずっと、この島にいるの。そう、ずっとずっと前から」


 ワダチは首を傾げた。『組織』が調査に入るにあたり、島からは人がいなくなるよう人払いが為された筈だ。島の維持に関わっていた作業員や企業の人員も一人として残ってはいない。ならばこの少女は一体──?


 考えられるのは、『結社』の人間か、或いは先程の放送をした『オボロ』の仲間かだ。近隣の人間がこっそり住み着いていた可能性もあるにはあるが、ミコトが先程見せた治癒の能力から察するに、やはり一般人という線は薄いだろう。


「狼さん……ワダチは何で此処にいるの?」


 逆に質問されてワダチはしばし応えに詰まる。何処まで話して良いものか──躊躇したものの、結局ワダチは全てを話す事にした。仮に少女が『結社』の人間ならばもうとっくにワダチは殺されているだろうし、『オボロ』の仲間ならばワダチが話さずとも既にある程度の情報を把握している筈だ。ミコトの口ぶりから、そのどちらでもないとワダチは踏んだのだ。


 ──それに。


 ワダチは確かに聞いた。意識を失う直前、三時の鐘が鳴る中で響いた『たすけて』の声を。


 そしてその涼やかな声は、ミコトの声とそっくり同じだったのだから──。


  *

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