第9話 オアシスへの道は道路に通じていた

 チェックポイントであるテニス場に降りると、複数のグループがすでに来ており、スタンプを押していくとさっさと出発していた。

 監査役として立っていた白石先生が俺の惨状を目の当たりにすると、腰を引いた。


「どうした。どこかぶつけたのか」

「足滑らして、顔を石にぶつけたみたいで。鼻の骨は折れてないと思うけど、顔も切ってて」

「ちょっとここの管理人に聞いてくるからな」


 完全に想定外だったらしく白石先生はおぼつかない足で、テニス場のそばにある管理人室へと駆けていく。


「まだ鼻血出てくる?」

「さっきよりはマシだけど、頭ぼーっとする」


 少し熱中症かもしれない。アスレチック広場が林の中にあったから木々が影になってくれたが、テニス場までの道中は木が少なく開けたところばかりで熱を浴びてしまったのかも。

 またティッシュが萎びてしまい、ティッシュを入れ替える。緑山と周防はこのあとどうするか相談する中、香川は一人居心地悪そうに俺から離れたところで管理室に目線を向けていた。


 日産のキャラバンがゴロゴロと重いエンジン音と砂利がタイヤに擦れる音を立てて、横付けされる。ドアがスライドされ、中から白石先生が座っていた。


「樺山乗れ、医者に診てもらうにも麓に降りないといけないらしい。残りの三人は代理の先生が来るまでここで待っててくれ」

「先生も行くんですか」

「管理責任者として同伴しないと。ほら早く」


 白石先生に急かされて、隣に座るとバンが動き出した。


「すみません。送っていただいて」

「いえ、ここからならホテルより崖を回った方が診療所が近いですし」


 健康そうな色黒の管理人はハキハキと答えてくれた。一方の白石先生は携帯で他の先生と連絡を取っているが、さっきから「ええ」「まあ大丈夫そうですが、念のために」ぐらいしか話してなく、ちょっと管理人の人と変わった方がいいのではと考えてしまう。


 ジャリジャリという音が聞こえなくなると、車は車道に出ていた。合宿所までの車道はこの道だけで初日にバスで見ることができたのだが、あいにく到着するまで寝ていたので覚えていないので、車窓から見える広場の景色が新鮮に映った。

 体ががくりと下に傾斜し始めると、車の動きが急に緩慢になる。


「ちょっと昨日の雨で道が滑るので、しっかり捕まってて。生徒さんは横になっててくださいな」


 横にあるレバーを引いて、椅子を倒すとそれに合わせる形で体も倒れる。仰向けになると落ちていた鼻血が逆流しかけたが、体を横に倒すと鼻血の流れが正常になった。

 ガオンと車のエンジンがうなりを上げ出すと、その馬力音に見合わないゆっくりとした速度で走り出した。エンジンの揺さぶりと道路の凹凸で二重に揺さぶられる。こりゃあひどい、行きの道中よく寝れていたな。


「うえっぷ。行きもそうだったがひどい揺れ」

「すみません、この道うちの車ぐらいしか通らないので道路の整備の順番が後に回されて。椅子の後ろのポケットにエチケット袋があるので使ってください先生」

「いや、吐くまでじゃないので」


 と遠慮していたが、先生の顔は真っ青で今にもこっちに被害が及びそうだ。少し被害にあわないように後部座席の方に移動しよう。体を後ろに移動させると、窓から見える高台から白い湯気が立ち上がっていた。


「この上って風呂場につながっているんですか」

「ええ、この坂道の上はホテルのお風呂場がありますよ。ちょっと崖になっているのでここから上がることはできないですが」


 宮間の侵入ルートとしては無理があるな、下り坂は合宿所の入り口から見て左巻きに螺旋を描いている。右館からここまで徒歩だと時間がかかる。それにキャラバンという車高が高い車で近く見えていたが、下り坂を進むとコンクリートで固められた大人二人分ぐらいの崖とやわらかい土の斜面が露わになっている。これでは梯子でもない限り届かない。


「あの、もうちょっと速度出してもいいんですよ」

「安全第一です。それに生徒さんの体調に気をつけなければ」

「いえ樺山でなく、俺うっぷ」


 早く峠を越えてくれ。


***


 幸い先生の吐しゃ物の峠はのどを越えることはなく、五分程度で麓の診療所付近に無事送り届けられた。

 しかし麓にまで降りた時には、鼻血の出はもう収まっていた。このまま診断されても絆創膏と消毒薬と鼻に詰める脱脂綿ぐらいしかもらえないかもしれない。このまま診療所に入るかと思ったが、白石先生はそっちではなく隣にある見覚えのあるに足を向けていた。


「先生そっちでは」

「消毒液必要だろ。樺山が必要なもの買ってやるからな。医者に見せるだけで帰るのもったいない」


 ああ、俺に同行する名分でコンビニで買い物をしようという魂胆か。この人俺の血まみれの状態に腰引いていたくせに、こういうところは抜け目ないんだから。


「ところでお前は何にもしてないよな」

「え?」


 いつも気だるそうな眼をしている白石先生の眼が鋭く光る。

 香川の態度がよそよそしかったのが原因だろうか。だがあれは緑山が後ろに引いた反動で、足元の木の葉に足を滑らせただけ。あの香川の態度も自分が不利になるようなことを告げないか不安だったのだろう。

 もちろん俺はそんな性格の悪いことはしない、これは自分のやらかしたことだ。

 

「滑って転んだだけです」

「うん、なら信じる」


 追及されるかと思いきやあっさりと通してしまい、拍子抜けした。

 いじめとかトラブルから生徒を守るのが先生の役目だろうに、それを想定した言い訳も考えていたんだぞ。


 口笛を吹きながら白石先生が自動ドアを潜り抜けると、そこはまさに夢にまで見たオアシスだった。

 ヒンヤリと開放された飲料を冷やす冷蔵庫の冷気が足元にあり。棚にはびっしりとポテトチップスが隙間なく陳列され、ケースの中には一番くじの景品が展示されていた。

 そしてコンビニのレジの中にはあれがある。そう、フライヤーとホットスナックを入れた保温機。フライドチキンにコロッケ、カレーパンと揚げ物が鎮座している。


「好きなの取っとけよ」


 鼻血で詰まった鼻からでも、フライもの特有の香ばしく油っぽい香りが固まった鼻血の間をすり抜けて香ってくる。ちょうど鶏肉が揚がった時間で、空白になった保温機の中にきつね色の揚げたてが投入された。

 腹の中がきゅうきゅう飢えだした。この三日間油の気もないわびしい食事ばかりで食べ盛りの高校生には耐えがたい状態が続いていたから、胃のオイルエマージェンシーが脳に緊急信号を送り込み続けていた。それが今頂点に達しようとしている。

 レジ前の保温機の前に立ち、目の前にあるチキンを指さして店員を呼ぶ。


 いいのか。俺は。


 店員に声をかける直前で、口を噤めた。

 ここに来るのは合宿所を時だろ。……でも少し、いやスナック類でなくてもジュース、いやヨーグルト系なら妥協してもいいのでは。白石先生だって好きなもの買えと。ちらりと見ると、先生は酒の冷蔵庫からチューハイを取り出してまだ買ってもないのにもうほろ酔い気分じゃないか。先生だってああだし、いいじゃないか。


 ふいに兄貴が送ってきた『自分で見つけること』を思い出した。ここは宮間と共にたどり着くべきオアシス、それを先生のついでという幸運で腹を満たされるべきじゃない。これは『コンビニ男』の脱出経路ではない、ゲームでいうならチートかバグの領域、正当に見つけたものではない。

 兄貴がのこしたメッセージ、ただはぐらかしているだけかと思ったが、今理解した。ここは実力で手にするべき場所だ。


「おや? 樺山何もいらないのか」

「俺は特にほしいものはないので」

「遠慮しなくても、森先生にチクったりしないからさ。ホットスナックでも好きなものを」

「チクられるとまずいのは先生の方でしょ」

「こりゃまいったな。すんません、このチキン一つ」


 白石先生が一人先にホットスナックを注文した。保温機から取り出されたチキンの油の香ばしい匂いがより一層刺激し、腹の虫がキュルキュル鳴りそうだ。もしかして俺にそれを買わせて共犯にするためにわざと買ったのか。

 先生の誘惑に負けず、俺は堂々と何も買わずにオアシスから一度出た。

 次に来るときは、合宿所を脱出したときにだ。


***


 診療所の医者からは通院するほどのものではないと言われ、想定した通りのものをもらってさよならされた。

 もう夕方の五時を回っておりとっくにオリエンテーリングも終わっていることだろう。ここ数日一日中勉強漬けの日々で、一日が終わるのが長く感じる。


「樺山、本当にいらないんだな。もう戻ってしまうぞ」


 耽っていたのを尻目に白石先生はチキンを肴にチューハイを開けて浸っていた。


「その誘いには乗りません」

「固いぞ。学生の買い食いなんて誰でもやるだろ。これはオリエンテーリングバージョンだと思えば」


 オリエンテーリングだろうと、うちの学校は買い食い厳禁でしょ。

 しかしなぜここまで誘ってくるのだろう。適当だけど、白石先生は強かだ。何か意図があって……もしや香川いやグループの中の誰かが怪我させたと考えていて、買い食いで共犯関係をつくりうまく有耶無耶にする魂胆なのか。

 ただでさえ覗き見事件で煩雑化しているのに厄介ごとを持ってこられたら監督者としてたまったものではないはず。本当に自分で転んだだけなのに、そんな思惑があったら。


「俺のこと面倒だったりします」

「あ?」


 チキンに齧りついていた先生の手が止まった。


「先生って、こうやって悪いことを共犯でつくって支持を得てるのに、手を出さない誘いに乗らなくてつまらないのでは。それにこの怪我のこと本当に誰のせいでもないなんて」

「おいおい待て。樺山俺のことなんか過大評価してないか?」

「思ったことをそのまま伝えたのだけで」

「おいおい、ほんとめんどくせえなおい。いいか俺の行動は行き当たりばったり、これが正解なの。ずっといいのかいいのか言い続けてるのは、後悔がないかだけ。合宿所に戻ってやっぱ食べとけばよかったって泣きつかれたら俺責任取れないもの」


 食べ終えたチキンの袋にため息を吹きかけて先生は項垂れた。


「あと、誰がケガさせた犯人とかいいじゃん。ガチなら問題だけど樺山すぐ返事しただろ。雨で滑って転んだなんてよくあることだし、それでよし。まあ雨で滑りやすいとかで無駄な会議はあるだろうけど。この合宿とか学校無駄なことに力入れすぎなんだっての。頭固いというかさ」


 なんか、すみません。色々思い違いしてました。


「樺山は考えすぎなんじゃねえの。すごい人とかいて、その人は一から十まですごいことを考えてるとか」

「そういう人はいるのでは」

「ないない。そんな神様のような人いないっての。学年主任の森先生、あの人偉いけどちゃんと考えてると思うか?」

「……ないな」

「だろっ! 絶対今日のことで生徒になんか言うぞ。必要ないことまで集めてさ、責任感勘違いしてんだよねあの人」


 白石先生の言葉にしばらく呆然と突っ立てしまっていた。

 俺より能力のある人間といえば朝井や宮間がいる。あの二人は水泳部に新聞部と活躍している。その実績に対して過大評価をしていたのだろうか。


「ちなみに先生が尊敬している人は」

「松田先生」

「スケベ」

「なんだよ。いいだろ包容力ある魅力的な女性だし、それでソロキャンが趣味とか最高すぎるだろ。あー俺も夜空の下で松田先生によしよししてもらいてえ」


 ダメだこの人。


「とにかく、おとといの覗き騒動とかの明らかな犯罪でなければ俺にラクさせてくれ。この合宿で面倒ごとを起こされるの嫌なんだ」

「面倒ごとって先生が業務中飲酒したことをチクられること?」

「いやそれは勘弁してくれ。いや、冗談じゃなくて真剣に」


 急に謙るようにペコペコと頭を下げる先生。そんなに嫌なら、買わないか普通の飲料水にすればよかったのに。



 



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