四日目
第8話 オリエンテーリング
夜中に突然降った大雨の後に吸収された空気中の水分が体中にのしかかってくる。おまけに雨が一掃された空は、昼間の雲一つない快晴のが押し寄せて腕から汗が吹きあがってくる。四月の終わりというのにまるで梅雨ようなうだるような天気。
この最悪の気象の中で、よりにもよってオリエンテーリングを予定通り実施する先生たち。最悪だ。
「指定した組に分かれて行動するように。スタートはこの合宿所から、そこから降りてアスレチック広場、テニスコートと麓まで降りること。先についた人から休憩と昼食を取ること、午後からは麓に降りてから説明する。順路はどこからでも一本道、先生たちも立っているから迷うことはない」
オリエンテーリングというと地図とコンパス片手にチェックポイント探すのだが、うちの場合は地図もコンパスもなく、ただ複数のルートをどれか一つ選んでチェックポイントを進み、スタンプを押すだけだ。事前に周辺の地図を確認したがどこを通っても同じところを通るだけ。事前に調べていれば、自分で考える必要もない。ようは合宿所での溜まった不満のガス抜きだ。
しかしこんな茶番より、授業をして朝井から容疑者を絞り込めたか成果を聞き出したいのに。女子のプール休みのように休ませてもらえないだろうか。
「おー、樺山だ。覗きの時以来だね」
「失礼だよ未空」
香川が大きく手を振りながら緑山をつれてやってきた。
「なんだお前ら冷やかしか」
「違いまーす」
「樺山と同じ班になったの。さっき先生から班決めの紙もらわなかった?」
そういえばとさっき渡されたざらばん紙を開くと確かに二人の名前があった。後は
「なんか変な組み合わせだな。女子二人は同室なのに」
「調整じゃないかな。樺山の部屋今二人だけだから、それで玉突きのように突き出されて」
ああ、なるほど三人部屋でちょうどになる予定が、宮間の件で欠けてしまったから急遽組み合わせを変更したのだろう。ざらばん紙にしたのも名簿を変更するために急遽作ったのだろう。「ぼーっとしないでよ」と香川がバチンと背中を強く叩いた。何が原因でぼんやりとしているのかわかっているのか。
同じノリがチャラい宮間とは何か決定的に違う気がする。
「ごめんね、未空ずっと勉強漬けでかなりうっ憤溜まっていたみたいで」
「緑山もそうじゃないのか。食事も満足してなかったし」
「それはみんな同じなんだけど、未空一日体を動かさないといけないほど気持ちが不安定で。学校だとテニス部に所属していたから解消できたのだけどね。おまけに勉強自体が苦手で」
不安定。それだけなのだろうか。
香川と宮間。何が違うんだ。
***
合宿所から左の林があるルートを進む。こっちからだとアスレチック広場を通ってからテニスコートへと進める。
林の通りまたは弧を描くような緩やかな坂道で、意気揚々と降りていく香川を先頭にして広場へと降りていく。
「雨が上がってよかったね。雨上がりの空気の心地よさ、湿気がいい感じで」
一人違う世界にいるらしい。
昨日降った雨で体を冷やしたし、じわじわと暑苦しいこの天気のどこに爽やかさを感じるというのか。
隣を歩いている緑山なんか、さっきから汗が顔からたらたら流しっぱなしで服が張り付いてる。そのせいで体のラインがくっきりと見えそうで目線をまっすぐに向けなければならない苦労まで背負わされてる。
香川とは見えない溝がある。価値観というか息を合わせる感じがつかみにくい。もう一人の男子である周防とも最初の顔合わせ程度で話しただけで、後ろについてきている。
思えばこの合宿で気兼ねなく話せたのは緑山や朝井と去年同じクラスだった奴ばかり。合宿の目的は、同じ苦労を味わえば新しいクラスの人間と気持ちを共感できるのが狙いだと先輩が語ってくれたが、それは幻想だ。同じ苦労を味わっても、それを言えるのはもとからつながりがあったクラスの人間と口にした方がいい。顔も知らない新しいクラスの人に吐露するより、顔見知りの方が気軽だ。
朝井も同室の奴をより、俺と別に協力する必要もない捜査に一日中付き合ってくれた。あいつもなじめてなかったのだろう。
そうなると宮間や緑山などはコミュ強という狙いに適合した側の人間なのだろう。
長い坂道を降りていくと、木の葉が散らばった広いところに出た。
丸太でできたブランコに運ていとアスレチック用具が一直線に立ち並んでいた。その奥の方にある高台にうちの高校の校章の旗が立っていた。
「あれチェックポイントじゃない。よーし誰が先にたどり着けるか競争だ」
よーいドンの掛け声もなく先頭を立っていた香川が走り出す。
「ちょっと待って」
「すぐ走れるか」
追いつこうと地面を蹴ろうとする。目線が一瞬大きく下に落ちかけた。
「大丈夫? 怪我してない?」
地面に敷き詰められた濡れた木の葉に足を滑らせてしまったようだ。緑山に腕を引っ張られてなければ地面に顔を接吻していた。
「急に腕引っ張ったけど脱臼していないよね。ポキッて音鳴ったけど」
「指ポキと同じだ。関節は外れてない」
やわらかい。
俺の腕から伝わる緑山の手、男の手なんかベタベタ触ることはないが、なんだこのフニフニ。マシュマロでつかまれている。毛穴の痕が見えないゆで卵のようなつるんとした手の甲。
体操服の隙間から覗かせる鎖骨も、朝井のような絞られた筋肉でも骨が浮かんだ細いものでもない、やわらかい肉が乗っている。隣にいるのは同い年の人間とは違う、別種だ。
「お二人さん、もう香川ゴールまでたどり着いてしまったぞ」
ようやく追いついた周防が指さした先では、香川が最後の障害であるロープを握ってしがみつき、旗が立っている高台に一人到達していた。
「チェックポイントゲット! みんな遅いよ」
一人ゆうゆうとチェックポイントにたどり着き、スタンプを戦利品を独占した証と言いたげに掲げていた。
この調子で
***
アスレチック広場を出て、次のチェックポイントに向けて歩みだすが相変わらず香川が先頭に立ってズンズン進んでいた。歩みが早く、足早にしなければならない。幸い道は一本のみで迷うことはないのだが、少しでも歩みが遅れたら置いて行かれてしまう。
「おーい、ちょっとゆっくり歩いてくれ」
「早く行かないとほかの人に先越されるでしょ」
別に競争しているわけでもないのに。
見ろ、同室の緑山はついていくのに必死で、汗がさっきより噴き出てる。これでよく仲良しになれたな。
「足つってないか」
「今下りだからいける」
「同室とはいえ、よくついてこれるな」
「合宿で初めて仲良くなれたのが未空だったから。あたしの部屋去年と同じクラスだった人いなくて、未空ともう一人の子はグループできていて。ほら既存のグループできているとその中に割り込むと空気悪くなるし。そこに誘ってきたのが未空で、離れることできないし」
緑山はハンドタオルで汗を拭きながら経緯を語ってくれた。女子はすぐに仲良くなれると思っていたが、なわばりに神経を尖らせる必要があるのは難儀だな。いやそれが緑山が特別そうというわけでもない、俺も同じか。
「みんなコミュ障というか臆病だよね」
「身内の方が暴露しやすいからな」
「そうじゃなくて、結局交流したくないってところ。楽しいことなら知らなくても話すことあるけど、この合宿楽しみもないから苦労話を内々でせざるえないってわけ。樺山も苦労話したいから話しかけてるわけでしょ」
俺は言葉を詰まられた。この監獄合宿で楽しみなんか一つもない、潰れてしまえと呪詛を吐くほどに終わって欲しい行事であることは同意だ。だご苦労話をしたいから話しかけたわけじゃない。話せそうな人が緑山だっただけで。いや緑山とはその範疇ではない。もっと別のカテゴリーで話せる人で。
「おふたりさんだけ仲良くしててずるいぞ。新しいクラス同士で仲深めようよ」
先行していた香川が察知して、俺と緑山との間に入って戻ってくるなり顔をぐいっと寄せてきた。
「学校帰ってからの方がいいだろ」
「固いな。先生の監視の目も届いてないしいいでしょ。ゆうとはあんなに仲良さそうにしてたのに、同じグループなんだからさ」
こいつとは相性がよくないから体よく離れようとしたのに。そして香川の主張もこの合宿の状況を鑑みれば分かるだろう、同じグループに入れても仲良くできるなんてことはない。トランプのように混ぜられ手札の中に収まっただけ。手札の中でペアを見つければ御の字であるだけで、合わないカードが絶対ある。友達の友達は友達という図式は成立しない。
同室の河坂のように、このグループでは新しいペアができない。
「俺とおしゃべりしていたら、スタンプ他のグループに
そんな主張を直接口にすることなんてできないのが俺であるため、話題を逸らさせようとした。
「ツレナイなぁ。樺山のこと去年から知ってたからこの機会に仲良くできないかなって思ったのに。あの宮間といっしょだから、面白い人なのかなって、がっかり」
「はぁ? なんだよ、宮間といたからついでにみたいなノリで近づいたのか」
「そんなこと言ってない。被害妄想ひどくない」
「そういう風に聞こえた」
売り言葉に買い言葉で、堪忍袋の尾が切れかけていた。
俺は宮間とは同じではないし、到底追いつけることができない存在だ。隣にいることすらおこがましく思ったりする。
けどあいつは肩を並ぶことを許してくれた。
なのに、
バチバチとお互いが寄り合い一触即発状態の間に、緑山と周防が俺たちを引きはなそうと後ろに引っ張る
「ちょっと二人ともケンカしないでよ」
「俺は」
急に視界が逆さまになると、空を見ていた。雲一つないうっとうしいほどの青空がカラカラと笑っている。
殴られた? ぼとりと熱い液体が鼻から垂れ出した。
「樺山、鼻上げろ。鼻血出てる」
「いや逆、逆。下にして全部出すのが正解だって。うわっドバドバ止まらない。ほらティッシュ。未空も持っているティッシュ出して」
周防が体を持ち上げて、緑山がポケットに入れてたティッシュで溢れ出る鼻血を止血させるが、まだ奥の方から熱いものが目と鼻の間の奥からドロドロと流れてくるのを感じる。
詰めたティッシュが萎びているのを感じ取り出すと、赤黒い塊になっていた。
「何もしてないから、樺山が勝手に転んだだけ。私何もしていないから、ほんとだって」
必死に自分でないとアピールしてくる香川の声がうるさい。頭を打った衝撃でぼーっとしているんだから、静かにしてくれ。
「テニス場が近いから、そこで先生に頼もう」
周防に肩を抱えられながら、次のチェックポイントがあるテニス場まで歩かされていく。その間にもティッシュの隙間から漏れ出た鼻血が落ちて、青い落ち葉が季節外れの紅葉を彩る。
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