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 いまは遠き日の記憶。

 おぼろげな夢の中で……。



「〈ドクター〉~」


「授業中にユーリがねてまーす!」「いけないとおもいます!」



 地下スラムの、教会跡の一区画。

 じめじめした孤児院の教室だ。


 お利口連中のキンキン声がユーリの耳をつんざく。

 おなじ親無しのくせに。だから〈ドクター〉を慕うんだろうが、こっちの邪魔をするなよと幼い頃のユーリは眉をひそめる。


 算数テキストなら一問のこらず全部解いた。寝ても文句のいわれはない。

 昼食のエナジー・バーと野菜スープを食べて、お腹いっぱいになってまどろみに身を任せる感覚。それこそユーリがこの世でもっとも充足を得られる瞬間だ。


 満腹と安息はぜったいに裏切らないし盗まれない。

 ユーリが信じるのはそういう『かたちのあるもの』だけ。



「じゃあユーリ君。これ応用問題。前で解いてみて」



 柔和な〈ドクター〉からの出題。

 くせ毛で無精ひげでガリガリで不幸そうな大人のくせに、声と笑顔だけは子どもっぽくて。毎日よれよれの白衣姿だから〈ドクター〉。教会跡の主なのに〈ドクター〉。

 

 ユーリは神も信仰も嫌ってたから上等だった。

 雲をつかむようなハナシじゃ腹はふくれない。


 黒板の出題は。 



 ――[直角三角形を二つ含む円。半径の指定なし。斜線部の面積を求めよ]



 これは、こうか。

 対応する補助線を引いてやって……。

 円の中に、対称の図形を生み出して……。



「正解だね。これ、エリート校の入試問題なんだけどね。しかも捨て問」


「〈ドクター〉の教えたやり方だけで解ける。退屈だ」


「うーん。退屈かあ」



〈ドクター〉は悩ましげに無精ひげの顎をなでる。



「でもさ、次の時間の『世界の歴史』は聞いてくれるよね? 昨日の続き」


「……わかった」



 幼くはにかむ〈ドクター〉に、ユーリは答えた。


 教室中が調子乗るなだの敬語つかえだのざわめくがユーリにとっては雑音だ。

 算数と語学は退屈で、機械いじりも悪くはなかったが、世界の歴史はおもしろい。


 なにせドームに引き篭もるクソ共は外の世界に見向きもしない。

 奴らの関心は「良民のみを清浄なる宇宙に導く軌道エレベーター」だけで、汚らしい類いは無視か侮蔑。何も語らないし与えない。


 けど、〈ドクター〉だけは面白おかしく話してくれる。

 腹がふくれないはずの『かたちの無いもの』を信じさせてくれる。


 だからユーリはこの痩せこけた大人の言うことだけは信じてやろうかって気になったのだ。



 授業が終わって。

 休みを挟んで、また授業が始まる。


 〈ドクター〉はチョーク片手に、カツカツと機嫌よく、黒板に白線の地図を描いていく。

 わかるようなわからないような、ヘタクソな絵も交えながら。



「今から三〇年前なんだけどね。大海原のむこうには多くの国と人と、生き物たちが……」







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