箱 / 篠原柚希 作

名古屋市立大学文藝部

お前、本家ほんやに嫁に行くんだってな。

そうか、お前が従兄にいさんの嫁になるのか。

ああ、いや。他意はないんだ。従兄さんは善い人だからな。昔と違って……な。まあ、お前も知っているだろうが、みな言うよ、当代としての自覚が芽生えたってな。

言っては何だが、昔の従兄さんは、とかくひどい御仁だった。人格者だった伯父上、伯母上、祖父様、祖母様とは似ても似つかない。「あすこの家は、その善き人格で名士となった」なんて言われるくらい、人望を集める家だったのに。それが落ち目だと、陰で言われるようになっていた。

しかし、今となっては人格者の名士様だからな。人は変わるということだな……いや、変えられたというべきか。

別に、お前に対して何かを言ってるわけじゃない。ただ単に従兄さんは変わった、善き人になった。そういう話をしているんだ。

せっかくだ、茶でも飲みながら、従兄さんにまつわる思い出話でもしようか。


あれはまだ俺が東京の大学に通っていた頃の話だ。伯父上が亡くなった翌年の夏。まだ、傲慢不遜だった従兄さんから「本家の倉掃除にこい」と呼びつけられた。また、面倒事を押し付けてくるのか、と辟易した。昔から、厄介事、面倒事を他者に投げつける人だったからな。苦労したもんだ。

ただ、ちょうど大学生になって初めての夏休みで、俺は時間を持て余していた。無為に時間を過ごすのも仕方がないから、本家の従兄さまのご機嫌とりと里帰りを兼ねて戻ることにしたんだ。

帰郷といえどもそれなりの長旅。金のない学生時分に新幹線なんぞ使う気にはなれず、高速バスと在来線を乗り継いで、なんとか一日がかりで帰ってきた。そして、休む間もなく、俺は本家に向かったんだ。なんて殊勝なことなんだろうな。

本家に着いたら、眉間にシワを寄せて、片目を釣り上げた、なんとも嫌味な顔をした従兄さんが待ち構えていた。

「遅い」短くそう言い放った。自分が呼びつけておいて、労いもなく。相変わらずだなと思ったよ。

「すみません。何分、東京から戻ってきたものでして。お電話いただいてすぐ戻ってきましたが……」

「ふん、東京の大学なんかに行くからだ。お前みたいなやつがそもそも大学なんぞ……詮無いことだ」

従兄さんはまさに放蕩息子で、勉学なんぞに興味のない人だったからな。高校もそこそこで、そのまま家業の手伝いなんていって、半ばプー太郎さ。社会ってものに疎い。世話係のお手伝いさんは苦労したろう。

よく思い出したか? 従兄さんは元々こんな人だったんだ。

いや、これはあくまで過去の話だ。あんな人の嫁になるのはやめろ、なんて話をしたいわけじゃない。今では、紛うことなき人格者だからな。

さて、話の続きをしようか。

その後も散々に東京へ行ったことを詰られて、腸が暫く煮えたぎっていた。それでも相槌打ちながら、健気に従兄さんに付いて歩いて、件の蔵へ行ったんだ。

蔵の前には五人ほどのお手伝いさんたちがすでに作業をしていた。わざわざ、雇っているお手伝いさんを全員呼びつけていたようだ。

顔見知りだった古株のお手伝いさんに会釈をすると、従兄さんは鼻を鳴らした。

「さっさとお前もやれ。高価そうなものがあったら伝えろよ」

そういうことか、と合点がいった。なぜ急に倉掃除に呼びつけたかと思えば、そういう算段だったわけだ。つまるところ、小遣い稼ぎに付き合わされたんだ。

あの従兄さんが伯父上亡き後、家業を上手く回せているわけがない。食うに困るほどではなかったけど、思ったほど金がなくて、遊びの銭が欲しくなったんだろうな。

苦笑するお手伝いさんから掃除道具を受け取ると、俺は蔵に入った。

蔵の中は暗く、暑くはないがなんだかじめじめとしていた。あちこちホコリが被っていて、喉がいがいがとしたのをよく覚えている。その後、すぐにお手伝いさんがマスクを持ってきてくれたよ。

戸を開けているから風が入って幾分マシにはなっているだろうが、そもそも伯父上が亡くなってからは誰も立ち入っていない。当然換気などされていなかったのだろう。とかく空気が淀んだ場所だった。

思わず顰めっ面になりながらも、従兄さんのお言いつけの通り、俺は律儀にせっせと掃除を始めた。いちいち、ホコリを払って、モノを確認して、再度拭いて綺麗にして戻す。

正直に言って高価そうかなんてものは全くわからなかった。それはお手伝いさんも同じようで、ただただ、掃除をしているばかりだ。

掃除をはじめて、二時間くらい経った頃か、流石に疲れてお手伝いさんたちに声をかけて休憩をしようとしたときだった。

三つばかりの小さな箱が目に入った。赤白黒、そのうち最初に目についた黒い箱を手に取る。表面に模様が刻まれ、ざらざらとした手触りの箱だった。

「寄木細工か?」

俺がそう呟くと、近くにいたお手伝いさんも、それを覗き込んで頷いた。

上蓋を開けようとして、親指に力を入れるが、ほんの少し隙間が出来る程度で開かない。手で箱を回しながら触っていると、かちっと音がして底板が動いた。

「これは、秘密箱か」

パズルのように様々な仕掛けを解いていかないと開かない箱。幼い頃に祖父様か祖母様がおもちゃとして与えてくれたことがあった。その時のものかとよく見直してみるが、記憶にある秘密箱とは作りが異なって見えた。

こぢんまりとした大きさだったゆえ、金目のものがたくさん入っているとは思えなかったが、秘密箱の名の通り、何か大事なものでも隠されているかもしれない。そう思い、従兄さんに一応伝えることにしたんだ。正直、俺は何もめぼしいものも見つけられていなかったからな。

お手伝いさんたちの分も含めて最終的な成果物は、まあ、やはり散々で、ほとんどなかった。なんとかそれらしき骨董品を一応並べて見たが、素人が分かるわけもなし。

かくいう俺は、秘密箱だけ。でも、ただただ手に持った秘密箱が気になった。なぜかこう、妙に惹かれたんだ。

幼い頃の思い出、というのも勿論あったのだと思う。しかし、それ以上に何かが俺の心を惹きつけていたんだ。

従兄さんが呼びに行ったお手伝いさんと戻ってくると、俺たちを労いもせず、開口一番「いくらになりそうだ」なんて言った。思わず力が抜けたよ。ああ、この人は本当に礼節にかけるのだと。

古株のお手伝いさんが「私達では値付けはできません。鑑定士を呼ぶか、鑑定をしていただける所へ持ってゆきましょう」と言うと、従兄さんは右眉を上げて、不機嫌そうに「ならさっさと軽トラに載せろ。まだ、残っているものもあるだろ? それは明日中にやっておけ」と言った。どうやら翌日も続くらしい。

あれこれお手伝いさんたちに指示なのか罵倒なのかわからない言葉を吐き散らしながら、軽トラに乗り込もうとする従兄さんを俺は呼び止めた。

「従兄さん、こんなものがありました」

そう言って、俺は秘密箱を見せた。怪訝そうに箱をぐるりと回し見て、開けようとしたが、やはり開けられなかった。ぶんぶんと振り回して、存外何の音もしないことに気がつくと、従兄さんは睨みつけた。

「これがなんだ」

「それは秘密箱といいます」

秘密箱とはなにか、簡単に説明すると、従兄さんは底のあたりをごそごそと触ってみるも、少し板がずらせただけで、それ以上のことは何も起こらなかった。

忌々しげに鼻を鳴らすと、秘密箱を俺に投げてよこした。

「こんなもん捨てておけ、なんの役にもたたんだろう」

「では、私が頂いても良いですか? もし、高価なものが入っていたらお返しします」

「……金目のものが入っていたら絶対に渡すように」

俺は従兄さんの言葉に頷き、そして、箱を手にしたんだ。


翌日の掃除もとい、宝探しを終えてようやく従兄さんから解放される頃にはすっかり空が赤く染まり切っていた。

前日の疲労もろくに取れておらず、しかも重いものを何度も運んだせいで腕は痛いし、腰も痛いし、散々だった。

とにかく疲労困憊で、夕食と風呂をさっさと済ませると、すぐに寝ようとしたんだ。

けれど、机に置かれた秘密箱が目に入ると、なぜだか寝る気が失せていった。箱は俺の手のひら程度の大きさだったはずなのに、なぜだか手のひらでは納めることが出来ないように感じられた。存在感というべきか、とにかく異様な雰囲気をまとっていた。

秘密箱から目が離せず、そして気が付けば俺は箱に引き寄せられていた。

精神的な話じゃない、物理的な話だ。気がつけば、机の前に立ち、気がつけば、椅子を引き、腰掛けて、そして、秘密箱を解き始めていた。

箱の底の板をずらす、次は側面の板と手探りながら解き進めていたが、五手目くらいか、この秘密箱は十手や二十手程度では終わらないと気がついた。もしかすると、五十手いや、百手近くかかるのではないかと。小さな箱なのだから、そんなに仕掛けはないはずだ、と普通は思うかもしれない。でも、感じたんだ、底が見えぬ沼のような不気味さを。

あまりの途方のなさに俺では解けない。そう思って、箱を机に置いた。でも、なぜか箱を手に取ってしまう。

不思議なものだった。躓き駄目かと思えば、解けるはずだと再度解き始める。箱を置いては手に取る、何度か繰り返したが、やがて「無理だ」という気持ちが消えていき、ただ淡々と秘密箱を解き進めるようになった。

あの時の俺は、何かに取り憑かれたようだった。


当初は盆を挟んで四、五日もいれば良いかと思っていたが、箱を見つけてから、一日、また一日と、東京へ戻る日が伸びていった。

どうしても箱を開けたいという好奇心なのか、それとももっと別の何かなのか、とにかく衝動に駆られたんだ。とかく、蔵で箱を見つけてからは、食事なんかの時間を除けば、ほとんどの時間を使って秘密箱を解いていた。

ああ、いや、二度ほど手を止めたことがあったな。

一つは墓参り。もう一つは……そうだ、よく分かったな。お前と会った時だ。

あの時、お前は俺を見て「江戸からの落武者」と笑ったな。

当時は従兄さんにこき使われて疲れていたからとか言ったかな。今思うと、東京の水が合わなかったのもあるかもしれない。結局、こうして俺は東京の会社を辞め、従兄さんの会社に勤めているわけだからな。東京のどこか無機質な、冷たい空気に、俺はついていけなかった。

ああ、いや、それも結局言い訳かもしれんな。今日もお前にくたびれた顔をしていると笑われたな。所詮、その程度の人間なのかもしれんな。

いいや、そんな事は。話を戻そうか。

お前がせっかく遊びに来たのだからと、その日だけは箱を家において、翌朝戻るまで触れなかった。

お袋さんに、「箱入り娘になんてことを」とでも言われるかとヒヤヒヤしていたが、まあお前はそもそも箱に収まるような玉じゃないよな。一足先に夏休み入ったのを良いことに、東京のアパートに押しかけてくるくらいだ。お袋さんも諦めていたのかもしれんな。

みなまで言うな。もう、過ぎたことだ、そのほうが良いだろう、お互いに。


箱が解けたのはあれから一週間後か。

何度も何度も挑戦して、ようやくだった。百どころじゃない手番だった気もするが、最早そんなことはどうで良かった。とにかく、箱の中の秘密を俺は早く知りたかった。

俺は上蓋をずらして、箱の中を見た。

中には白い小さなものがいくつか入っていた。一体何なのか分からずに一つ摘まんで見てみると、それが自分の指先にあるものと同じものだと気が付いた。

そう、爪だ。人間の爪が入っていたんだ。

爪切りで切ったような爪じゃない。指から剥いだ爪だ。ところどころ、赤茶けて、それが如何様にそこに納められたのか、言うまでもないだろう。

一体誰が、何のために、こんなものを……。衝撃、恐怖、そして後悔。全身に言いようのないくらい虚脱感が走った。

俺はこんな不気味なもののために、夏休みを何日か無駄にしたのかと、激しく後悔した。

思わず地団駄を踏んだ。胸糞悪い。何か曰く付きのものを開けてしまったのかと思うとさらに胸糞悪い。

これは処分すべきか、いや、その前にお祓いに行くべきか。色んな感情が渦巻きながらあれこれ思案したはずなのに、何故かふっと、冷静になった。

「従兄さんのところへ持っていかないといけない」

いや、今となっては何を馬鹿なことをと思うが、その時はそうせざるを得なかった。秘密箱を解くことに対して異様な執着心に囚われたように、俺は従兄さんのところへ持っていくのだと、ただただそう思ったんだ。


翌日、俺は秘密箱を持ってすぐさま本家へ向かった。

「何用だ」

従兄さんは不機嫌極まりなかった。ソファに腰かけたままこちらを睨みつけ、足を小刻みに震わせている。苛立っているということを隠そうともしない。

本家の母屋に入る前、掃き掃除をしていたお手伝いさんが質屋に持っていったが、思ったような買値がつかず、不機嫌になっていると教えてくれていた。

「例の箱が開きました」

ぴくりと従兄さんの眉が動き、足の動きが止まる。

「何が入っていた」

「それがよく分からなかったんです。少し、変わったものが入っていまして、従兄さんに念のため確認して頂こうと思って」

「そうか、なら、まあかけろ」

従兄さんはどかっとソファにもたれなおし、俺も対面のソファに腰掛けた。

「茶を淹れさせ……ああ、今日は山崎と伊藤しかいなかったな。あいつらはあまり茶を淹れるのが上手くないんだ」

まったく、そう言って鼻を鳴らした。

「お構いなく。ああ、むしろ私が淹れてきましょうか」


「そういや、お前はやけに茶を淹れるのが上手かったな」

「いえいえ、ただ、待つのが得意なだけですよ。それに、祖母様の教えが良かったのです」

新家しんやのたしなみというやつだな。本家の名を汚さぬように礼節を身に着けるという。ご苦労なことだ、新家は」

 祖母様の教えは従兄さんも一緒に受けていたんだがな。まったく、あの人の身にはならなかったらしい。

 俺は困ったように笑いながら、茶を淹れに行った。


本家には幼いころから何度となく出入りしている。勝手知ったるものだ。何度となく、茶を淹れに行ったからな。

茶を淹れるのは俺のような新家の中で年少者の仕事だった。俺より年下がいないせいで、いくつになってお茶くみ係。そのせいで、従兄さんにも認められる程度には茶を淹れるのが得意になった。

棚から取り出した湯冷ましに湯を注ぎ、茶筒から茶葉を入れようとして、俺は止まった。

「ああ、そうだ。あの爪で茶を淹れなくては」

茶筒をしまい、そこに箱の中にあった爪を一枚入れた。湯冷ましから湯を注ぎ、蓋をして蒸らす。

いつもの所作だった。違うのは、茶葉ではなく、爪で茶を淹れようとしていることだけ。

湯呑に茶を注ぐ。色は焦げ茶色、見ようによってはほうじ茶のように見えた。

爪で色が出るのか、思わず感心した。

これはきっと、こうすべきものなのだ。本家の人間が飲むべきものなのだ。

俺はその茶を従兄さんに出した。

いや、変な意趣返しなぞではないんだ、その時、俺はそうすべきだと思ったんだ。理由は分からない。本当に、ただ、そうすべきなのだと、それが従兄さんのためなんだと。

「ほうじ茶か」

従兄さんは何も不審がることなく湯呑に口をつけた。

「相変わらず美味いな。お前の数少ない、いや、唯一の特技だな。祖母さんに感謝することだ」

「まったく、そのとおりですね。感謝してもしきれません」

「ふん、殊勝なことだ。お前みたいな新家が人並みの生活を送れているのは本家あってのこと。ゆめゆめ忘れるな……」

嫌味をたっぷりと言って、テーブルに湯呑をおいた。

そのときだった。

ソファに腰掛け直そうとした従兄さんは勢いよく、仰け反るようにしてソファに倒れかかった。

豪奢で重厚なソファでなければ、そのままひっくり返ったのではないかと思うほどの勢い。俺は慌てて従兄さんのところへ駆け寄った。

従兄さんは目玉をぐるりと回し、小刻みに震えていた。顔色はみるみる青ざめて、今にも泡を吹き出すのではないかという様相だった。

救急車を呼ばないと。俺は電話をかけようと、携帯を取り出すと、

「救急車は不要です。何も問題はありません」

従兄さんがそれを止めた。驚いて顔を上げると、従兄さんは立ってこちらを見つめていた。

「私は大丈夫ですよ」

「いやしかし……」

従兄さんは、問題ないと首を振った。

「茶を淹れてくれてありがとう。君のように新家の人に支えられて私は生きているのだということを痛感するよ」

 従兄さんはそう言って、深々と頭を下げた。

 異様な光景だった。傲慢なあの従兄さんが、礼を言い、あまつさえ頭を下げたのだ。

「従兄さん、やめてください。そんなこと……」

「いえ、今までの私を振り返れば、これでも足りないくらいなのです。今までの非礼を詫びなければなりませんね」

「そんな、非礼だなんて」

 従兄さんは首を静かに振った。

「山崎さん、工具箱を持ってきていただけるか?」

 部屋の外に向かって、従兄さんが呼びかける。返事がすぐに帰ってくると、従兄さんは満足そうに頷いた。

 すぐにお手伝いさんが工具箱を持ってきて、従兄さんに手渡すも、どこか怪訝そうな表情で従兄さんを見つめていた。

なぜ工具箱を、なぜ普段付けない「さん」を付けて呼んだのだろう。不思議でたまらないという顔だった。

「山崎さん、ありがとう。休んでいてください。朝から働きづめでしょう」

 山崎さんは思わず目を見開いた。そして、慌ててこちらを見やると、申し訳なさそうに何度も頭を下げながら部屋を出た。

「爪がかゆいのです。うずくのです。悪性が身体を再度巡ろうとしているのです」

そう言って、従兄さんは工具箱からペンチを取り出した。

従兄さんは左手の親指、その爪先にペンチを当てて、ぐいっと挟み込んだ。

ペンチの先が指の肉に食い込み、血が滲み出る。

「従兄さん、一体何を……」

 従兄さんは俺に微笑みかけながら、ペンチをさらに奥へと押し込む。爪先の血がぽつりと一滴床に落ちた。

「言ったでしょう、悪性が私の体の中を巡ろうとしているのだと。早く体から出してしまわなければいけない」

ぐぐぐっと、強く持ち手を握ったかと思えば、勢いよく右手を振り上げ、爪を一息に剥がした。

生々しい肉が露出して、血が腕を伝い、ぽとぽとと床に流れ落ちる。

 呆然とその有様を見つめていると、従兄さんはペンチを左手に持ちかけて、右手の親指の爪も、先と同じように剥ごうとした。

「従兄さん! やめてください! 何をしているのですか!」

「何って、爪を剥いでいるんです。これはしなくてはいけない大事なこと。君もよくわかっているでしょう」

何を言っているのか分からなかった。あまりにも荒唐無稽。

でも、俺は頷いていた。

「これは禊です。かつての私との決別。真なる、この家の当代としての私を受け入れるための禊なのです」

 そしてまた、従兄さんは親指の爪を剥いだ。

 血が流れ続ける両手の甲を俺に見せ、従兄さんは言った。

「この黒き血が流れ尽きた時。私は善き人へと生まれ戻るのです」

 我に返った俺は大慌てで山崎さんに救急箱を持ってくるよう叫んだ。

あまりにも剣幕だったせいか、山崎さんは走って持ってきてくれた。しかし、従兄さんの姿を見て慄き、大声で叫びながら腰を抜かしてしまった。動けぬ山崎さんを置いて、俺はすぐさま救急箱から包帯と消毒液を取り出した。

 包帯を巻くと言うと、従兄さんは素直に両手を差し出した。

「もう、十分ですから」

 憑き物が落ちたようだった。

 包帯を巻かれながら、従兄さんは言った。

「この家は本家の善き人と、新家の賢き人が守ってきた。生憎、賢き人はいつの世にも生まれてきた。しかし、当主となるべき人間は家の名を持って傲慢になる者が多い……私のようにね。善き人でなければならない。君は賢き人だ。君のような賢き人がこの家には必要です。どうか、尽くしてほしい。君が尽くしてくれるよう、私は善い人でありつづけますから」


それから従兄さんは、人格者の名士となった。

「やはり、あすこの家は善き人になる血筋なのだ。そうでなければ、すぐに途絶えただろうよ」

誰がそんなことを言っていた。

従兄さんは今までとは打って変わって、事業を次々と巻き返した。何か始める際には俺にアドバイスを求めたし、事あるごとに東京の様子を聞いてきた。俺が向こうで就職してからも、あれこれと良くしてくれたし、支援してくれた。

そして、働き始めて三年が過ぎた頃、俺は従兄さんから「戻ってこい」と声をかけられた。

従兄さんの周りに人がたくさんいた。放蕩時代の悪い仲間ではない。もっと、できた人たちだった。すっかり従兄さんを見放していた人たちが戻ってきたのだ。

人は変わるのだ、変わってしまうのだ。

この結果を、俺個人は良かったと思っている。

たとえ、変わるのが本人の意志ではなかったとしても……。


つまるところ、従兄さんの思い出話にかこつけた、お前も善い人であれという説教だ。

「あなたの爪の垢を煎じて飲ませたい」なんて言われるような善い人であり続けてほしいという、な。

昔馴染みの、いや、正直に言おうか。好いた女が別の男に嫁ぐ前の、最後の真心だ。

きっと、何不自由のない生活が待っている。

だが、嫁いでからも、どうか変わらぬお前であってくれ。


 そういえば、花嫁衣装は決まったのか? お前は赤が似合うからな。赤い色打掛が良いんじゃないか。ほら、この箱みたいな艶やかな赤色が。

 衣装もそうだが、結婚式も盛大にしなくてはいけないな。

 せっかく、お前が我が一族に加わるのだから。

 ああ、そうだ。まだ言えてなかったな。

 結婚おめでとう。心より祝福するよ。

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箱 / 篠原柚希 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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