<27・終焉と星空。>
痛みの中で、何故だか頭は不思議なほどクリアになっていた。どう転がっても思い出せなかった記憶が、今はどこまでも鮮明に蘇ってくる。
秋になると自分はいつも弱くなる。それが、彼女にはわかっていたのだろう。いつもよりも視線を感じることが増えていた。高校も、登下校の途中も。気づけばクラスも違うのにそこにいて、自分を気遣ってくれていたように思う。それを見て、クラスメート達からはからかわれたものだ。何あの子、お前に気があるんじゃねえの、と。
『一組の、秋津島世羅ちゃん?え、めっちゃ可愛いじゃん。付き合っちまえよ!』
『そんなんじゃない。中学校からの……幼馴染?みたいなもんだ。俺が情けないから心配で見張ってるだけ』
『そうか?それにしては過保護が行き過ぎてね?』
『……まあ、それは俺も思うけどな』
初めて世羅と出逢った日、きっと自分は酷い顔をしていたと思うのだ。小学校六年生の秋に起きた、あの事件。それを乗り越えられないまま、不登校になり、拒食症のような症状まで発症してガリガリに痩せていた。どうにか中学校からは学校に行き始めたものの、きっと誰も彼も“何あのやばいやつ”としか思わなかったことだろう。今だってお世辞にもふくよかな方とは言えないが、あの頃は身長150cm足らずで体重が34キロくらいしかなかったのである。貧乏な家で、食事が足らなかったなんてこともなかったにも関わらず。
自分でも眼がぎょろついていて、何も信じていないのがありありとわかる顔をしていたと思う。クラスメート達も先生も、明らかにそんな自分を扱い兼ねて避けていた。いじめられることさえ無かったのだから、よほど自分は手負いの獣のようなオーラを出していたのだろう。
そんな中学一年生だった狭霧に、ただ一人声をかけてきたのが世羅だった。みんなに好かれる優等生タイプ、クラスの委員長。きっと責任感もあったのだろう。何度無視しても冷たい態度を取っても、狭霧に声をかけてきたしほっておいてはくれなかったのである。他の生徒達に、“秋津島のやつ、仙道が好きなんじゃないの?”なんてイヤミを言われても関係ないようだった。
だから、ある日あまりにもうっとおしくて尋ねたのである。
『何でお前、そんなに俺のこと構うんだ』
すると、世羅はこう返してきたのだった。
『だって、ほっとけないよ。……君、いじめられてたことがあるんじゃないの?昔の私、みたいに』
心の綺麗な人間とは、まさに世羅のような人物を言うのだろうなと思う。彼女は、自分が小学校時代にいじめられた分、同じようにいじめられた人を見かけたら助けたい、と思うタイプだった。自分が貰った優しさを、どうにか別の人に返していきたい、と。
自分には眩しすぎる。同時に。
『じゃあ、やっぱりお前と俺は違う。同情なら消えろ、迷惑だ。俺なんかを助けようとしたら、お前はロクな目に遭わないぞ』
もっと強く、拒絶する理由ができたのである。何故なら、狭霧の本当に傷はその先にあったから。
確かに自分も、小学校の頃に苛められた経験がある。それで苦しんだこともあるのも確かだ。今はどうであるのかわからないが、当時の自分達の学校はクラス替えが二年に一度であったのである。五年の時に苛めを受けて、その結果二年間いじめっ子と同じクラスになるという苦行を受けた、それは事実だ。
ただ。彼女と違うのは、本当の地獄がそこではなかったということ。
いじめは五年生の時に解決したが、その結果払った犠牲があまりにも大きすぎたということだ。
『俺なんかを助けようとすると、今度はそいつが酷い目に遭う。俺はよく知ってるんだ』
そう、狭霧はよく理解していたのである。自分が疫病神であるということを。
だってそうだろう。もしそうじゃないのなら。
『お前も、
どうして死んだのだろう。
五年生、六年生と自分の担任であった――
***
「……走馬灯かもしれない」
遠のきそうになる意識を繋ぎ留めながら、、狭霧はぽつりと呟いた。
「急に、記憶が戻ってきた、気がする……」
「馬鹿なこと言ってないで、殴るよ!」
狭霧に肩を貸して歩きながら、世羅は言った。
「何度も言うけど。もし、死んだら私、地獄まで追いかけていってやるからね。一生、絶対、絶対に狭霧君のこと許さないからね!」
そうだろうな、と分かっていた。正直話すのも辛くなりつつあったので、小さく頷くに留めたが。
狭霧が自分の右肩を撃った途端。確かに、ドアは開いた。死にもの狂いで世羅から奪った方の銃に実弾が入っていたのだから、賭けに出たのも正解だったと言える。もしあのまま運任せに自分の持っている銃で己を撃っていたら、傷ついていたのは世羅の方になっていたはずだ。
あの青い部屋の奥には、コンクリートの打ちっぱなしのような味気ない灰色の通路が続いていた。出口には、青い扉がある。僅かに風が吹きこんできているような気がする。きっと、出口は近い。あの向こうまで行けば、助けを呼ぶことだって出来るだろう。
あとはそれまで、狭霧が持ちこたえられるかどうかにかかっている。
胴体と判定されないと困るので、肺が傷つかないギリギリの位置を狙って撃ったつもりだが、少々失敗していたかもしれない。さっきから傷の痛みで目が回るし、出血が止まる気配がまったくないのだ。多分、自分達が歩いてきた道には点々と血の雫が滴っていることだろう。
「俺は……ずっと、自分には価値がないと思っていた」
意識を繋ぎ留めようとしているわけではない。ただ、今言わなければ後悔する気がして、滔々と狭霧は喋り続ける。瞼は落ちそうだし、喋るだけでもしんどかったけれど。
「五年生の時、散々苛められて……それでもう本気で死のうかと思った時、担任の小池先生が気づいてくれて、助けてくれて。それで、苛めは終わった。俺は救われたんだと思ってた。先生も笑って、生きててくれてよかったなんて言ってくれて……でも」
丸い眼鏡がよく似合う、穏やかな笑顔の新任の先生だった。学校の先生なんて頼りにならないという話もよく聞くけれど、少なくとも狭霧にとってはそうじゃなかったのだ。彼は、いじめから狭霧を助けてくれた。いじめてきた子達を叱るのみならず、証拠を押さえた上で親たちに通告。今度同じ真似をしたら教育委員会に証拠を持って駆け込みますと宣言したのである。
今の時代は、スマホで写真も動画も撮れる。ばっちり音声が入った動画を抑えられては、いじめっ子達も成す術がない。先生のおかげで、物を隠されたり悪口を言われたりトイレで水を浴びせられたり、という凄惨ないじめから狭霧は解放されたのである。自分にとっての救世主は此処にいたのだと知った瞬間だった。狭霧は小池先生にどこまでも感謝していたし、懐いていた。だから。
小池先生は、我慢してしまったのだろう。
全てを知ったのは、彼が病気で学校を休んでしまった後。心配になって思舞いに行こうと、教えられていた彼のアパートを訪問して――小池先生の首吊り死体を見つけてしまうまでのことであったのである。残された遺書には、全ての真実が記されていた。そこで全てがはっきりしあのだ。
いじめは、終わっていなかった。
ワルガキ達は、影で標的を変えていたのである。狭霧を助けた先生が、いじめに遭っていた。先生の持ち物を壊したり、結託して無視したり、授業を妨害したり。狭霧は愚かにも、彼等が先生をいじめるために授業を阻んでいるなどとは微塵も思っていなかったのである。
加えて、校長や教頭の意思を無視して教育委員会に掛け合おうとした彼の行動は、先生達からも大きく不興を買っていた。彼は、職員室でも先生達から陰湿な嫌がらせを受けていたのである。大の大人が、しかも小学校の先生が、あのようなことをするなど本当に信じがたい話であるが。
「俺が頼るから、助けてなんていうから、先生は何も言えなくなっていた。俺が、先生の逃げ道を封じた。命の恩人だったのに、俺のせいで……俺なんかを助けたせいで」
ああ、こんな壮絶な記憶をよく消すことができていたものだ。
今でも覚えている。
お菓子を持って、久しぶりに会えることに少しだけわくわくしながら階段を登った。以前と同じようにボロボロのアパートの階段がきしきしと音を立てて、懐かしいいドアが見えてきて。
インターホンを鳴らしたのに誰も出て来なくて、おかしいと思ったのだ。出かけている可能性もあるけれど、あの人は病気で寝ているはずだから家にいると思っていたのに、と。
不思議に思ってノブを回したら、鍵は何故かあいていなかった。
そして、奇妙な臭いが鼻をついて、それで。
「俺が、殺した。大好きな先生を」
一人きりで、首を吊らねばならないほどに追い詰めた。
それは他でもない、自分の罪だ。
「カウンセリングを受けても、どれほど夜を越えても夢を見る。……俺は必死で普通になろうとした。そうでなければもう生きていたくないとさえ思った。……そんな時、お前が目の前に現れた。何度手を振り払っても、見ないフリをしても、いつも俺の傍にいようとするお前が」
「私、何も……」
「お前の方が馬鹿だろう。……お前が思っている以上に、あの時のお前の言葉には意味があったんだよ」
『俺なんかを助けようとすると、今度はそいつが酷い目に遭う。俺はよく知ってるんだ』
小池先生みたいになる、だから目の前で消えてくれ。そう言った狭霧に、世羅は。
『じゃあ、私が、不幸にならなければいいよね?』
きっと、本人はとても簡単なことを言ったつもりだったのだろう。でも。
『君の傍にいても、私が本当に幸せになって、いつも笑っていれば全然大丈夫だよね?』
きっと世羅にはわからない。
それだけで。
そんな言葉が、どれほど狭霧にとって嬉しかったかなど。
「幸せになると、お前はそう約束した。そして実際、お前は俺の傍にいてもいじめられたり、大きな怪我をしたり、トラブルに巻き込まれるようなことがなかった」
「運が良かっただけだよ、そんなの」
「お前はそう言うかもしれないが、それだけで俺にとっては救いだったんだ。俺が明るくなったように見えたなら、それはお前を手本にしたからというだけのこと。お前みたいに上手に笑ったり、いつもみんなを明るい気持ちにさせるなんてことはできないが……それでも、誰かの役に立つことをいつも考えられるようになった。そうしたら、誰かの役に立っていると実感している間は……俺も俺を許せるようになった。生きてていいのだと、思えるようになって、だから」
そう、だから。気に病む必要などない。だって世羅は知らないだろう。一生懸命勉強して、狭霧と同じ高校に行けるように頑張るからと言ってくれて、それでどれほど狭霧が嬉しかったかなんて。
高校に入っていつも気にかけてくれる彼女に、照れくさいものを感じつつも、心から安らげる気持ちになっていたかなんて。
そして、あの日。襲ってきた教団の奴らから、自分が彼女を庇った本当の理由は。
「出口だよ、狭霧君!あと少しだから!」
ようやく、青い扉まで辿りついた。ここまでが、随分長かったような気がする。世羅がゆっくりと扉を押し開けるのが見えた。そこは、満天の星空の下。どこか自分達が最後に歩いていた公園に似ているな、と感じる。そう口にしようとして――狭霧はもう、己の声が出なくなっていることに気づいた。
「狭霧君?」
ああ、心配をかけてしまう。泣かせてしまう。
死なないとそう、約束したはずなのに。
「ほら、狭霧君、お星さまだよ!月が見えるよ!きっと近くに人がいるから……助けを呼ぶから、それまで頑張って、ねえ!」
そっと、左手を星空の方へ、彼女の声がする方へと伸ばした。声はもう届かない。ゆっくりと暗くなっていく世界で、狭霧は。
――本当に馬鹿だな、世羅。……俺も、とっくにお前のことが。
心はそっと。流れ星と一緒に溶けて、消えていったのである。
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