<22・二人きりのアビス。>
人の心は脆いものだ。どれほどせっつかれても、追い立てられても、それだけで元気になれるほど強靭にはできていない。
あの部屋に居続ければ硫酸の雨が降ってくるかもしれないので、やむなく廊下に出たはいいものの。そこで、二人とも一度足が止まってしまっていた。
再び地獄へと続いているであろう、長い白い廊下。その先のゲームをクリアすれば脱出させて貰えると言われても、今すぐ挑みますと言えるようなメンタルではなかった。狭霧がそうなのだから、世羅だって同じだろう。
「少し」
言い出したのは、世羅の方だった。
「休もっか」
「……ああ」
彼女が言わなければ自分が言っていただろう。あるいは、口に出す勇気もなかったのかもしれないが。
後悔と反省と自己嫌悪で、頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。狭霧はその場に座り込んで蹲る。本当は、こんな風に考え込んでいても解決はしない。なるべく早く気持ちを切り替えなければいけないと、頭ではわかっているというのに。
「……世羅」
ただ。それでも、一番最初に言うべき言葉はわかっていた。
「さっきは……すまなかった、酷いことを言って」
世羅が顔を上げる気配。狭霧は、彼女の顔を見ることもできないまま続ける。
「反射的に、嵐の盾になろうとしてしまったが。よく考えたら、ペナルティが嵐と決まっている以上、主催側が俺のそんな行動を良しとしたとは思えない。何が何でも嵐を追尾して殺しただろう、と今ならわかる。下手したら庇ったにもかかわらず二人とも蜂の巣になって死んでいた……いや、下手しなくてもそうなっていた可能性が高い。嵐が絶対に助からないなら、俺が無駄死にするのを防ぐべきというのは合理的だ」
あのような行動。誰より、嵐が望んでいないであろうことは明白だった。むしろ、彼の決意を一番冒涜するやり方であったことだろう。きっと嵐はあのゲーム開始前から、自分が最下位になってペナルティを受け、死ぬことも考慮していたはず。迷っている時間もなかったので狭霧はそれを受け入れてしまったが、少なくとも己が無傷で済むだなんて嵐も思っていなかったはずなのだ。
最初に、第二の試練で無茶をした時の嵐なら“自分が一番価値がないから、率先して命の盾となるべき”という考えでそういう行動に出たのだろうとわかる。でも、第四の試練の時の嵐は、きっとそうではなかった。死んでもいいと思っていたからあんなことをしたんじゃないと今ならわかる。彼はけして、未来を諦めていなかった。その上で、最も全員で生き残る可能性が高い選択をした、きっとそれだけであったのだと。
否。嵐だけではない。
信吾も、千佳も、きっと同じ。
犠牲になるために犠牲になったわけじゃない。死にたかったわけでもない。彼等だって当然生きたかったに決まっている。それでも率先して危険な役目を担ったのは、全員で生き残る可能性が一番高い方法に賭けたからだ。
そして、守りたかったから。
彼等が守ろうとしたものはきっと、仲間の命というだけではなくて。自分自身の、心そのもので。
「みんな、生きる事を諦めていたわけではないのに、俺ときたら……」
それなのに、自暴自棄になるかのようにあんなことをして。
地獄に落とされても文句の言えない所業ではないか。
「……私も、君を責められないよ」
そんな狭霧に、世羅は言う。
「あの時、本当に二人とも助けたいなら、私が二人の盾になる選択だってあったのに。あの時そんなもの考えもしなかったんだから。結局私は自分が一番可愛かっただけ。それで、とにかく狭霧君に死んでほしくなかったから、結局命の優先順位をつけたっていうだけなんだから。……ただ」
「うん」
「一応、訊いてもいい?何であんなことしたの?その直前までは……君は、嵐君ほど自分を貶めて考えているようには見えなかったし、ちゃんとみんなの分も生きる覚悟をしてるように見えたんだけどな」
「…………」
彼女がそう尋ねたくなるのは当然だろう。むしろ、豹変したのではないかと思って焦ったとしても無理ないことだ。あの時の感情は、狭霧自身でさえ制御できていたとは言い難いものであったのだから。
「……よく、わからないんだ」
ぽつり、と狭霧は呟く。
「一瞬、目の前が真っ白になって。大切な人を死なせてばかりの自分に生きている価値はない、自分よりも嵐の方が生き残るべきだと感じて。……すまない、自分でも何が何やらなんだ。いろいろ頭の中を妙な景色が駆け巡っていったような気もするが、あまりにも断片的すぎて……」
そう、いくつも。
いくつもの光景が過っていったのだ。自分を覗き込んで泣いている世羅。誰かに頭を撫でて貰っている自分。優しい声と、笑顔。それから、それから、それから。
「そうだ、あれは……」
ズキリ、と頭に痛みが走った。呻きながらも、絞り出すように声を出す。
――そうだ、俺はどうしても心配になってあの人の家にいった。何もできないかもしれないけれど、自分にできることがあるかもしれないはずだって、アパートまで。一人暮らしをしているから、きっと淋しいだろうって。
お菓子を持って、久しぶりに会えることに少しだけわくわくしながら階段を登った。以前と同じようにボロボロのアパートの階段がきしきしと音を立てて、懐かしいいドアが見えてきて。
インターホンを鳴らしたのに誰も出て来なくて、おかしいと思ったのだ。出かけている可能性もあるけれど、あの人は病気で寝ているはずだから家にいると思っていたのに、と。
不思議に思ってノブを回したら、鍵は何故はかかっていなかった。
そして、奇妙な臭いが鼻をついて、それで。
「そう、俺は、見たんだ」
玄関で、立ち尽くした。
ドラマでしか見たことのないような光景が広がっていたから。
「あれは、首吊り、死体」
自分は、救えなかった。否。
自分が殺したのだ、彼を。
そう思って、持っていたお菓子が玄関で滑り落ちたことも気づかずに頭を掻きむしって、喉が潰れるほどに叫んで――。
「狭霧君っ!」
はっとした時、狭霧は世羅に肩を掴まれていた。彼女は泣き晴らした目でこちらを真っ直ぐに見ている。
「思い出さないで。思い出さなくていいの、そんなこと」
「せ、世羅……」
「私は、狭霧君とは小学校違うから、狭霧君の小学校時代にあったことは話でしか聞いてない。それでもわかる、あれは狭霧君が悪いんじゃない。狭霧君が殺したんじゃない。だから、そんなこと、思い出さなくていいの。忘れてていいの!」
「お前、やっぱり……」
彼女が自分について、本当はいろいろ知っているのに黙っていたということはわかっている。でも、この様子だと本当に、明らかに重たいと分かるような過去まで話していたということなのだろう。それが許しあえるような関係だったということなのだろう。
この様子だと。恐らく彼女が自分と他人のフリをしたのには二つ理由がある。一つ目は、狭霧のトラウマとなるような過去を思い出してほしくなかったこと。そして、恐らくその二つ目は。
「……なあ、世羅。俺とお前は、何なんだ」
あの時。嵐の前に飛び出そうとした狭霧を止めた彼女の判断は、実に合理的だったと今ならわかる。それを責めるつもりはない。ただ。
『駄目、駄目、お願いだから……っ!』
あの時の、縋るような眼。何がなんでも狭霧にだけは死んでほしくないと、そう訴えるようなあの眼は。
「正直に、教えてくれ。俺とお前は、恋仲だったのか?」
きっと自分は、こういうことに関して鋭い方ではないだろう。それでも察することができないわけじゃない。友情なのか愛情なのかそれ以外なのかはわからないが、彼女が自分に対して特別な感情を抱いているであろうことは明白である。
「違う」
しかし、世羅はきっぱりとそれを否定してきた。
「ただの友達。だから、そんな気にしなくていいよ」
「本当に?」
「うん。……これは、本当。できれば……記憶がないうちは他人だって思っていてほしかったっていうのは、本当だけど」
その答えに、困惑するしかないのは狭霧の方である。苦しそうに笑う世羅が、嘘を言っているようには見えなかったから。
だが、ただの友達ならば、そこまで自分を守ろうと思ったりするものだろうか。親友、という物言いでもないなら尚更に。
「……君の過去に何があったのか、私の口から全部は語れない。きっと、君の記憶は、今のこの状況にとってマイナスになるから。だから、私は黙っているって決めたんだから」
でもね、と世羅は続ける。
「それでも一つだけ、私にもわかっていることがあるの。……狭霧君は、役立たずでもなければ、要らない人間でもない。嵐君にも同じことを私は言ったけどこれは……本当の本当に、狭霧君のことをよく知っている人間の台詞だから、信じてくれていい」
「俺は、自分が役立たずだと思うような過去を持っているということか」
「そう。君はある出来事のせいで、自分は生きていてはいけない人間だなんて思うようになった。だから……私は少しだけ、君の記憶が消えてて安心したの。そりゃ、私のこと忘れちゃってるのは淋しいけどさ。……覚えてないならきっと、無茶しないでくれると思ったんだ。私も他のみんなも知らない人ばっかりなら、そんな知らない人を守るために犠牲になろうなんて思わないだろうしって。自分なんかよりみんなが生き残るべき、って……そう思ってる人間がデスゲームに巻き込まれたら何をするか、嵐君を見ていれば想像がつくでしょ?」
「…………」
『これから何があるかわからないけど、また、命がけのゲームみたいなことが起きたら、その時は……真っ先に僕を切り捨てていいから』
第一のゲーム後に、嵐が言った言葉を思い出す。
彼は親に虐待され、人としての尊厳を踏みつけにされてきた結果自分は“価値がないもの”“生きているだけで誰かの邪魔になるもの”だと思い込んでしまっていた。
そんな彼と同じようになってしまうほどのことが、狭霧の身にも起きていたということなのだろう。それがわかっているなら、世羅が少なくともこのゲーム中では記憶を取り戻して欲しくないと思うのも道理ではある。
「そう、思ってたんだけど。……やっぱり心の傷なんて、記憶が消えたってどこかで……忘れられるはずが、ないんだよね」
そっと、世羅の手が離れていく。
「仕方ないよね。……君が忘れててくれて良いって思ったのに、同じだけ安心したから。見知らぬ人であっても誰かをほっとけない君の性格も。短い時間で、いろんな状況に対して冷静に判断できる頭のいいところも。赤の他人でも思いやったり、悲しんだり、怒ったりできるところも。……そういうの、何も変わってなかった。記憶がなくても君は君だった。だから、そんな君のことが、私は……」
きっと、そこから先。とても大切なことを言いたかったのだろう。それでも彼女は首を振って、その先の言葉を半ば強引に打ち消してきたのだった。
「……ううん、これ以上は、言わない方がいいね、やっぱり。この先のことは、生き残ってから考えよう。……いなくなった、みんなのためにも」
「世羅、お前……」
「お願いだから、忘れないでね。みんなで生きて帰る。……私達二人だけでも、絶対。自分の命を、粗末にしたりしないで」
「……ああ」
まだ、心の整理がついたとは言い難い。それでもふらつきながら、嵐の血が飛んだ服のまま二人は立ち上がるのだ。
終わりにしなければいけない。全ての悲しい事を、悪い夢を。
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