<17・償うもの。>
呆然とする狭霧の耳に、世羅の嗚咽が聴こえる。
「バリケード、隙間から蛇がどんどん入ってきて……頑張ったんだけど、千佳さんが集中攻撃されて……わ、私、助けられなくて……!」
狭霧が見ていない間に起きていた、悲劇。座り込んだ千佳の足は、スカートもストッキングも元の色がわからないくらい真っ赤に染まっていた。あちこち肉が大きく削げている場所もある。どれほど痛かったかしれない。
そして、特に酷いのが脇腹の傷だ。真っ赤に染まり、こうしている間も床に血だまりを作っている。血を吐いているということは、内臓にもダメージがあるのは明らかだろう。
確かに、前の部屋から応急手当のキットは持ってきている。多少怪我をしても包帯と消毒くらいならできる。でも。
こんな傷。
すぐに医者に見せることもできない状況で、素人の手当くらいで一体何がどうなるというのだろう。そもそも医者だったとしても、設備がなければ、輸血もできない状態でこれでは。
「俺が」
体から力が抜けるようだった。
「俺が、遅かった、せいで」
そんな後悔に意味はないのかもしれない。でも、悔やむなというのはあまりにも無理がある。自分がもっと早くトランプを剥して戻れていたなら。いや、ブザーが鳴った時にレーザーを警戒せずにさっさと走り抜けていれば間に合った可能性はないのか。
自分が保身を優先してしまったせいで。それで。
「千佳さん、ほとんどボタンから手を離さなかった。何度蛇に噛みつかれても」
同じように呆然としながら、嵐が言う。
「ほんの少し離してしまった時もあったけど、それ以外はずっと。血まみれなのに、もう一度押し直して……」
「そうよ。だから……謝るべきは、狭霧君じゃなない。あたしの方、だわ」
「!」
息も絶え絶えで、千佳はそれでも言った。
「手を離してしまってごめんなさい。そして……それなのに、生き残ってくれて本当にありがとう。……貴方が、悔やむことなんて、ないのよ。貴方が生きてくれた。他の二人も生き残ってくれた。それでいいの。それだけで、いいの。生きて、生きてくれるだけで、それだけであたし……救われてるのよ」
「でも……っ」
「あら、これじゃ納得いかないって、顔?しょうがないわね……」
何故、出逢ったばかりの自分のために、自分達三人のためにここまでできるのか。彼女は最初から自分達に優しかった。本当の家族のように世話を焼いてくれた。ずっとどうしてだろうと疑問には思っていたのだ。確かに根が優しい人間や世話焼きな人間はいるものの、命まで賭けられるかどうかはまったく別問題であるはずなのだから。
「あたしにも高校生の、息子がいるの。って話は、前にもしたと思うんだけど」
そんな自分達の疑問を察して、千佳は話す。
「あたしと旦那、かなり若いうちに結婚したのに……全然子供、できなくて。やっとできたのがあの子、だったのよ。たった一人の、可愛い子。でも、反抗期でちょっと……距離ができちゃって。男の子ならそれも仕方ないかなって思ってたのよ。一緒にご飯食べてくれなくなったり、家に帰るのが遅くなっても……しょうがないかなって。でも、それが駄目だったのよ。だって」
バイクで大怪我して入院したんだもの、と。その言葉に、狭霧は眼を見開いた。
「無免許運転よ。……そんな子じゃ、なかった。でもね。……悪い連中に絡まれて、無理やりそういう……仲間に入れられてしまって。パシリ扱いされながら、バイクに乗せられて、失敗して事故して……。あたし、全然気づいてなかったの。あの子、ずっと一人で悩んでた。あたし達に相談できなくて、それで。……どうにか、一命は取り留めたけど……何も気づけなくて、それで距離を取って逃げてたあたしじゃ……会わせる顔が、なくてね」
「そんな……」
「まさに、そんな時だったのよ。……だからね、あんた達は気に病まなくて、いいの。あんた達を助けて、あたしは、あたしを救いたかっただけ。実際あんた達と信吾さんはあたしに……息子が離れる前の、あったかい家族ってやつを、思い出させてくれたわ。本当の本当の本当に……救われたのは、あたしの方なの」
「千佳さん……っ」
しゃがみこんだまま、嵐が一歩前に出た。
「僕は……僕は、千佳さんみたいなお母さんがいてくれたらいいって思ってた。此処では、間違いなく、千佳さんが僕の……お母さんだった、よ」
「あら。……嬉しいこと言ってくれるじゃない」
千佳は笑っていた。本当は全身痛くて痛くてたまらないはずだというのに。
「忘れないで頂戴、ね。貴方を、貴方達を愛する人はいる。此処にいる。世界のどこかにもきっといる。……ありがとうね、守らせてくれて。生きていてくれて」
彼女の首が、かくん、と落ちた。
本当はまだまだ言いたいことがあったのだろうな、と思う。しかし、タイムリミットは容赦なく来るものなのだ、とその最期は自分達に知らせた。命の期限も、それからゲームの期限も。
まだ終わりではない。狭霧は立ち上がり、リビングのテーブルの前に行った。自分はまだ、前を向かなければいけないのだと知っていた。信じて貰った以上は。守られた以上は。そして、生きて欲しいと願われた以上は。
――俺にはまだ、わからない。本当にこの場所の外に、俺の未来を望んでくれる人がいるのかどうか。
アルバムのような本を手に取り、トランプの最後の一枚をはめ込む。ぱちり、という音がした途端、いつもの耳障りなアナウンスが聞こえてきた。
『おめでとうございマス!第三の試練、クリアとなりマス。ただいま、ゲートを開きますので、少々お待ちくだサイ……!』
ういいいいん、という音が響いた。キッチン周辺に変化はないようだ。狭霧は音が聞こえて来る方向を捜して気づく。
自分の足元だ。
テーブルをどけると、その真下に小さな階段が出現していた。大柄な人間なら通るのに苦労しそうなほど狭い。足を負傷しているであろう嵐だけでも背負ってやりたかったが、これではそれも厳しそうである。
「次の部屋、あったの?」
「ああ」
キッチンに戻り、世羅と嵐に声をかける。アナウンスはまだ喋り続けていた。
『今から十五分間の猶予をもうけますので、それまでにその階段から次の場所への移動をお願いしマス。それデハデハ!』
何が“それではでは”だ。もう突っ込む気にもなりはしない。
とりあえず負傷している世羅と嵐の手当をしなければ。リビングに置いていたナップザックの中から救急キットを取りだす。ここでものすごい不器用を晒してしまったらどうしよう、と少しだけ困った。応急手当のやり方はなんとなく想像がつくが、いかんせん狭霧は記憶がない身である。今までの人生で、誰かをちゃんと手当したことがあったかどうかも怪しいところがある。
「私はいい、一回噛まれただけだし、たいした出血じゃないから。嵐君を先に手当してあげて」
「……わかった」
世羅の声は、さっきまで泣いていたとは思えないほどしっかりしていた。彼女の中で何かが切り替わったのかもしれない。それが正しい覚悟なのか、そうでないのかはわからないけれど。
彼女の顔を見ることができないまま、狭霧は嵐の元へと向かう。彼は左足首を二か所噛まれているようだった。幸い、見た目ほど傷は深くないようである。染みるけど、と言いながら血を拭って消毒をしつつ、包帯を丁寧に撒いていく。はっきり言ってもう、毒のない蛇であるという主催側の証言を信じるしかないのが辛いところだ。これで弱くても毒があったなんて後出しで言われたらお手上げである。体重が軽い嵐など、あっという間に毒が回って死んでしまうだろう。
「ありがと」
嵐はそれだけを自分に言った。気力を絞るような声に胸が痛くなる。こんな小さな子供が何故、ここまで酷い目に遭わされ続けなければいけないのか。自分達だって、千佳や信吾だってそう。皆、誰かのために本気で立ち向かえる優しい人ばかりだというのに。
「手当、相変わらず上手だね」
世羅がぽつりと呟いた。狭霧は顔を上げる。彼女はどこか困ったように笑っていた。
「相変わらずってことは、やっぱりお前、本当は前から俺のこと知ってるんだな」
「気づいてたんだ」
「俺が名乗る前に、俺の名前を呼んだだろう。何故他人の振りをしてるのか、ずっと疑問で仕方なかった」
「……そっか」
本当に自分の失言に気づいていなかったらしい。私ってほんと迂闊だなあ、と呟きながら彼女は俯いた。
「……ごめんね。どうしても言えない理由があるの。だから、私のことはできれば……記憶が戻るまでは他人だと思っていてほしいんだけど」
何故、彼女がこんなことを言うのか。実はなんとなくその理由が想像つきつつある狭霧である。今までの彼女の行動や言動からなんとなくわかる。けして冷酷な人物でなければ、狭霧に対して恨みがあるわけでもないこと。自分と確執があるから隠しているわけではない。狭霧が記憶を取り戻すことに怯えているとか、それによって自分との関係が険悪になることを恐れている印象でもない。
それでも、記憶がないうちは他人のフリをしていたい。そんな理由があるのだとしたら、それは。
「それはできない」
狭霧はきっぱりと言った。
「もう俺にとってお前も嵐も……千佳も信吾も、他人じゃないからだ。俺はお前達のように、上手に誰かを気遣ったり、何かの役に立てる人間じゃないが、それでも」
それでも、大切に想う権利なら自分にもあるはずだ、きっと。
自分はこのゲームの中の記憶しかない。でも。この中の記憶だけでも充分なことはあるのである。
「だからもう、他人だと思うことは不可能だ」
狭霧の言葉に、世羅は。
「ほんと……お人よしすぎるよね、君は」
そんな彼女の手にも、自分なりに丁寧に包帯を巻いていく。これで最低限、止血はできるはずだ。
まだ温かい千佳の体を、リビングの床に寝かせた。本当はせめてソファーに運んでやりたかったが、いかんせん自分は体力も腕力も足りていない。自分より体重が重い彼女を運べるだけの力はなかった。
せめてその場に横たえて、腕を組ませてやる。本当は、信吾にもそうしてやりたかったと思いながら。
「……ありがとう」
手を合わせて、三人は歩き出した。祈りの時間が終わり、現実が来る。
自分達はまだ、戦わなければいけない。生かしてくれた誰かのために、この理不尽な運命と。
――生きる。生きなければ。
声を枯らして泣くのは、全て終わった後だ。
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