<16・信頼を礎に。>

 人が一人通れる程度の狭い通路を、狭霧はゆっくりと進んでいく。

 距離はさほど長いものではなかった。すぐに壁や天井が白く塗られた場所へ行きあたったからだ。どういう仕組みなのか皆目見当もつかないが、壁や天井、床から赤いレーザーのようなものが伸びて動いている。基本は一本ずつ、一定の速度で白い通路内を移動しているようだった。


――罠を解除せずに飛び込むのは……さすがに無謀だろうな。


 すぐに結論を出す。

 数十メートルほど走りぬけることができれば、トランプが貼りつけられた壁に辿りつけるようだが。いかんせん、トランプのある場所も安全地帯ではない。奥の壁スレスレまでレーザーは走っているので、あそこで剥すのに集中していたらあっという間に後ろから来たレーザーに体を切り刻まれて終わることだろう。

 やはり申し訳ないが、スイッチを押して解除してもらうしかない。


「世羅、嵐、千佳。全員聞こえるか」


 出口の方へと叫ぶ。少し離れたところから、聴こえるよー!と世羅の声が響いた。


「レーザーゾーンの手前まで来た。今から一気に走り抜けるから、罠を解除してほしい」


 ここからは、時間との勝負。フライ返しをぎゅっと握って、スタートダッシュの姿勢を取る。そして。


「押したよ!」


 千佳の声が響いた、瞬間。




 ビー!ビー!ビー!ビー!




 ブザーの音と共に、一瞬赤い光が明滅した。そして、レーザーが一瞬にして消失する。瞬間、狭霧は走り出した。ここからは一秒でも早くトランプを剥して、元の場所に戻らなければいけない。


「はぁ、はぁ、はぁ!」


 背中の方で小さく悲鳴のような声が聞こえた気がしたが、無視した。今自分がするべきことはもたもたと振り返ることではなく、とにかく一刻も早く“宝探し”を終わらせることなのだから。

 白い通路を走り抜け、トランプの張ってある壁に飛びつく。そして、ぴったりと貼りついた一枚をこそげ落とすように、何度も何度もフライ返しを隙間にねじ込もうと奮闘した。


――早く……早く、早く、早く!俺がのんびりしていたら、あとの三人が死ぬ!


 バタン、ガタン、と大きな音が聞こえている。明らかに三人のうちの誰か、もしくは全員が叫んでいるのがわかった。こちら側のトラップが解除されたということは、蛇の出てくる穴をガムテープで塞いだ行為は違反にならなかったのだろう。というか、すぐに彼等が騒ぎ出したということは、塞いだ穴をあっさり破壊して蛇が出てきた可能性の方が高いか。

 蛇が滑るように油も撒いたし、バリケードも作った。しかし、それでも三人のところに蛇が到達するまで長く時間稼ぎすることは難しいだろう。そして、一匹が隙間に首を突っ込んでくるようになれば、その穴から二匹、三匹と這い出してくるようになるはずだ。せめて、殺虫剤がいい効果を上げてくれることを祈るばかりである。


――集中しろ!あいつらの心配をしている暇があったら、さっさとこいつを剥せ……!


 焦る、焦る、焦る、焦る。ガンガンと、叩きつけるようにフライ返しをねじこもうとした。まだ、罠が再発動する気配はない。キッチンにいる千佳は、トラップのボタンを押し続けてくれているようだった。自分は何が何でも、その頑張りを無駄にしないようにしなければならない。

 びり、と手応えがあった。フライ返しの金属部分が、トランプの下にどうにか滑り込む。多少乱暴に扱っても破れないような、丈夫な紙でできているらしいということが唯一の救いだった。少しずつ、少しずつ刃を滑らせるようにして引きはがしていく。想像以上に体力を消耗させられていた。息が上がり、胸が痛くなってくる。それでも休んでいる暇はない。あと少し、あと少し、あと少し。


「よしっ……!」


 果たして何分が経過したのか、びりりりり、という大きな音を立てて、トランプを剥すことに成功した。それを握りしめると、急いで狭霧は元来た道を逆走する。

 三十メートルもないはずの距離が、やけに長い。白い廊下の真ん中まで来た時、恐れていたことが起きてしまった。




 ビー!ビー!ビー!ビー!




 あの、ブザーの音が。


「!!」


 千佳の手がボタンから離れてしまったのだ、と悟る。映像を思い出した、ブザーが鳴り始めてからレーザーが飛んでくるまで、短い時間しかなかったはずだ。この距離では、最後まで走り抜けることは難しい。


――どこから飛んでくる!?


 気配。

 はっとして振り返った時、天井と床を結ぶように縦方向のレーザーが一本、こちらに向かってきているところだった。慌てて半身になってその線を躱す。髪の毛をかすめたらしく、ちり、と焦げるような嫌な音がした。はらはら、と焦げた髪が数本床に落ちる。これが指や鼻だったら一瞬で切断されて地面に落下していたことだろう。


――とにかく、落ち着け……!きっともう一度ボタンを押してくれるはず。それまで躱し続けるんだ……!


 今の自分にできることは、己を信じてくれたであろう仲間を信じること、それだけだった。再び襲い来るレーザーの一撃。膝くらいの高さに、壁と壁を結ぶようにして横の線が飛んでくる。どうにかジャンプしてそれを躱した。が、そこでがくん、と膝に疲労が来てしまう。

 ふざけるな、と思った。ほんの少し、剥すのに格闘しただけで何故こんなに疲れ果てているのだと。


――生き残りたいなんて、あまり思ってない。自分が生き残るべき人間かなんてわからない。でも。


 歯を食いしばって耐える。倒れている暇なのない。立ち続けなければ。歩きつづけなければ。生きることを諦めていいはずがない――待っていてくれる人がいる限り。


――今、此処で俺が死んだらきっと、あいつを悲しませる。


 それだけは、嫌だと思った。

 白い光の中、狭霧は幻視する。――こちらを見て、泣きじゃくる少女の姿を。


『嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!死んじゃ嫌だ、死んじゃ嫌だよ!』


 あれ、と狭霧は思った。脳裏に蘇ったその顔は、見間違える筈もない――あの世羅の顔だったから。

 世羅があんなふうに泣いたところなど、自分は見たことがないはずなのに。それなのに今、鮮明に思い出せるこの光景はなんだろう。

 自分が地面に倒れている。体中が軋むように痛む。彼女が自分の方を覗き込んで、繰り返し繰り返し謝ってきているのだ。


『ごめんなさい』


 君は誰だろう。何故謝るのだろう。

 どうか泣かないで欲しい――君が泣いていると、胸が痛くて仕方ないから。

 そう思うのに声は出ない。視界もどんどん滲んでいく一方。お願いだから泣かないで、悲しまないで、自分のことはいいから。思うだけで、どれもこれもまったく言葉になってくれないのだから困ってしまう。


『ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』


 もう、君の顔も見えない。その頭を撫でてやることもできない。

 君を泣かせてしまった自分自身が、憎い。




『ごめんなさい……狭霧君』




 あれは。

 あの景色は、一体?

 自分と、彼女は――。




「!!」


 一瞬の追憶が、命取りになった。気づいた時、赤いレーザーはまさに閃の首元に迫っていたのだから。


「しまっ……」


 このままでは、首を切り落とされる。本当の本当に、全てが終わる――間に合わないと思った、次の瞬間。


 ビー!ビー!ビー!ビー!


 再び、激しいブザーと共に赤い光が明滅した。

 狭霧の首を切り落とす寸前で、赤いレーザーが消滅していく。


「あ……」


 もう一度ボタンが押されたのだと知った。どっと全身から汗が噴出し、体から力が抜けそうになる。本当に、本当の本当に死ぬかと思った。死ぬのが怖いと、そんな感情なんて自分にはないと思っていたというのに。

 確かに今、自分は死にたくないと感じていたのだ。

 そのせいで、彼女を悲しませるような真似はもう二度とごめんだ、と。


――そうだ、世羅達は……!?


 罠が解除されたということは、まだキッチンに生きている人間が一人はいるということに他ならない。転がるようにして白い廊下を飛び出すと、狭霧はあらん限りの声で叫んだ。


「トランプは持ってきた!もうボタンから手を離しても大丈夫だ!!」


 その声が、ちゃんと聞こえていたらしい。すぐに再びブザーが鳴り響き、レーザートラップが復活する。

 思っていた以上に時間がかかってしまったような気がする。世羅は、千佳は、嵐は。三人は果たして無事なのか、生きていてくれるのか。自分は、ちゃんと間に合うように戻ってくることができたのか。

 その答えが、今。


「みんな!」


 そして、狭霧はキッチンへ飛び出し、現実を目の当たりにすることになるのだ。

 大きな穴が空いたクッション、床のあちこちに転がっている黒い蛇の死骸。腕から血を流して泣いている世羅と、足から血を流して呆然としている嵐。

 それから。――それから。


「ああ……良かったわ、貴方は、大きな怪我がないみたいね。ごめんなさい……本当にごめんなさい。ボタン、少しだけ離してしまって」


 両足と腹を真っ赤に染め、座り込んでいる千佳。

 彼女は血を吐きながら、それでも狭霧を安心させるかのように微笑んでみせたのだった。

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