<4・料理の味。>

 狭霧がお風呂から上がると、何やらいい匂いがした。真ん中の丸テーブルの上に、世羅が料理を並べているではないか。


「あ、グッドタイミングだよ、狭霧君!」


 狭霧を見て、ぱぁっと顔を輝かせる世羅。


「頭は乾かしてきた?まだ?」

「一応乾かしてはきたが……」

「なら良かった!今ね、千佳さんがみんなのご飯作ってくれたところなの。お腹すいてるでしょ?」


 壁の一角には大きな丸い時計がかかっている。自分の時計とも時刻は一致しているし、午後七時前で間違いないのだろう。確かに晩飯時であるし、少し空腹なのは間違いない。だが、まさかこんな拉致された現場で出来たての料理にありつけるとは思ってもみなかった。

 テーブルに並んでいるのは、山盛りのチャーハンと卵焼きだった。ごめんなさいねー、と冷たいお茶を入れたコップを持ってきながら千佳が言う。


「冷蔵庫に野菜とかお肉とかいろいろあったんだけど……みんなお腹すいてるだろうし、あんまり時間もないしね。即席で出来る料理にさせてもらったわ。まあ、ウインナーとかレタスとかいろいろ混ぜたから、栄養満点なのは保証するわよ!」

「……俺、そんなに長く風呂に入ってないのに?」


 確かに、チャーハンは他の料理と比べるとかなり手早くできる料理ではある。しかし、髪を乾かしていた時間を含めて、どんなに長く見積もっても二十分かかっていないはずだ。それなのに、よく五人分のチャーハンをあっさり作ってみせたものである。


「現役の主婦をナメたらあかんぜよ!ふふーん!」


 千佳は得意そうに立派な胸を張った。


「あたしの息子も高校生だからね。まー食べ盛りなのよ。少しでも手早く、急いで作るスキルってのは鍛えられてるわけ。それこそ朝のお弁当なんてもっと早く作らないといけないんだから!」

「……ありがとう、千佳さん」

「いいのいいの!あたしに出来ることなんてこれくらいなんだからさ。さ、丁度狭霧クンも戻ってきたし、まずは腹ごしらえしちゃいましょ!」


 きっと、こんな感じで毎朝誰かのために料理を作っているのだろう。自分の母もそうだったのかな、となんとなく思った。残念ながらどんなに頭を揺すっても叩いても、記憶らしい記憶はまったく出てくる気配はなかった。

 ただし。


「……なんか、うちのチャーハンの味とは違う気がする」


 気づけば、そんなことを口にしていた。


「多分、俺が食べたことのあるチャーハンより美味しい、と思う」

「記憶、戻ったの?」

「そういうわけじゃないけど、なんとなく」


 視覚で何かが蘇ってくるわけではない。ただ、それ以外の部分に何かが残っているような気がするのだ。例えばチャーハン。


「俺が食べたことのあるチャーハンには、ニラもレタスも入ってなかったような。……特にニラ。知らなかった、入れると美味しいんだな」

「ありがと!」


 千佳は嬉しそうににっこり笑った。


「実はニラを入れると、それだけでチャーハンは一気に中華風味が強くなるの。不思議よね?実は味付けはそんなに強くしてないのよ、鶏ガラスープの素とちょっとだけ牡蠣醤油、塩コショウしただけなんだから。でもニラを入れると薄味でも全然気にならなくなるのよ。だから塩分もほどよくカットできるし、オススメってわけ。覚えておくといいわよ」

「へえ」

「それから、レタスみたいな葉物の野菜を入れるのも効果的。しゃきしゃき感があるから、食べごたえがあってお腹が膨れるの。ただし、レタスはキャベツよりしんなりしやすいから、炒め過ぎには注意ね。火を通しすぎるとシワシワのヨレヨレになっちゃって美味しくないから」


 流石、そこはベテラン主婦と言ったところか。メモしておきたい気分になってくる。残念ながら、今の自分の手元には何かを書き込めるような手帳がないわけだが。


「卵焼きもうめぇな!」


 そんな話をしている横で、信吾が歓声を上げていた。


「買った卵焼きより断然好きだわ!外で買うとちょっと甘すぎるんだよなー。関東人は甘い卵焼きが好きなんだっけか?俺はこれくらいしょっぱいのが好きだな!」

「気に入ってくれて嬉しいわ。少ししょっぱくしすぎたかと思って気にしていたの。うちの人が塩辛い方が好きだって聞かなくて、いつもついつい辛めに作ってしまって」

「俺にはすげぇ美味いから気にするな!その旦那とな気が合いそうだ!一人暮らししてるんだが、自分じゃ全然作れないし、作ってくれる彼女もいなくてなぁ」

「練習しないんですかー?」


 くすくすと笑いながら口を挟むのは、世羅だ。


「卵焼きって、そんなに難しい料理じゃないですよ?勿論、卵焼き用のフライパンを買わなくちゃいけませんけど」


 確かに、と狭霧はもんもんもん、と四角いフライパンを思い出した。どうやら、自分にまつわること以外の記憶は残っているということらしいと知ってほっとする。一般常識まで忘れていたら、非常に面倒なことになったに違いないのだから。


――そういえば、卵焼きのフライパン、正式名称とかあるんだろうか?


 頭の中で、四角いフライパンをくるくると回しながら思う。なんとなく、“卵焼きを焼くやつ”というおざなりな名前でしか呼んだことがないような気がする。そして実際、あのフライパンを卵焼きを焼く以外の用途で使ったこともない。

 こんなことを考えるくらいなのだから、多分自分は家で卵焼きを焼くくらいの料理はやったことがあるということなのだろうが。


「俺が焼くと、卵焼きが一枚の板みたいになっちまうんだ!」


 世羅に指摘されて、信吾は大袈裟に肩を落とした。


「くるくる巻こうとしてもちっともうまくいかん。悪戦苦闘しているうちに、裏が真っ黒焦げになるのは何故なんだ?」

「卵の量が多すぎるか、火が強すぎるからじゃないのか。卵焼きをやるなら、数回に量を分けて巻かないといけないだろ」

「ほうほう、なるほどなるほど。そういう話が出来るからには、狭霧は料理を多少なりにする、と」


 どうやら狭霧自身と同じ感想を持ったらしい。にっかりと笑って言う信吾。


「目で見た記憶や耳で見た記憶は忘れていても、案外味覚とかの記憶は残っていたりするのかもしれんな。早くいろんなことを思い出せるといいな!」


 心の底からそう思ってくれているのがわかる。こいつもいいやつなんだろうな、なんて思った。少し照れくさくなって、ありがと、とだけ返す狭霧。卵焼きをつんつんと箸でつついた。横倒しの海苔巻きみたいな形の塊を二つに割ると、ふっくらした中身から湯気が上がる。半分に割った卵焼きを口に運ぶと、ふんわりと優しい味がした。少ししょっぱい、でも誰かを喜ばせたくて作ったとわかる味だ。

 それは、チャーハンも同じ。


「……即席でできる料理、なんて言うけど」


 無意識のうちに、素直な感想を漏らしていた。


「チャーハンも卵焼きも、俺は好きだ。この二つは、作ったその人にしか出せない味が特に出るから」


 チャーハンはよく、冷蔵庫の余り物にご飯をブチこんで作る料理、だなんて言われる。しかし、それでもどんな具材を入れるかはその人の好みに大きく左右されるし、それは味付けに関しても同じことだろう。

 卵焼きもそう。千佳が、自分の夫を喜ばせたくていつもと同じように作った味が、彼女だけの味がそこにある。

 手作りの料理には、まさにその人の人生が詰まっていると言っても過言ではないが、チャーハンと卵焼きはよりそれが反映される料理ではないか、と狭霧は思うのである。


「料理を食べればわかる。……あんたは優しい人なんだな、千佳さん。凄く美味しい。ありがとう」


 ややストレートすぎただろうか。千佳は少し固まった後、真っ赤になって俯いた。


「や、やぁね。そんなに褒めないでよ。若いイケメンに褒められたら、テンション無駄に上がっちゃうわよ」

「千佳さんまっかー!」

「まっかだなー!」

「う、うるさいわねえ!」


 照れている千佳の両側から、つんつんと頬をつつく世羅と信吾。かわいいおばちゃんは、すっかり若い二人の玩具にされているようだった。本人もまんざらでもなさそうだが。

 これからどうなるかまったくわからない状況。とはいえ、明るく笑えるうちはきっとそうしておいた方がいいのだろう。ふと、狭霧は隣に座る少年を見た。さっきから唯一人ずっと黙り込んでいる嵐だ。少しずつチャーハンを食べ進めてはいるようだが、その速度は呆れるほどに遅い。


「嵐って言ったか、お前。食欲がないのか?」


 声をかけると、嵐はこちらを見ないままゆっくりと首を振った。


「そうじゃない」

「多かったか?」

「……そう、でもなくて。……こんなに食べていいのかと思って……」


 小学三年生くらい、だとは思う。しかしそれにしても妙に大人しいというか、感情の機微に乏しすぎるような気がする少年だとは思っていた。目に光がない。どこか、感情が死んでしまったような目。

 何故だろう。覚えがあるような、そんな気がしていた。


「あの、狭霧さん、だっけ」


 狭霧が何かを言うよりも前に、遮るように口を開く少年。


「これから何があるかわからないけど、また、命がけのゲームみたいなことが起きたら、その時は……真っ先に僕を切り捨てていいから」

「何でそんなことを言う」

「明白。このメンバーで僕が一番役に立たない。小さいし、力も弱いし、体力もない、それに……」


 まだ何かを続けようとする気配を察して、狭霧は反射的に手を伸ばしていた。頭に触れた途端、びくりと震える小さな体。やはり、覚えがある――そう思った。


「さっきのゲームのことで俺に遠慮しているつもりなら、そんな必要はない」


 これは、嵐以外にも言っておくべきだろう。聞いてくれ、と狭霧は皆に呼びかける。じゃれていた世羅、千佳、信吾の三人が振り返った。


「さっきのゲームで、あんた達は俺に助けられたと思っているかもしれないが、実際は俺は自分が助かるためにパズルを解いただけだ。だから、そんなものを恩義だと感じる必要もないし、遠慮はいらない。俺が間違っていると思うことをしたらはっきり止めてくれていいし、見捨てるべきだと思ったらその時はそうしてくれ」

「ちょっと……!」

「どうした、嵐。たった今、お前が俺に言ったのとほぼ同じことを言ったたけだが?」

「……!」


 やや焦った様子の嵐に、狭霧は言った。


「お前が自分の価値を信じられないというなら好きにすればいい。ただし、お前が俺達にとってそうであるかどうかは、俺達も俺達で好きに決めさせてもらう。それだけだ。代わりにお前も好きに決めればいい。俺が役に立つかどうか。……それでイーブンだろう?」


 見捨てるかどうかを決めるのは彼ではなく、自分だと。自分がその気にならなければそうするつもりはないのだと。


「食欲がないわけじゃないなら食べておけ。人が作ってくれた料理を粗末にする気か」

「……ごめんなさい」

「そう思ったなら味わって食べろ。少しでも俺達の役に立つ努力ができるように」


 なんとなく思ったのだ。彼のようなタイプに、中途半端な優しい言葉をかけてもあまり意味がないのではないかと。○○してもいいんだよ、権利があるよ、なんて言い方ではきっと彼は遠慮を選ぶ。自分にだけはそれがあるはずもないと思いこんでしまう、と。

 ならば、今は命令した方がいい。時にその方が安心できる場合もあるのだ。――命令ならば、それ、に従う大義名分になる、と。誰かに命令され慣れている人間なら特に。


「……美味しい」


 無表情のまま。それでも、嵐はぽつりと呟いた。まるで、それが思いがけずに漏れてしまった言葉であると言うように。


「お前、ほんといいやつだなぁ」


 そんなやり取りを見ていた信吾が、どこか嬉しそうに言った。


「お前の言う通り……お前に恩があると思っていろいろ遠慮してたのは事実だけどな。うん、それを抜きにしてもお前はいいやつだ。俺にはわかる」

「それは、どうも」

「おう。俺は他の三人も悪いやつには見えない!みんなで生きて帰ろうな!」


 何が起きるかわからない、そんな場所で。それでも心からそう言えるのが、きっと彼の強さであり優しさなのだろう。


「……あぁ」


 狭霧は頷いた。どこまで自分にやれるかわからなくても、できる限りの努力で彼らを助けたい。そう思いながら。

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