第33話

 夏は終わろうとしていた。

 レイスもシファも忙しく、わたしは毎日、一人だった。ペーテルがいないことが、身にしみてさびしく感じられた。ペーテルのかわりに来るようになったヨアキムは、面白味のない少年で、頼んだ仕事だけは片づけるものの、わたしとは、ほとんど口をきかなかった。

 わたしはそれでも、ほどほどにまじめに暮らしていた。たぶん、エステラとペーテルの旅立ちが、わたしのふぬけた心に、いくらかの影響をあたえたのだろう。たとえ気分が落ちこんでいても、朝、ぐずぐずと寝床にいることはなくなったし、洗濯や洗い物など、自分でできることは、それなりに片づけるようにも心がけた。

 そして、秋がきた。

 夏のあいだ青かった空が、湿気をふくんだ水色へと変わり、森の匂いがするしめった風が、谷を吹きおりていく。広葉樹の葉が、山の上から順に黄土色に変わり、山肌をおおう草も、それを追うように茶色に変わっていく。

 家を出てから、三か月。木綿の普段着では、もう、夜は寒い。

 このまま、ここにいるつもりなら、早いところ、冬服を手に入れなければならない。ヨアキムに頼めばいいのだろうが、何ごとも額面どおりにしか受け取らない彼は、形も大きさも考えず、村のおばあさんの古着でも買い取ってきそうだ。

 ため息をつき、庭に出る。

 放牧地の柵の向こうで、黄色くなりかけた牧草が、午後の日差しをあびている。

 山の秋は短い。もうすぐ、冬が来る。このあたりは雪におおわれ、自由に出歩くこともできなくなるだろう。

 そのとき、わたしはどうしている? ディースに帰っているだろうか。それともまだ、ホローにとどまっている? 

 とどまるとすれば、納屋をかたづけて、奥の暖炉に火を入れなければならない。そのために必要な薪は、お金を出せば、買うことができるだろうけど、それでも、冬のあいだじゅう、レイスと顔をつきあわせて暮らすことは避けられない。――いくらレイスでも、山が雪に閉ざされ、羊が谷に下りてきている季節にまで、牧場の見回りでもないだろうし。

 ふう、ともう一度ため息をつく。

 別に、ディースに帰ったっていいのだ。もともと、冬が来るまでのあいだ、ためしに、ここで暮らしてみようというだけのつもりだったのだから。

 あるいは、冬のあいだはディースにいて、春になったとき、もしそうしたければ、またもどってきてもいい。今なら、なんだか、そういうこともできる気がする。今なら、父さまと言いあらそっても、そう簡単には負けないだろうから。

 でも――。

 考えあぐねて、もう一つ息をつき、ふと、ふりかえった、そのときだ。

 小屋の後ろの崖の上に、なにか、まっ黒な、動くものが見えた。――やぶのあいだに見えかくれする、もこもこした背中は、わたしの誕生日ケーキをたいらげた、あの犬にまちがいなかった。

「何してるのよ!」

 思わず、声を張りあげる。

 ここは、ホローのどまんなかだ。関係のない野良犬が、のんびり歩いていていい場所ではない。

 なのに、いる。ふんふんと匂いをかぎながら、黄色い木の茂みの斜面を、とことこと登っていく。

 ――ああ、もう! いったいどれだけ、のんきというか、馬鹿なのよ!

 それとも、わたしのせいなのだろうか。おつむの出来のあまりよろしくない犬に、二度と忘れられないようなおいしいものを、たらふく食べさせてしまったのだ。味をしめて、近寄って来てもおかしくはない。バタークリームたっぷりのケーキなんて、犬にとっては、天上の美味だっただろうから――

「――ああ、もう!」

 いらいらと叫ぶと、わたしは納屋に飛びこんだ。綱と麻ぶくろをひっつかみ、庭に出て崖をふりかえると、犬はさっきよりも、さらに上まで登っていた。

「わたしに用があるなら、そっちじゃないでしょ! こっちでしょ!」

 斜面を見あげ、わめいてみても、犬は戻ってこなかった。いかにも馬鹿な犬がやるように、あっちに顔を突っこみ、こっちに顔を突っこみしながら、うろうろと登っていく。――ああ、もう、本当に、駄目だってば!

「もう、今日こそ捕まえるからね! じゃないとあんた、シファにずたずたにされちゃうんだから!」

 入っていいところと悪いところの区別もつかないなんて、頭が悪いにもほどがある。 

「まあ、だからこそ、前の飼い主にも捨てられたんだろうけど……」

 わかっている。あんな犬、飼ったところで、面倒の種にしかならない。

 あれはまちがいなく、面白半分に羊を追い回したり、庭じゅう穴だらけにしたり、棚からハムを丸ごと盗んだり、そういう、ろくでもないことしかしない犬だ。そういう犬って、たまにいる。

 でも、見捨てるわけにもいかない。あの子がここまで入ってきたのは、たぶん、わたしのせいなのだ。

 腹をくくって、斜面を登る。荒れた道を、息を切らしながら登っていく。ああ、もう、本当に、どうしてくれよう――城の焼け跡には近づくなと、あれほどはっきり言われたのに。

 登りきった先の松林を見わたし、耳をすますと、かすかに、かさかさと松葉を踏む音が聞こえた。見ると、茶色い幹と幹のあいだを、黒い背中が遠ざかっていく。

「ああ、もう。そっちは城だってば……」

 うめくように言い、後を追う。阿呆な野良犬を助けるためだったといえば、レイスはわかってくれるだろうか。――いや、駄目だろうな、石頭だもの。

 犬は一度、ちらりとこちらをふりかえったようだった。けれど、そのまま、遠ざかっていく。わたしはため息をつき、こずえをふりあおいだ。白い狼の姿はない。今のうちだ。

 荒い息をつきながら走るうちに、松林の先に、陽の光がさしこむ、明るい場所が見えてきた。木々がとぎれ、空が見えるあの場所が、城の焼け跡だ。

 犬はあろうことか、その焼け跡の、くずれた石壁をひょいと乗りこえて、中に入ってしまった。

「ああ、もう!」

 わたしは毒づき、スカートをからげ、松葉を踏んで走った。

 木立ちが途切れれば、城は目の前だ。秋の日の光をあびて、白茶けて見える城跡の、犬と同じあたりから、壁を乗りこえる。

 城の中は空っぽだ。何もかも燃えつき、壁と敷き石以外、なにもない。その壁も、わたしの腰より下でくずれていて、もはや城というよりも、石でできた迷路のようだ。かろうじて残っている正面の壁がなければ、何の建物かもわからないだろう。

 わたしは足をとめ、犬が行ったと思われる方向をながめた。

 なにも見えない。

 ため息をつき、それから、一面だけ焼けのこった、城の正面の壁をふりかえる。内装が燃え、真っ黒にすすけた石壁。燃え落ち、宙でとぎれた梁。黒こげの大階段が、踊り場の下でくずれている。

 十年前、人々は、この階段を駆けおりたのだろうか。壁を割って飛びこんできた狼から、悲鳴をあげて逃げまどったのだろうか。

 ――早く犬をつかまえて、ここから出なきゃ。

 四方に目を走らせながら、焼けおちた回廊をめぐる。館の奥の、ひどく壊れた一角を乗りこえて、外にでる。

 すると、その先は、意外に開けていた。山城にありがちな、切り立った崖ではなく、ガレ場のような石だらけの斜面が、平らな尾根にいたるまで、馬の背のように広がっている。そして、その斜面を横ぎるように、人の背ほどのぶあつい石壁が、山肌を、幾重にもとりまいている。

「なに、これ……」

 まるで、城跡か何かのようだ。

 そう思ってよく見ると、斜面をかこむ石壁のところどころには、建物跡のような石組みがのこっている。さらにその奥には、古い城によくあるような、四角い主塔らしきものも見える。土台近くで砕けた塔の形は、飾り気のない、無骨な方形。わずかに残る壁には窓すらもなく、矢を射おろすための、細い穴があいているだけだ。

「……山城?」

 そうだ、間違いない。

 ここは古い城だ。それも、住居として建てられたものではなく、戦うための砦なのだ。

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