第32話

 そんなわけで、次にペーテルが来たとき、わたしたちは二人とも、口数が少なかった。もちろん、わたしはエステラのことを考えて、ペーテルが無口なのも、姉がいなくなるさびしさからだと思っていた。

 ところが、ちがった。わたしの後ろで、黙々と畝をつくっていたペーテルは、ふと手を止め、顔もあげずに言ったのだ。

「――俺もさ、ここ、出ていこうと思って」

「え?」

 思わずふりむき、それから、わたしは思いだした。ペーテルが前に、言っていたことを。この夏がすぎたら、町へ働きに出るつもりだと。わたしが支払う給金で、身なりをととのえて、村を出ると。

 給金はたしかに、約束の額を、月末ごとにわたしてある。

 では、ペーテルも行ってしまうのだ。

「まださ、爺ちゃんにも言ってねえんだ。姉ちゃんにもさ。だって、言ったら姉ちゃん、家、出にくくなるだろ。爺ちゃんの世話もあるしさ……」

「お爺さん、体調はどうなの?」

「まあまあさ。でも、寝たきりの日もあるんだ。リューマチだからな、しかたねえよ」

「そう……。だれか引き受けてくれる人、いるの?」

「近所に住む叔母さんがさ、母さんの妹なんだけど、自分とこのばあちゃんと一緒に、世話してくれるっていうんだ。かわりに少しでも仕送りするなら、て話なんだけどさ。でも、俺も姉ちゃんも、サーレにいるかぎり、仕事、ねえしさ」

 しずんだ表情で、ペーテルはらしくもないため息をついた。それから、顔をのぞきこむわたしに気づいて、苦笑いした。

「いや、まあ、わかってたことなんだけどな。姉ちゃんが奉公にでるのだって、前から決まってたようなもんだし。その前に俺が、って思ってたくらいだったし。こういうのって、ほら、後になればなるほど、出ていきにくくなるだろ? ここは一発、立派な身なりで出発して、みんなをびっくりさせてやろう、なんて考えてたんだけどさ」

 ペーテルの目が、迷うようにゆれた。わたしは言った。

「でも……こわい?」

「まあ、な。俺、村、出たことねえし。学もねえし。あんたみたいに、読み書きもできねえしさ。でも、ま、そんなこと言ったって、始まんねんだけどさ」

 わたしは何も言えなかった。けれど、よほど情けない顔をしていたのだろう。わたしを見て、ペーテルは笑った。そして言った。

「ここのことはさ、ヨアキムに頼んどいてやるよ。あいつ、馬鹿なやつだけど。でも、だから、かえって、金をちょろまかしたりとかは、しないからさ」

 その言葉に、わたしは突然、自分がペーテルに、どれだけ世話になっていたのかを、思い知った。

 そうだ。わたしなんて、かんたんにだまされても仕方ない。有り金全部巻きあげられて、放り出されても、文句は言えないのに。

 なのに、ペーテルはそれをしなかった。どころか、どれだけ助けてくれたことか。わたしの心配をし、わたしの相談にのり、わたしのために骨を折って働き、いつでも心を砕いてくれた。ペーテルがいなかったらどうなっていたか、見当もつかない。半端者どうし、彼がわたしに差し出してくれたのは、本物の親切、本物の友情だったのだ。

 ふいに胸が熱くなり、わたしは今、わたしの目の前にいる友人の前途が、よきものとなることを、心からねがった。そして同時に、自分が恥ずかしくなった。ペーテルのしてくれたことに対して、わたしは何を返しただろう。一度だって、ペーテルの身になって、何かを考えてあげたことがあるだろうか。――そう、文字だって、数字だって、わたしなら、いくらでも教えてあげられたのに! あんなに時間があったのに! なのにわたしは、くだらない愚痴をしゃべりちらす以外、なにもしなかったのだ。

 いっとき黙りこみ、それからわたしは、勢いこんで言った。

「ペーテル、あなたもし、街で食いっぱぐれるようなことがあったら――」

「縁起でもねえこというなよ」

「いいから聞きなさい。もしもあなた、食べるに困るようになったら、体をこわす前に、でなきゃ、賭けごとやばくちに手を出す前に、ディース牧場の、ロイ・ディースのところに行きなさい。わたしの名前をだして、雇ってくれって言うのよ。わたしに恩があるからって、そう言いなさい、わかった? 竜が怖ければ、農園の仕事だってあるから、じゃなければ、屋敷の仕事だってあるから、あやしいことに手を出す前に、必ず行くのよ」

 わたしの顔を見て、ペーテルは、しばらくのあいだ黙っていた。差し出がましいことをしたかと、わたしは心配になった。

 けれども、ペーテルはにこりと笑った。

「――そんなことにはならねえよ。おいらは街で、大金持ちになるんだからよ」

 強がっていても、不安そうな口調。身を立てられる保証など、どこにもない。日銭を稼いで、どうにか食いつないでいくような、おそらくは、そんな暮らししか――。なんだか泣きそうになり、まぶたに力を入れてこらえる。ここで、わたしが泣いてはだめだ。

「――でも、ありがとよ。もしもの時には、世話にならあ」

「遠慮なくどうぞ。身内のツテだもの、確実よ」

 わざと肩をそびやかし、高飛車に答えると、ペーテルはまた笑った。

「わがまま嬢さんのお墨つきだもんな。まちがいねえや」

 そして、ペーテルも去っていった。

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