第31話

 それは、山行きから数日たった、九月初めのことだった。

 エステラが、ホローを訪ねてきた。昼下がりの少しあと、夕暮れの少しまえに――レイスの帰りが、早ければ会えるし、遅ければ会えないという、微妙な時間に。

「あら、エステラ」

 わたしは散歩から帰って、井戸で手を洗っていたところだった。

「歩いてきたの?」

「ええ」

 うなずいたエステラは、まわりを見回し、だれかを探すようなそぶりを見せた。

「レイスなら帰ってないわよ。あいにくだったわね」

「そうですか」

 エステラはうなずき、そのまま黙りこんだ。あら? わたしは首をかしげた。エステラの、この元気の無さはなんだろう。いつもはもっと、つんけんしているのに。

「どうしたの? 何か用?」

 わたしはエプロンで手をふき、庭に立ったままのエステラに近づいた。すると、エステラはだまって首をふった――張りつめたような顔は白く、両手はかたく組まれている。

 目を伏せたまま、エステラは言った。

「いいえ。ただ――おいとまを」

「いとま? あなた、どこかへいくの?」

「町に、働きに出ることになりました。紹介してくださる方がいて」

 その言葉に、わたしは思わずはっとした。

「町で仕事? 女中か何か?」

 エステラはだまってうなずいた。なんと言えばいいのかわからないまま、わたしはもう一歩、前に出た。

 エステラのような、教育も受けていない、山育ちの娘は、町に出ても、割のよい仕事にはつけない。せいぜい、中流家庭の下働きがいいところだ――食事に洗濯、買い物に掃除に子守り、そのすべてを一人でこなすような。

 きつい仕事だ。というか、きついだろうということが、今ならわかる。

「大変よ、あなた」

 わたしの言葉に、エステラはかすかな笑みを見せた。

「知人が、よいところを世話してくれましたので。それに、体は丈夫ですから」

 その言葉に、うなずく。たしかに、わたしが同情する筋合いではない。いかがわしいところのない、たしかな勤め先が見つかったというなら、喜ぶべきことだ。エステラなら、どこにいったって、しっかりした仕事をするだろうし。

「ここへ届けるパンは、下の村のハンナにたのんでおきました。あの人、料理がうまいですから」

 しずかに言って、それから、エステラはふと黙りこんだ。つづける言葉を見失ったように。

「でも、あなた、それでいいの?」

 わたしはおもわず、口をはさんだ。言わずにいられなかった。

 だって、エステラにとっては、レイスのパンを焼くのが、毎日の喜びだったにちがいないのだ。ペーテルに食べ物の包みを持たせるのも、固くなったインゲン豆を酢漬けにするのも、みんな、みんな、うれしかったはずなのに。

「――レイスが好きなんじゃなかったの?」

 その言葉に、エステラは一瞬、のどを詰まらせるような声を立てた。

 けれど、泣かなかった。顔を赤らめすらしなかった。ただ、首を横にふった。

「しかたありません」

「どうしてよ?」

「身分がちがいます」

「どこがよ? 今じゃあの人だって、そこらの農夫となにも変わらないわ。むしろ、よっぽど駄目だわよ。なにも遠慮する必要ないわ。それどころか、ありがたいってなものよ――あんな偏屈を、そこまで気にいる人、ほかにいるとも思えないもの」

 思わずまくしたてると、エステラはわたしの顔を見た。目に涙をため、顔にかすかな、あきれたような笑みをうかべて。そして、言った。

「……ほんとうに、馬鹿ですね。あなたって方は」

 それから、きびすを返して、去っていった。来たときと同じように、背筋をしゃんと伸ばして。

 わたしはだまって、それを見送った。もちろん、納得などしていなかった。

 そりゃあ、世間一般からみれば、わたしの言っていることは、馬鹿げたことかもしれない。農夫の娘と、領主の息子の縁組みなど、ありえないってことぐらい、わたしだってよくわかっている。

 でも、世間的に馬鹿げてるからって、それがなんなのよ? 世間になんて、もう、いいだけそっぽを向かれているのだ。こっちだって、やりたいようにすればいい。レイスには、人格も人望もないけれど、食べるに困らないお金はあるらしいし、それに、ホローには、たしかに女手が必要だ。ここの暮らしがまともになるためには、気働きのきく、働き者の娘が、どうしたって必要なのだ。

 ――まあ、エステラが、本当に、ここに嫁いでくるようなことになれば、わたしの居場所が、ますますなくなるのだけれど。でも、このさい、それはいい。いざとなれば、帰るところがないわけでもないし。

 その日の晩、わたしはレイスに突っかかった。

「エステラが町に働きに出ること、知ってる?」

 つっけんどんに切り出すと、レイスは少し、おどろいた顔をした。

「ああ」

「ああ、じゃないわよ。彼女の気持ち、知ってるの?」

 レイスは今度は、おどろかなかった。だまってこちらを見て、それから、暖炉に目をむけた。

「――まあな」

「まあな、じゃないわよ! 何よそれ! それで何も言わないの? ほっとくの?」

「その方が彼女のためだろう」

「どこがよ。あれだけあなたのことが好きなのよ? あんな子、ほかにいないわよ? あんたのこと気に入るような、物好きな子!」

 言うだけ言ってから、ふと思い立ち、わたしはかまをかけてみた。

「――当主もたいへんね? 好きな女の子ができたって、寄せつけもできないなんて」

 動揺をさそおうとしたわたしの言葉に、けれど、レイスはつられなかった。嫌がるでも、当惑するでもなく、だまって炎を見おろしている。

 それから、静かに言った。

「それはないだろう。エステラは、狼が怖いんだ」

 わたしはおもわず、黙りこんだ。なにか、がつんと一発、やられたような気がした。

 ――そうか。

 たとえ、身分の差なんてものがなかったとしても。レイスとシファを、切りはなすことはできない。

 人の世の約束を全て捨てたとしても、獣とのきずなを捨てることはできない。

 そして、それがある限り、エステラはレイスを選ばない。レイスも、エステラを選ばない。どうしたって、無理。駄目なのだ。はじめから。

 ――……そうか。

 少しばかりのくやしさと、あきらめをもって、わたしはみとめた。

 ――そう。そのとおりだ。

 エステラのほうが、わたしより、よく知っていたのだ。

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