第29話

 その晩、レイスはなんどか目をさまし、真夜中に、パンをすこしと、うすめたぶどう酒をのんだ。わたしはすわったままうたた寝し、火が小さくなるたびに寒さで目をさまして、薪をたした。

 夜明けまえに、レイスの熱はひいた。まだ微熱はあるものの、歩けるぐらいにはなった。二人をのせてシファは山をおり(さすがに重いらしく、ずいぶん時間がかかった)、レイスが牛の面倒を見ているあいだに、わたしは二人分の食料を用意した。今のレイスに、一人で山道を歩かせるわけにはいかない。わたしみたいな役立たずでも、いないよりはましなはずだ。

 レイスは反対しなかった。顔色は青く、いつにもまして口数がすくなく、それだけに、嫌味も言わなかった。めでたいことだ。いつもこうならいいのに。

 午前も早いうちにわたしたちは山へもどり、野営をたたんで出発した。旅も四日目、目的地へは、あと半日の距離ということだった。

 巨大な岩山にかこまれた大きな谷を、午前いっぱいかけて登る。荷物は馬とロバに持たせ、二人とも手ぶらですすんだ。レイスは無言で足をはこび、わたしも、だまってついていった――ただついていくだけで、正直、いる意味があるのかどうか、わからないくらいだったけれど、レイスは歩くだけで精一杯で、休憩のさい、馬とロバを沢まで引いていくのもわたしの役目になったので、多少の役にはたっているらしかった。

 谷のつきあたりの斜面をつづら折りに登って、目的の放牧地についたのは、昼すぎのことだった。岩だらけの坂道を登りきり、台地のふちを乗りこえて、目のまえに展望がひろがったとたん、わたしはさけんだ。

「すごい!」

 そのまま、声をあげて駆けだす。

「広いわ!」

 そこは、今までに、見たこともないような場所だった。山の上に突然広がる、緑をたたえたゆるやかな台地。まるで、山上にしつらえられた緑のテーブルだ。大きく波打つ草原に、ちらばる花々。ところどころのくぼ地には、針葉樹の木立ちがさわやかな影を落としている。

「スエジの高原だ」

 草のあいだから頭をだした、小さな岩に腰かけて、レイスがいった。

「国一番の放牧地といわれてる。今では誰も来ないが」

 その言葉に、目を見はる。なんてこと――こんなにきれいな場所が、使われもせずに放りだされているなんて! 広くて、美しくて、すばらしい――あまりの景色のよさに、訳もなく笑いがこみあげてくる。

「もったいないわ! あなたたち、どっかよそに引っ越しなさいよ! ここは、みんなにあけわたすべきよ!」

 笑いながらわたしがさけぶと、レイスがいいかえした。

「できるものなら、そうしてる」

 その言葉に、わたしはさらに笑った。草原の向こうにそびえる、高い峰の白さ。そのうえの空の青さ。風にゆれる、桃色の、黄色の、藍色の花。

 草をふんで駆けだせば、とおく、丘と丘のあいだのくぼ地に、灰色の粒をならべたような、大きな羊の群れが一つ。そのむこうに、さらにもう一つ。その先はもう、遠すぎて、なにが草で、なにが羊かもわからない。とにかく――とにかく、なんてきれいなのだろう!

「わたしも羊だったらよかったわ! そしたら夏じゅう、ここにいられたのに!」

 草の上で一息入れたあと、わたしたちはさらに、ゆるやかな斜面をこえてのぼっていった。スエジの高原は、天に張りだした踊り場のような形をしており、奥を切り立った岩山に、手前を落ちくぼんだ大きな枯れ谷に――午前中、わたしたちがのぼってきたところだ――接していた。台地はたえず起伏があり、くぼ地の部分には木立ちや泉が、丘の上には草が広がって、ながめるには美しいけれど、歩いて登るには、それなりに体力をつかう。

「ここだ」

 やがて、レイスが足をとめ、わたしは汗ばんだ顔をあげた。

 なだらかな坂を登りきったそこは、見わたすかぎりの景色のなかでも、格別に不思議な場所だった。

 たなびく草におおわれた丘のあちこちに、いくつもの岩が顔をのぞかせている。吹きっさらしのまま転がる、ざらざらとした灰色の岩は、小さな犬ぐらいの大きさから、家ほどのものまでさまざまで、ところどころ不自然に積みあげてあったり、輪になってならんでいたりする。どう見ても、自然のものとは思えない――とはいえ、いったい誰が、こんなに大きな岩を、こんなところに、運んでならべたりするだろうか。

 ごろごろと散らばる岩のあいだの、緑の草をふみしめて、わたしたちはさらに、もう少し登った。やがて、レイスは荷駄を、丘から突き出た、ひときわ大きな岩のそばにとめた。

 見ると、吹き寄せられたように積まれた巨大な岩のあいだに、えぐれたようなくぼみがあり、一面の青草のなか、そこだけがふまれ、掘られて、かわいた砂地となっている。羊の鼻と、ひづめの仕業だ。風雨をしのげる岩の下が、塩なめ場になっているのだ。

「このあたりの山からは岩塩が出るんだが、あいにくこのスエジには、塩の出る場所がない。かわりに、こうして塩を運んで、塩なめ場を用意していたんだ。昔はこれも、五、六ヶ所はあったんだが――」

「――今は、一つ維持するのがやっと、てことね」

「そのぶん、羊もすくないからな」

 わたしたちは二人で、岩塩のふくろをロバの背からかつぎおろした。雨があたらない岩のあいだの、地面がえぐれた場所まではこび、ふくろをナイフで裂く。たいした作業ではないけれど、レイスはつらそうだった。ふくろを全部あけるとすぐに、岩にもたれてすわりこむ。

「すこし休みなさいよ。今日はどこで野営するの?」

「ここをくだると、泉がある」

「それほど遠くない? なら、休憩ね」

 レイスはうなずいた。そのまま目をとじる。

 ひまになったわたしは、頭上の大岩によじのぼってみた。うえに立ってぐるりを見わたし、足元のレイスに声をかける。

「羊、あんまりいないわね」

 すると、岩のあいだから返事がかえってきた。

「どこにいるか、知っているのはシファだけだ」

「完全にほうりっぱなしにはできないでしょ。冬はどうしてるの」

「山からおろして、谷に放す。あいつらは、雪に埋もれた干し草でも、ほりかえして勝手に食う。それでも必要なときには、人をやとう――だいぶん吹っかけられるが」

「……そうでしょうね」

 わたしはうなずいた。

 託された獣をあつかいそこねた今、ホローの名はけがれ、その権威は地におちて、これほどの土地をもっていても、それを人々のために役立てることすらできない。呪いが、人々を遠ざけるのだ。

 深呼吸をし、まわりを見わたす。遠くはるかに、たなびく草原。そのむこうに連なる岩山。切り立つ尾根。重なる白峰。青い空。なんて美しいのだろう。なんて――誰もいないのだろう。

 さらさらした風紋が、一つ、また一つと、丘のうえをすべっていく。

 肌寒さをおぼえ、折っていた袖をおろす。標高が高いせいか、夏なのに、秋の終わりかとおもうほど涼しい。

 足元で、レイスが立ちあがる。草のうえに立ち、だまって、ひろがる景色をながめる。

 わたしもだまっていた。人里はなれたホローの高地には、他の場所とはちがう風が吹いていた。他とはちがう――野生の風が。

 ふいに、わたしはたずねた。

「……ねえ、シファが殺しをするところ、あなた見たことある?」

「ああ」

「羊?」

「ああ。――でも、それだけじゃない」

 その言葉に、わたしはひそかに身じろいだ。聞きようによっては、重大な発言だった。羊じゃないとしたら、なに? まさか、人? ――ううん、そんなはずはない。

 でも、まあ、いいか。わたしは、今のホローを、レイスとシファを知っている。たとえ過去に何があろうと、それは、どうでもいいことだ。

 日が傾きはじめた丘のうえ、そこだけが暖かい岩の表面に、腰をおろす。すると、レイスがふいに口をひらいた。

「……今夜あたり、耳をすませていろ。吠えるかもしれない」

 なにが? と聞きかえしかけて、やめる。この土地に、吠える獣は一頭しかいない。

「シファが?」

「ああ。今夜は満月だし、風も北寄りだしな」

「ふうん……」

 そういえば、シファが吠える声を、まだ、聞いたことがない。

 風が冷たさをましてきた。すこしはなれたところで、アレクがぶるると身震いをする。足元で、レイスが出発の準備をはじめる。それを手伝おうと岩からすべりおりて、ふと、思った――どう見ても、自然のものとは思えないこの岩の群れは、いつ、誰が、どうやって作ったものなのだろう。

 聞いてみようかと思い、でも、やめる。ゆれる草の中にたたずむ石は、ホローの歴史より、さらに古そうだった。


 その晩、疲れきったレイスが眠ったあとも、高原にわきだす泉のほとりで、わたしは一人、寝ないでまっていた。

 すると、やがて、それが聞こえてきた――古い歌のような、知らない言葉のような、天狼の声が。

 それは、わたしが想像していたようなものではなかった。たしかに美しくはあったけれど、美しく、深いひびきではあったけれど、同時に、虚ろで暗いものだった。聞き入ると戻れなくなるような、心の何かをもっていかれそうな、遠い、遠い呼び声だった。

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